NHK虚実の「麒麟が来る」を正す。真実の斎藤道三
戦国の名将「斎藤山城守道三」 第一部
NHKでは「大河放送」と銘打って「麒麟が来る」では明智光秀を取り上げている。
劇中、光秀とともに重要な役で、本木雅弘は斎藤道三を演じている。
私はこの「麒麟が来る」そのものを全く評価しないし、歴史などとおこがましく言わないで貰いたい。真実に迫ろうとする真摯な姿勢が皆無で、だから「講談的劇画時代劇」や「電子紙芝居」と位置づけている。
一方、NHKは「NHKスペシャル」という秀逸な番組も制作している。この番組は製作者の大変な意気込みと努力の跡が感じられる。
特に2009年8月放送の三夜連続「開戦、海軍あって国家なし」「特攻、やましき沈黙」「戦犯裁判、第二の戦争」は、多くの人が現代日本で起きている問題、自分たちの問題と重ね合わせて考えさせられ、大きな反響を呼んだ。こうした歴史を受け継ぐ決意の横溢した番組も作れるのに、日本史関係や、大河番組には全く泣かされる。
劇中、光秀とともに重要な役で、本木雅弘は斎藤道三を演じている。
私はこの「麒麟が来る」そのものを全く評価しないし、歴史などとおこがましく言わないで貰いたい。真実に迫ろうとする真摯な姿勢が皆無で、だから「講談的劇画時代劇」や「電子紙芝居」と位置づけている。
一方、NHKは「NHKスペシャル」という秀逸な番組も制作している。この番組は製作者の大変な意気込みと努力の跡が感じられる。
特に2009年8月放送の三夜連続「開戦、海軍あって国家なし」「特攻、やましき沈黙」「戦犯裁判、第二の戦争」は、多くの人が現代日本で起きている問題、自分たちの問題と重ね合わせて考えさせられ、大きな反響を呼んだ。こうした歴史を受け継ぐ決意の横溢した番組も作れるのに、日本史関係や、大河番組には全く泣かされる。
以下に真実の斎藤道三の実像を考察してみたい。
(名将というのは戦に強い事ではない。侵略せず、自国を富まし、民の生活をを安らかにする者を言う。戦国期道三はその数少ない一人だった。
地図のように美濃は、越前、信濃、三河、尾張、伊勢、近江と、七か国に囲まれていた。
地図のように美濃は、越前、信濃、三河、尾張、伊勢、近江と、七か国に囲まれていた。
そして彼は隣の尾張からはたびたび攻められたが、他国を一度も攻めたことがなく、生涯数十度の戦で一度も負けたことのない戦術に長けた武将であった。
これは現代にも通じる国家指導者の特質で、(他国を侵略せず、自国民の雇用を増やし、産業を興して国民を幸せにする事)に通じる。
これは現代にも通じる国家指導者の特質で、(他国を侵略せず、自国民の雇用を増やし、産業を興して国民を幸せにする事)に通じる。
真実とは
前記と重複するが、NHKの大河放送は「時代劇チャンバラ」にすぎない。そして、確定史料のどれにも載っていない道三像を描いている。
在ろうことか、道三は、主筋の土岐頼純を毒殺するような稀代の悪党として描かれている。
しかし、道三はマムシだ、悪党だと喧伝されているがその実像は全く違うのである。本篇では真実の道三を描いた。どちらを信じるかは読者の自由である。
巷間、あちこちのブログでも、この番組のファンの様々な歴史解釈がなされているが、どれをとっても、まともなものは皆無。
原作者が「歴史を楽しむ・・・・・・」と言っているのだから、もうなにおか言わんやで、ファンは勝手に楽しんだり嬉しがって、「虚実の蟻地獄」に落ちている。
在ろうことか、道三は、主筋の土岐頼純を毒殺するような稀代の悪党として描かれている。
しかし、道三はマムシだ、悪党だと喧伝されているがその実像は全く違うのである。本篇では真実の道三を描いた。どちらを信じるかは読者の自由である。
巷間、あちこちのブログでも、この番組のファンの様々な歴史解釈がなされているが、どれをとっても、まともなものは皆無。
原作者が「歴史を楽しむ・・・・・・」と言っているのだから、もうなにおか言わんやで、ファンは勝手に楽しんだり嬉しがって、「虚実の蟻地獄」に落ちている。
人は「真実」を求め、容易に話しもするが、真実とは難しいものである。よく、本にのっていたから、皆がそういうから「それは真実なんだ」という。
甚だしいのは「テレビでやっていたから」という手合いも多い。これもつまり類従制の多数決である。
だが「真実」とは、そんなものだろうか。選挙や評議会の投票みたいな形式で選ばれるしか、この世に実存しないと言うのでもあろうか。他人に教えられ押しつけられるものでしか、私たちは〈真実〉を掴めないものなのか。
まるで一人ずっが持っていては、霧のようにはかないもので、多数の人間にわたって凝固し、やっと雲になって、空間に漂える存在なのであろうか。
そして「真実」は一つきりだというが、それが雲なら、一つということはない。
入道雲ではない限り漂っているものだ。綿雲や鰯雲はいくつも散らばって漂っているものだ。そして光の色を浴びればそれは、夕やけ空では、モチーブ色の茜がかった朱色にさえ視えるものなのである。
すると、「真実」にあたる「雲」とは「白いものだ」と想っていた観念が崩れてしまい、真実とは「一つではなく、いくつも分かれて漂ったり」 [白い筈だが、蒼くも桃色にも視えもする]ということになるだろうか。
雨天は休んでも、晴れている日には蒼穹にアドバルーンみたいに浮かぶのが「真実」というものだったら、誰もが、もっと安心して、生きとし生きてゆける筈なのだ。
甚だしいのは「テレビでやっていたから」という手合いも多い。これもつまり類従制の多数決である。
だが「真実」とは、そんなものだろうか。選挙や評議会の投票みたいな形式で選ばれるしか、この世に実存しないと言うのでもあろうか。他人に教えられ押しつけられるものでしか、私たちは〈真実〉を掴めないものなのか。
まるで一人ずっが持っていては、霧のようにはかないもので、多数の人間にわたって凝固し、やっと雲になって、空間に漂える存在なのであろうか。
そして「真実」は一つきりだというが、それが雲なら、一つということはない。
入道雲ではない限り漂っているものだ。綿雲や鰯雲はいくつも散らばって漂っているものだ。そして光の色を浴びればそれは、夕やけ空では、モチーブ色の茜がかった朱色にさえ視えるものなのである。
すると、「真実」にあたる「雲」とは「白いものだ」と想っていた観念が崩れてしまい、真実とは「一つではなく、いくつも分かれて漂ったり」 [白い筈だが、蒼くも桃色にも視えもする]ということになるだろうか。
雨天は休んでも、晴れている日には蒼穹にアドバルーンみたいに浮かぶのが「真実」というものだったら、誰もが、もっと安心して、生きとし生きてゆける筈なのだ。
「真実は、雲ではない」と私は想うのだ。十人の目が、そうだと視て、十人の手が、あれだ、あれだと指をさしたところで、それが、なんだと言うのだろう。多数制で採決されるものか真実なら、
もはや個人の真実などと言うものは認められもしない。また通用もしなくなり虚しすぎる。
もはや個人の真実などと言うものは認められもしない。また通用もしなくなり虚しすぎる。
だが、真実というものは、国家が握ったり、多数の人間が、その都合によって守り通すものではない。それは一人ずつの個人が、自分自身の中に持ったり、また私のように、それを、なんとか見つけようと、
索し求めようと、それだけで生きている者だって、きっといる筈なんだ。一と一をたせば二となるというのは定理だが、真実というものは黒板にチョークで書けるものではない。
それは、自分の心に描くものなのだと思う。
前説が長くなったが、これまでの歴史の嘘から脱して、その時代の有りの儘の実相を、何とか解ってほしかった事と、草葉の陰の道三のためにその真実を描く。
索し求めようと、それだけで生きている者だって、きっといる筈なんだ。一と一をたせば二となるというのは定理だが、真実というものは黒板にチョークで書けるものではない。
それは、自分の心に描くものなのだと思う。
前説が長くなったが、これまでの歴史の嘘から脱して、その時代の有りの儘の実相を、何とか解ってほしかった事と、草葉の陰の道三のためにその真実を描く。
先ず、斎藤道三も、明智光秀同様その実態は不明なのである。
桑田忠親などは、山城国、藤原鎌足六代目の子孫、松浪基宗の息子だとしているが、祖先を有名人に結び付け、権威づける、系図屋的発想で信じられない。
その点、故高柳光寿博士は<本法寺文書><美濃国緒家系譜>等の良質史料によって、出生は不明となっていて私もこの説をとる。
桑田忠親などは、山城国、藤原鎌足六代目の子孫、松浪基宗の息子だとしているが、祖先を有名人に結び付け、権威づける、系図屋的発想で信じられない。
その点、故高柳光寿博士は<本法寺文書><美濃国緒家系譜>等の良質史料によって、出生は不明となっていて私もこの説をとる。
日蓮宗は平和主義の戦闘教団
日蓮宗は他の仏教諸派とは違い、きわめて戦闘的なものをもっている。
祖師日蓮のときから、時の北条体制に反抗し竜の囗で殺されかかったり島流しにされて、他の天台宗や浄土宗、真宗のごとく国家権力に結びつき、
迎合して栄えてきた京派仏教とはまったく体質が相違している。つまり、「法難」と呼ぶ他の宗派にはない弾圧下に、日蓮宗はいっもおかれているようである。
斎藤道三も、まむしとか悪党よばりする前に、彼が熱心な法華信者だった角度から改めて見直す必要があるのではあるまいか。
そして、道三が美濃国主になってから、数十度の戦をしているが、只の一度も他国へ攻め込んだことがなかった事実を何と見るか。
祖師日蓮のときから、時の北条体制に反抗し竜の囗で殺されかかったり島流しにされて、他の天台宗や浄土宗、真宗のごとく国家権力に結びつき、
迎合して栄えてきた京派仏教とはまったく体質が相違している。つまり、「法難」と呼ぶ他の宗派にはない弾圧下に、日蓮宗はいっもおかれているようである。
斎藤道三も、まむしとか悪党よばりする前に、彼が熱心な法華信者だった角度から改めて見直す必要があるのではあるまいか。
そして、道三が美濃国主になってから、数十度の戦をしているが、只の一度も他国へ攻め込んだことがなかった事実を何と見るか。
美男だった道三
初めはその美貌をかわれ、今日でいうゲイで、当時のおチゴとして京の妙覚寺へ入ったが、やがて青年になると、アジテーター法蓮坊として彼は知られるようになったという。
他の宗教なら本魚をポコポコ叩いて、「なんまいだ、なんまいだ」と、お布施の金勘定でもして居れば良かろうが、日蓮宗には、「立正安国」という確固たるテーゼがある。
死んだ人間の葬式や供養をし、戒名をつくって銭儲けをするより、生きている人間の衆生済度という大使命がまずあるのである。
この思想は現在「日蓮正宗」を標榜し、「万人の幸福」と「世界平和」を目標とする創価学会に受け継がれている。
しかし「反体制」であるべき日蓮宗の崇高な精神を忘れた学会は、今や自民党という体制にすり寄り、まるで下駄の雪の如く纏わりついて離れない厄介な政党に堕落している。
他の宗教なら本魚をポコポコ叩いて、「なんまいだ、なんまいだ」と、お布施の金勘定でもして居れば良かろうが、日蓮宗には、「立正安国」という確固たるテーゼがある。
死んだ人間の葬式や供養をし、戒名をつくって銭儲けをするより、生きている人間の衆生済度という大使命がまずあるのである。
この思想は現在「日蓮正宗」を標榜し、「万人の幸福」と「世界平和」を目標とする創価学会に受け継がれている。
しかし「反体制」であるべき日蓮宗の崇高な精神を忘れた学会は、今や自民党という体制にすり寄り、まるで下駄の雪の如く纏わりついて離れない厄介な政党に堕落している。
そして「世界平和」などという空虚な党是で国民を欺いている。こういうのを「空念仏」という。
だから本来「反体制」でなければならない学会が、体制に迎合しては、草葉の陰の日蓮に申し開きはできまい。
自民党にすれば、数合わせで止む無く、学会(公明党)を取り込んではいるが「何処までもついていきます下駄の雪」で、いずれは蹴り捨てる肚だろう。
だから本来「反体制」でなければならない学会が、体制に迎合しては、草葉の陰の日蓮に申し開きはできまい。
自民党にすれば、数合わせで止む無く、学会(公明党)を取り込んではいるが「何処までもついていきます下駄の雪」で、いずれは蹴り捨てる肚だろう。
閑話休題。
さて斎藤道三が、おチゴとして入った妙覚寺にしても、これはまた普通の寺とは違う。
今では「池上の木門寺」として知られる武州の池上右衛門の屋敷で、その生涯を法難と戦い抜き、国家権力に屈することなく頑張り通してきた日連が、弘安五年十月十三日。
「御臨終です」となった際、当時まだ十四歳だった経一麿をその枕許へよびよせて、
「成人したら京の帝都解放をなせ」と遺言をした。そこで彼はそれから四十年間にわたり三度も、京から追放されるような法難にあいつつも不撓不屈に戦った。
ようやく北条体制が崩落しかけた元亨二年(1322年)になって、ときの後醍醐帝の北条氏への反体制運動援助の思召しによって、
初めて建立を許され、討幕の拠点となったのが妙覚寺なのである。それゆえ、
「三具足山」の一つとされ、本山ともなっているけれど、反体制的であって江戸時代に入っても、
「不受不施」つまり教義の違う他の宗派とは共に供物は受けず、また施しもしないという主張を曲げず、寛永七年(1630年)四月二日には、日奥上人らが遠島にされている。
「不受不施」つまり教義の違う他の宗派とは共に供物は受けず、また施しもしないという主張を曲げず、寛永七年(1630年)四月二日には、日奥上人らが遠島にされている。
なにしろ日蓮宗には昭和になっても井上日昭らのグループなどがあり、
「死のう団」といった激烈な結成もあった。だから以前、べ平連が盛んだったころは、その集会などに参加して平和行進の先頭に立っていた宗教者は、団扇太鼓を叩く法華信者だけである。
前述したが現在、日蓮正宗を標榜する創価学会だが、ちゃっかり自民党と組んで政権の中で安住しているが、衆生済度の精神とは程遠い。
それだから斎藤道三を考える前に、この、「不受不施派」をうみ明治まで続いた戦闘的な宗教集団から注目してゆかねばならぬ。
「死のう団」といった激烈な結成もあった。だから以前、べ平連が盛んだったころは、その集会などに参加して平和行進の先頭に立っていた宗教者は、団扇太鼓を叩く法華信者だけである。
前述したが現在、日蓮正宗を標榜する創価学会だが、ちゃっかり自民党と組んで政権の中で安住しているが、衆生済度の精神とは程遠い。
それだから斎藤道三を考える前に、この、「不受不施派」をうみ明治まで続いた戦闘的な宗教集団から注目してゆかねばならぬ。
当時はヨーロッパでも魔女裁判が各地でおこなわれ、教会と国王が結託して、
「金持ちの女を摘発して処分すれば、その財産か没取でき折半できる」というので天正十二年にドイツのトレーヴスで七千人、ザクセンではその五年後に、
一週間で六百人ずつ、かためて集団火刑にされていた。
イべリヤ半島でもスペインのトレドでに三千二百人が蒸し焼き、ポルトガルのリスボンでも二千三百人が、現在のジェロニモ修道院の前の砂浜へ生きながら埋められた。
だからスペインとフランスに挾まれた山岳地方のバスク人たちは、初めは火刑執行人として使われていたが、なんとかして真の魔女を見つけ、庶民の苦しみを助けようとして、
法王庁のポーロ二世の勅書を貰い、
「金持ちの女を摘発して処分すれば、その財産か没取でき折半できる」というので天正十二年にドイツのトレーヴスで七千人、ザクセンではその五年後に、
一週間で六百人ずつ、かためて集団火刑にされていた。
イべリヤ半島でもスペインのトレドでに三千二百人が蒸し焼き、ポルトガルのリスボンでも二千三百人が、現在のジェロニモ修道院の前の砂浜へ生きながら埋められた。
だからスペインとフランスに挾まれた山岳地方のバスク人たちは、初めは火刑執行人として使われていたが、なんとかして真の魔女を見つけ、庶民の苦しみを助けようとして、
法王庁のポーロ二世の勅書を貰い、
「Regimini militantis Ecelesix」つまり戦闘教団の称号をうけ、東洋へきたのがフランシスコ・ザビエルで知られているイゼズス派だが、
斎藤道三の育った妙覚寺も、応仁の乱このかた荒れはてた京にあったから、「このままではいけない。この乱世をなんとかせねば」と、若い学僧たちは時勢を憂えたのだろう。
「御祖師さまの北条政権の頃も、何年分も前取りした税金をみな棒引きの無効扱いして、人々を塗炭の苦しみに追いやった地獄のような世ゆえ、御祖師さまは庶民を救わんとし立正愛国の悲願
をたてられたのじやが……」「そうだ今の京もすべて焼野原で難民が溢れている……吾々はこのままで腕をこまぬいて傍観していて、それでよいのだろうか」
と学堂の中では、あけくれ激越な議論がたたかわれて居ただろう。
つまり他の宗教であるならば、歴史書がよく引用する『美濃国諸旧記』の中の、
「道三は妙覚寺で修業をつみ、ついに学問は仏教の奥儀をきわめ、その弁舌は、釈迦の弟子の中で一番といわれた富婁那にも劣らず、内外の仏書や儒書にも精通し名僧となりぬ」
の一節のようなことにもなったろうが、日蓮宗は机上の空論よりも、現世の衆生を救おうとする日本では唯一の戦闘教団である。だからして、
「書を捨てて辻へ出よう、まず実行だ」「そうだ寺内で云い争っているより、一人でも哀れな民を救うことこそ法華のみ教えだ」
と、妙覚寺のヤングパワー達は、三条から六条川原に野宿する難民の救済にあたり、
「室町御所番衆」とよばれていた紺色の、藤蔓おりのお仕着せをきた当時の機動隊が棒を振り、楯で殴ってきて苛めにくると、それから民衆を守るため、
「道三は妙覚寺で修業をつみ、ついに学問は仏教の奥儀をきわめ、その弁舌は、釈迦の弟子の中で一番といわれた富婁那にも劣らず、内外の仏書や儒書にも精通し名僧となりぬ」
の一節のようなことにもなったろうが、日蓮宗は机上の空論よりも、現世の衆生を救おうとする日本では唯一の戦闘教団である。だからして、
「書を捨てて辻へ出よう、まず実行だ」「そうだ寺内で云い争っているより、一人でも哀れな民を救うことこそ法華のみ教えだ」
と、妙覚寺のヤングパワー達は、三条から六条川原に野宿する難民の救済にあたり、
「室町御所番衆」とよばれていた紺色の、藤蔓おりのお仕着せをきた当時の機動隊が棒を振り、楯で殴ってきて苛めにくると、それから民衆を守るため、
「やってこまそ」とばかり、若き日の斎藤道三も、寺では法蓮坊の名で呼ばれていたが
「坊主頭に鍋や釜をかぶりて法師ばらは、それにて身を守り河原の石ころを投げ打つ」
と『応仁私記』に書かれてあるような有様で、これと戦っていたものとみられる。
「坊主頭に鍋や釜をかぶりて法師ばらは、それにて身を守り河原の石ころを投げ打つ」
と『応仁私記』に書かれてあるような有様で、これと戦っていたものとみられる。
(室町御所の機動隊との争いで、道三は戦の駆け引きを会得し、ために武将となっても、生涯一度も負けたことのない戦巧者になったと想われる)
つまり、法蓮坊と念友の仲であった南陽坊のごときは、この機動隊との衝突で身柄を逮捕されかけ、その素性がばれて本国送還になっているくらいである。
だからして当時の騒然たる世情を抜きにして、その後の道三の行為を面白可笑しく、国盜りなどといった安易な見方はしてはならない。
道三が十七歳の永正七年三月には、財政窮乏を理由にして足利将軍義植は、昔の北条氏を見習って、「徳政」を発布した。
現在の歴史教育では誤って教えていて、
「借金にあえぐ、百姓や貧乏人が、それを棒引きにするため一揆を起してかちとった政策」
といった具合に徳政をしているが、いつの世の中でも借金をしたいような貧しい者には、誰も貸してくれてはないものである。
つまり、法蓮坊と念友の仲であった南陽坊のごときは、この機動隊との衝突で身柄を逮捕されかけ、その素性がばれて本国送還になっているくらいである。
だからして当時の騒然たる世情を抜きにして、その後の道三の行為を面白可笑しく、国盜りなどといった安易な見方はしてはならない。
道三が十七歳の永正七年三月には、財政窮乏を理由にして足利将軍義植は、昔の北条氏を見習って、「徳政」を発布した。
現在の歴史教育では誤って教えていて、
「借金にあえぐ、百姓や貧乏人が、それを棒引きにするため一揆を起してかちとった政策」
といった具合に徳政をしているが、いつの世の中でも借金をしたいような貧しい者には、誰も貸してくれてはないものである。
北条時代は元寇のための軍事予算で、何年分も先へ先へと前取りしていたのが重なって、ついに貢祖の収支がつかなくなり、それまでの前納分を御破算にして、
改めて徴集するようにと、北条氏の徳になるように発布したのかそれである。つまり歴史家がとくように、
「百姓一揆や土一揆によって、権力者を押えつけて徳政を発布させたのだ」とするのは大問題いであって、百姓や土民は、
「そんな無茶な棒引きは困る」と、レジスタンスをなし、権力に弾圧されただけである。
改めて徴集するようにと、北条氏の徳になるように発布したのかそれである。つまり歴史家がとくように、
「百姓一揆や土一揆によって、権力者を押えつけて徳政を発布させたのだ」とするのは大問題いであって、百姓や土民は、
「そんな無茶な棒引きは困る」と、レジスタンスをなし、権力に弾圧されただけである。
足利末期の徳政も、それまでの将軍義澄が取れるだけの地子銭や年貢を集めて近江へ逃げてしまい、せっかく大内氏の力をかりて都入りしてきた新将軍は、徴集したいにも集めようがないから、布令をだして、
「これまで払った税金は一切無効である。改めて、新規に上納すべし」と、得になるように税制改革をしたのであって、歴史家は、「損得の得」でなく「仁徳の徳」の字になっているからして逆に誤っているようである。
「これまで払った税金は一切無効である。改めて、新規に上納すべし」と、得になるように税制改革をしたのであって、歴史家は、「損得の得」でなく「仁徳の徳」の字になっているからして逆に誤っているようである。
が、日本では明治中期までは、漢字はおおむね当て字として使用されてきたから、「新選組」も「新撰組」も同じであるし、
「徳政」もはっきりしたところ得政なのである。
さて、祖師日蓮が、執権北条時宗に睨まれたが、やはり万民の側に立っての、徳政施行への反抗だったから、このときの妙覚寺の学僧たちも、やはり足利政権の徳政に、
「反対」ののろしをあげて大衆動員で、「ふんさい」「ふんさい」と、棒や楯で殴られっつ渡り合ったものだろう。
「徳政」もはっきりしたところ得政なのである。
さて、祖師日蓮が、執権北条時宗に睨まれたが、やはり万民の側に立っての、徳政施行への反抗だったから、このときの妙覚寺の学僧たちも、やはり足利政権の徳政に、
「反対」ののろしをあげて大衆動員で、「ふんさい」「ふんさい」と、棒や楯で殴られっつ渡り合ったものだろう。
小説では、道三の美男ぶりや爽やかな弁口が見込まれて、山崎の油商人奈良尾又兵術にスカウトされ入り婿になったとするが、実際のところでは、今でいう指名手配になり、
「寺内に居ては、まずかろう」という事になって、室町御所番衆の探索の眼を逃がれるために、アジトとして奈良屋へ匿れたらしい。
その証拠には、油屋の婿におさまっても、「召しませ、油」と京の町など廻らず、遠い美濃まで行商におもむき、そちらで追手の目をくらまし油を売って居る。今でいえば、「地下へ潜った」という事になろう。
が、さて美濃へ行っても、やはり、
現代風に言えば、「暴動教さ罪」とか「公務執行妨害」といった手配が、道三にはつきまとって居た。
それゆえ最初の峯丸から法蓮坊までは仕方かないとしても、松波庄九(五)郎、西村勘九郎、長井新九郎、そして斎藤道三と次々と名を変えてゆくのも、原因たるやこれによるらしい。
変名をたえずしていないと捕まる危険があったから、そのせいゆえだろう。
さて、高松古墳のできた頃。つまり、それまでのコマやクダラ、シラギの張っていた日本列島での勢力を、弁髪姿の藤原氏が追い払って、新しい王朝の制度をもうけた(平安)時代。
「寺内に居ては、まずかろう」という事になって、室町御所番衆の探索の眼を逃がれるために、アジトとして奈良屋へ匿れたらしい。
その証拠には、油屋の婿におさまっても、「召しませ、油」と京の町など廻らず、遠い美濃まで行商におもむき、そちらで追手の目をくらまし油を売って居る。今でいえば、「地下へ潜った」という事になろう。
が、さて美濃へ行っても、やはり、
現代風に言えば、「暴動教さ罪」とか「公務執行妨害」といった手配が、道三にはつきまとって居た。
それゆえ最初の峯丸から法蓮坊までは仕方かないとしても、松波庄九(五)郎、西村勘九郎、長井新九郎、そして斎藤道三と次々と名を変えてゆくのも、原因たるやこれによるらしい。
変名をたえずしていないと捕まる危険があったから、そのせいゆえだろう。
さて、高松古墳のできた頃。つまり、それまでのコマやクダラ、シラギの張っていた日本列島での勢力を、弁髪姿の藤原氏が追い払って、新しい王朝の制度をもうけた(平安)時代。
道三、担がれて美濃の国主になる
騎馬民族より古く住みっいていた天の朝の遺民らも、反体制の徒輩として執拗に討伐された。
しかし日本は島国なので他へ逃げようもないそれら原住民は、降参するしかなくて捕えられ奴隷とされた。
が、農耕民族だった天の朝の残党は、それから奴百姓として扱われたが、「遊牧民族」として一切の農耕を拒否する騎馬民族の子孫もまた、山者とか、
「しゆくの者」とよばれて、土をこねて土器を作って火でやいて生計を立てたりしていた。(江戸時代になると、このしゅくの者達の、溜まり場が「宿場」となっていく)
しかし日本は島国なので他へ逃げようもないそれら原住民は、降参するしかなくて捕えられ奴隷とされた。
が、農耕民族だった天の朝の残党は、それから奴百姓として扱われたが、「遊牧民族」として一切の農耕を拒否する騎馬民族の子孫もまた、山者とか、
「しゆくの者」とよばれて、土をこねて土器を作って火でやいて生計を立てたりしていた。(江戸時代になると、このしゅくの者達の、溜まり場が「宿場」となっていく)
そこで、この部族を「土器」とか「土師」の名称でよぶ。が、藤原時代の末期になって公家の力が弱まってくると、それらの、「地家」とよばれる連中が武装蜂起して、いわゆる後の武家や豪族になった。
それゆえ、足利時代に入ると、美濃も、「土器」の一族が「土岐氏」の名で守護職をつとめるようになった。しかし、
「上のなすところ下もこれを見習う」というけれど、土岐氏も足利氏の真似をして、何年分もの地子銭や貢祖を散々先取りしてから、
「これまで上納した分は一切、徳政して帳消しとなる。よって新規にまた納入すべし」
ということになって、道三が美濃へ入ったきた頃、困窮した人々は離反し揉めていた。
「釜ゆで」の悪名が後になって道三にたつようになる大釜を、鋳工して献納したのは、「刀工関の孫六」の名称で知られる関の者たちだが、
ここから源氏野と呼ばれる原住民限定住居地の間に、今も「鋳掛」の地名がある。
それゆえ、足利時代に入ると、美濃も、「土器」の一族が「土岐氏」の名で守護職をつとめるようになった。しかし、
「上のなすところ下もこれを見習う」というけれど、土岐氏も足利氏の真似をして、何年分もの地子銭や貢祖を散々先取りしてから、
「これまで上納した分は一切、徳政して帳消しとなる。よって新規にまた納入すべし」
ということになって、道三が美濃へ入ったきた頃、困窮した人々は離反し揉めていた。
「釜ゆで」の悪名が後になって道三にたつようになる大釜を、鋳工して献納したのは、「刀工関の孫六」の名称で知られる関の者たちだが、
ここから源氏野と呼ばれる原住民限定住居地の間に、今も「鋳掛」の地名がある。
だからその一帯に住むかっての俘囚の子孫の一大勢力と、大垣地区に巣くっていた修験者集団と、
そして日蓮宗の美濃における戦闘教団の三派連合が、「住民のための新しい国作り」をというので力をだしあって、道三を担ぎあげたものとみるのが妥当であろう。
なにしろ講談の類では、「文武兼備の大豪傑ゆえ、おのれとばかり敵を眼よりも高くさし上げてぶん廻し」
というような個人のバイタリティによってのみ話をつけたがる。しかし、いくら強くても一人の力では何ともなるものではない。
組織力というか現在の選挙みたいに地盤がないことには、いくら道三が傑物であったとしても、実際は不可能だったろう。
今日的表現をかりれば、連合三派ということになるだろうが、前述の被圧迫階級の関から源氏野へかけての限定居住の連中、そして拝火教の修験者。
これらの者が道三に眼をつけ、「あなたは姿やかたちは油売りにやつして居られるが、京では名高い妙覚寺のオルグだそうじやありませんか」と近か寄ってきた。
「とんでもおへん。うちは山崎男八幡さま御免許の油売りどす」と道三は用心したが、
そして日蓮宗の美濃における戦闘教団の三派連合が、「住民のための新しい国作り」をというので力をだしあって、道三を担ぎあげたものとみるのが妥当であろう。
なにしろ講談の類では、「文武兼備の大豪傑ゆえ、おのれとばかり敵を眼よりも高くさし上げてぶん廻し」
というような個人のバイタリティによってのみ話をつけたがる。しかし、いくら強くても一人の力では何ともなるものではない。
組織力というか現在の選挙みたいに地盤がないことには、いくら道三が傑物であったとしても、実際は不可能だったろう。
今日的表現をかりれば、連合三派ということになるだろうが、前述の被圧迫階級の関から源氏野へかけての限定居住の連中、そして拝火教の修験者。
これらの者が道三に眼をつけ、「あなたは姿やかたちは油売りにやつして居られるが、京では名高い妙覚寺のオルグだそうじやありませんか」と近か寄ってきた。
「とんでもおへん。うちは山崎男八幡さま御免許の油売りどす」と道三は用心したが、
「お隠しなさらんでもよろしいでしょう。わたしらは土岐家の圧政から、美濃の者らを解放しようとする人民戦線のものです」
と打ち明けてきた。そして、
「厚見郡今泉にある常在寺へ参りましょう」と誘った。さて連れられてゆくと、
「おう懐しの法蓮坊よ……」と姿をみせたのが、かってホモの間柄で仲良したった南陽坊である。
「京では室町番衆の弾圧にもろくもやられ、すっかり挫折させられた吾らであるか、此方は山国ゆえ土岐の侍共も、馬を使っての機動力もきくまい。
よって、まずこの美濃を、まず立正安国の実験地にしてみぬか」と顔をみるなりいいだしてきた。
と打ち明けてきた。そして、
「厚見郡今泉にある常在寺へ参りましょう」と誘った。さて連れられてゆくと、
「おう懐しの法蓮坊よ……」と姿をみせたのが、かってホモの間柄で仲良したった南陽坊である。
「京では室町番衆の弾圧にもろくもやられ、すっかり挫折させられた吾らであるか、此方は山国ゆえ土岐の侍共も、馬を使っての機動力もきくまい。
よって、まずこの美濃を、まず立正安国の実験地にしてみぬか」と顔をみるなりいいだしてきた。
「そうか、この美濃を吾らの法華信仰をもって、解放区に致そうと……いいやるのか」と道三は唸った。すると南陽坊は、
「今でこそ越前一国は白山神徒を率いた朝倉のものになっているが、かっては一向宗の木崎道場が制圧し、法燈の国として厳然と存続していたし、
この近くでも尾張長島は、一向宗門徒が占領し今や独立して居るではないか」
「今でこそ越前一国は白山神徒を率いた朝倉のものになっているが、かっては一向宗の木崎道場が制圧し、法燈の国として厳然と存続していたし、
この近くでも尾張長島は、一向宗門徒が占領し今や独立して居るではないか」
しっかりやろうといわんばかりに、その手をぐっと握りしめてきた。そこで道三は、
「お祖師さまの教義の妙諦を、この美濃にて新しい世作りにしまするのか」とうなずいた。
さて、かって加賀一国を統治していた一向宗は、いまの大阪城の原点である石山本願寺城が総司令部であって、長島一向宗の城砦へも武器や糧食の供給をしていた。
つまりバックアップがあればこそ一向宗は信徒を集め、それぞれに武器を持たせ、「仏敵を葬れ、もし討死しても極楽往生は間違いないぞ」と士気を鼓舞して戦わせていた。
「お祖師さまの教義の妙諦を、この美濃にて新しい世作りにしまするのか」とうなずいた。
さて、かって加賀一国を統治していた一向宗は、いまの大阪城の原点である石山本願寺城が総司令部であって、長島一向宗の城砦へも武器や糧食の供給をしていた。
つまりバックアップがあればこそ一向宗は信徒を集め、それぞれに武器を持たせ、「仏敵を葬れ、もし討死しても極楽往生は間違いないぞ」と士気を鼓舞して戦わせていた。
道三土岐頼芸に仕え武士となる
「しかし、われら日蓮宗には、武器や糧食を援助してくれる総本山もない。といって托鉢したり辻説法して軍資金集めもできまい」
考えこんでから道三は励しをいう南陽坊へいい返した。すると同行してきた修験者や関の者らは、
「だからこそ、われら三派が互いに力を合せて戦いますのじゃ。一本の藁は弱くても三本よじりにすれば、強い繩となりますぞ」左右から、はっきり協力を誓いあった。
だが、そうだからといって、すぐさま挙兵などできる訳はない。そこで道三は、
「敵を知り己れを知るか戦に勝つ道……ともいうから、ひとまずわしは城奉公でもしてみたい」と、土地者の南陽坊に申し込んだ。
「よっしゃ、委せておけ」と、そこで当時の美濃国土岐盛幀の弟頼芸に世話された。
考えこんでから道三は励しをいう南陽坊へいい返した。すると同行してきた修験者や関の者らは、
「だからこそ、われら三派が互いに力を合せて戦いますのじゃ。一本の藁は弱くても三本よじりにすれば、強い繩となりますぞ」左右から、はっきり協力を誓いあった。
だが、そうだからといって、すぐさま挙兵などできる訳はない。そこで道三は、
「敵を知り己れを知るか戦に勝つ道……ともいうから、ひとまずわしは城奉公でもしてみたい」と、土地者の南陽坊に申し込んだ。
「よっしゃ、委せておけ」と、そこで当時の美濃国土岐盛幀の弟頼芸に世話された。
さて、土岐家は先代政頼の時にも兄を越前へ追い出して、弟がその跡目を奪っている。
それゆえ頼芸もやはり、兄に取って代わりたいものと念じていた。だから、その時の用意にもと考えたので、坊主から油屋だったような男でも、
「兵は一人でも多い方がよかろう」と、召し抱えたものらしい。が、手許で使ってみると京育ちゆえ、知識豊富で、てきぱきしていて役立つ。
そこで吝なくせに疑りっぼい頼芸も、その頭の良さと美男ぶりにはすっかりほれこんでしまった。しかし、
「あれ程の男なら油屋をしていても、大成する筈なのに何故、安扶持でわが許へ奉公しくさったのか?」と気になって、そっと身辺を探らせた。すると、
「……修験者とか関の者らが僧にまじって、よくあの者の許へ尋ねて参ります」
といった報告が入ってきた。頼芸は、疑いをもつよりそうと聞くと、
「そうか、わが兵だけではとても兄と戦えぬが、あの油屋めをおだてて修験や関の者らを集めさせれば、なんとか巧くやれよう」
と、かねての腹案を実行しようと考えすっかり喜んでしまい、道三をよぶなり、「其方の許へは雑多な人間が寄り集るそうじゃが、いったい何を話し合うのか」
さり気なくカマをかけて尋ねてみた。
「あれ程の男なら油屋をしていても、大成する筈なのに何故、安扶持でわが許へ奉公しくさったのか?」と気になって、そっと身辺を探らせた。すると、
「……修験者とか関の者らが僧にまじって、よくあの者の許へ尋ねて参ります」
といった報告が入ってきた。頼芸は、疑いをもつよりそうと聞くと、
「そうか、わが兵だけではとても兄と戦えぬが、あの油屋めをおだてて修験や関の者らを集めさせれば、なんとか巧くやれよう」
と、かねての腹案を実行しようと考えすっかり喜んでしまい、道三をよぶなり、「其方の許へは雑多な人間が寄り集るそうじゃが、いったい何を話し合うのか」
さり気なくカマをかけて尋ねてみた。
「はい、いい憎いことですが土岐盛頼さまの税の取り立てがひどく、みな困りきってそれで相談にくるのでございます」と答えられた。
「そうか。わしの許へも泣きを言ってくるのが多い、まったく弱ったものだ……」頼芸は故意に当惑してみせてから、
「もし汝らの手で兄を追い出せば、わしが代って万民の喜びそうな施政をするのだが」と、さも無念そうに溜息をついてみせた。
「そうか。わしの許へも泣きを言ってくるのが多い、まったく弱ったものだ……」頼芸は故意に当惑してみせてから、
「もし汝らの手で兄を追い出せば、わしが代って万民の喜びそうな施政をするのだが」と、さも無念そうに溜息をついてみせた。
そこで道三が、この話を伝えたところ、
「皆の暮しむきが良くなるのであれば、われらに取っては弟の頼芸さまが、国主になられても差し支えはない。手をかそうではないか」
修験者軍団も関衆もすぐ話にのってきた。
だから大永七年(一五二七)八月。
土岐盛頼の川手城を不意に包囲したから、ふいをつかれた盛頼は、まさか取り巻いたのか修験者や鋳掛け屋を従えた日蓮宗の僧侶共とは知る由もなく狼狽して逃げだした。
そこで自動的に切り替るように、国外へ逃亡した兄に弟の頼芸が代る事となった。が、今も昔もえらい人は公約を守らない。
土岐頼芸は己れの兵は一人も損せずに、美濃一国をまんまと国盜りしたくせに、国主になると兄の頃より税の取り立ても激しく、暴君ぶりをしめしてきた。そこで、
「これでは話が違うではないか」
と修験者たちを息まいたが、南陽坊らの日蓮軍団の者らも道三に向かって、
「坊主だませば七代たたるというのに、われらをまんまと利用しなされ、ひどいではありませぬか」と訴えてきた。道三も椹りかね、
「やむを得ぬ。庶民の苦しみを見棄てておけぬのが、われら日蓮上人の御教えを守るものの勤め……いざ討ってこまそ」
と天文十一年(一五四二)五月二日に、土岐頼芸の大桑城を取りかこんだものの、
「人を殺すは、み仏の教えにある殺生戒をおかすことになる」と、かって川手城を襲った時と同じように、頼芸も殺さず逃がしてやった。
「皆の暮しむきが良くなるのであれば、われらに取っては弟の頼芸さまが、国主になられても差し支えはない。手をかそうではないか」
修験者軍団も関衆もすぐ話にのってきた。
だから大永七年(一五二七)八月。
土岐盛頼の川手城を不意に包囲したから、ふいをつかれた盛頼は、まさか取り巻いたのか修験者や鋳掛け屋を従えた日蓮宗の僧侶共とは知る由もなく狼狽して逃げだした。
そこで自動的に切り替るように、国外へ逃亡した兄に弟の頼芸が代る事となった。が、今も昔もえらい人は公約を守らない。
土岐頼芸は己れの兵は一人も損せずに、美濃一国をまんまと国盜りしたくせに、国主になると兄の頃より税の取り立ても激しく、暴君ぶりをしめしてきた。そこで、
「これでは話が違うではないか」
と修験者たちを息まいたが、南陽坊らの日蓮軍団の者らも道三に向かって、
「坊主だませば七代たたるというのに、われらをまんまと利用しなされ、ひどいではありませぬか」と訴えてきた。道三も椹りかね、
「やむを得ぬ。庶民の苦しみを見棄てておけぬのが、われら日蓮上人の御教えを守るものの勤め……いざ討ってこまそ」
と天文十一年(一五四二)五月二日に、土岐頼芸の大桑城を取りかこんだものの、
「人を殺すは、み仏の教えにある殺生戒をおかすことになる」と、かって川手城を襲った時と同じように、頼芸も殺さず逃がしてやった。
そして、ところてんの押し出しみたいに、土岐兄弟が美濃を棄て国外へ逃亡してしまったので、道三が新しい国主に推挙された。
しかし道三は税を安くするため、他の戦国大名と違って軍事費を極度におさえた。
だから、その生涯に十余回の出陣をしたものの、一度も誤っても他国へ侵略などしていない。
戦ったのは、占領しに押し寄せた尾張勢や越前勢を、自領内の軽海(のちの各務ガ原)で追い散らしたきりである。
これで悪党呼ばわりをされたり、国盗りなどいわれたのでは、まったくたまったものではない。
だから判りやすく、どうしてそんなことにされ、今ではまるで間違われてしまったかを探ってみたいものである。
しかし道三は税を安くするため、他の戦国大名と違って軍事費を極度におさえた。
だから、その生涯に十余回の出陣をしたものの、一度も誤っても他国へ侵略などしていない。
戦ったのは、占領しに押し寄せた尾張勢や越前勢を、自領内の軽海(のちの各務ガ原)で追い散らしたきりである。
これで悪党呼ばわりをされたり、国盗りなどいわれたのでは、まったくたまったものではない。
だから判りやすく、どうしてそんなことにされ、今ではまるで間違われてしまったかを探ってみたいものである。
道三油断して美濃を追われる
弘治二年(一五五六)四月二十日。
うっかり鷹狩りに出かけた留守を狙われ、旧土岐系の家巨団のクーデターにあい、まだ幼ない二人の子を殺され城まで奪われてしまった道三は、とうとう切羽詰って、
「もはや、これまでなり」と覚悟した。
うっかり鷹狩りに出かけた留守を狙われ、旧土岐系の家巨団のクーデターにあい、まだ幼ない二人の子を殺され城まで奪われてしまった道三は、とうとう切羽詰って、
「もはや、これまでなり」と覚悟した。
そこで城外に居て危うく命拾いした十歳の末子新五を、その姉である信長の妻奇蝶の許へ落してやる際に、いっも肌身離さずに持っていた持仏とよぶ、小さな仏体をもたせ、
「わしの領国である美濃一国のことは、婿に当る織田信長へ、国譲り状をつけて処置は委せてあるゆえ、どうか幼ない新五は侍にはせず、
その昔わしが修業した京の妙覚寺へ入れて僧侶にし、安らかに一生おくらしてやってほしい」と遺言をつけてやったという。
その頃は衣棚小路にあった日蓮宗の三具足本山の一つである妙覚寺は、現在、烏丸中学と、
鞍馬口の中間の前に移っているか、そこへ頼むと、道三が新五につけたという遺言書のコピーを送ってくれる。
「わしの領国である美濃一国のことは、婿に当る織田信長へ、国譲り状をつけて処置は委せてあるゆえ、どうか幼ない新五は侍にはせず、
その昔わしが修業した京の妙覚寺へ入れて僧侶にし、安らかに一生おくらしてやってほしい」と遺言をつけてやったという。
その頃は衣棚小路にあった日蓮宗の三具足本山の一つである妙覚寺は、現在、烏丸中学と、
鞍馬口の中間の前に移っているか、そこへ頼むと、道三が新五につけたという遺言書のコピーを送ってくれる。
もちろん真偽の程は保証できないが、日蓮宗の本山の一つに、そうした文書か伝わってきたということは、道三が妙覚寺に修業中に名僧だったからに他なるまい。
よく、「十歳で神童、十五で才子、二十歳すぎれば唯のひと」というが、「二十歳まで名僧で、それからは悪人、死ぬ前後は到って善人」といったのは聞いたこともない。
なのに、美濃一国の譲り状をうけて、兵千人余りをひきつれ出陣しながら信長が、「この乱世に、お人好しと判かっている道三入道に味方するのは、己れを危うくするものでしか
ありえまい」というのだろうか。
せっかく木曾川と飛弾川が二又になって、長良川となって流れる川州の戸島舞坊構えまで行きながら、そこのたけなす葦草の茂みに兵も自分も匿れっ放しのままで、
「一石も投げず一矢も飛ばず、早々にして、道三の死が伝わるや引きあぐ」といった行為をとった織田信長の振舞いをみると、首を傾げたくなる。それゆえ、
『信長公記』なる彼の侍臣太田午一の書いたと伝わるものの中に、
「道三は、悪逆無道の者で、罪もない者でも大釜に入れて下から火を燃して、ゆで章魚のごとくにして成敗するなど悪業の限りをした」の一節があるからとて、
よく、「十歳で神童、十五で才子、二十歳すぎれば唯のひと」というが、「二十歳まで名僧で、それからは悪人、死ぬ前後は到って善人」といったのは聞いたこともない。
なのに、美濃一国の譲り状をうけて、兵千人余りをひきつれ出陣しながら信長が、「この乱世に、お人好しと判かっている道三入道に味方するのは、己れを危うくするものでしか
ありえまい」というのだろうか。
せっかく木曾川と飛弾川が二又になって、長良川となって流れる川州の戸島舞坊構えまで行きながら、そこのたけなす葦草の茂みに兵も自分も匿れっ放しのままで、
「一石も投げず一矢も飛ばず、早々にして、道三の死が伝わるや引きあぐ」といった行為をとった織田信長の振舞いをみると、首を傾げたくなる。それゆえ、
『信長公記』なる彼の侍臣太田午一の書いたと伝わるものの中に、
「道三は、悪逆無道の者で、罪もない者でも大釜に入れて下から火を燃して、ゆで章魚のごとくにして成敗するなど悪業の限りをした」の一節があるからとて、
道三をそれで、「悪党」だったと決めつけてしまうのは、とんでもない誤りではなかろうか。
なにしろ信長は出陣しながら道三を見殺しにして戻ってきたくせに、永禄三年の桶狭間の戦いで、当時の最新武器だった今川方の鉄砲を数多く入手すると、
その翌年から年中行事のように美濃へ兵を進めた。そして、
なにしろ信長は出陣しながら道三を見殺しにして戻ってきたくせに、永禄三年の桶狭間の戦いで、当時の最新武器だった今川方の鉄砲を数多く入手すると、
その翌年から年中行事のように美濃へ兵を進めた。そして、
『今は亡き道三から美濃一国の譲り状を受けている自分こそ、正当の国主である』と、その権利を主張して四年目にとうとう占領するや、それまでの井の口の城を、
「岐阜城」と改名してのけ、やがて安土城を築き引き移る際、妻の奇蝶から、
「どうか美濃の国は、道三の遺児である新五改めて斉藤玄蕃允にやって頂きたい」
と懇願されたが、生駒将監の後家娘にうませた織田信忠を領主にすえ、斉藤玄蕃允はその家老にして残こしただけだった。
「岐阜城」と改名してのけ、やがて安土城を築き引き移る際、妻の奇蝶から、
「どうか美濃の国は、道三の遺児である新五改めて斉藤玄蕃允にやって頂きたい」
と懇願されたが、生駒将監の後家娘にうませた織田信忠を領主にすえ、斉藤玄蕃允はその家老にして残こしただけだった。
つまり『信長公記』の記事などは、信長をかばって、故意に道三を誹謗したでっち上げにすぎない。だから、それをうのみにして書いたようなものは信ずるにたらない。
また信長殺しが光秀とされていたのも、『斎藤道三の子が明智光秀』とされていたから、道三の恨みを彼がはらしたとして、
「親の仇討ち」と扱われたからだろうともみられる。
また信長殺しが光秀とされていたのも、『斎藤道三の子が明智光秀』とされていたから、道三の恨みを彼がはらしたとして、
「親の仇討ち」と扱われたからだろうともみられる。
もともと美濃は山国で、米もろくにとれぬ所だったのだが、それを京からきた斎藤道三が治めるようになってからは、まず紙すきを奨励し、おおいに製紙業をおこし、これを、
「美濃紙」と名づけ諸国へ売りひろめて、国内をうるおした。
また美濃にも多い蜂屋者に、柿の渋ぬきを教え、とった柿渋は、作った美濃紙に塗ってこれを防水用の渋紙に拵えて売りだした。
また渋をぬいたあと大柿は乾しかためて、これを「蜂屋柿」と名づけ、甘味用に遠国へまで、斎藤道三は運んで売りさばかせた。
更に、尾張にはない金山も在った。だから信長が美濃をを盗ったことによって、以後の信長の財政的利益は計り知れないものがあったろう。
「美濃紙」と名づけ諸国へ売りひろめて、国内をうるおした。
また美濃にも多い蜂屋者に、柿の渋ぬきを教え、とった柿渋は、作った美濃紙に塗ってこれを防水用の渋紙に拵えて売りだした。
また渋をぬいたあと大柿は乾しかためて、これを「蜂屋柿」と名づけ、甘味用に遠国へまで、斎藤道三は運んで売りさばかせた。
更に、尾張にはない金山も在った。だから信長が美濃をを盗ったことによって、以後の信長の財政的利益は計り知れないものがあったろう。
第二部へ続く