戦国の名将 斎藤道三 (第三部)
道三は絶世の美男子だった

そして、この時から自分がその後をおそって美濃の国主になっている。だからといって、これを指して、「国盗り」となし、道三を悪者としてしまう皮相的な見方もとられるらしいけれど、
「道三が絶世の美男で、土岐頼芸とはかねて衆道の結びつきがあったのだ」という真実があり、まことに大切な繋りが、それでは黙過され見逃がされてしまうのである。
つまり道三が一介の油売りから、頼芸に寵用されて次々と出世させられてゆくのも、なにも道三が武勇抜群だったというわけではなく、二人の交情からそうなっていたのである。
といって道三が悪い人間で己が美貌を餌にして、それで頼芸を籠絡したのでもなかろう。
「三つ子の魂は百まで」というけれど、幼い時から己が身体を他へまかせるのが、当然のような育ち方をしてきた彼にすれば、
「これ云うことをきけ」と国主だった頃の土岐頼芸に求められれば、否応なしに、「はい」と素直に抱かれてしまったのだろう事は、想像できるというものである。
といって道三が悪い人間で己が美貌を餌にして、それで頼芸を籠絡したのでもなかろう。
「三つ子の魂は百まで」というけれど、幼い時から己が身体を他へまかせるのが、当然のような育ち方をしてきた彼にすれば、
「これ云うことをきけ」と国主だった頃の土岐頼芸に求められれば、否応なしに、「はい」と素直に抱かれてしまったのだろう事は、想像できるというものである。
頼芸が愛妾の三好野を譲ったというのも、本当のところは奪ったり貰ったりで、俗にいう何んとか兄弟になる為ではなく、愛欲の果てでもなく、
「やくな……あの女と寝ては居らん。よし、わしの操をみせるため、あの三芳野は其方にくれてやらんず、煮てくうも焼いて粉にするのも汝のよきように致せ」と、頼芸が、道三の機嫌をとるために、
「念友」とよばれた衆道の結びつきの方を重じた結果、疑われたくないと彼女を与えたのが、実際のところであったろうと想われる。
その濃厚な二人の間柄にやがてひびが入ったのは、道三が四十歳の折りに美濃の豪族、明智の三女小見の方を迎え、妻帯してしまった辺りからであろう。
「やくな……あの女と寝ては居らん。よし、わしの操をみせるため、あの三芳野は其方にくれてやらんず、煮てくうも焼いて粉にするのも汝のよきように致せ」と、頼芸が、道三の機嫌をとるために、
「念友」とよばれた衆道の結びつきの方を重じた結果、疑われたくないと彼女を与えたのが、実際のところであったろうと想われる。
その濃厚な二人の間柄にやがてひびが入ったのは、道三が四十歳の折りに美濃の豪族、明智の三女小見の方を迎え、妻帯してしまった辺りからであろう。
「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」と、その因果関係の深さをとくけれど、ゲイ関係は昔はもっと重大なものとみられ、
「衆道は来世永劫」つまり無限にはてることない繋りがあるものだとという厳しい掟があった。
だからでもあろうか。道三が仲違いした大桑城を一万余の兵をもって包囲し、城を落してしまう段階において、普通ならば、
「後々のこともある。災いの種とならぬように、土岐頼芸どののお命は、思いきって絶ってしまうことこそ好もしからん」と、ばっさり首をはねてしまうべきなのに、
彼は頼芸を助けて馬まで与え、近習までつけてやって逃がしてやっているのである。
「衆道は来世永劫」つまり無限にはてることない繋りがあるものだとという厳しい掟があった。
だからでもあろうか。道三が仲違いした大桑城を一万余の兵をもって包囲し、城を落してしまう段階において、普通ならば、
「後々のこともある。災いの種とならぬように、土岐頼芸どののお命は、思いきって絶ってしまうことこそ好もしからん」と、ばっさり首をはねてしまうべきなのに、
彼は頼芸を助けて馬まで与え、近習までつけてやって逃がしてやっているのである。
「国盗り」といわれるからには後でいざこざの憂いなどが起きないように、その前国主は包囲したからには捕殺してしまわない事には意味かない。
なのに見逃がして落したばっかりに、二年後には、頼芸のために先に追い落したその兄の土岐盛頼を、押したてた越前勢七千の侵攻をうけたり、
頼芸をおしたてた織田信秀五千の進入をこうむり、道三は悪戦苦闘させられる羽目においこまれる。
もちろん、それくらいの先見の明は道三にだって有ったであろう。
しかし道三が捕えた頼芸を、どうしても殺せず逃がしたのは、念友なる衆道の関係があったからこそであろうか、これでは悪人失格で、
「まむしの道三」とか「悪党」などと呼ばれる資格は、てんでないようである。
なのに見逃がして落したばっかりに、二年後には、頼芸のために先に追い落したその兄の土岐盛頼を、押したてた越前勢七千の侵攻をうけたり、
頼芸をおしたてた織田信秀五千の進入をこうむり、道三は悪戦苦闘させられる羽目においこまれる。
もちろん、それくらいの先見の明は道三にだって有ったであろう。
しかし道三が捕えた頼芸を、どうしても殺せず逃がしたのは、念友なる衆道の関係があったからこそであろうか、これでは悪人失格で、
「まむしの道三」とか「悪党」などと呼ばれる資格は、てんでないようである。
「油壺から出たような良い男」は道三のこと
なお頼芸が尾張の織田信秀からも見放されて、現在の千葉県に当る上総大多喜(一説には万喜)へ逃げこんだが、そこで眼病をやんでいると聞き伝えた道三は、
すっかり同情し、「お気の毒である」と、その臣稲葉一鉄に命じて仕送りをさせていた話が、『江濃記』の中には明らかにでている。
事実、稲葉一鉄は頼芸のため五百貫の土地を、道三から預かっていたので、後に盲目となった頼芸を美濃へ引き取って、曾根城内で安穏に生涯を終えさせた旨の記載が、
岐阜県史料の『稲葉家記』の中にみられるそうである。どうもこれでは、ますますもって、
「悪党」といったイメージからは遠ざかってしまう。国盗りといっても、それは念友どうしの三芳野譲りと同じ程度のものだったらしい。
そして良きにつけ悪しきにつけ、すべての事柄の原因たるや、まったく前述の、「斎藤道三が、世にも稀れな美男だった」ことに起因しているらしいとみるべきだろう。
後に近松門左衛門が、その、〈女殺し油地獄〉の中で、「しんろとろりと油壺から出たような良い男ぶり」
といった表現をしているが、その弟子の近松半二の<ひとり判断>に、
「芝居者は自堕落のなれのはてで」とまで書かれた門左衛門ではあるが、
<井筒業平河内通>の九右衛本においては、「人に交らう程ならば、その氏系図は欲しいきもの」と、世間で権威とみられているものへ、きわめて憎悪と反感を書いているが、
「むかし美濃のさいとうというは油売りにてあれど、ぬめやかな肌と人目をひく器量艮しにて、
男なれどもその容姿にて一国の主となりしとか、氏なくして玉のこしにのるは、あえて女のみとは限らざるべし」とも、その後につけたして居る。だから、
「油壺から出たような良い男」といった言葉は、近松門左衛門以前からすでに有ったらしい。
といった表現をしているが、その弟子の近松半二の<ひとり判断>に、
「芝居者は自堕落のなれのはてで」とまで書かれた門左衛門ではあるが、
<井筒業平河内通>の九右衛本においては、「人に交らう程ならば、その氏系図は欲しいきもの」と、世間で権威とみられているものへ、きわめて憎悪と反感を書いているが、
「むかし美濃のさいとうというは油売りにてあれど、ぬめやかな肌と人目をひく器量艮しにて、
男なれどもその容姿にて一国の主となりしとか、氏なくして玉のこしにのるは、あえて女のみとは限らざるべし」とも、その後につけたして居る。だから、
「油壺から出たような良い男」といった言葉は、近松門左衛門以前からすでに有ったらしい。
この例証からみても、斎藤道三というのは傾国の美女にも匹敵する程の、国取りの美男だったらしく、はっきりと『美濃旧記』には、
「道三入道は若き頃、土岐頼芸と衆道のきこえあり」とさえでている。
こうなると油壺の口へ一文銭をのせ、そこから油をたらしこんで見せたのだが、
「武道の心得があると見込まれたゆえ、それが立身のいと口」などというのは、後世の作り話で眉唾ものと断定せざるを得ない。
鉄は熱せられると油をはじくのは、フライパンで揚げものをしても判ることで、一文銭を熱しておけば、その孔からすいすい吸いこむごとく流れこむように視えるのは当り前のことである。
つまりこうなると、土岐頼芸がその愛妾の三好野(深芳野)を道三に与えたところ身重になっていたらしい形跡があったので、生まれた豊太丸が長じて義竜となってから、
「実は、あなたさまの御実父は、足利公方さまの頃より美濃一国の守護職であった土岐頼芸さまでございますよ」と吹きこまれると、
「そうか。わが実父は油売り上りの道三ではなく、まことは土岐の殿の方であったと申すのか、そりゃ良い……そちらの方が恰好が良いな」
と若いだけにすぐその気になったのも、道三にすれば可哀そうな話である。
「他所者の道三や京から流れこんできて召し抱られているその一味を追い出して、昔ながらの格式ある土岐家のお国に致しましょうぞ」と煽動されると、
すぐさま義竜は悪のりして、「よっしゃ、そうしてこまそ」
と、道三が鷹狩りに出かけた後を見計らって異母弟二名を始末させてから、「これまで不遇であった土岐家の旧臣を、これからは厚く手当てしてとらせよう」
と城内の人々をあつめ、挙兵したというのも、上岐の旧臣にたきつけられてとはいえ、
(そんな伜をもったり、叛意をいつも抱いていた家来ばかりだった)という点において、道三が不運であったという他はない。どこを調べてみても、「斎藤道三が悪人であった」の証拠などにはなりはしないのである。
つまりこうなると、土岐頼芸がその愛妾の三好野(深芳野)を道三に与えたところ身重になっていたらしい形跡があったので、生まれた豊太丸が長じて義竜となってから、
「実は、あなたさまの御実父は、足利公方さまの頃より美濃一国の守護職であった土岐頼芸さまでございますよ」と吹きこまれると、
「そうか。わが実父は油売り上りの道三ではなく、まことは土岐の殿の方であったと申すのか、そりゃ良い……そちらの方が恰好が良いな」
と若いだけにすぐその気になったのも、道三にすれば可哀そうな話である。
「他所者の道三や京から流れこんできて召し抱られているその一味を追い出して、昔ながらの格式ある土岐家のお国に致しましょうぞ」と煽動されると、
すぐさま義竜は悪のりして、「よっしゃ、そうしてこまそ」
と、道三が鷹狩りに出かけた後を見計らって異母弟二名を始末させてから、「これまで不遇であった土岐家の旧臣を、これからは厚く手当てしてとらせよう」
と城内の人々をあつめ、挙兵したというのも、上岐の旧臣にたきつけられてとはいえ、
(そんな伜をもったり、叛意をいつも抱いていた家来ばかりだった)という点において、道三が不運であったという他はない。どこを調べてみても、「斎藤道三が悪人であった」の証拠などにはなりはしないのである。