新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

尾張「いろはかるた」の考察(第一部)いろはかるたから日本史の「闇」を考究する

2021-03-27 11:45:28 | 新日本意外史 古代から現代まで

尾張「いろはかるた」の考察(第一部)
いろはかるたから日本史の「闇」を考究する  
                             


             「序」

「尾張名古屋は芸どころ」と昔から言われ、下手くそな芸は受けつけられないとされている。
 それゆえ現在でも俳優座にしろ文学座でも、まず名古屋で初公演をして観客の反応を観察してから、演出効果の手直しをするし、配役変えまですることさえある。
といって今でこそ名鉄ホールがあるけれど他は御園座ぐらいで、昔は四方拝の火縄を信者にわけてくれ若宮さまの脇の末広座とても今はない。
大須の演芸ホールでさえ滞納家賃が溜りすぎて危ぶまれていると聞いていたが今はどうなったのか。


 しかも名古屋育ちの芸人は名古屋からでは絶対に売れず、育たないとまで古来いわれている。
 今では名古屋での芸ごとは西川流の踊りぐらいのもので、やはり中部の東海地方だけに限定されているのが現状である。
 最近のテレビ時代になってからは、名古屋うまれのタレントも活躍しているけれど、それでもタモリにかかるとクソミソの扱いである。
名古屋弁が八毋音の発音のせいだけだろうかと大いに疑問がわく。
ここで安土桃山時代とよぶ中世の文化華やかな頃に遡って考えてみよう。


尾州から出た三人の英雄


戦国時代、近江に居た八田信秀が、尾張守護職斯波家の被官で尾張を委せられていた織田家に奉公した。昔は「禄を家名に賜る」とか「扶持を家門に授く」といったように、
武士の扶持(給料)は現在のように個人の能率や、やる気とは無関係だったから、八田信秀は織田家に採用されはしたが、その代りに「織田」の姓となって勝幡城の城番を勤めることとなった。
(ここの経緯は、岩波書店刊行「山科言経喞全二巻」の内の言経の父の「言経卿記」に書かれている。疑問に思う方はどうぞ読んで頂きたい)


信秀の息子の内、長兄次兄が早死にしたため、信秀の跡日をついだのが織田三郎信長である。
それに毛利へ送った、安国寺文書で「さりとて、秀吉は八(はち)の者にて」と、きめつけられている名古屋の中村の出身である、後の豊臣秀吉が居る。
次に愛知県岡崎生まれだと間違えられているが、本当は上州世良田で生まれで、浜松で育った徳川家康がいる。


 この三人が築いた安土桃山時代は重臣団もやはり東海地域の者が主ゆえ、どうしてもみな、「あのよお」「いかんぎやあ」「やっとかめだなも」といった八母音の名古犀弁が日常会話だった。
 今にしていうなら当時は、この名古屋弁が標準語であって、九州の島津にしろ青森の津軽にしろ安土城へあがったり大坂城や、伏見城へ伺候する時は、
名古屋弁のよくできる者を近習に、無理をして会話練習をし稽古をしていたのは、他の関東や関西の大名とてみな同じだったろうと想われる。
(名古屋弁が厄介で難しいのに関口していた諸大名が、秀吉が死んだ慶長三年から一年たっての関ヶ原合戦で、また名古屋弁を苦労して使わねばならぬのは辛いから、
京の蜷川財閥から銀も貰っていることだし、裏切りと呼ばれてもかまわぬ、言葉が自由だという家康の方へつくべし)となったのだとする異説すらあるのである。
かつて、井上ひさしの「国語元年」というテレビドラマでも、現在の標準語を作成した川島が、吉原遊郭の廓言葉まで参考に苫労した経緯がでていたが、
それより四世紀前の関ヶ原の戦いのことである。馴染めぬ名古屋弁で苦労するよりはと、続く大坂冬の陣や夏の陣にも名古屋弁の豊臣方へ味方する大名は少なかったのは事実。

 まさか言葉だけでそんなことがあるのかと思う方があるだろうが、
津軽のズーズー弁などで「あのよお」と喋舌るのは、録音機もなかった時代である。多くの大名たちとしては切実な苫労で厭がったのも無理はない。
 つまり名古屋弁嫌いの風潮が大坂夏の陣からは一般に定着してしまった嫌いがないでもない。
そして、徳川家康はサンカ出身であるから三家(みけ)を重んじて「御三家」とよばれるものを創立してのけた。この三家の説明をすると、
(サンカは「ミツクリの一」「フキタカの一」「エラギの一」の三つの区分があった。ミツクリ一は蓑作りの一団、フキタカ一は、笛や茶筅など、竹製品を作る一団、
エラギ一は、芝居、門附け、猿回し等の遊芸者の一団。この上に全国のサンカを統括する「オオモト様」という統領が居て、サンカ集団が成立していた。
これを家康は取り入れ、自分の直系血脈を尾張、紀州、水戸に配置して御三家を設立したのである。)

 尾張藩主にもその子をもってしたのだが、八代将軍吉宗が紀ノ川系つまり朝鮮クダラ系の血筋だったゆえ、邪魔な尾張宗春を閉門処分にし、その後毒殺している。
そして、支藩高須より代って尾張藩主が入ったが、吉宗は吾が伜に田安家と、一橋家の両家を設立させると、幕末まで交互に尾張領主に送りこませ、紀州の属鍜なみにしてしまった。


 「塩尻百巻」の絵図のごとく、尾張付家老犬山三万五千石の成瀬隼人正家の倍くらいも大きな、紀州よりの付目付邸宅の方が人きい有様だった。これ差別の証拠である。
今も○に八を入れたのが名古屋の市章だが、津島が文字通りのまだ、島だった頃から尾張伊勢美濃の東海地方は海洋民族が往みつき栄えていた土地柄だった。


 しかし日本海を渡ってきた青銅剣を持った騎馬民族に、食糧課役を命ぜられても相互扶助しあって、「豊アシ(遊牧民族の馬の餌)原、瑞穂(農耕の栄える)の国」として未問発でも平穏に暮らしていた。
 処が日本歴史では、日本に仕みついてしまわれたので、神功皇后とよぶ馬韓(後のクダラ)人が九州から進攻し、近畿地方を占領してしまい、古代クダラ語の国を意味する処の「ナラ」から、
「奈良王朝」ができるようになると、それまでの四ッの騎馬系と八ッの海洋系の先住民たちは、「クダラぬやつ」「クダラない」「クダラぬ真似はするな」とされ、クダラ人だけが人間で、
そうでない征服された先住民共は扱いされた。だが壬甲の乱から、乂しても世変りをするのである。そして江戸時代になると、千代田城が徳川綱吉の代から「江戸が朝廷なのだ」と、
徳川家八百万石の権力をもって自称しだし、将軍家が「我こそが新皇」と名のるようになってよりの八代徳川吉宗は、とんでもない暴れん坊将軍で、
トウ(藤原)王朝の京の御所が、畏れ多くも僅か二万石の小大名なみで窮乏しているのにつけこみ、昔の天智の世をば今に戻そうとするみたいに、クダラ王朝の復活を試みたのである。


 尾張領は六十二万石なのに、別個に二十万石を紀州が搾取して、公儀台所領に半分を取り、残りを和歌山へ送らせたのである。
そのため尾張では衣紋税といって、着ている物へも課悦した。尾張西部は一向宗が綿の実をもちこみ植えさせ、ガチャマンと機織りをさせふんだんに作っていた。
なのにみな紀州へ運ばせ、名古屋もんは明治になる迄はオガラ編みとか、籐の繊維で織ったものしか着られなかったのである。
 もし逆らえば罪人として召捕えられて国境まで追いこまれ、海洋民族なのに、山国の信州へ峠から蹴落されるような、追放の苛酷な囗にあわされていた。
昔の塩尻峠は現をは市になっている。
また、尾張の徳川宗春が、その曾祖である徳川家康の事を、尾張領内にまだ生きている土地の古老達に聞きとりをして、家康と松平元康は別人だとする、家康出生の秘密を「章善院目録」として書かせて世に出した。
 これに怒った吉宗は、大岡越前に前もって、徳川家の事を書くことは一切まかりならんと、 出版統制令を布令させておいて、この法に引っ掛けて宗春は閉門処分にした。
 そして、支藩高須藩より、宗春が紙という紙を取り上げられ、厠用の落し紙にも不自由していると聞き、差し入れがあったことを探索し、
「紙は紙である。又しても徳川家不為のことでも、秘かに書こうとしている所存ならん」と尾張目付けにしていた村垣左太夫の弟の手で処分した。
そして己の子供に田安と一橋の両家を創設しておいた吉宗は、すかさず代々の新藩主として送り込み、次々と名古屋城へ交互に入れさせている。
名古屋城の濠端の土居下に村垣左太夫の輩下共を住まわせて、万が一にも尾張者が反乱した際には、「掘割から庄内川に藩主を奉じて漕ぎ出し、紀ノ川へまで出て脱出せよ」と特別命令されていた。


そして一橋出身の名古屋城主の時でも、田安家出身の殿様になっても、吉宗の遺言通り、 大陸系の血は尊いのだとする、原住民差別政策は続いていて、
つまり名古屋城下に隠れ住み着いていた「居付きサンカ」に対しても、寺人別に入っていない者は、
「髪を結ってはならぬ。雨天といえど蓑笠は許されず、裸足のままにて歩くべし」となったのである。
この結果が八の部族、即ち海洋渡来系の多い名古屋では、皆乱髪、裸足の者ばかりになった。こうなるといくら御三家の一つとは言え、他国者を名古屋城下へ、外聞が悪くて通すことは、
見た目があまりにもみすぼらしく、出来なくなった。
 つまり東海道五十三次といっても、「池鯉府」つまり「知立」は今の星ケ崎で、中日球場のある、 鳴海潟だったが、そこから旅人は名古屋城下へは入れなくて、内海廻りで熱田へ出て、
そこから海路五里で桑名の渡しに出る道順だったのである。
 大名行列だけは海上三里と近回りをさせたが、一般には絶対陸路を通さずの原則が、 明治まで続けられた。
この原則が破られたのはトコトンヤレの官軍の東上進軍が初めてだったという。隠されているがこれが尾張名古屋の実態なのである。

名古屋者の怨念、維新戦争で爆発す


つまり名古屋者は、紀州からきている町目付に見恨られ、熱田浜の塩作り漁の課役や田んぼ作りに、休みなしに働かされ、遁がれようとすれば逃散の罪で、
すぐ捕えられるように、見通しが良い整然とした碁盤割の地区に、穴居させられていたのである。
戦前でも名古屋市内は碁盤割りの町並みだったのである。戦後は爆撃の後を綺麗に整地し、全国でも珍しいほどの広域道路の街に見事に復興した。
だから、戦前はまるで文化都市の先駆けのように云われていたが、実態はそんな生易しいものではなかったのである。
京都を始め都市の中へをとじこめていた処は、逃げても見つけやすいようにと枡目になっていたのである。


 明治までは奴隷という言葉はなくて、やっ(八ッ)とかヤッコ(奴)と呼んでいた。今でも豆腐を枡目に切って冷やして食べるのを「冷ややっこ」と呼ぶのはここからきている。
さて宗春を始末してからの紀州系の代々の領主は従来の30%増しの搾取をなすために、休みなしに裸同然の領民を働かせ続けた。この八代将軍吉宗の代から次々と代々にわたって
奴隷使役された名占屋もんの怨念は、維新戦争によって爆発したのである。


 本来なら徳川御三家の一つで、地政学的にも日本の中心で、東上する官軍をここでせき止め、江戸を守る筈の名古屋が、西軍が東北へ進攻となると、
雲風一家のやくざ達と共に名古屋もん達は、進んで西軍の先発隊となって「集義隊」として結集した。


 かつて大陸占領軍は、東北の多賀城とよぶ、倭製リオグランデの砦を築き、奴隷となるのを拒んで山の台地に隠れた先住民たちを賤とし、山裾の四方から火をつけて焼き殺した。
そして、センとつく仙台の地名を残したのである。これを東北の宮城として、昔は栄えた今の宮城県を、七世紀からの恨みつらみをはらすため仙台藩や会津藩を徹底的に荒らし廻り、
虐げられてきた名古屋もん達は意趣ばらしをした。
東北戦争で、会津藩家老西郷頼母の娘を隊長とした娘子軍をひっ捕えて、廻しにかけてレイブしてのけ暴れまわったのも尾張集義隊だったのである。


 さて名古屋は八ツ、つまり赤の上地である(海洋渡来民族の民族色は赤)。だから騎馬系の白の四ッが入りこもうとするのには、
白から転向する意味で、転白川でのミソギをせねばならなかったのだが、今日となると、「天白川」と発音は同じでも文字を別に当てはめてしまって、昔を今では判らなくしてしまっている。


さて、序説が長くなると読者も飽きるだろうから、ここで有名な「犬棒カルタ」で、「犬も歩けば棒にあたる」について解説しましょう。(再掲載になります)
掲載した犬棒画像は間違いである。棒が空から降って来る筈もなく、本当は棒は棒でも番太郎の持つ六尺棒なのである。

いろはかるた
「犬も歩けば棒に当たる」の真実



旧陸軍参謀本部編の五万分の一の群馬県分図の利根川流域の今もある尾島町世良田の徳川なのである。日本全国が結成された世良田事件発祥の地である。
つまり、明治十七年に華族令が制定され、畏れ多くも「華族は皇室の藩屏にして」との御勅語が出て、華族会の会長に徳川公爵が選任され、明治宮内省が文部省丸抱えの東大に命じて、
「松平記」なる蔵本が以前から在ったことにして、「東京帝国大学蔵版」の朱刷で東京青山堂刊として、明治三十五年五月の発行で出してのけた。


この発行年月日に問題があるのである。「上手の手から水が洩る」というが、今でこそ天下の東大でも、明治の東大は抜けていた。
そもそも、この本の刊行は明治三十二年に村岡素一郎が「史擬徳川家康公事蹟」を出版し、家康は松平蔵人が改姓名したのではなく、
全く別人物の上州世良田の徳川の出身で浜松の七変化で育てられた二郎三郎だと、調べ上げて刊行したのに対して、時の明治宮内省が慌てた。


「皇室の藩屏たる華族会長の公爵家の御先祖が、特殊出身とは何たる不敬か」と、本は警察を使って発禁処分にさせ、当人は執筆発表禁止にされたらしい。


と言うのは村岡はその一冊以後は、何処にも執筆発表はしていないからである。
 明治新政府は、楠木正成の銅像と新田義貞のそれを一対にして建てる計画だったのを、銅像は出来上がったが中止した。
楠公よりも立派な出来栄えだったそうだが、陽の目を見ることなく鋳潰されてしまい、代わりに「ネコ満」と呼ばれていた岩佐が他の叙爵にずっと遅れて「新田男爵」として爵位を賜った。
しかし徳川公爵が彼を拒んで宮内省に働きかけた結果。
 一時金の名目だったが渡航費を渡され、家族とロンドンへ渡ると、外務省にわたりがついていたか、生活費を支給され永住となった。


さて、バロンとしてよりは猫の画で有名だった新田男爵は、「画伯」扱いされていたネコ満男爵の許へ、英国王立動物愛護協会の公爵夫人が訪ねて来て、
「世界中の王侯貴族で、己が愛犬や愛猫を溺愛したのは数多くいたが、ジャパンのイヌクボウみたいに国中の犬を愛した王は例が無い。


是非当協会の名誉会員として肖像画を飾りたい」と依頼してきた。
 是に対して新田男爵は、島流しみたいに異郷に永住させられていた恨みつらみもあったろうが、
「とんでもない、徳川綱吉の生類憐れみの令とは、騎馬民族の後裔で、動物の革剥ぎで儲けていた彼らが、綱吉の命令、即ち仏教に転向しない彼らを憎み、製革業者弾圧の政治目的で、
彼らの限定収容所の四谷や中野に故意に犬小屋を建てて虐めたのが真相である。


だから綱吉は生涯一匹の犬や猫も飼わず、よって元禄地震で餓死者の多かった四谷や中野の限定地とは製革業者の住んでいた場所だった。
『犬も歩けば棒に当たる』と、獣の少ない国ゆえ、辻番所の六尺棒を持った番太郎に野良犬を撲殺させ、縄でくくらせていた者を処罰させ、
これ見よがしに『猫を追うより皿を引け』と、犬が殺されぬよう避難の犬小屋で、一匹あたり米二合と干鰯一合を与え、餓鬼のようになった
限定住民が羨ましがって犬小屋で野良犬の食い残しを奪い合うのを、見張り役人が追っ払って監視した。
と、本当のことをぶちまけてしまったので、綱吉の王立協会の名誉会員は見合わせとなった。


 さて、村岡の著より故意に遡った明治三十五年五月の綺麗な木版の「松平記」の刷りであるが、
既に明治二十年の始めより大阪玉林堂よりの刊行物は、当時の講談の速記本ではあるが、全部かもはや活字での組み本である。
新聞にしても明治初年からバレン刷り版木でなく、既に活字版になっていた。
 なのに明治三十年のもはや何でも全てが活版の時代に、時代錯誤の木版刷りを何故に東大ともあろうものが、上からのプレッシャー とはいえ、敢えてなしたのかと言うことになる。
「馬脚をあらわす」というが、もし東大蔵版と称されるものが、当時としては普通の活字本で出したものなら、まあ話が合うのだが、古くからの蔵版だと誤魔化したいゆえ、
本当は明治三十五年に配布したものを、五年前と故意にし、バレン刷りと、和紙閉じにした。こういうのを猿知恵というのである。
 そして三河普代となっている者は、徳川公爵家を始め片っ端から、三河出の統一民族の旗本だったとすることによって、日本人は単一民族といった学説に繋いでゆけるのである。
「松平記」の原本も桐箱は無くしたが現物は持っている。