独ソ戦(絶滅戦争の惨禍)
著者の紹介
大 木 毅
1961年生まれ.立教大学大学院博士後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史,国際政治史).千葉大学ほかの非常勤講師,防衛省防衛研究所講師,陸上自衛隊幹部学校講師などを経て,現在,著述業。



一九七〇年代以来、日本人の独ソ戦理解を決定づけたのは、『バルバロッサ作戦』と『焦土作戦』である。
こうした回想録をはじめとする、さまざまな戦記本であった。なかでも影響力が大きかったのは、『砂漠のキツネ』『バルバロッサ作戦』『焦土作戦』などの一連の著作で知られる、
パウル・カレル、本名パウルーシュミットであろう。ナチス政権のもと、若くして外務省報道局長の要職に就いた人物だ。
戦後、本名や経歴を隠して、パウル・カレルの筆名で書いた著作は、日本でもベストセラーとなり、
独ソ戦に関する研究書がほとんどなかった時代に、広範な読者を獲得した。研究者のなかにも「歴史書」として依拠する者がいたはどである。
しかしながら、カレルの著作の根本にあったのは、第二次世界大戦の惨禍に対して、ドイツが負うべき責任はなく、国防軍は、劣勢にもかかわらず、
勇敢かつ巧妙に戦ったとする「歴史修正主義義」だった。そうしたカレルの視点からは、国防軍の犯罪は漂白されていた。
カレルのナチ時代の過去をあばいたドイツの歴史家ヴィクペルト・ベンツは、独ソ戦をテーマとした、
「バルバロッサ作戦」と『焦上作戦』を精査したが、国防軍の蛮行について触れた部分は、ただの一か所もなかったと断じている。
このように、カレルの描いた独ソ戦像は、ホロコーストの影さえも差さぬ、あたかも無人の地で軍隊だけが行動しているかのごとき片寄った見方を読者に与えるものであった。
こうした彼の経歴やイデオロギーに由来する歪曲は、かねて問題視されていたが、二〇〇五年のベンツによるパウル・カレル伝の刊行により、はじめて体系的に批判されたのである。
その後、カレルの記述のなかには、ドイツ軍の「健闘」、今一歩で勝てるところだったのだという主張を誇張するために、
実際には存在しなかった事象が含まれていることも確認されている。
この筋書き《一九四三年七月十二日に、プロホロフカで大戦車戦が行われたという、戦後のソ連側、とりわけ当事者であるロトミストロフ将軍の主張》は、
ドイツの戦記作家パウル・カレルの空想を刺激した。彼は、〔ドイツ〕第三装甲軍団のプロホロフカヘの競走を、こう演出した。
「戦史上、そうした事例には事欠かない。今も、戦争の帰趨を左右することになるような運命的決定が、時計の進み方如何に懸かっていた。
日単位ではない。時間に、だ。「ワーテルローの世界史的瞬間」が、プロホロフカに再現されたのである」。
著しい苦境におちいっていたイギリス軍の総帥ウェリントンを助けに急ぐプロイセンのブリュッヒャー土元帥と、その介入をさまたげようとして失敗した、
ナポレオンの元帥グルーシーのあいだで争われたワーテルローにおける競走にたとえたのだ。当時のグルーシー元帥同様、プロホロフカのケンプフ将軍〔ドイツ側〕も到着が遅すぎたというのである。
このような欠陥が暴露されて以来、欧米諸国の学界では、カレルの著作は読者の理解をゆがめるものとされ、一顧だにされていない。
ドイツにおいては、彼の諸著作は、上梓以来、版をあらためては刊行されつづけてきたが、二〇一九年現在、すべて絶版とされている。
上記の本を読んだ方も多いと思うが、この本と併読すれば独ソ戦の全貌に近付けることが出来る優れた研究書と言える。