近頃は不倫だとか、主婦売春、少女売春も盛んだという。世の中が不景気になればこうした社会現象が多くなるという分析もなされているが、見方を変えれば、女がその方面で元気になってきた、とも言えるし、社会の倫理や道徳のタガが緩んできたため、日本女性の本性が馬脚を現したとも見られはしまいか。更に女性の犯罪も多くなっているという、統計も出ている。
ここで女性犯罪や売春問題を論じる気はないが、一体日本女性とは歴史上如何なる存在であったのか、ここでは、私の体験も交えての考察をしてみたい。 (以下は1980年代のことであり、最新情報ではない) オランダのアムステルダムには、映画でもお馴染みの「飾り窓」がある。勿論映画はセットだから綺麗に見えたが、実物は古い石造りの家の通路に面した所へ硝子窓をくっつけただけの物が多い。そして、それが一区画ずつ飛び飛びに繋がっている。水路と言っても五米幅の運河並のが、その間にここからアムスの町を流れ、また二町おき位に横に細い水路が水を岸すれすれに満たしている。初めて其処へ行った時、「こりゃあ日本の遊郭だ」と想った。
ただ違うところは、お歯黒溝(どぶ)がいつもすえたように臭かったのに、このアムスは海面より土地が低いせいで水が速く流れるから、まるで澱んだ臭いがしないだけである。昔日本に遊里の在った頃、決まって入り口に交番があって、うろん臭そうな眼で人相の悪いお巡りが立っていたものだが、この飾り窓のある一画の入り口にも、「スコットランド・ヤード」と英国と同名のもののセカンドオフィス、つまり第二分署の建物がある。
ただ日本と違うのはレストランみたいなガラスばりになっていて、十五、六人のポリスの勤務状態が、彼らに給料を払っている納税者の市民から丸見えになっている。さぼって煙草ばかりくゆらしているのでも居ようものなら、通行人がガラス戸を叩く。すると中からヤアと手を振って、ポリスは何の帳簿か判らないが、真面目くさってそれを拡げたりする。日本みたいに官僚主義を発揮して、「公務執行妨害で逮捕するぞ」とは脅さない。 さて第二分署の二階はジム・クラブになっている。警官達の武道練習所かと思ったら、ここは別個の民間経営で、西部劇の補助シェリフみたいに第二分署で人手が足らない時などは、日当で応援することもあるという。
ここのジムに昔私と知り合いだったキムと呼ぶコリアが居て、マネージャーをしている。だから私はアムスへ行くと決まってここへよく寄る。するとキムも歓んで迎えてくれるが、もっと歓迎してくれるのは階下のポリス達である。 何しろ日本国内にそうした施設が無くなってからというもの、日本男子は台湾の北投へ往復十万円の飛行機代を払って一晩五千円のクーニャンを買いに行くし、和蘭へ彼らが来るのも、観光用に市内に保存されている風車を見るためでもなく、またダイヤを求める為でもない。男性自身をスパークさせるために来るのが多い。随行員を十名あまりも引き連れ、溝川の鉄柵の所に突っ立っていた超一流会社の社長も見たが、一晩に集まってくる日本男児は多く、なにしろ百名ではきかないという。
ところが和蘭の貨幣はギルダーで計算が判りにくい。そこで日本男児は気前がよいわけでもないが、勘定が厄介だから「良きに致せ」と財布ごと出してしまう。当人とすれば、相手が適当にその中から掴みだし、お釣りをくれるものと思っての事だろうが、女はレジスターではない。メルシー・ボウク。フィーレン・ダンケ。モテル・グラツィエ。ムーチャス・グラシアス。どうもありがと。女は財布ごとの頂きである。
チップと認めて何も返してはくれない。諦めてしまうのもいるが、旅費まで盗られたと第二分署へ泣きこんでくるのも多い。ところが日本人がオランダ語が苦手のように、アムスのポリスも日本語にはてんで弱い。だからキムの友達の日本人と判るとバッジなど貸してくれて、仲裁役を頼んでくる。ところがこのバッジさえ持っていると役得で、何処の店へものこのこ入っていける。
さて、アムスの飾り窓の通りに、いつもひしめき合い覗き込んで通るアベックの群を、初めは何の冷やかしかと怪しみ、(未だものにしていない相手を同伴して、もし要求を受け入れなければ、おれはここの女と寝てしまうぞと脅かすための作為ではあるまいか)とも考えたたが、さてバッジを付けて、カーテンを閉めたままの店へでも横から入れるようになると、事の意外に驚かされたものである。
なにしろアベックは男女一組のまま店に入り、そこで店の女から実地教育指導を受けているので、初めは偶然かと思ったがそうでもないらしい。アベックの殆どは若夫婦か婚前交際中らしく、カーテンをこした硝子窓の向こうを通るさんざめく群衆ににも頓着無く、熱心に彼らはノートまで取って教示を仰いでいる。客のアベックを裸体にしてベッドに重ね、店の女が体操教師のように位置を直しているのも見たし、店の女によって夫が満足してゆく過程を、ぐるぐる周囲を廻って覗きこみ、その途中で交替を申し込んだ妻が、自分も観察した通りに振舞い、女からフォームを直して貰っている状況も見た。
日本にもセックス・カウンセラーを名乗って物を書く人も居るが、ここでは全てが実技指導である。だから「夫婦生活の知恵」なんていう本は書店には売っていない訳で、もっと判りやすく手をとり腰を引っ張って二人に向くような体勢を伝授しているのである。
但し、そうはいっても飾り窓の女が全部そうではなく、 Klove niers河岸のHoogsir 通りに固まっている三十代のベテラン揃いの所に限定されている。目下修行中の十代ぐらいの若い娘の所では、未だ自分が勉強するのに精一杯らしく、通りかかる男達にウエスタンのカウボーイ・スタイルまでして「ヘエイ・ユウ」と 黄色い声で呼びかける。こうして訓練してやがては人に教えられるような立派なプロフェッショナルになるのだろう。
【皇室と遊女】
「歴史」はヨーロッパでも十九世紀までは「学」ではなく、何の目的もはっきり持たぬ単なるお話でしかなかった。ヴォルテールがギリシャ神話などに現れてくる超人や怪竜や、それらの魔物と戦った英雄談を、歴史として認めない方針を打ち出し、人間社会がその風土寒暖や風習によって左右される因果関係をモンテスキューが見つけだした後、ヘーゲルの歴史哲学である彼の相対性弁証法のもとに、Aという通史とBと呼ばれる裏目の反史をつき合わせ、Cと呼ぶ史観を産むようになり、方法論としてこれがオーギュスタンによって、小説家スコットの歴史小説に啓発され、その書き方を真似た記録的実証的なものが、今日の歴史学の基礎となった。
日本では明治二十年代になって、それまで家系を作るための系図用の歴史、古びた茶碗を高値に売れるようにとカタログ代わりにした歴史を追放すべく、田中義成、星野恒、久米邦武、日下寛といった人々が「歴史」と取り組んだ。 しかし「通史」とその裏目の「反史」をつき合わせることが至難と言うより、全く不可能だったらしい。
通史を再検討することが精一杯の儘で明治三十年代に入り、やがて歴史は明治軍部によって参謀本部の「作戦資料」となったり、各華族の「祖先顕彰史料」といった利用方面にのみ追い込まれてしまった。
だから日本史は戦いの歴史となり、英雄の歴史となり、そして今も、茶道具の名称をことさらに列挙する可笑しな形態をとって平然とまかり通っている。みな賢い人ばかりだから、何の益にもならない反史を調べたり、それと通史とつきあわせるような無駄な努力をするよりも、ありふれた通俗史の儘で押し通す方が抵抗もなく楽だからだろう。
そこで日本ではこのため誰が悪いのか知らないが、まるで反対の事でも今も平気でまかり通り、それが歴史と信じられ常識化されている事が多い。例えば「秘境」というのがある。源氏に追われた平家が山中へ逃げ込んだものと、今ではされている。おまけに、
「おまや平家の公達ながれヨーホーホイ、おどま追討の那須末ヨー」といった那須の大八と鶴登美の悲恋を扱った「ひえつき節」などが広まって、最早今日では誰も疑おうとする者もない。そこで下関市の赤間神宮の祭礼などでは、「破れし平家の女達哀れ、みな遊女となりました」と仮装遊女の行列さえ催されている。 だが厳島神社に奉納されている遺品を見ても判るように、平家というのは海洋民族である。壇ノ浦でみな舟に乗り鎖で繋ぎ合わせたのも、折柄の貿易風に乗って逃げる筈だったのではあるまいかと想われる。
なにも海戦をする為に連結させたのではない。それなのに風邪より速く源氏が小舟に乗って群がってきて戦になったからとはいえ、いくら負けても海洋民族が山の中へ入って、落人など作れよう筈がない。今日いわれている平家とは、 「源頼朝の死後に代わって政権を執った北条氏に追われた、源氏の残党の逃避行した」でしかない。あれは徳川時代に犬の血統書作成みたいに「系図」が流行した時みな先祖を藤原鎌足や源頼光式にしたので、(山の中に源氏があっては不味い)と適当に名前をすりかえてしまったものらしい。
さて、「遊女論」は昔から在る。最古の物は大江匡房の「遊女記」で、これは『群書類従』にも収録されている。 平安後期の人間だった彼は、「遊女とは、允恭天皇の妃であった布通姫の後身の一族で、東三条院は小観音という遊女、上東門院は中君とよぶ遊女を愛された」と遊女を貴種とし、また『くぐつ記』に、「紅をさし粉をたたき美しく装った女は、一夕の歓のため男から金の刺繍布や錦衣、金かんざしといった膨大な物を献じられた」当時の遊女の権勢ぶりを書いている。
勿論、万葉集にも遊女は出ていて、「凡有者左毛右毛将為乎恐跡 振痛袖乎忍而有香聞」 オホナラバ カモカモ センヲ カシコミテ フリタキソデヲ シノビテアルカモと天平二年(730)に太宰帥大伴卿が九州へ戻って行くのを遊女が名残を惜しみ、これを俗っぽく判りやすく訳すと、 私は左の毛右の毛をこすりあわせてカモカモしたいのを、おおみことのりを恐れかしこみ、私は袖を振るのさえ忍んで見送る。アモーレアモーレ、アモーレミヨという、そのものずばり遊女の相聞歌になり、これが後年の「チンチンカモカモ」の語源であるとされている。
さて藤原氏全盛の頃までは、歴代の勅撰歌集には数多くの遊女の作品が出てくるし、また、「宇多天皇が川尻で遊女白君と過ごされしこと」 「小野の宮が二条関白と、遊女香炉の奪い合いをして喧嘩をなされ話」 「関白藤原道長が遊女小観音より、奈良七大寺参拝の帰りに薄情と抱きつかれた事」 「京極大臣宗輔の娘で遊女になった和歌の前というのが永久三年(1115)に、時の鳥羽天皇に召され寵愛された」などと、まるで遊女とは皇室専用か、宮内庁御用達の感がある。
だから『徒然草』の中でさえ、「御鳥羽天皇は亀菊とよぶ遊女に入れあげ、彼女のために長江と倉橋に広大な荘園を二ヶ所も賜った。自分は男に生まれてしまい遊女になれぬが恨めしい」と吉田兼好は書いている。
又その遊女亀菊によって承久三年の鎌倉幕府追討の院宣は出されたのだと『吾妻鏡』にもその名が出ている。 つまり日本の遊女というのは、天皇家の繁栄と共にあって、やがて皇室の御衰微と共に遊女もしぼんで哀れになったらしい。しかし一般の常識でゆくと、今では、「遊女とは横暴な男性の欲望を満たす為、その犠牲として存在したものだ」との既成概念が強い。
しかし今も昔も「女」とは、それ程男に都合の良い存在だろうかと、これは考え直さざるを得ない。なにしろ女性に生まれついてきた特権で、そのもの自身で楽に暮らせたり、生活の安定が得られるということは、これは麻薬中毒のように一度その味を覚えたら止められるものではない。だからして千年以前においても、「女が女を振り回して生きていけるのに、男は男をいくら振り回しても、それによって儲けられることはなく、かえって損するだけではないか」と、ひがんだ男達が皆不平を持ったらしい。
そこで源頼朝は鎌倉に新政府を樹立するや、「女性自身を利用する権利は、みなもと族に属する女に限る」旨を発令した。 文治二年(1186)の事である。 そして頼朝は、平家退治に手柄のあった、清水冠者義高と里見義成という高名な武者を「遊女別当」に任じている。 頼朝はこの二人を関東関西に分けて受け持たせ、現代で言えば「関東管区売春婦取締り局」とでも呼ぶべき国家機関である。この取締りは源氏の遊女だけをエスコートして、それ以外の権利のない女達のモグリ営業を厳しく監視する為である。この名残は大正昭和までの公認の遊郭では、「うちの妓は、もぐりではありませんのさ」と女達に「源氏名」というものをつけさせていたのでも判る。
これに関しては日本歴史学会会長の故高柳光寿博士も、「平家の一門が壇ノ浦で滅亡した時、平家の婦女や官女が遊女になったという説をなす者もいるが、平家の彼女たちが遊女になれる権利がある訳はない。中世までは、女なら誰でも遊女になれると思ったらそれは間違いである」と、明解にその著で説いておられる。
【和泉式部も遊女】
室町御所の時代に入っても、やはり女なら誰でもが有するものをもって生活してゆけることを野放しにしていては、一人の男だけに縛られて苦労するような妻になど、ばかばかしくてなり手がないと、「傾城局」という官庁を足利幕府も作った。「室町日記」には「専売局」とする。つまり鎌倉時代に「遊女別当」と呼ばれた婦人局長官が「傾城官」となったもので、初代長官武内重信の名も伝わっている。
つまり女の中の女でなくては、やたらと昔は遊女になれなかったのである。さて、話は戻るが相場長昭の「遊女考」に、「白き小袖の上にから綾をひき重ねた装束」で、「しずやしず、しずのおだまき繰返し」と舞った静御前も、吉田兼好の著では「磯の禅師とよぶ高名なる遊女の娘なり」と、純粋遊女血統であった事が証明されている。また、『源氏物語』を書いたとされる紫式部と共に有名な和泉式部あたりでも、古文献の『御伽草子』では、「和泉式部は遊女にして」となっている。 また小野派一刀流の始祖といわれ、秀吉の妻の女祐筆であった「小野於通」と呼ぶ絶世の美女も「八十翁寿物語」という古書では、
「浄瑠璃の初めは、小野於通とよぶ遊女が語りだしたるものなり」とある。つまり近世までは「遊女」は誉め言葉で、ファーストレデイの意味だったらしい。が、儒学が朱子学の型で日本へ入ってからは、金を阿堵物と蔑む風潮が広まって、この為「金を取って身体を任せる女」というのは軽んじられるように変化したものらしい。しかしそれでも江戸期の黄表紙本等は、やはり評価を、 「あんな女はただでもいやだねえ」とか、「いくら金をつけられたってあんな女じゃ」と、やはり女性評価を貨幣でしている。
ところがその江戸時代には、はっきり定価表を付けた吉原という一廓があったが、 「御府内備考」第二十江戸吉原の条に、「吉原の開祖庄司甚右衛門のことを『君がてて』とよぶ」とある。 これは故柳田国男の「テテと称する家筋」によると、古くは「帝々」と書いて「てて」と呼ぶのだとある。 つまり遊女というものの存在は「君が帝々」であって、それからして「遊君」というし、「何々の君」とも謂うので在るらしい。 どうも皇室専用だった名残から尊敬されていたようで、寛永十七年までは江戸城の評定所へも、吉原から遊女が三名ずつおもむき、花を生けたり茶を点てていたりしている。
「遊女」というものに対して今日のような観念が出来上がってしまったのは「明烏」の芝居で、雪中でやり手婆に遊女が折檻される場面や、故沢正の、「国定忠治山形屋の場」で、「可愛い一人娘を苦界に沈めた五十両。よくも藤蔵、てめえはとりゃがったな」といった処かピテイな存在になってしまったらしいが、正保二年(1645)十一月には、元吉原町並木屋の佐香穂という遊女は、馴染客が死んだからと、堂々と廃業して尼さんになっているし、畠山箕山の『色道大鏡』の内の<扶桑列女伝>に出てくる勝山と呼ぶ遊女は、丹前風呂から召捕られ廻されてきた一生奉公の身分の女だが、明暦二年の春に、「今年中に思うしさいがあって廓を出ます」と宣言すると、その通りにさっさと吉原を出てしまったとある。
今日想像するのと違って吉原というのは、山東京伝の万治二年の「しかた噺」にも、「江戸のうかれ女は葭原という所に集まり、ここの遊君は雨など降ると自分では歩かず、奴いう男を呼び寄せ一名に傘をささせ、一名の肩に己を背負わさせ廓内をゆくのである」と、嫉むような書きぶりを今に残している。
これは銀座のバーの女達が、大の男のボーイを顎で使って灰皿を代えさせるのと同じで、有り体にいうならば「女性優位」を露骨に地でゆける、そういう職場ではなかったのだろうかと想える。 また、かって儒教が道徳であった時代には、「女人が行為によって歓喜の声を迸らせたり失神する事」は、慎みがないとされ、「不道徳」の烙印を押され、行為は女人にとっては苦痛でしかないようにそんな教育をされたものである。 だから女性たる者は、そうした行為は欲せざるところ、好まぬもの、と意志表示をするような処世方を持つことが、これが賢明とされた。その結果が、行為を反覆繰り返す職業は「苦界」と見られ、哀れな存在といった扱いをされたらしい。
しかし女人にとって、それ程迄にそうした行為が苦々しいものであるならば、「おめでとう」と、何故婚礼の時周囲は祝うのだろうか。相手が一人ならお目出度く、それが不特定多数になると同情する結果になるとは一体何であろうか。欲望というものは「効用延元の法則」によって、一より二、二より三の方が良くなると言う定理と矛盾しないものかと疑いたくなる。さて、なにしろ儒教が普及するまでは、女人も本当のことを口にしたらしく、吉原の開祖六代目庄司勝富の残した「異本洞房語園」に、 「この里に住みてうきことなし、夜毎かわる枕も面白しといいはべる女共多く」などと、はっきり書き残されている。
現在はなくなったらしいが、まだ、「親孝行」というモラルが、かって存在した頃は「お三味線や踊りを習って芸妓さんになって、好い旦那をもって、おとっつぁんやおっかさんを左団扇させるんだ・・・・あたいだって綺麗なおべべが着られて仕合わせだァ」と、将来の希望をそこにおいて憧れる少女が昭和二十年までは、まだかなりいたものである。 しかし時世、時節で、今でも行為を職業とする女性は多いらしいが、親のためというのは殆どない。彼へ貢ぐ為というのが多い。つまり彼との行為の為に、他との行為を致すのであるらしい。
【遊女は職人】
何といっても日本語の難しさは、この「遊女」の意味が解釈しにくい事である。 これを現在のように「遊ばせる女」と読んだ時、はたして該当する存在が、紅燈の巷やネオン街にも今でも存在するだろうか、と、疑問に思われる。よく、遊ばせてくれるというのは立派な「芸」であるが、これは自動的でなくてはならないのに、そうした女性は今は居ないのではなかろうか。
つまり、酒場の女でも、煙草に火をつける事と、おしぼりを持ってくるしか能のないのが多い現代では、お客の方が高い金を払って女を遊ばせているのだから、全く本末転倒なのである。まして肝心な方においてをやであろう。ところが、「遊ぶ女」と見た場合は、昔のように畏れ多くも主上を手玉に取ったり、搾り奉るような不敬なのは居ないが、これだと各都市の盛り場にはいくらでもいる。しかし、自分の方が遊ぶのだから、男に対してはあべこべにサービスを求めるのである。
室町時代に土佐絵をもって一世をならした光信の作に、「七十一番職人歌合せ」という絵巻物がある。 二十世紀では、職人というのは一日何千円の手間代を取るから立派だというものの、学校での技術屋に比べて、学歴が無いからと冷たく見られる向きがないでもない。しかし四、五世紀前には学校出はいなかったから、職を持っている人間は極めて尊敬された。
つまり土佐光信も絵描きという職人であるし、医師も当時は病気を治す職人だった。そして「遊女職」というのも、立派な職人だった。熟練工といった意味でか、この七十一の職業別絵巻物に、遊女は堂々と入っているのである。 これは幕末安永年刊の「咲花論」にも、「いくら初見世だからといって、丸太棒を二本並べられた丸木橋みてえに寝ていられちゃあ曲もねえ。商売だったら商売らしく、てめえの職に少しは真面目に励みやがれ。それじゃあ堅気の嬶と同じだ。何事もやりさえすれば、それでいいってもんじゃねえ筈」とお説教が出ているのを見ても、やはり、「遊女というのは、並の女性のように唯あるものを使うというのではな く、そこには職人としてのプライドを持ち、芸を切磋琢磨する必要」が要求されていたものらしい。
しかし、かって女性の中の特権階級だけが職人の誇りを持って司り、権利のない女には許されなかった職業も、徳川中期以降の近代資本主義の勃興によって、やがて抱え主と呼ぶ資本家と労働者という立場に変貌したから、そこから全てが違ってきたらしい。
そして政治の貧困から江戸府内でも、岡場所(モグリの売春宿)と呼ぶ権利無き女たちの私娼街が、いくら弾圧されても次々と出現してきた。しかし腐っても鯛で、吉原は職人女の集団プロフェッショナルだったが、私娼というのは未訓練女性で、てんで職人気質を持っていなかったようである。 そこで、家にあり合わせるようなものを外で求めてもつまらんだろうというので、奇篤な男が身を持って現地取材をした。 弘化二年三月二十三日発禁処分となったが、「東辻君花の名寄せ」というのがそれで、その刊行物の内容は、
東両国 はる16優 ふく17優 きく27良 ひろ21可 浅草橋 ふじ25優 たき21良 永代橋 むら17優 そで33優 なみ22良 とく21可
本所通 さだ19優 よね35優 ひさ17良 ひろ17可 芝久保 まき21優 かね34優 たき21可 たみ25可 赤坂通 てふ18優 ふさ16良 つね15可 よし16可
今から二百数十年近く前の女性の勤務評定をずらりと並べているが、今となっては何の役にも立たないから後は省略するが、優は努力する職人タイプ。良は自然の結構さ。可は止めておけの事だそうである。さて、「他人に不幸ほど喜びを与えられるものはない」というカーライルの言葉を引用して「戦国時代の女性は哀れだった」とか「遊女は惨めだった」とかいって読者に媚びる本も多いが、性病などが輸入されなかった頃は、実際にはそうでもなかったらしく、「遊女職」として、遊女がその権利を行使していた源氏から北条、足利時代にあっては、志望者が殺到して選ばれてなったというから、現代の女達よりは遙かに幸せであったものらしい。
また吉原の太夫に権式があって威張っていられたのも、俗説のごとく、茶の湯や仕舞、琴が弾け遊芸に通じていたからというのではなく、もっと本質的に、その道のテクニシャンで技巧を持つ優秀な職人だったせいなのだろう。
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