サンカ いろは コトツ唄
サンカいろはコトツ(口頭、口伝)唄の由来
下駄のほう歯がカルタ札になった
サンカの現存のイロハ唄は、正月の子供のカルタ遊びのために考案されたものではない。文字を使うと、その痕跡から追補され、殺されるので、
やむを得ず、文字でない音声で伝達をするために考案された悲しい歴史から生まれた。
体制側からの危害にあわぬようにと、戒めに、歌えるような短文で纏め作られたというのが本当のところなのである。
サンカが生き抜くために作り出したのが始まりで、その歴史は古く、契丹系の菅原道真が殺され、祟り除けに太宰府に天満宮が作られたころからである。
それは藤原体制から、反体制の民族として敵視され、見つかり次第問答無用で叩き殺されだした、十世紀ごろになる。
サンカ同族への周知の伝達にと、今の原型は出来ていたらしい。
それは、サンカ族が固まって住んでいた名古屋で纏められ、居付きの商人になった者たちが、西や東に送り込まれたイロハ歌留多は、現在のような紙を張り合わせたものではなくて、木曽産のホウの木の薄板だったのである。
そして、江戸時代のサンカは、職業として下駄の歯入れもしていた。当時、歯入れ板には、足には軽いホウの木を皆使っていた。
しかし下駄の歯には、節目や窪み、年輪が入っていて、折れそうなのは使えぬから、これが銭に換えられる唄板に使ったものらしい。
やむを得ず、文字でない音声で伝達をするために考案された悲しい歴史から生まれた。
体制側からの危害にあわぬようにと、戒めに、歌えるような短文で纏め作られたというのが本当のところなのである。
サンカが生き抜くために作り出したのが始まりで、その歴史は古く、契丹系の菅原道真が殺され、祟り除けに太宰府に天満宮が作られたころからである。
それは藤原体制から、反体制の民族として敵視され、見つかり次第問答無用で叩き殺されだした、十世紀ごろになる。
サンカ同族への周知の伝達にと、今の原型は出来ていたらしい。
それは、サンカ族が固まって住んでいた名古屋で纏められ、居付きの商人になった者たちが、西や東に送り込まれたイロハ歌留多は、現在のような紙を張り合わせたものではなくて、木曽産のホウの木の薄板だったのである。
そして、江戸時代のサンカは、職業として下駄の歯入れもしていた。当時、歯入れ板には、足には軽いホウの木を皆使っていた。
しかし下駄の歯には、節目や窪み、年輪が入っていて、折れそうなのは使えぬから、これが銭に換えられる唄板に使ったものらしい。
つまり当今と違って文政年問から江戸で流行しだした犬棒カルタは、紙板ではなく足駄の歯なみのホウの薄板だったし、関西とてもやはり同じであった。
ということは文字を使わぬサンカのことゆえ、それに何か文字を書きこんで売りさばいたというのでは、決してないのである。
下駄の歯入れ屋のシノガラ(サンカが村や町に溶け込んで暮らしている状態)が、集まった材料の内から割れがきそうで商売ものにはならぬ歯入れ板のはねだしで、屑として炊きつけにするしかないのを俵につめて玩具問屋へ納入し、
それで得た銭で栗とかヒエといった食物を購い、家族を養っていたであろうとは想像にかたくない。
ということは文字を使わぬサンカのことゆえ、それに何か文字を書きこんで売りさばいたというのでは、決してないのである。
下駄の歯入れ屋のシノガラ(サンカが村や町に溶け込んで暮らしている状態)が、集まった材料の内から割れがきそうで商売ものにはならぬ歯入れ板のはねだしで、屑として炊きつけにするしかないのを俵につめて玩具問屋へ納入し、
それで得た銭で栗とかヒエといった食物を購い、家族を養っていたであろうとは想像にかたくない。
問屋ではヒビ入りしかけや、節穴の入った物でも、下駄の歯入れ用に、同じ大きさに揃えてあるし、両面きれいに鉋がかかっているから、明治頃までは「砥の粉」とよぶ白い塗料を両面に塗らして乾かせ、
四十八枚を一組にして、下絵かきの職人や、文字のかける女房連に家内賃仕事で安く内職で仕上げさせ、十二枚ずつで色つき和紙の帯をかけさせ、四段割りに箱入りにした。
その頃、ザラ紙に武者絵を石版で刷り、古祗再生ボール紙に貼りつけのメンコは、乾いた処を円形の形抜き機にかけて製作するのが、大正年間から需要も増えて従来のものにとって変った。
ホウの屑板に両面塗ったり、黒くフチ取りし乾かして、文字をかかせて作るカルタより、石版印刷なら五百枚から八百枚は四六四半裁断で刷れるから、ボール紙を裏面にくっつけた物とに変わった
四十八枚を一組にして、下絵かきの職人や、文字のかける女房連に家内賃仕事で安く内職で仕上げさせ、十二枚ずつで色つき和紙の帯をかけさせ、四段割りに箱入りにした。
その頃、ザラ紙に武者絵を石版で刷り、古祗再生ボール紙に貼りつけのメンコは、乾いた処を円形の形抜き機にかけて製作するのが、大正年間から需要も増えて従来のものにとって変った。
ホウの屑板に両面塗ったり、黒くフチ取りし乾かして、文字をかかせて作るカルタより、石版印刷なら五百枚から八百枚は四六四半裁断で刷れるから、ボール紙を裏面にくっつけた物とに変わった
これなら一刷りで千組ぐらいが短時間にでき、夏の暇な時に取り掛っておけば十一月の初めには、玩具屋の店先にホウの板のカサばって高価なのより、子供のお年玉でかえる、一組二、銭ぐらいなのが、
ずらりと山積みされて安い羽子板や独楽類と共に人量に卸せるようになったからである。
下一色のサンカでは、昭和の初めごろまで、ホウの木を挽いたのを担いできて、歯入れ用に寸法を揃えて切っていたが、節のあるのや傷のついたのを選りわけてはずした物も銭なったという。
という事は人正の初めは、まだホウ歯には出来ぬ屑板がイロハカルタに使われていた事になる。
(今の人は、下駄など祭りの時ぐらい、それも若い娘が浴衣姿で履くぐらいだが、昭和35年頃まで、子供たちは履いていた。私も、小、中、高と下駄通学だった。
だから、当時は下駄屋がいくらでも在ったが、鼻緒が切れれば、ボロ布をより合わせて自分で直したものである。また、歩き方が悪いと歯は偏った減り方になる。
それに気を付けて平均に減らせれば、下駄は長持ちする。大人になってもこの癖は抜けず、靴底の減りは少なく、姿勢もよい。下駄は体にも良い日本人の優れた履物である。)
といって、文字を絶対に使わぬサンカが、ホウ板カルタ材は玩具問屋へもっていっても、彼らが字を書くわけはないから、サンカかるたというものはないのである。
つまり名古屋のクズシリのカミ(サンカの地方の責任者)が作ったというのは、口伝えで覚えやすい文句だけだろうが、名古屋弁が嫌われていたせいか、その儘は使われてないようである。
それとも地方ごとに文句が換えられたのかも知れぬ。
なにしろ私としても名古屋の水谷学派の「山入り唄」しか似通ったものは浅学にしてみていない。本を売る為にホッタマフエやウエッフミがサンカのものだとか、焙り出し文字を使っていた、などと出鱈目を書く歴史屋もいるが、
彼らは何度も言うが文字拒否の部族なのである。書き残しなどする筈は全然ない。「本草学」の本にはサンカから聞き書きしたものが書かれている。
つまり名古屋のクズシリのカミ(サンカの地方の責任者)が作ったというのは、口伝えで覚えやすい文句だけだろうが、名古屋弁が嫌われていたせいか、その儘は使われてないようである。
それとも地方ごとに文句が換えられたのかも知れぬ。
なにしろ私としても名古屋の水谷学派の「山入り唄」しか似通ったものは浅学にしてみていない。本を売る為にホッタマフエやウエッフミがサンカのものだとか、焙り出し文字を使っていた、などと出鱈目を書く歴史屋もいるが、
彼らは何度も言うが文字拒否の部族なのである。書き残しなどする筈は全然ない。「本草学」の本にはサンカから聞き書きしたものが書かれている。
日本語の原点 AKASATANA HAMAYARAWA
さて京都が権力に対して反体制的になったのは、驚くかもしれぬが「新選組」が原因なのである。
彼らは、日本最初の制服集団(赤穂浪士の討人りの、揃いの羽織は芝居の舞台だけのことで、本当は各自思い思いのバラバラの服装だった)として槍、刀、鉄砲で武装し、
三多摩の弾左衛門支配地から出てきた、近藤勇や土方歳三が、壬生の八木源之丞宅は五ヶ月たらずで出てしまったが、その後は西本願がの御本堂脇の会所に陣取った。
そして御公儀を笠にきて、「坊主憎けりや、ケサまで憎い」と放歌高吟して、寺や仏具店ばかりの京を次々と廻り歩き、「……これまで、よくも屍を畜生塚や投げこみ穴へ放りこんできたな、その仇討ちだ、思い知れ」と
隊伍を組んでは、脅かし廻ったのが起因なのである。
その為、昭和になっても共産党の蜷川知事体制が続き、現在でも共産党の勢力が強いのである。
が、名古屋もんが虐められた歴史は幕末の新選組より古く、八代将軍吉宗の頃から、散々に痛めつけられている。
その恨みつらみが、文化の頃に現われた犬棒カルタにも、露骨に徳川御政道への、それとなく揶揄し批判を敢てしているものの、西カルタ、つまり大坂、京ものは逆に教訓めいて作られている。
この両者の差異とサンカ自身のクズシリからムレコ(各地に散らばって住んでいるサンカの家族)達へ、判りやすく伝えるものは、「アヌさん唄」つまり(太陽讃歌)とか、明治中期まではアイウエオではなく、
アカサタナハマヤの横並びが、江戸期から同類音とされていたので、それから取って言いならわしたか、加賀梅鉢衆(加賀の前田家もサンカの為、ここにも集団で住むサンカは、前田家の家紋が梅鉢だから梅鉢衆と呼ばれた)
は、「アカサ唄」といった呼び方をしている。大槻文彦の「言海」からの伊呂波が、昭和三十年からは文部省の義務教育の国語ではA、KA、SA、TA、NA、HA、MA、YA、RA、WAの十音が、俄かに、AIWEOの五母音に変わってしまうのである。
彼らは、日本最初の制服集団(赤穂浪士の討人りの、揃いの羽織は芝居の舞台だけのことで、本当は各自思い思いのバラバラの服装だった)として槍、刀、鉄砲で武装し、
三多摩の弾左衛門支配地から出てきた、近藤勇や土方歳三が、壬生の八木源之丞宅は五ヶ月たらずで出てしまったが、その後は西本願がの御本堂脇の会所に陣取った。
そして御公儀を笠にきて、「坊主憎けりや、ケサまで憎い」と放歌高吟して、寺や仏具店ばかりの京を次々と廻り歩き、「……これまで、よくも屍を畜生塚や投げこみ穴へ放りこんできたな、その仇討ちだ、思い知れ」と
隊伍を組んでは、脅かし廻ったのが起因なのである。
その為、昭和になっても共産党の蜷川知事体制が続き、現在でも共産党の勢力が強いのである。
が、名古屋もんが虐められた歴史は幕末の新選組より古く、八代将軍吉宗の頃から、散々に痛めつけられている。
その恨みつらみが、文化の頃に現われた犬棒カルタにも、露骨に徳川御政道への、それとなく揶揄し批判を敢てしているものの、西カルタ、つまり大坂、京ものは逆に教訓めいて作られている。
この両者の差異とサンカ自身のクズシリからムレコ(各地に散らばって住んでいるサンカの家族)達へ、判りやすく伝えるものは、「アヌさん唄」つまり(太陽讃歌)とか、明治中期まではアイウエオではなく、
アカサタナハマヤの横並びが、江戸期から同類音とされていたので、それから取って言いならわしたか、加賀梅鉢衆(加賀の前田家もサンカの為、ここにも集団で住むサンカは、前田家の家紋が梅鉢だから梅鉢衆と呼ばれた)
は、「アカサ唄」といった呼び方をしている。大槻文彦の「言海」からの伊呂波が、昭和三十年からは文部省の義務教育の国語ではA、KA、SA、TA、NA、HA、MA、YA、RA、WAの十音が、俄かに、AIWEOの五母音に変わってしまうのである。
そもそもアイウエオ五十音図というのは、表音のない則天文字(いま言う漢字)をもって西暦六六四年五月十九日に、奈良王朝の御所を押えた勢力が、建国統一の際に、従来の倭言葉や馬韓語に当てはめて使用させたが、
唯それだけでは、なんとも巧く総てに当てはめにくいからして、「反切」とよぶ中国大陸の音標方式をもってして、テ、二、ヲ、ハ式に、漢字と漢字を繋ぐ接着剤の用途によって生まれたとも言われる。
つまり白文と呼ばれる漢字には一二三の上下天地昇号と、返り点の「レ」の二つしか、訓読するのに使うものがないので、それでは言語統一には、あまりも支障があるので、
唯それだけでは、なんとも巧く総てに当てはめにくいからして、「反切」とよぶ中国大陸の音標方式をもってして、テ、二、ヲ、ハ式に、漢字と漢字を繋ぐ接着剤の用途によって生まれたとも言われる。
つまり白文と呼ばれる漢字には一二三の上下天地昇号と、返り点の「レ」の二つしか、訓読するのに使うものがないので、それでは言語統一には、あまりも支障があるので、
漢文では「朝道聞死可」となる処を、「朝ニ道ヲ聞ケバ夕ニ死ストモ可ナリ」といった具合にアイウエオは使われだした。「反切語」となし、天武天皇御即位の西暦六七三年よりとか、トウ学問所で、
後に文教省にあたる西暦八二一年の勧学院が出来てから考案されたものであると、二説すらもある。
後に文教省にあたる西暦八二一年の勧学院が出来てから考案されたものであると、二説すらもある。
七世紀の大陸政権は唐で、高宗の時代である。のち則天武后となる女傑が妃として当時の今いう当用漢字を、「則天文字」と呼ばしめたばかりの時代である。まだ唐自体が漢字の選定をしていたのである。
とても器用に、まだ、反切などをもち出してこられるわけはない。常識をもってすれば、なんとかして初めは、返り点と送り点だけで、倭(日本)を教育しようとしたが、なにしろ化(げ)の未開発人種どもゆえ覚えが悪く、
大東亜戦争の時に皇民教育として諺文をやめさせ、強制的に朝鮮半島で日本語を使わせたようには巧くゆかなかった。
とても器用に、まだ、反切などをもち出してこられるわけはない。常識をもってすれば、なんとかして初めは、返り点と送り点だけで、倭(日本)を教育しようとしたが、なにしろ化(げ)の未開発人種どもゆえ覚えが悪く、
大東亜戦争の時に皇民教育として諺文をやめさせ、強制的に朝鮮半島で日本語を使わせたようには巧くゆかなかった。
そこで統治教育に手をやいた勧学院の先生たちが、なんとかバカでも判るように、反切をもちだしてきたのは九世紀でも末期だろうと思われる。
しかし、これは、あくまでも従来の官学派の通説が、「平安中期頃に発生」などと決めてかかるのへ、常識をもって反切を解明しただけであって、私のアイウエオ考はまるで違うのである。
孔子が、「みずから兵を率いて攻めて来たりなば汝らは何んとなす?」と問われると、塾生共が、「はい、謹んで旗をまき、武器を棄て降伏します」と、異口同音に中国大陸を崇拝していた、
儒教万能の江戸期の徳川綱吉以降でさえ、中国よりの「反切」ならば尊重すべきなのに、庶民は、「金釘で引っ掻いたような字を書きやあかって、なんでえ」といった具合に、片仮名は軽蔑していた。
そのくせ平仮名の方となると、[水茎の跡も麗し]と伊呂波の方は遥か段違いに格をつける。しかしである。昭和になってから、泉州堺から輩出したとされる茶道の有名人たちの遺墨展がよく開催される。
しかし、これは、あくまでも従来の官学派の通説が、「平安中期頃に発生」などと決めてかかるのへ、常識をもって反切を解明しただけであって、私のアイウエオ考はまるで違うのである。
孔子が、「みずから兵を率いて攻めて来たりなば汝らは何んとなす?」と問われると、塾生共が、「はい、謹んで旗をまき、武器を棄て降伏します」と、異口同音に中国大陸を崇拝していた、
儒教万能の江戸期の徳川綱吉以降でさえ、中国よりの「反切」ならば尊重すべきなのに、庶民は、「金釘で引っ掻いたような字を書きやあかって、なんでえ」といった具合に、片仮名は軽蔑していた。
そのくせ平仮名の方となると、[水茎の跡も麗し]と伊呂波の方は遥か段違いに格をつける。しかしである。昭和になってから、泉州堺から輩出したとされる茶道の有名人たちの遺墨展がよく開催される。
が、茶人の手紙は武野紹鴎にしろ千利休でも、みな片仮名であって決して誰一人として、いろはの平仮名は使っていないものが現存している。
これは、泉州はSeNの人々の押しこめの地で(日本先住民でも原住民でもよいが、つまり「先」に住み着いていた日本人の事)七世紀から、大陸勢力が入り込んできて、世変りしてしまった。
だから、大陸から押しつけてきた仏教にかかると「日本先住民」のSeNが、つまり賤しい民族となってしまう。
つまり日本列島原住民というか先住民たちは賤と差別され、すべて当てはめ則天漢字は、「仙」とか「千」にし、賤は和訓ではシズと発音ゆえに、静岡も仙台と同じ当てはめ文字となる。
浅間、浅草、仙台なども全てSENの発音になる。賤ケ岳の七本槍で有名な羽柴秀吉と柴田勝家の合戦場だが、ここは琵琶湖と余呉湖の中間で400メートルほどのさして険しい山ではない。
ここに先住民が集団で住み着いていたから、賤ケ岳というのである。だから、中国の「反切」という説も、こうなると可笑しくなる。
つまり日本列島原住民というか先住民たちは賤と差別され、すべて当てはめ則天漢字は、「仙」とか「千」にし、賤は和訓ではシズと発音ゆえに、静岡も仙台と同じ当てはめ文字となる。
浅間、浅草、仙台なども全てSENの発音になる。賤ケ岳の七本槍で有名な羽柴秀吉と柴田勝家の合戦場だが、ここは琵琶湖と余呉湖の中間で400メートルほどのさして険しい山ではない。
ここに先住民が集団で住み着いていたから、賤ケ岳というのである。だから、中国の「反切」という説も、こうなると可笑しくなる。
徳川家光は男色家だった
江戸時代の学者、熊沢蕃山でさえも堂々と将軍に献言し、「中華や朝鮮の人々は貴種ゆえ、何びとであれ王となれる素質あるも、倭は卑種なれば不可なり」と、
当時は新皇と称するようになった、徳川綱吉に諌言した為に、今いう不敬罪で下総古河に幽閉され後に毒殺されている。
綱吉は三代将軍家光の子である。しかし、器量良しだった側室のお玉の方を家光が見初めて綱吉を生んだのだが、このお玉が問題だった。
当時は新皇と称するようになった、徳川綱吉に諌言した為に、今いう不敬罪で下総古河に幽閉され後に毒殺されている。
綱吉は三代将軍家光の子である。しかし、器量良しだった側室のお玉の方を家光が見初めて綱吉を生んだのだが、このお玉が問題だった。
三代将軍家光が上洛のみぎり、京の三条近くでかしこまって居る少女が美少年型なのに目がゆき、そのまま男だと思い込んで、召し抱えて江戸へ戻ってきた。
もちろん、その頃は家光の性癖が、男色一辺倒だったからである。
だから、江戸に連れてきても、その於玉を、女体としては扱わず、もっぱら後尻の方だけを溺愛した。しかし遠くて近きは男女の仲というが、稚児さん用に男として用いられる個所から、
その頃、「前尻」と俗に呼ばれていた女体の秘所とは「蟻の戸渡り」という如く、小指の長さ程の距離もない。だから、ぬるりとつい滑りこんでそちらへ脱線してしまったのか於玉は身寵る事となった。
「ご寵童代りになさる御坊主役と思い、あまり身許も、よく確かめんと京より召し抱えて参った於玉じゃが、上さまの御種頂戴とあれば、これは放っておけぬ事と相なった」
当時まだ在世中だった春日局もあわてた。そこで京所司代板倉重宗に命じ、身許調査をさせた。
もちろん、その頃は家光の性癖が、男色一辺倒だったからである。
だから、江戸に連れてきても、その於玉を、女体としては扱わず、もっぱら後尻の方だけを溺愛した。しかし遠くて近きは男女の仲というが、稚児さん用に男として用いられる個所から、
その頃、「前尻」と俗に呼ばれていた女体の秘所とは「蟻の戸渡り」という如く、小指の長さ程の距離もない。だから、ぬるりとつい滑りこんでそちらへ脱線してしまったのか於玉は身寵る事となった。
「ご寵童代りになさる御坊主役と思い、あまり身許も、よく確かめんと京より召し抱えて参った於玉じゃが、上さまの御種頂戴とあれば、これは放っておけぬ事と相なった」
当時まだ在世中だった春日局もあわてた。そこで京所司代板倉重宗に命じ、身許調査をさせた。
これがなんと、朝鮮済州島生まれだと判明した。この報告をきいて春日局も狼狽した。
が、懐妊しているものを今さらどうしようもなく、於玉の親が借りていた京三条木屋町横の長屋の大家で、表通りに店を構えている八百屋久兵衛の娘ということに、ひとまず取り繕ろった。
そして、久兵衛の祖先が武州本荘の出であるというので、「本荘氏」を新しく名のらせ、名も厳めしく「可平次」とした。そして、まさか八百屋の店先で大根を売らせてもおけぬから、取りあえず五百石どりの武士に取りたてた。
そして、於玉は桂昌院となって増々家光の情が深くなり権力も増したため、桂昌院祐筆頭となり、加増され禄高千石御役扶持切米千俵の堂々たる武士になった。
さらに桂昌院の実父と縁続きの男を済州島から呼び寄せ、隆光と名乗らせ、江戸音羽に護国寺を建立し、大伽藍の大和尚としている。
この護国寺は時の権力で支えたから、全国に末寺があり、現在も栄えている。
が、懐妊しているものを今さらどうしようもなく、於玉の親が借りていた京三条木屋町横の長屋の大家で、表通りに店を構えている八百屋久兵衛の娘ということに、ひとまず取り繕ろった。
そして、久兵衛の祖先が武州本荘の出であるというので、「本荘氏」を新しく名のらせ、名も厳めしく「可平次」とした。そして、まさか八百屋の店先で大根を売らせてもおけぬから、取りあえず五百石どりの武士に取りたてた。
そして、於玉は桂昌院となって増々家光の情が深くなり権力も増したため、桂昌院祐筆頭となり、加増され禄高千石御役扶持切米千俵の堂々たる武士になった。
さらに桂昌院の実父と縁続きの男を済州島から呼び寄せ、隆光と名乗らせ、江戸音羽に護国寺を建立し、大伽藍の大和尚としている。
この護国寺は時の権力で支えたから、全国に末寺があり、現在も栄えている。
綱吉は己が生母の於玉の方が済州島の出で、器量良しゆえ京の八百屋の養女となり、父家光に見染められての出生だから、自分は貴種の出であると言い張って、以降は徳川が王となった。
だから十五代慶喜の時には、大政奉還王政復古(天皇家から取り上げた「王政」を返した)ともなるのである。が江戸期というのは家康秀忠はサンカ系でも、家光、綱吉は仏教系の京の蜷川の春日局の血で、大陸系となる。
しかし吉宗からクダラ系と変ることになる。日本史では隠されているが、日本列島は天武天皇の時代から朝鮮と中国との代理戦争の大戦場であったのが実態なのである。
だから十五代慶喜の時には、大政奉還王政復古(天皇家から取り上げた「王政」を返した)ともなるのである。が江戸期というのは家康秀忠はサンカ系でも、家光、綱吉は仏教系の京の蜷川の春日局の血で、大陸系となる。
しかし吉宗からクダラ系と変ることになる。日本史では隠されているが、日本列島は天武天皇の時代から朝鮮と中国との代理戦争の大戦場であったのが実態なのである。
壬申の乱によってクダラ系は滅ぼされるゆえに、笠井忠氏の「竹取物語の思想的背景」の日本第二学園刊の「教育研究」第九号の論考の33頁にも、壬申の乱の天武側の中華公卿の五名の実名が、はっきりと列記されていて、
作者がクダラ系のせいか、中華公卿たちを卑下して、かぐや姫にふり廻される道化者として描かれている。
後の南北朝合戦にしても、中国の明の代理政権の足利氏(北朝)と、古来よりクダラのコロニーであった三の宮から湊川で南朝側は布陣した。が戦ったのに南朝が敗けてしまったのである。
作者がクダラ系のせいか、中華公卿たちを卑下して、かぐや姫にふり廻される道化者として描かれている。
後の南北朝合戦にしても、中国の明の代理政権の足利氏(北朝)と、古来よりクダラのコロニーであった三の宮から湊川で南朝側は布陣した。が戦ったのに南朝が敗けてしまったのである。
つまり壬申の乱の七世紀から江戸期になっても双方の代理として争いの坩堝だった。徳川吉宗からはクダラ系ゆえ、中華系の公卿を軽んじて、公卿たちが東下りの際は、ひとまず京で退官させしまい、
前侍従とか前中納言と無官にして江戸へこさせ、伝奏屋敷へ入れてから将軍が謁見して、今ではクダラ勢力が返り咲き八百万石だぞと、僅か三万石の田舎大名なみのトウ御所をクダラ徳川は散々に見下した。
さてここで、ややこしくなるのは、外題でさえ「いろは」とよび、親が「高野の弘法大師の作らせられた四十八字のイロハを教えてやろう」で始まるところの能狂言の一幕なのである。
現代では「幼いころからイロハを習い、イロハ忘れて色ばかり」と、駄洒落のめしているが、イロハはこんな軽いものではないのである。
最近、新羅古文研究家が、万葉仮名はそもそも新羅個有のもので、クダラ滅亡後も唐に抵抗して頑張ったが亡国となった。そして唐軍に勝利品として持ち去られたのが「新羅郷歌」四千五百首で、その唐語に訳され
た詩から、壬申の乱で殺した連中が、化けて出てきて、祟りをなしたら困ると挽歌として、ずらりと日本向けの人名に変えただけのものなのだ、と発表している。
なお、「万葉集と新羅郷歌」についてはいずれUPする予定です。
日本人の常識では、まったく判らなくなっていることは、十九世紀にフルトン蒸気船が究明される迄は、船は水中の潮流まかせで動かされ、勝手気儘に運行などはできえなかった事実である。
冬至は唐至 夏至は下至が正しい
それにしても伊呂波であるが、空海こと弘法大師という存在は、高野山歴史では、開祖として有難い色々な伝記をこしらえてしまっている。だが十九世紀に、フルトンの蒸気船が発明されて、
船が進みたい方向ヘエンジンの力を借りて動き出せるようになるまでは、日本列鳥に流れてくる海流は、親潮なのである。
それに太平洋岸へ、沖合三十キロを西南からシーベルトというか、水中エスカレーターのように早く流れてきて太平洋へ突き出て抜けていってしまう黒潮暖流がある。
それにフィリピン海溝と堺との問を流れている赤道潮流。四国と今のベトナムとを数日で結ぶ越南海流が日本列島の各所へ流れついたり通っているのである。
前侍従とか前中納言と無官にして江戸へこさせ、伝奏屋敷へ入れてから将軍が謁見して、今ではクダラ勢力が返り咲き八百万石だぞと、僅か三万石の田舎大名なみのトウ御所をクダラ徳川は散々に見下した。
さてここで、ややこしくなるのは、外題でさえ「いろは」とよび、親が「高野の弘法大師の作らせられた四十八字のイロハを教えてやろう」で始まるところの能狂言の一幕なのである。
現代では「幼いころからイロハを習い、イロハ忘れて色ばかり」と、駄洒落のめしているが、イロハはこんな軽いものではないのである。
最近、新羅古文研究家が、万葉仮名はそもそも新羅個有のもので、クダラ滅亡後も唐に抵抗して頑張ったが亡国となった。そして唐軍に勝利品として持ち去られたのが「新羅郷歌」四千五百首で、その唐語に訳され
た詩から、壬申の乱で殺した連中が、化けて出てきて、祟りをなしたら困ると挽歌として、ずらりと日本向けの人名に変えただけのものなのだ、と発表している。
なお、「万葉集と新羅郷歌」についてはいずれUPする予定です。
日本人の常識では、まったく判らなくなっていることは、十九世紀にフルトン蒸気船が究明される迄は、船は水中の潮流まかせで動かされ、勝手気儘に運行などはできえなかった事実である。
冬至は唐至 夏至は下至が正しい
それにしても伊呂波であるが、空海こと弘法大師という存在は、高野山歴史では、開祖として有難い色々な伝記をこしらえてしまっている。だが十九世紀に、フルトンの蒸気船が発明されて、
船が進みたい方向ヘエンジンの力を借りて動き出せるようになるまでは、日本列鳥に流れてくる海流は、親潮なのである。
それに太平洋岸へ、沖合三十キロを西南からシーベルトというか、水中エスカレーターのように早く流れてきて太平洋へ突き出て抜けていってしまう黒潮暖流がある。
それにフィリピン海溝と堺との問を流れている赤道潮流。四国と今のベトナムとを数日で結ぶ越南海流が日本列島の各所へ流れついたり通っているのである。
したがって、日本から大陸の唐へ流れてゆけるのは、今は冬至と書く唐至(唐に至る)で、毎年冬の東北風の時だけである。その反対に唐から、化物のような人間が住むと見下していた倭へこられるのは、
西南の潮流の夏と決まっているので「外至」と昔は書き、それが発音だけの変な当て字だが「夏至」と称する。夏を「げ」と発音するのは呉音にも漢音にもない。
つまり二年かかって、一往復しかできないのは潮流学では証明されている。
なのに空海が西暦八百四年の冬に入府し、西暦八百六年の秋に戻ってきたとされる。今でいえばトンボ返りである。
船待ちというか順風待ちを三十日以上とみて、広州海岸から長安の都までの往復も、それくらいかかるとみれば。延べ合計し差引けば、正味二十ヶ月とは滞在していない計算になる。
西南の潮流の夏と決まっているので「外至」と昔は書き、それが発音だけの変な当て字だが「夏至」と称する。夏を「げ」と発音するのは呉音にも漢音にもない。
つまり二年かかって、一往復しかできないのは潮流学では証明されている。
なのに空海が西暦八百四年の冬に入府し、西暦八百六年の秋に戻ってきたとされる。今でいえばトンボ返りである。
船待ちというか順風待ちを三十日以上とみて、広州海岸から長安の都までの往復も、それくらいかかるとみれば。延べ合計し差引けば、正味二十ヶ月とは滞在していない計算になる。
中国人で、向こうから鑑真和尚みたいに来だのなら納得できるが、短期間で唐語のヒヤリッグやスピーキングをマスターし、真言密教なるものを会得し、その二世紀後発生の、
契丹文字の伊呂波まで予知能力で覚えてこられるような奇跡が、はたして常識をもってして納得しうるだろうか。
この裏書は、森田誠吾氏の「伊呂波仮名」の考疑論文にもある。トウを藤と当て字し、御所勢力を握っていた藤原道長が人道した後で、唐が滅び、契丹(日本史では宋)が中国の支配者となってからの西暦十世紀末から、
十一世紀になって伝来したものと、日本の国学者達の研究もほぼ一致しているという。
日清戦役が避けられぬようになってきた明治二十二年の「言海」が、それまで唐制とはいえども、実際は政権交替後の契丹国の伊呂波四十七文字を、かなぐりすてアイウエオ五十音にし、
また大東亜戦争敗戦後、十年目の昭和三十年からはオカミの義務教育が、A、KA、SA、TA、NA、HA、MA、YA、RA、WAが「A」が基礎母音となる処の、十音にGHQ教育指導部が戻した。
よって今いう処のイロハかるたは、昭和二十年までの産物ということになるのである。もちろん十音の子音による五十音のアイウエオが何処から伝わってきたかは、一切これにふれぬことにされ、
さも昔から立派に存在していた日本国特有な自然発生のものと言語学者たちは恰好づけている。
よく言えば、愛国心の発露であり、悪くいえば彼らの頭脳では探究しえぬ難題だからだろう。
また大東亜戦争敗戦後、十年目の昭和三十年からはオカミの義務教育が、A、KA、SA、TA、NA、HA、MA、YA、RA、WAが「A」が基礎母音となる処の、十音にGHQ教育指導部が戻した。
よって今いう処のイロハかるたは、昭和二十年までの産物ということになるのである。もちろん十音の子音による五十音のアイウエオが何処から伝わってきたかは、一切これにふれぬことにされ、
さも昔から立派に存在していた日本国特有な自然発生のものと言語学者たちは恰好づけている。
よく言えば、愛国心の発露であり、悪くいえば彼らの頭脳では探究しえぬ難題だからだろう。
さて「イロハカルタ」について、現在の通説つまり官学派においては、これを二つに分ける。
だが、京都、中京(名古屋)、江戸の各三都説や、又は、京、大坂、江戸のご三都説に一般はする。
というのは西暦1824年の文政7年に尾張の小山駿亭によって「絵本以呂波戒」が、黄表紙本として木版化され残っているからして三都説の一にもなったのである。
といって、これは尾張サンカのものではない。彼らは文字を使用しないし、反体制のものが事前検閲出版の時代に、黄表紙といえど奉行から許される筈などはない。小山は儒教化したカルタを残しただけである。
が、ということは名古屋では、口から耳への独得のカルタ言葉が多くの人々に話されていて、小山の耳にも入り、この儘では御公儀に知れてはお咎めを食うと、教訓的な無難なものを版木にしたらしい。
今いうカムフラージュであった。圧政下に喘ぎ、紀州と江戸の双方の台所入り分まで押しつけられていて、搾取されていた名古屋人を、これ以上は苦しめぬようごまかしカルタだろう。
今いうカムフラージュであった。圧政下に喘ぎ、紀州と江戸の双方の台所入り分まで押しつけられていて、搾取されていた名古屋人を、これ以上は苦しめぬようごまかしカルタだろう。
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