幕末の京都となると、どうしても「新選組局長近藤勇」の幻影が浮ぶ。 勿論、実際の役者は岩倉具視であり、華々しく動き回ったのは河原町三条の長州 屋敷や、錦小路東洞院の薩州屋敷の面々である。
それに京都守護職であった黒谷の会津屋敷の者達だろうが、彼らがめいめいの衣服を 着ていたのに反し、近藤らは大丸製の、 「袖口を白く山形に染め抜いた浅黄麻」の羽織を制服として着用し、白抜きの「誠」の旗を立てて京洛の巷を馳駆した。
だから人目に付きやすく、文久三年から、元治、慶応四年に至る六年間の京都は 近藤勇らの一人舞台のような感さえ抱かしめたろう。 そして今の史観では、
「東山三十六峯草木も冥る丑満刻、突如轟き渡る剣戟の響き」程度だから、テロ 行為だけしか見ていないようだが、実際はそんな単純なものではなかった事を 指摘したい。 というのは、延暦十三年十月に、「平安京」として左右両京東西各四坊の規模を もって作られた京の町は幕末に至るも仏都であり、お寺のひしめく土地である。 なのに、そこへ乗り込んできた近藤勇らは「東えびす」と公家から蔑しめられた 地家の民なのである。
つまり、仏教伝来以前から住み着いていた原住民で、彼らは俗に、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と謳歌していた素性の者たちゆえ、京は大騒ぎに なった。 なにしろ御一新までは居住地選択の自由はなく、先祖代々決まった土地に住まって いた。
だから、その出身地で天孫民族の末裔か、はたまた原住系かは直ぐ判った ものだが、「勝太」の名で近藤勇が生まれたのは、今は東京都調布市になっている上石原である。この辺りは「武蔵風土記稿」によると、
「浅川にそって流れる大栗川の百草、関戸、日野、府中、上石原は除地なり」 と出ている。この名称は、寺の人別帖に(現在の戸籍)生まれた時から名を書きこま れ、年貢米の供出や助郷とよばれる労役の割り当てをされるような土地ではなかった 事になる。では何処の所管かというと、だんな寺に関係なく代官や名主の支配下でもなく、彼ら は江戸浅草新町弾左衛門の取締下で、「婚姻、貸借、就業、訴訟」一切の支配を弾家に委ね、人頭税にも似た頭銭を そちらへ納入していた。
そこで年貢や伝馬役を課す側からは「除地」という扱い になっていたのである。天正十四年三月九日付けで、 「日野惣郷並に立川東光院境より谷屋まで、竹木伐採の儀は勝手ならず停止」 といった古文書も残っているから古くは「ささら衆」とも呼ばれる弓矢作りの 限定居住区域だったものらしい。 江戸初期の地名は「かわた」となっているから、として製革業も営んでいた 模様で、この発音を聞き違えて、不具者が固まっていたように誤っているものもある。
後、近藤勇が弾左衛門家の協力により、「甲陽鎮撫隊」をつくって甲府へ攻め込み 大敗して引き上げて来たのを、この間の昔からの繋がりがこれまで解明されていな かった為、 「近藤勇ともあろう者が、窮余の一策とはいえなどと組んだのが失敗のもとだ った」と史家は説くが、先祖代々近藤勇の生家や彼の腹心井上弥三郎の家は 弾左衛門家支配である。
又、土方歳三にしても、その生地は、「日野の三沢より東光寺跡は泥地(ひじ)又は卑地と呼び、権現様入部頃の頭分は 土方弥八郎、ついで土方平左衛門となり弾家のなり」 といった地域で、その昔は土器を焼いていたヒジリとよぶ髪剃り法師が、その火で ついでに穏亡もかねていた。
だから、その名残の部族の末裔でもあろう。 江戸時代まで一般は土葬だったので、こうした弾家支配の火葬の仏は、普通の寺では扱ってくれず、いわゆる格のない投げ込み寺あたりでも、卒塔婆さえ許さず、「塚」とか「畜生墓」と呼んでいた。 これは寺側から言わせれば、弾家支配の者達の先祖は、西方極楽浄土の教えになじ まず、逆に寺へ襲撃してきた連中で、西暦七九一年に百済王俊哲を総司令官に、 朝鮮の二世坂上田村麿を道案内にした軍隊によって捕捉殲滅。
降伏した輩を、別所、、院地、外界、卑地と色々名称はあるが、各地の捕虜 収容所へ入れ、その境界の川には橋を架けさせず、閉じこめておいた者達の子孫 なのである。
つまり、仏法で説く外道の裔ゆえ人間扱いしなかったのだが、その仏教のメッカの京へ近藤勇らは文久三年に上洛したのである。さて近藤勇といえば壬生の屯所と思い勝ちだが、其処に居たのは僅か一年余である。 文久四年が元治元年になり、翌年が慶応元年だが、その正月早々に東寺は仏教の 洛中総本山の格だった羽振りの良い西本願寺を、近藤勇が占領するみたいに新選組 屯所にしてしまった事は「九条家記録」にもある。
この西本願寺へ壬生から屯所を移すのは、嫌がらせが露骨すぎるから新選組内部でも、副長の山南敬助が反対し聞き入れないので脱走したが、大津で捕まって 近藤に殺されている。 さて、西本願寺の寺侍西村兼文の書き残したものでは、彼らは本堂の前で槍や刀の 稽古のみならず鉄砲を放ち、時には拉致してきた者を斬って、その首級を青竹に さし本堂に向き合った御堂の前にさらしたので、参詣人はもとより近所の者も 迷惑した。
そこで以前の壬生屯所へ、西本願寺の浄財で建て増しをしたが移転せず、三年間 というもの西本願寺は彼らに荒らしにあらされた。 処が慶応三年も秋口から討幕派の勢力が段々強まってきて、西本願寺の新選組屯所が焼き討ちされると噂が広まったので、そんなことになっては御本堂も危ない というので、洛外不動堂村へ西本願寺が大きな営舎を建てた処、市中に居ては危険と悟ったか、ようやく十月十五日に引き払ってくれ、御門跡以下一同やっと 愁眉を開くことが出来た。
といった被害状況を詳しく誌している。
この為西本願寺は、やがて被害の軽かった東本願寺に明治に入ると勢力を奪われた。 勿論被害は東西本願寺だけでなく、花園の妙心寺から知恩院、洛中のあらゆる寺が 近藤勇らによって、届物を強要されたり金員の寄付を求められ、拒めば「探索」の 名目で真槍や鉄砲を持った隊士に踏み込まれ、家捜しの名目で納所から庫裡まで めちゃくちゃに荒らされ、仏具を売っていた店までが軒並み被害を受けている。 これに刺激されて尊攘浪士までが持統院へ押し込み、木像の首をはねたり乱暴を した。このため近藤勇が、京の人々へ及ぼした影響たるや、一世紀後の今日でも、 「公儀」という体制側に在っての傍若無人な振舞いが、余程恨み骨髄に徹した ものらしく、選挙票なども反体制票が多く、今や日本共産党の地盤になっている。「死せる近藤、生ける京都市民を反与党化す」と言うとオーバーかも知れないが 「斬り捨て御免」「荒し回るも勝手」 と、白い山形の浅黄羽織の制服で「鬼の新選組」とうたわれ、洛中を暴れ回った 行為によって、京の町々へ反権力的なものを植え付けてしまったのは事実らしい。
さて近藤勇は流山で捕らえられ、慶応四年四月四日、板橋の仮牢へ入牢、四月 二十五日、平尾一里塚で斬首されたが、翌月八日に京三条河原に運ばれ、 「この者凶悪の罪これある処、甲州勝沼武州流山において官軍へ敵対候条は大逆につき、さらし首にするものなり」と立札がでて、その首級が曝された。 このため、「深雪」と言う名の京都七条醒ガ井木津屋橋下ル興正寺下屋敷に囲われて いた女とその妹で「お孝」と呼ぶ近藤との間に子供のあった二人の女は、町の者に 捕まって髪を切られた。
そこでやはり近藤勇の妾だった京三本木の芸妓駒野が 仰天し、辻講釈師に銭を与え、「近藤勇美談」のようなものを語らせた処、檄昴 した京の町民に袋叩きにされたという。 旧幕臣の出していた中外新聞などは、近藤へ同情的な追悼文も出ているが、京では 散々で、のち尾上松之助の映画で近藤をだす時は「大谷鬼若」という悪役専門が 扮しないことには、京ではおさまらなかったと伝わる。
さて、近藤勇が東国から京へ行くことになった文久三年の浪人組上洛の経緯は、 案外に知られていない。統率していった浪人奉行の「鵜殿鳩翁」を「鳩翁道話」の 柴田鳩翁と間違えている向きもあるが、この人は「鵜殿勘三郎民部小輔」といって 水戸の支藩宍戸一万石松平大炊頭の伯父に当たり、安政の大獄の時、「水戸一味」とみなされ、当時駿河町奉行の職にあったが公職追放で小普請入りと なりそのときから、鳩翁を名乗った二千五百石のお旗本である。 その知行所が茨城県の当時水戸斉昭によって振興された私学校の一つである、 那珂湊文武館の近くにあったため、そこの塾生平間重助などが鵜殿邸の用心棒兼 用人をしていた。
さて水戸斉昭へ攘夷の密勅が下り、これを公儀に返還せよとの台命が出て、それを 阻止しようとする過激派が水戸長岡へ結集した際、 文武館の武術師範方木村三穂之助の弟で継次という者が、水戸の徒目付国友忠之介を傷つけ倒した。 この男は郡奉行組下の関鉄之助らと共に、万延元年三月三日に井伊大老を襲撃する 手筈になっていたが、遅れて間に合わず平間重助を頼って鵜殿邸へ逃げ込み、 生まれ在所の芹沢を姓に、鴨打ちで有名だった土地からとってその後は、 「芹沢鴨」を名乗った。
この男のことを「新選組史録」とよぶ二十余年かけたという その労作の中で、平尾道雄氏は「天狗党くずれ」と彼のことを説明するが、 芹沢の殺されたのは文久三年九月で、天狗党は翌元治元年六月に挙兵されたもので ある。 何故こんな間違いが起きたかというと、土方歳三指揮の元に山南啓助と原田佐之助が芹沢らを襲った際、平間重助は縁下に 潜り込んで助かり、芹沢の死骸から髪毛と、その所持していた「尽忠報国」と 彫られた鉄扇を、那珂湊へ持ち帰って翌年秋の天狗党田中源蔵隊に参加して旗印に用いたからである。
さて、木村継次こと芹沢鴨が、当時の水戸人青少年の衆望を担っていたのに目を つけ、「京師を制する者は天下に覇す」的な発想のもとに、京へ水戸の別動隊を 送り込もうとしたのが、後徳川慶喜の懐刀となって有名な原忠之進である。策士の彼は大場一真斎らと共に計画を立て、十四代将軍家茂警護先駆役にと浪人組 募集が始まるや、芹沢の副に、錦山の号を持つ新見錦らをあて、全体の浪人奉行に 鵜殿をもってしたのである。
処が、そうした水戸派の動きを承知の上で、京へ着いてしまえば此方のものと 策を練ったのに「北辰一刀流」のグループがあった。 この当時、千葉周作は亡くなり、その三男道三郎の代で井上八郎や庄司弁吉、 森要蔵が門下を仕込んでいた。
その四天王の一人である海保帆平が、水戸弘道館師範方に招かれていたから、水戸 との横の連絡はあったのである。 この派は、井上八郎の愛弟子の山岡鉄太郎、その義妹の夫になる石坂周造。 そして「幕末の剣聖」と呼ばれた松岡萬。それに村上俊五郎、菱山佐太郎、その 繋がりで山本仙之助ことヤクザの祐天仙之助の一党。 そして、お玉ガ池千葉道場では山岡の兄弟子に当たる斉藤元司こと清川八郎の 与党がいた。
さてこれに対して、一旗組ともいうグループの中に、牛込試誠館の近藤勇らは居た のである。 従来これを誤って試衛館と書くが、衛ではなく誠であるらしい。後呉服店大丸で 染めさせた羽織や旗も「誠」の字だが、市ヶ谷柳町上高麗屋敷から移った牛込 二十騎町道場跡は、維新の際に揚場町升本酒店の所有となっているが、その土地 元帳には、はっきりと「旧試誠館あと」と、前中大総長升本喜兵衛氏の曾祖父の 手で書き込まれている。
さて近藤勇の天然理心流の外、幕末になって関東平野に勃興した新流は秋山要介の 扶桑念流、戸ガ崎熊太郎の神道無念流、寺田五右エ門の天真一刀流の他、 鏡新明智流、甲源一刀流、神道一心流、柳剛流と枚挙にいとまがない程続出した。 何故諸流がこんなに雨後の筍のごとく次々と勃興したかというと、黒船騒ぎで 世情が不穏化した為であり、今日的な見方をすれば物価高による浮浪人口の増加に 伴い、野良荒らしなどの被害を蒙る農家の自衛手段。
つまり村の自警団訓練用といった需要が、しきりと起きた為らしい。
つまり農家の三男に生まれ、饅頭売りをしていた近藤勇が刀術を習いだしたのも、「身に技術さえ付けておけば、刀使いという職を手につけておけば、饅頭売りより儲かるだろう」といった金稼ぎの為だったらしい。 さて刀術というのは生来の運動神経によるもので、いくら鍛錬したからといって、 機敏になれるものではない。音痴が歌手になれぬと一緒で不器用なのはプロに 向かない。処が近藤は反射神経に恵まれていた。
そこで師匠の近藤周助が、これは筋がよい見込みがあると養子にしたのである。 この儘でいったら近藤も、日野から八王子在の百姓の倅を弟子にして、おおいに 月謝稼ぎが出来たろうがそうはいかなくなった。 「百姓共が武芸を相集まって稽古するのは禁。武芸師範をする輩など村方へおく まじく」と、 関八州取締役から通達が出された。これは百姓一揆や強訴が各地に広まって暴徒化 してくるにつれ、取締まりが厳しくなった。為に近藤周助も居られなくなって勇を 連れて嘉永二年に江戸へ出てきた。 しかし関東各地の刀術使いが、追われるように江戸へ集まってきたのでは、いくら 麗々しい看板を掲げても田舎のように人は集まらない。
嘉永から安政、万延、文久と年が代わり近藤勇も十五歳から二十九歳になったが、 肥えたご刀法の名もない小道場へ弟子入りして来る者はいない。 この年、妻つねが玉と名づける女児を産み、近藤勇は一児の父となったが、かえって 生計は苦しくなる一方だった。牛込柳町を店賃滞納で追い出され、牛込二十騎町へ移っていたが、ろくな門人は 居らず、食い詰め者の居候だけがごろごろしていた。 というのも家計上では辛いが、商売柄景気良くぽんぽん打ち合いの音がしていない ことには恰好がつかないからである。 さて、文久三年の正月。 食客の内で、お玉が池千葉道場に居たことのある山南敬介と藤堂平助の両名が「耳寄りの話しがある。ご公儀で浪人の募集をなさるそうだ」と知らせに来た。 ごろごろしている土方歳三や井上源三郎らを、食わせずに済むだけでも助かると 喜び、近藤勇はすぐさま応募を決意した。
そして、この牛込二十騎町の道場を後には送金で買い求められるようになるなど とは知りようもないから、近藤らは家主に見つからぬよう、二月七日の夜明けに 早々と出て小石川伝通院へ集まり、翌八日に木曽路を通って京へ向かった。
この時博徒の祐天仙之助でさえ、子分を伴って参加したからと、「五番隊長山本仙之助」と役付になったのに、土方、沖田、井上、藤堂、山南、原田 永倉を率いていった近藤勇が、「六番隊村上俊五郎」の平隊士にしかなれなかった 事は、当時彼らの道場が有名でなかったのと、伴った七名が門下生ではなく、食客 だったにすぎなかったからだろう。 「加越闘争記」によれば、戦国時代の加賀越前の武者が一向宗の道場に対し、「それ仏法は武士の仇敵なり」と弾圧策をとった事が詳細に出ているが、幕末の 近藤らもそれと同じ事を京洛で繰り返したにすぎないのが、これまで明らかにされな かったので「殺人鬼」とだけ見て蛇蝎視する傾向がある。
が近藤のオルグ的役割と、集団制服化への着目はおおいに認められるべきだろう。 芝居の忠臣蔵の討入りの衣装は絵空事だし、真田幸村の赤槍赤旗も全員ではない。 なのに空前絶後の総員これ白山形のだんだら羽織で集団隊形をとったということはいかに新選組を有名にしたか計り知れない。 なのにそうした点を問題にせず、ひいきの引たおしというか近藤を立役者にする為 殺された芹沢鴨を好色の大酒豪でジフリス患者とまでしてしまう。が、実際は、 「二月二十三日に上洛するとその翌日、清川八郎一味が御所へ建白書を提出」 と言う事態になって浪人奉行鵜殿が驚き、
「不逞浪士は直ぐ追い帰すが、折角伴ってきた者を皆戻すのは惜しい」と、 水戸上屋敷へ芹沢を呼んで山口徳之進が立ち会いを命じたのが発端である。 そこで芹沢ら水戸人の宿舎であった八木源之丞宅へ、近藤らが移され、ここで合体 のような恰好で居残りとなったのである。
しかし三月十一日に浪人組の引き上げが早くなったので、結局残ったのは水戸派と 近藤らの計十五名だけだった。 むろんこの時、鵜殿鳩翁もたとえ何人かでも多く留めようと、殿内義雄と家里次郎 に対し、 「京都にまかりありたき旨申し候者は、京守護職会津家へ引渡し、同家差配に随う よう取り計らってやる」と表面を糊塗した通達をして、二十四名まで居残りの者を 増やしたが、行方不明になる者が続出し、ぎりぎり近藤ら十三名に止まった。 もとより近藤にしろ心許なく感じたろうが、食客をぞろぞろ連れ戻っては赤児を 抱えた妻が苦労しようというので、そこは堪えて踏み止まったのだろう。
さてその内人数も増え「新選組」の名も出来、 局長、芹沢鴨、新見錦、近藤勇、 副長、山南敬助、土方歳三 と編成も出来た。そして新選組は、
「昼間は仙洞御所正門」「夜間は禁裏御所南門」の警護という役目をいいつかった。 近藤勇のような百姓の倅が、恐れ多くも一天万乗の君のおわす、御所や仙洞御所の 警備に任ぜられたのは望外の感激だったろう。 そこで近藤勇は小具足に烏帽子姿で「誠忠」の二文字を書き込ませた騎馬提灯を 部下に持たせて御所警護に当たった。 だからこのままでゆけば、近藤にも芹沢にも良かったろうが、突如政変が起きた。 薩摩の陰謀のため、長州が堺町御門警備の任を解かれ、三条実美以下七卿が失脚して都落ちしたという八・一八事件である。 秘かに長州と通じていた水戸京屋敷は、災いが及ぶのを恐れた。
そこで山口徳之進や大場一真斎は、世子を擁して江戸へ引き上げてしまった。 こうなると困ったのは、そちらからの水の手を断たれた芹沢や新見たちである。 また黒谷の会津屋敷の方でも、
「当守護職差配下でありながら、秘かに水戸の紐付きでは扱いに不便であったが、 この際何とか粛正できぬものか」と、 会津の家老西郷十郎右エ門が人を介して秘かに打診してきた。土方は(会津の言うなりに水戸派を整理した後、自分らの待遇はどうなるのか)と、 そこの処を心配したので、直接に西郷に会って糺した。 すると向こうの意向は、江戸へ戻った浪人組が改めて「新徴組」の名前で江戸市中 取締酒井左エ門尉お預けとなって、それぞれ新規御取立の扶持米が出ている。 だから京においても(新徴組同様の扱いをするため、その名も新選組と同じように つけられたのだ)といった話しの内容だった。そこで土方歳三は、
「天下晴れて将軍のおじきの身分になれるならこれに越した名誉はない」と近藤を 納得させようとした。 しかしこれまでの俗説と違って近藤は芹沢と仲がよかった。 土方は丁稚あがりだからすぐに算盤をはじき、利得で物事を割り切ろうとするが、 近藤には青年客気の感慨があった。
この時代の風潮である外夷討ち払いの理想を、芹沢から吹き込まれ共鳴していた。 そこで「芹沢さんを殺すことはない。わしから話し水戸へ引き上げて貰う」 と言いだした。しかし土方はそれに対し、
「これまでの雑用一切を芹沢らに頼ってきたのを、恩にきとられるが、あれは水戸 京屋敷より出た金。遠慮することはない」と、 冷ややかに微笑み、話しをそのままに押し切ってしまった。
この結果が、文久三年九月十八日夜の芹沢鴨暗殺となり、前述したように平間重助は逃亡したが、平山五郎は同夜、田中伊織、野口健司らの水戸人もそれぞれ次々と 粛正された。 しかし近藤は、彼らを整理することによって、新選組が東の新徴組と同じように 扶持を貰う身分になることを、男として潔しとしなかったのであろう。 十月十五日付けで、
「禄位など下し於かれるというは有難き仕合わせと申しながら、そのため報国の 志士共が恐れながら万一にも御処置に、甘えてしまうようなことがあっては どうかと心配します」と、新徴組の名をひいて禄位を賜ることを、守護職松平容保に上書を出し断っている。
この時の天皇は孝明帝で、松平容保を「二なき者よ」と仰せられた程の親幕府派で 公武合体主義であったから、近藤勇にすれば、徳川家に尽くすことは天朝さまに 御奉公することであり、それが報国の志士の本分だと、己らの行動に自信を 持てたのである。
しかしこの時点で、近藤のように日野で生まれ牛込の町道場へ養子に入った者には (先祖伝来扶持を貰っている殿とか、その領国といった観念)がなかったから、 今日的感覚で、日本列島全体を一つの「国」として見ていたのであるが、 藩ごとが国であった一般的な当時の見方と違っていた。
此処に近藤勇の悲劇があり維新史の解明も食い違う。たとえば芹沢鴨の説く、「尽忠報国」の国の意味は、日本全体を指すのではなく、常陸国だけなのである。 これは松下村塾で吉田松陰が教えていた「毛利家御家誠」の中に出てくる国が、 毛利家の領国だけを指し「葉隠」に書かれている国とは、鍋島家の佐賀一国だけの ことしか云っていないのと同じである。
つまり近藤勇の愛国精神は日本全体であり徳川家への忠誠、天朝さまへの御奉公が 一つに融け合ったものだったから、慶応二年十二月二十五日に孝明帝が御崩御、 翌年正月に十六歳の新帝が即位され、側近に薩摩の手が張りめぐらされてしまうと、 もはや近藤勇の「国」という観念は幻想になってしまう。
孝明帝の御信任あつかった会津の松平容保と共に、この変革の時代について行けなく なった近藤は、十二月十六日に狙撃され、翌年正月の鳥羽伏見合戦にも加われず、 十五日に江戸へ戻ってくると和泉橋医学所へ収容されたものの、二月に動けるようになると、
「先の帝の大御心こそ、わが命なり」と、 王政復古の大令も一つの政変と見て「若き新帝を擁した薩長の謀反」と、近藤勇はこれに敢然として立ち向かおうとしたのである。
だから弾左衛門家から軍用金や兵員を集め、生き残りの新選組隊士を率い、近藤は「甲陽鎮撫隊」の旗を甲州路へ向けるが、一日違いで甲府城はとられた後で 勝沼で敗走。やがて下総流山へ落ちたが四月三日には、征討軍に包囲され、 単身近藤は越谷へ出頭し、板橋の官軍本営で斬首された。 のち、西南の役で名高い谷干城は、
「頑然、首をさしのべ来る。古狸巧みに人を化かし最后には、白昼のこのこ現れて 捕らえられ笑い者にされるというが、名高き近藤勇ともあろう者が、寸鉄をも 帯せずして縛られたというのは、まさしく命運つきた狐狸と同じたぐいであろうか」 といっている。 だが、男とは、いよいよという土壇場には、喩え何と罵られようと、こうした潔い 最期を遂げるべきではなかろうか。
なお、新選組初代局長「芹沢鴨」については次回に掲載予定。
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