現代でこそパンツ全盛で、ふんどしは祭りの時か相撲取り位しかしていない。しかし褌というのは文字通り衣辺に軍(いくさ)と書くようにあれは軍用布である。 ここでは、この褌について考察してみたい。 日本は定期的に歴史ブームだとか言って、沢山の歴史本が出版されている。以前NHKでは「真田丸」が放映され、大変な人気だったという。 しかし、ああいう講談を歴史物として放映する方も問題だが、それを信じて喜んで観ている視聴者のレベルの低さにも辟易する。
はたしてこういう種類の物は、そのままみな、鵜呑みに信じてよいかとなると、どうも眉唾ものもで著者の肩書きだけが信用されて通っているようなものまである。 なにしろこの国の歴史畑というのは(先生とその弟子)の系列が明瞭ではっきりと学閥もある。 だから(先輩旧恩師の反対や新学説を発表)したものなら、後進者たるや自分の墓穴を掘るに等しく、よく調べた結果が先輩恩師の所論と違ってくると、これは発表などできはしない。 何故かなれば出世が出来なくなるからである。自分の前途が塞がってしまう。 それに取り扱う対象は「死人に口なし」の歴史上の人物である。だから、出鱈目を書いたところで、信長や秀吉が化けて出てくる心配は無い。ゆえに、賢明でおりこうさんは、事実や真相がどうであれ「口のある先輩恩師やお役人」を気にして異説は絶対に立てないのである。 同じことを繰返し、ただ無難に立身のみを心掛けるのである。デカルトは、 「我思い、我疑うゆえに我あり」と言った。 しかし日本という国は、歴史とは暗記するもので、知恵不要の学問でしかない。 つまり考えたり疑ってはいけない学問なのである。 そして教える儘に棒暗記させるものと教育している。
さて、これがヨーロッパ辺りだと、仮にドイツの国史が間違っていたとしても、隣国のフランスベルギー、オーストリア各国の歴史と対照すると、誤魔化してもすぐに化けの皮がはげる。 処が日本列島は四海に遮断されている。隣接国家があってもそれはせいぜい古代中国の<魏志倭人伝>や<邪馬台国の女王にして卑弥呼>ぐらいしか対照資料が無い。 ただ戦国時代の後半になって、イゼズス派のパードレが、マカオから日本に渡航し、天正十二年の本能寺の変の後は、サンフランシスコ派がマニラからきていて、その見聞録や報告書が残っているにすぎない。 マカオ政府図書館だけでも約五千点の<日本史料>がある。
これはポルトガル語の華文字で残る日本史と、日本語で現在書店に並んでいる歴史本と違うのは、パードレは歴史屋ではなく自分で書いているし、日本の物は皆他からの引き写しであるせいらしい。 (注)パードレ達は本国の王様や教会がスポンサーで日本に来ているわけで、とても嘘や出鱈目を書いて本国に送る筈は無く、こうした意味からも信頼性は高い。
太古の日本は女人王国だった
さて、社寺に伝承されている古い文献を次々と読み漁って調べていくと、まず日本は単一民族とされている大和民族だが、その実はまず原住系と、先住系の二種類にはっきり二分され、先住民族は女尊男卑族だったらしい。 そして女の髪の長きをもって、その象徴となし尊い人を「カミ」と敬い「オカミ」とも言ったようである。 勿論戦うための部隊も、彼女達が率いていた。 よって今でも「女将」と書いてこれを「オカミ」と発音する習慣が現存する。
推定西暦781年。この女が強い女人国へ、大陸から(カミの女)に対する(カミ無しの男)つまりボンズ(坊主)と称する宣教師を先頭にした部族が、徹底的に武装して押しかけてきた。 かれらは女人を裸にして奴隷市場に売る中近東やシルクロードの者達で、女の足を纏足(テンソク)させたり、一夫多妻を誇る、これ即ち男尊女卑民族(これは騎馬民族系)だった。
これまでも大陸からは流れ者が日本列島へ来ていたが、「郷に入っては郷に従え」と神は女神だったし、帝でさえも女の時代で、彼らはその習慣に従っていた。 それが大陸から武力の後援を受けるとたとまち彼らは一致団結した。 日本列島を次々と気候の温暖な地区を占領し、女人王朝を寒冷な東北へ追いやった。 だがこの時代の日本女性は勇敢だった。 二年経った夏。捲土重来の勢いを持って進軍してきた。 かのシャルル太子のために蹶起したオルレアンの少女は、ジャンヌ・ダルク一人だったが、日本女性は一人残らず武器を持って最前線に挺身した。よって堪りかねた外来政権は、山背国の天嶮の地である長岡の山中へ非難した。 渤海国より救援軍事物資を運んできた船舶も彼女達によって拿捕された。
そこで西暦788年。 外資導入した仏教勢力は延暦寺を建て、援助資材によって兵を武装させ、紀古佐美を征東将総督に任じた。 古佐美は、「女軍コワシ、ワレ立タズ」と謝絶した。 だが、この年十二月七日、また呼び出されて、帝から節刀と勅を賜た。 翌春、兵五万を率いて大進軍をした。しかし六月三日、戦況を奏し、 「敵の頑強ナルコト」を、しきりに訴える。 七月十七日、帝から「シッカリセヨ」の激励を賜る。 八月、奥州平泉にて大会戦。「壮士五万征きて還らず」と、大敗の様子が書かれている。 九月八日、紀古佐美は戻りて曰く、「敗軍の将兵を語らず」と節刀を帝に返還する。 九月十五日、「敗軍の責任ニテ罰スベキナレド、ソノ惨状アワレニツキ、特ニ赦サレル」とある。
よって、西暦791年1月18日。
百済王俊哲が軍司令官とし、朝鮮系の坂上田村麻呂を通訳兼道案内として東海道から総攻撃をする。 (但し、敵の女軍イマダ首ヲトル習慣ナキヲ以ッテ、別個ノ物ヲ切断スル。ヨッテ防衛ノ為ニ、軍用ノ布ヲ配リ保護ス。コレヲ衣篇に軍ト作字スルナリ)といった戦いであった。
山の神
つまり、大陸系の軍隊に立ち向かった原住民系の女部隊が、捕らえたり、殺した大陸部隊の兵達の首を取らずに、男の一物を斬り取ったというので、それまではフリチンだった兵達は、急ぎ男の急所を布で防御したという、これは恐怖感からくる報告書なのである。 だから日本最初の和製漢字が 「褌」としてここに現れてくる。
さて、いくら純日本女性が勇壮であっても、結果的には大陸の物量作戦には敗れ去った。 進駐軍は、彼女達を捕らえ山間の捕虜収容所へ入れた。 女は男供を従えて、山へ移住した。 このことが後年の「山のカミ」の語源になるのである。
これが後年戦国時代になると、山から下りてきた女どもが、東北系ゆえ「北の方」と呼ばれて威張っていたのもこの伝統である。 なにしろ彼女たちは男に貢がせると、昔もその収入を丸ごと供えさた。 だから男たちは金が無く、他の女とセックスも出来ず、好きな酒も飲めずだったから、アル中や梅毒にもなることを免れ、子孫は増えに増え、繁栄して現代でも全国民の大半を占めている。 まことに、神と仰ぐにたるものが純日本女性の「オカミサン」なのである。
さて、ここからは余談になるが、 今でこそ、男も女も皆パンツをはいている。そして昔は男は褌を常時着用していたと想われている。 そして先述したように褌は軍用布である。 云うなれば、インドネシアの内戦時代、女子共産党員が、スカルノ派の将軍達を片っ端から捕らえ井戸へ放り込んだ時、男の一物をみんなチョン切ってしまった事件は有名だが、日本の女武者も戦国時代までは盛んにやっていたらしい。だから男はその被害を避けるため、貞操帯というより、防護帯として締めていたから、これを「下帯」という程である。
ヤクザの褌
今では誤って理解されているが、やくざが喧嘩出入りに行く時に、 「真新しい晒を六尺に切って下帯にし・・・・」というのも、なにもこれまでのが黄色くなっているから、取り替えるというのではない。普段していないからこそ締めていくのである。 明治初期の悟道軒円玉の講談に、 「この野朗ッ、褌なんかしめてきゃあがって喧嘩支度か」というくだりがある。 つまりやくざが仁義を切るときに股を開くのも、 (決して他意はありません)と、倅(一物)にも挨拶させる為のものだった。 が、大工とか鳶、ガエンの火消しといった高所へ登る職人は、一つ足を踏み外せば命がないから、 そこで万一の時のいわば「死に装束」に褌をしめたが、これは両掛けといって、腹巻から吊る仕掛けになっていた。それでも用心して高所作業の職方は、もしもの時でも露出しないように、 きっちり肉に食い込みそうな、今で言えば細身のズボンをはいたものだが、一般には、普段はしていなかったものなのである。 大正期に入っても士族というのは冬はネルの腰巻で、夏は浴衣みたいな布を巻いていた。 つまり、弓の弦と同じで、いざという時だけに張ってしめ、後は解放して置かないと、何しろ日本は湿気の多い土地柄だから、いつもきちんと包んでおいては、インキンタムシに、昔はなったせいだろう。 勿論衛生上も風通しを良くしておいた方がもちがよく、 「山岡鉄舟は、いつもニギリキンタマで話をしていた」という有名な逸話があるが、 これはなにも無作法だというのではない。 常在戦場の心構えで、治にいて乱を忘れずと、むすこをしごき鍛錬していたのである。 いくら昔でも、開ければ女はオープンで、男だけがキッチリ包むといった男女不平等の話は無い。 ヨーロッパても南欧系の男は今でもノーパンで、ワイシャツの端でカバーしているだけだから、よく冷えていて直ぐ役立つが、イタリアにしろ、スペインにしろ、食前食後といった男も多い。 日本で云う駆けつけ三杯のくちである。
一方の女の場合も、同様で、洋装が定着する第二次大戦で敗北するまでノーパン時代は続いていた。
昭和十二年、東京の老舗デパート白木屋が火事になった。 当時の女性たちの一般的な服装は、着物姿でノーパンであった。着物では下着はつけないのが普通であり、当時下着に相当するものとして女性たちは腰巻と呼ばれるものをつけていた。
建物は七階建てで、店員や客の女達はロープや、その場で作った命綱を使って上から降りて来たが、 風が吹くと着物がめくれ上がって、何もつけていない下半身があらわになってしまう。
何とか2階3階まで降りて来ても、下には多くの野次馬たちがいた。下には救助ネットがあり飛び降りようとしても 野次馬たちは全員が上を見上げており、 そこへ風が吹くと、とっさに女性たちは着物の裾(すそ)や股(また)の部分を片手で押さえてしまった。 その瞬間、残った片手では体重を支えられなくなり、地上に転落した女性が何人もいたという悲惨な事件も在ったのである。
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