新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

豊臣秀吉の直参衆 赤母衣武者 黄母衣武者

2019-05-04 11:57:08 | 古代から現代史まで

豊臣秀吉の直参衆

赤母衣武者

豊臣秀吉の子飼いとも、恩顧とも謂われる大名に、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、浅野幸長、山内一豊、小西行長らは有名である。 しかし秀吉の死後、徳川家康に寝返ったり日和見した大名も多い。そして最後まで、豊家に忠義を尽くし、秀頼、淀君を守り、信義に殉じた、石田三成や蒲生氏郷らも有名である。 しかし大名にはなれず、秀吉直参の旗本で、馬廻りの武士達も、歴史の表舞台には登場しないが、多く居たのも事実である。 彼らは、戦国最後の大戦、大阪落城後、商人になったり、小西行長の残党と共に島原の乱に参戦して生涯を閉じたり、 「狭い日本にゃ住み飽きた」とばかり、日本を棄て、タイやカンボジア、ベトナム方面へ勇躍渡海し、山田長政の家人として、日本武士の勇敢さを発揮し、南冥のかの地に骨を埋めた者も多い。ここでは天正から文禄、慶長年間の彼らの動静についての紹介をしてみたい。

 
(注)黄母衣衆(きぼろしゅう)とは、豊臣秀吉は何でも織田信長の真似をしたが、これもその一つで、秀吉直属の軍団の馬廻から選抜した武者で、黄色の母衣指物の着用を許された者。織田信長が近習の使番から精鋭として黒母衣衆と赤母衣衆を選んだことに倣ったものである。 現在で云えば、軍団司令部の高級参謀にも当り、大将の命令を配下の各軍団に通達する役目も負っていた。 そして、彼らの扶持は百石から千石位が多かったようである。 (余談になるが、信長は参謀教育ともいうべき、幼年の小姓たちを集め、常に己の側近くにおいていた。それは、通信制度の無かった当時、戦場で判断に迷った際、「信長様なら、ここはどうされるだろう」と、一々本陣に判断を仰いでいては戦機を逸してしまう。そのため常に信長の身近で彼の考え方や戦法を身に付けるため訓練をしていたのである。信長が爆殺された本能寺で共に死んだ小姓たちで、森蘭丸、大塚又一郎、落合小八郎、小川愛平らが居る。この時すでに美濃金山城五万石城主になっていた森蘭丸は別にしても、信長が生きていれば、他の小姓も一軍の将になった者も出ただろう。)
 
八島久兵衛 秀吉馬廻。天正十九年正月、増田長盛らと、近江を検地している。(坂田郡志)
矢島増行 秀吉馬廻天正十八年二月、伊達政宗に、北条攻めの為、小田原参陣を勧告に出向いている(伊達家文書) 朝鮮役の際、森島宗意と共に、軍馬調達の命を受けている。(本法寺文書)
矢田半右衛門 秀吉馬廻。慶長三年正月、朝鮮の役で蔚山に出兵していた浅野幸長に書を送り、戦の労を慰問している(浅野家文書)
矢野久三郎 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
矢野九郎二郎 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
矢野源六郎 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
矢野定満 秀吉馬廻り。天正十七年十二月、京祇園舎の検地奉行をしている。(清水寺文書)
矢野下野守 秀吉馬廻り。森島宗意らと、朝鮮役の為の軍馬徴発の命を受けた。(本法寺文書)
矢野十左衛門 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
矢野兵衛 秀吉馬廻り。天正十六年二月、諸大夫になった。(御湯殿上日記)
安井次右衛門 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
藪田伊賀守 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山内善助 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山口籐左衛門 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山田家元 秀吉馬廻り。天正十四年頃、近江で奉行をしていた。(御上神社文書)
山田喜左衛門 秀吉馬廻り。越前の内に所領があり、天正十五年九州の役に従軍(当代記)。十六年四月、京方広寺大仏殿の工事を分担し、 十八年小田原征伐に従軍(伊達家文書)
山田喜三郎 秀吉馬廻り。慶長四年八月頃、近江愛智郡吉田村の内、五十石を領していた。(毛利家文書)
山田喜四郎 秀吉馬廻り。慶長九年八月十五日、豊国臨時大祭の時の奉行の一人。(豊国大明神臨時祭日記)
山田久三郎 秀吉馬廻りで、金切裂指物使番に選ばれている。(武家事紀) 使番衆・馬廻衆の中から豊臣秀吉が特に選抜して取り立てた者で、金地の指物(旗指物)の幟の端を切り裂いて風になびきやすくした「金の切裂の指物」を授けられた家臣。指物は幟状の旗であったと思われるが、鎧の背などに付けたり、指物持の従者に持たせたりした。一部の新参衆を除いて豊臣氏の譜代家臣で、数名は大名にまでなっている。武家事紀には全部で三十二人の名が書かれている。
山田金助 秀吉馬廻り。朝鮮の役の時、森島宗意と軍馬徴発の命を受けた。
山田太左衛門 秀吉馬廻り。天正十八年八月常陸牛久城接収の時の奉行で、ここは由良国繁の居城だった。(由良家由緒書)
山田忠左衛門 秀吉馬廻り。秀吉の死後、慶長四年八月七日、近江愛智郡吉田村の内から山田喜三郎の旧領を加増され、合わせて二百石となる。(毛利家文書)
山田半三郎 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山田平兵衛 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山田又右衛門 秀吉馬廻り。文禄二年九月二十九日所領を半減された。その訳は大和中納言秀保の銀子を他人に与えたという罰。(駒井日記)
山本太郎右衛門 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山羽虎蔵 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山中又左衛門 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山中五郎作 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山名勝七 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
山名市十郎 秀吉馬廻り。文禄元年朝鮮の役に、肥前名護屋城に駐屯。
ここでは、アカサタナハマヤラワ横列の中で特に「ヤ」姓が多いのに注目して、抜き出してみた。 勿論「ア」行にも次のような者達も居る。 愛宅源八郎、阿部仙三郎、安見新五郎、安見甚七、青山雲宅、青山新八郎、青山助六、赤座三右衛門、赤座籐八郎、赤座弥六郎、赤部長助 赤松伊豆守、赤松次郎太郎、麻生甚吉、跡部佐左衛門、尼子三郎左衛門、荒川助八郎、荒川銀右衛門、
秀吉は信長の家来時代、木下藤吉郎を名乗っていたが、信長と同様「自分は海洋渡来民族で八の部族出身だ」と旗指物に○に八の字を描いて、戦場を駆け回っていた。(これが現在「郷土が生んだ英雄」にあやかって、名古屋市の市章にもなっている) この、あかさたな横列の民族は、前記のように海洋渡来民族で、中でもこの「や」姓は特に勇敢な部族で戦場では秀吉の為に良く働いたものと想われる。  
 
 引用参考文献「戦国人名事典」高柳光寿著作。

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