新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本史解説 考察 江戸の旗本奴  何故白衣を着るのか  旗本奴 水野十郎左衛門

2021-10-22 11:51:53 | 新日本意外史 古代から現代まで


 日本に伝わる史料の内、信長秀吉関係は、「誰が何のために筆写したり版本にして、ひろめ伝えたか」
 と、その目的意識をさぐると、どうも茶湯をはやらせその蔭の儲けようという道具屋さんが、カタログ用にと意企し年代を古くみせて配布したものが多いようである。
 なにしろ猫の飯くい茶碗でも、もっともらしく、「松影の井戸碗」などと名をつければ、「名物」として莫大な金になったから、歴史の先生にいろいろ加筆挿入させたのだろう。
「信長公記」あたりでさえ、信長が妹婿の浅井長政に背後をつかれ、死にものぐるいで逃げかえってきた時点あたりにおいても、「信長名物狩りなされ候て、かくかく、しかじか」とずらりと名称を列記し、「天下
の名物みな集めて」などと、ぬけぬけとかいている。
これで相当にスポンサーの道具屋は儲けたろうが、困るのは後世の私どもである。「歴史は茶碗で作られる」では、堪らないからである。
現在、人気番組で「開運・何でも鑑定団」があり、数多く桃山時代や利休や信長愛用の茶碗が出る。
怪しげな鑑定士によって何十万円と途方もない値がつけられている。
地震大国の日本で、400年も昔の土器が現存している事自体が怪しいのに、これに尤もらしい「箱書き」が在れば更に高額にもなってしまう。
こういう現象は日本独特の金儲け文化といえよう。
 
考察 江戸の旗本奴
 
本当に歴史好きだった考証家の田村栄太郎さん、そして掛けがえのない日本歴史学会会長高柳光寿博士のお二人は今は鬼籍に入られて久しい。
本当に惜しい碩学が亡くなられて残念である。
戦国期の研究に一生を捧げ、「真実とは何か」とあくまでも追求された先生の死は、日本歴史の正しい解明も、これで終りになるのではあるまいかという気にさえなる。
 春秋社が、先生の戦国戦記の未完のものを、この際早く刊行してくれることを祈る。恐らく先生の御名は長く歴史を志す者には残るだろうと想い、先生のご冥福を祈る。


 さて、良き時代の良き日本人の典型として、
「幡随院長兵衛は男でござる」と水野十郎左衛門の向けてくる槍先を、何もいわずに、「さあ、ここをどんとお突きなせえやし」
 すっ裸の胸を叩いてニッコリ笑うのは、お芝居や講談だが、今では悪役なみの、「水野十郎左衛門」に話をもってゆくことにする。
 いまの歴史家は、まこと単純なもので、「ブルジョワジーの興隆に伴う町人階級の利益保護のために、長兵衛ら町奴はうまれ、特権階級の旗本奴と対立した」と説く。
 しかし徳川時代といっても、ざっと三世紀はある。
 まだ戦国の匂いのぬけていない明暦年間と、幕末に近い文化文政の頃とでは違う。 この水野十郎左衛門の祖父というのが、高柳光寿博士の文中にでてくる水野藤十郎勝成なのである。
そして、この勝成というのは、三河苅屋城主だった水野勝元の弟忠重の倅だが、関ヶ原合戦の起きる前に家康から召されて、
「あやかれよ」明智光秀遺愛の槍を貰うと、「はあッ、光秀のごとく頑張ります」と、それからは奮戦し、元和元年大阪夏の陣では、
「天下の豪傑岩見重太郎」こと薄田隼人。
 大坂一の暴れん坊の、後藤又兵衛基次。
 この二人を、光秀遺愛の槍をもって仕止め、
「誠忠無比」「剛快無双」と謳われ、「備後福山十万石」の大名に昇任した人物である。

 さて、幕末の有名な詩人菅茶山には、
『福山志料』の著があるが、その中に、「備後福山の西北に本庄村、東に三吉村、そしてその先の深津村は橋のない川が流れて、住民を<三八>とよんでいる」とある。
 これは水野勝成が福山の領主になった時、三河苅屋の八を伴ってゆき、彼らを直属の秘密警察組織として、新しく貰った土地の監察をさせたから、それで(三河からの八)が鈍って、
いわゆる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」とよばれる者になったのである。

さて現代では、橋のない川はとかく問題になっているが、徳川初期はどうだったかというと、この福山では殿様の警察組織ゆえ、「三八は常に大小の二刀をさし、歩く時は槍を先に立て通行した。この三八の者らは
牢番警吏拷問を仕事とした。また処刑も彼らの一存で一方的に取り決め、初めは深津村専故寺前で斬罪にしたり、その首をさらし物にしたが、のちに榎峠に移された」とある。
なぜ、こんなに絶えず首斬りをしたのかというと、これは需要があってヨロクがあった故、必要以上に死罪にして殺していたものらしい。
と云うのは、化学薬品のなかった頃は、肺病には生血、レプラには尻の肉。心臓病にはハツ、肝臓病にはタンを食すれば薬効ありとされていた。ところが今も昔も病人は多く需要も多い。

だが、冷凍設備がなくて死人のストックもきかない時代ゆえ、注文が溜まってくると、それっと、「御用ッ」「御用ッ」と三八衆は出動し、適当に誰か召捕ってきて、ゴウモンも公然の仕事だから、
「生血を入れる竹筒を用意しておけ」「レバーを包むイモの葉っぱを揃えろ」
とセットしておいてから、バッサリ殺してしまい、「お待ち遠うであった」と配達したらしい。つまり、このために専故寺もそうだが、彼らの薬師系の寺は、備後以外でも「医王山」とか「医王仏」などという。
しかし、現在吾々の口にする、コンビーフが馬の肉を使用しているように、そうそう人間は殺せないからイミテーションに牛馬を代用にした。
そのため皮はぎもしたが、竹細工でお茶の茶筅作りも利休時代からしていたので、「茶せん」「おんぼう」の別名もある。
何故この人達が、やがて明治大正となり橋のない川になったかというと、五代将軍綱吉の頃の弾圧からなのである。そして明治になって警察制度が代わって、彼らのかつての警察権がなくなったため、
他の住民に報復され落ちぶれたせいである。
江戸時代には、「人斬り長兵衛」とよぶ八部の親方がいて天保から安政にかけて此方の淵でズラリと並べてはバッタバッタと斬ってのけ、「富士の妙薬」といわれた生血は竹筒一節分銀二匁で売った。
脳味噌は生薬として梅毒の特効薬で銀五匁。心臓や肝臓はラウガイといわれた肺病用銀三匁で斬刑の時は奪い合いで薬屋が求めにきた。需要の多さに何でも死罪にしてしまうような無茶をしたので怖れられていた。


  何故白衣を着るのか      

 水野十郎左衛門の話が、その祖父の勝成にさかのぼり、備後福山の三八にまで、脱線して展開してしまったが、私がいいたかったのは、「旗本白柄組」の時代というのは、
八の連中が戦国時代の名残りで、まだ肩で風をきり、槍をたてて威張っていた頃だという事である。
 そして、彼のグループの久世三四郎、加賀爪甚十郎といった連中も、みんな三河横須賀まむし塚出身の別所者で俗にいう、「白須賀衆」の旗本の面々だったのである。
 さて彼らが刀の柄に白糸の編んだのや、白革を目につくように冠せ、自分らから、「白柄組」と名のったというのは、そうする事が、あの時代では恰好良いことであり、
もてたからだったのではなかろうか。といって、看護婦さんは白衣をきているから、天使のように素晴らしい、などという少女的な発想とも、これは違うのである。
かつて都電が四方八方に動いていた頃。
 夏ともなると(都の催し)という掲示が車内に出たものだが、上野公園の納涼大会に並んで、そこに書かれた文字で、「八朔」というのが見られた。
 これは八月一日の当日限り、昔の江戸城では将軍から茶坊主に至るまで白衣を着て、吉原の女郎衆も白一色になる行事である。といって、
(お女郎衆は博愛を衆に及ぼしているから)と、ナイチンゲールにあやかって、白衣をというわけではない。彼女を有名にさせたクリミヤ戦争は、1856年つまり幕末安政三年だが、江戸のお女郎衆は家康の頃
から、八月一日は揃って白衣をきていた。ところが八月一日という時候がら、と間違えやすいが、陰暦の八月一日は秋風のたつ九月である。何も防暑のため白をきたわけではない。
 これは家康の臣内藤清成が書いたという、『天正日記』によると、
「天正十八年(1590)八月一日に、小田原城攻めが終り、秀吉から国替えを命ぜられた徳川家康が、白衣を羽織って江戸入りした」
 旨の記載がある。つまり八月一日は、「江戸開都祭」といった意味での、「八朔の祝い」で、諸大名や旗本もみな白上下をきて、揃って江戸城へ式日として伺候したのである。さて、では何故、「白衣をきて家康の一行は入ってきたか」
 ということになるが、内藤清成は、その日記の八月七日の条に、「とうこういん(東光院)へ参拝」と明記。
 八月十三日のところには、
「家康公の御乗馬花咲が病気になって倒れたので、豊島鳥越郷の江田[]をよびて渡す。彼らは源頼朝公以来の江田一族だと申しでた」 とある。これは「東鑑」に江田小次郎。
「平気物語」に江田源三、
「源平盛衰記」に江田弘基、
「太平記」には、江田源八、
 とあるように、いわゆる源氏の主流をなす者が名のった姓で、彼らは北条氏に追われて山間僻地へ逃げ込んだが、足利時代には、「白旗党余類」といった蔑称をうけ、その信仰も、かつては白山や土俗八幡や荒神を信心していたが、
やがてこれが、「東光」とよぶ、東方ルリ[瑠璃][光?]如来の薬師派になって団結していった。つまり、
「西方極楽浄土を説く仏教徒」が墨染の衣、つまり黒を身につけるのに対し、彼らは、「白衣をもって対抗していた」という歴史的事実がある。そして源頼朝が、総追捕使の官をうけた時点に於て、
各地の江田一族の白旗党に、末端の警察権をもたせたので、
それが慣習となって、彼らがお上御用の逮捕権をもったり、断罪権を明治五年まで握っていた。「弾正」とか「弾正台」というのは唐の官名の輸入だが、「弾左衛門」というのは、
幕末までは漢字は発音記号と同じで当て字が当たり前だったから、「断罪衛門」のことではなかったかとも考えられる。
また、「松永弾正」とか「仁木弾正」といった名があるが、これは「井伊掃部頭」といった類と同じで、白旗党余類にのみに与えられた侮蔑的官名で、信長の父の織田信秀も、八田別所の出自ゆえそうした名乗りを貰っている。
つまり水野勝成が、三河の八を伴っていって、「警官兼検事、そして獄吏」に用いたのも、なにも特殊なことではなく、当時は日本全国どこへ行っても、番太郎、下引き、目明かし、牢役人は彼らだったのである。だ
からして江戸期も中頃になると、重なる怨みに民衆は、「源氏」という呼称を、きわめて悪意的につかった。例えば、ならず者のことを、「源氏屋」と蔑んだり、いかがわしい女の屯する青線を、「源氏店」とよんだ。
しかし芝居もとよばれる彼らの分派集団だったゆえ、現在の人形町と堀留の中間にあった岡場所などは、「しがねえ恋の情けが仇」の芝居をする時には、わざと、玄冶店(げんやだな)と文字づらを変えた。
もちろん俗説の「清和源氏」などというのも、系図屋さんや筆耕者の江戸時代の作りごとで、清和帝が土着の原住民に係りなどあろうはずはなく、これが全然無関係の虚妄にすぎなかったことは、
今なき高柳光寿先生の努力によっても解明されている。

      旗本奴 水野十郎左衛門

 さて、旗本奴として反仏的な水野勝成の五男の跡目の十郎左衛門などが、「吾々は白系だぞ」とエリートづらをして、のし歩くのに反感をもったのは、お布施を、「なんまいだ、なんまいだ」と数えて、
坊主丸儲けを豪語していた寺ということになる。「けったくそ悪い、仏罰をあてたろまいか」となったらしい。昔なら、僧兵でもくり出す所だろうが、時代も江戸期となると、そうもゆかず各寺から腕っ節の強いのが選抜された。
 ところが、ばらばらに寄せ集めたのでは、とても喧嘩にならない。そこで幡随院の住職良碩(りょうせき)上人という坊主が、スカウトしてきたのが常平とよぶ者。これに今でいえばジムを境内に作らせて、
トレーニングさせてから、「幡随院の長兵衛」という寺の名をPRするような名をつけた。すると各寺から、「この小僧は頭がよぉないで、お経はなかなか覚えぬが腕っ節は強い」とか、
「うちの境内で悪いことをした奴だが、強そうだから牢へ入れるよりは」といった連中を次々と、幡随院のジムへ送りこんできた。そこでこれらを順番に訓練して、
「唐犬権兵衛」「小仏小兵衛」などと名づけ、とりあえず四回戦ボーイに仕立てると、浄土宗だけでなく日蓮宗の寺からも、「法華の平兵衛」以下が送り込まれてきた。
 また、浄土真宗でも、これとて、「念仏佐平次」といった連中を育てて送りこんできた。だから今でいう三派全共闘ということになった。そして各宗派をうって一丸となしたこの全仏教連合は、その総合
名を、「黒手組」と、白柄組に対する名称にした。後年は講釈師がこれを間違えて、(花川戸助六を黒手組としてしまった)が、実際はこの時の連合団体の総称であるのが正しい。


 もちろん、これだけに人数が増えてしまうと、寺でも布施やサイ銭だけでは賄ってゆけない。そこで「割元」とよぶ、男の派出野郎会を始めた。といって、この時代のことゆえ料理や炊事に廻すのではなく、
武家屋敷へ供揃いの類の人手不足の折に出すのである。
 さて、こうなると旗本白柄組のところへも注文があれば、人手をさしむけるようになる。
 そこで双方が衝突となると、町奴とよばれる長兵衛方が向こうの内情を知っているだけに、なにかと好都合でゲリラ活動をする。
 溜りかねた十郎左衛門が、向こうのボスの長兵衛と、(白昼の対決)をすることとなった。

 ところがこれが無法な西部の荒くれ男なら、互いに路上に現れて、早射ちで相手を倒しあうのだが、まだアメリカなどという国は出来る前で、それに既に当時の日本は法治国である。
「鯉口三寸(十センチ)抜いたら御家は断絶、その身は死罪」という治安維持法が千代田城の松の廊下だけでなく、広く一般にあった。
 いまも警官はみな拳銃を持っているが、だからといってアメリカなみに、人をみたら泥棒と思えとやたらに撃たない。いや撃てないのと同じことで、武士が刀をさしているからといってテレビのチャンバラみたいに、
抜かなくては損みたいに振舞わすということはなかった。
 
それに武士の刀は公刀ゆえ、抜刀するには、やむを得ざる理由がある場合か、扶持を貰っている主君の許可がいることになっていた。
 だから、はたしあいは人目につかぬ室内となった。この時、講談では長兵衛が風呂へ入っているところへ、卑怯にも水野十郎左が、「許せッ」と袴のももだちをとって押しこみ槍をつきつけ、
裸の彼をブスリとやったことになっている。
 しかし、そういう事はなかったろう。第一あの時代にあんな当今みたいな風呂はあり得ない。

 幕末まで、風呂というのは今のサウナみたいなもので、湯気で身体を温める式のものである。桶に水を入れてわかすのは、江戸中期でも五右衛門風呂といって関西独特のものだった。
十返舎一九も弥次喜多が初めての経験のため浮板をとり、下駄ばきのまま入って釜をこわすように話をかいている。
 炊き口から火を燃やし積んだ石を熱して湯気をだすのは容易だが、ボイラーのない時代ゆえ、浴槽を作って中へ入るには、大きな釜を作るしかないが、それが技術的にも一人用の五右衛門風呂の釜くらいが精一杯で、
何人もが浸れる大きな鉄函は当時の鍛工では出来なかった。

 では身体ごと浸る風呂はいつからかというと、これは幕末の産物であって、初めは街道の茶店の葭簀の蔭に溜めた天水を入れた桶をおき、太陽熱で温かくなったのに、汗まみれの旅人が銭を払って汗流しに入ったもの。
 江戸では、川へ入っての水浴しかしたことのない薩摩人が幕末に増えてきてから、「水風呂」の名称でこれまでの蒸し風呂と区別して三田ッ原に出来たのが最初で、西部劇のバスなみに、
ぬるくなると三助が熱湯をそそいでいたが、それでも、「水風呂で風邪をひいたとくしゃみをし」物珍しさで入湯にいった江戸っ子の川柳があるくらいである。つまり、
こうした全身入浴の風呂なら生まれた儘の姿で入るが、ふつうの浴室はサウナゆえ、男は下帯、女も湯巻をまいて入り、その部分は目に入らぬから、「男女混浴」も日本では自然だったらしい。
 つまり長兵衛が湯船からザブンとでてきて、ぐっと胸を張って殺される場面は、恰好はよいが、あれは絵空事にすぎないらしい。

『福山水野家記』によると、
「成之(十郎左衛門)三千石にて分家お旗本として召されしが、徒党をくみ競いあう。明暦丁酉暴徒(長兵衛)不敵にも忍びこみ襲う。発覚して浴間へ這いこむ。柘榴(ざくろ)口は狭少なるを以って入れず、
成之の家臣これを仕付槍にて刺す。しかれど、その槍が権現さま拝領のものゆえ、その時はお構いなかりしがその後も乱妨やまず七年後に蜂須賀家へ預けられ、家事不取締に問われ死罪仰せつけられ、
成之の家系はこれにて絶ゆ」とある。

 福山十万石は十郎左衛門の里方ゆえ身びいきもあるだろうが、三千石の直参旗本が、割元風情の男を自邸に招待するというのもおかしい。
 やはり実際は秘かに邸内へ忍びこみ、見つかって這って潜れる柘榴口から隠れ、これを十郎左の家来が突き殺したのが本当かも知れぬ。となると、これまでの芝居はまるっきりの出鱈目、
フィクションということになる。しかし双方共に、別に男を売るといった事より、ありては白の神信心と、それに対抗する黒の仏徒側の宗教争いゆえ、それくらいが落ちかも知れない。
 が、今でもテレビドラマをみて実存と思い込む人がいるように、日露戦争後から大正にかけてのデモクラシー時代に生まれた(町人の味方の侠客長兵衛)というイメージにとりつかれ、
十郎左を悪玉扱いする向きもあるが、それではせっかく明智光秀の槍を貰ったその祖父の水野藤十郎勝成に澄まないようなもので、「男でござる」と客観的にいいきれるのは、
作りものということになるのであろうか。カッコがよいのやらもっともらしいのは信用できかねる。

 忠臣蔵で一般的によく知られているところの、「ないないのマイナイ(贈賄)を江戸勤め家老がしなかったばっかりに、吉良上野を憤らせてしまい、
殿中で恥をかかされた浅野内匠頭が上野に斬りつけた」という話がある。
 このために浅野家は取りつぶしにあって、家老大石内蔵介以下が、翌年十二月に、本所松坂町の吉良邸へ討入りゲバを敢行。これが、「忠臣蔵」だが、討入りがよく知られている割には、
その発端はあまり知られていない。
 だが、定説みたいな通説はまかり通っている。幕末の嘉永年間に岩城平藩士鍋田昌山が資料を集めたという。(補遺の三に別冊四冊つきで赤穂義士資料大成として限定
版が日本シェル出版よりでている。)「赤穂義人纂書」を定本にしていて、明治四十三年に上下二巻で刊行された国書刊行会のものにも、佐藤直方門下の書いたという、
「浅野吉良喧嘩にあらざる論」があるが、「吉良が浅野に対してつらぐせして浅野に腹を立てさせたるは、浅野が吝で金をやらぬ故なり」とでていて、ケチを理由にしているし、
太宰春台のものでは、「相役の伊達右京充の家臣は吉良上野に多額の金帛を贈る。よって吉良は殿中にて伊達を賞める。赤穂候浅野内匠頭はこれをきき逆上して吉良をきる」となっている。
 だからして収賄事件が発端のように伝わっているが、昭和六年に雄山閣から出た二巻の、「赤穂義士史料」に入っている。
「関白近衛日記」では、
「口論に及び、しこうして浅野は吉良に一刀を討つという、珍事珍事」とあり、
「東園基量卿記」では原因を、
「浅野内匠頭乱心の由、沙汰あり」とする。
 まあ突然発狂したというのであれば、極めて事の起こりは簡単だが、太宰説では、(浅野内匠頭の家臣も伊達の家臣同様に吉良上野介に、多額の金を贈っておいたのに、
片手落ちに伊達の方だけを賞めたから、それは不公平ではないかと、斬りつけた)ことになっていて、これでは吝ということにはならなくなる。
 だからして、どうも、これまでの通説がおかしいのではないかと疑いたくなる。
 というのは今でこそ相手に手土産や金を贈るのは、帰り間際か用談中に差し出すのだが、昔は違った。先に入口の式台にまず並べてから、
「頼もう」といったものである。すると、「どうれ」と受付がでてきて用向きをきき、持ってきた金品と比べてみて、秤にかけ、至当と思えば、その進物を式台の上でコツン、ガタンと音させた。
 そこで取次衆とか申次という役目の者が、「いまの音なら、これは合格であるな」と判断し、表書院へ通す仕度をさせた。だから、こういったものを、
江戸時代まで「音物(いんもつ)」といい、物も届けてこねば便りもないのを「音信不通」ともいう。

 そして入口の式台から転じて昔は、「色代(しきだい)」というのが挨拶のことで、(これでは少ない)といわれ音物を増すのを、「色をつける」とも称しこれは今でも用いられている。
 足利十五代将軍の義昭などは信長に追われて、和歌山の由良や備後の鞆にいた頃は、面会というか拝謁にくる者から、参観料みたいに銭五疋から十疋。
一疋は十文だから当今の五千円から一万円の色代をとって、それを生活費にあてていた記録が、同地静観寺には残っている。つまり色代には相場があった。
 だから浅野家江戸屋敷詰めの者が、吉良邸へ挨拶にゆくのには、それ相応の相場に叶った金品は先に持って行っているはずである。
 でなければ玄関払いされて受付けてもらえないからである。また浅野家は、その数年前に、やはり接待役を仰せつかってコーチを頼みにいっているから、これを前例として、
「吉良邸へは何程の色代を持参するか」は前もってよく知っていたはずである。
 間違っても浅野家の江戸家老が、「ケチをしまよう。ド吝にしよう」
 と持ってゆく物を惜しんで、手ぶらで挨拶に行ったとは考えられない。だいいちそれでは面会謝絶である。

 それに各藩とも江戸勤めの家老というのは、「御留守居役」とも称され、現在でいえば外交官の仕事で、普段でも老中や役向きを接待して一席もうけたり、
それぞれに付け届けするのが彼らの仕事だったから、それが、「江戸家老がケチしたばかりに、吉良上野にいびられ、殿が我慢しかねて抜刀した」
 というのでは辻つまが合わなさすぎる。つまりこれは一般に判りやすいようにというか、収賄したくとも出来ぬ民衆の為に、
(贈賄ばかり取っている人間の末路は哀れなもので、炭俵のつんである小屋へ逃げこんで真っ黒になっても、白い雪のところ引っ張り出されて殺されてしまうのだ。
おう貧しき者こそ幸いなるかな。そは収賄ができねばなり)
 といった説話的構成になっているのか、はたまた勧善懲悪でか?と、どうも首を傾げたくなる。
 


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