新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

大奥一の井戸番と徳川綱吉、柳沢との関係

2019-09-26 09:46:48 | 新日本意外史 古代から現代まで
大奥一の井戸番と徳川綱吉、柳沢との関係

 江戸城本丸の大奥は、防火用の赤銅塀で囲まれた築山の御苑から上下の二本の御鈴廊下で表御座所へ通じる外は、伊賀部屋の者が詰めている御座敷御門しか、外部への出口はない。

徳川綱吉の時代、一之側長局から、四之側までの間に一万五千からの女中がぎっしり詰め込まれ住まわされていたのである。だからもし失火でもあったら逃げ場もない。それゆえ東長屋から裏部屋へかけて、十個の大井戸が火の用心に掘られている。
中でも御様座敷とよばれる将軍家休息の間に面した大廊下に囲まれた処にある一の井戸は、直径が三メートルもあって深さは底なしといわれるくらいに深い。なにしろ、この一の井戸はもし将軍家が大奥で泊まられた際に、出火でもあったら御様座敷を水浸しにしても救助しなければならぬから、
そこの井戸番は大役である。

    綱吉の側室 染子
 延宝七年十二月といえば、元禄元年になる八年前の事に当たるが、後の六代将軍になる家宣の許へ、京より近衛関白家の姫君が輿入れをしてきた。その時近衛家から供をしてきた中に、当時十三歳の染子が選ばれ混じって東下りしてきていた。
さて、大奥の一の井戸の御番というのは、将軍家がおなりになって泊まられる時、縁の下にずらりと水を汲んだ手桶を並べておき、庭石の所でまじろぎもせずに見張っておらねばならぬ役目である。
しかし、将軍が大奥へ渡ってきて泊まられるというのは、なにも一人で寝にくる訳ではない。必ず御添い寝する女人が寄り添うのだから、それからの事の成り行きを眼ばたきもせずに、始めから終わりまで見て居るのは、経験の有無を問わず、やはりとても目に毒である。
それゆえ一の井戸番は、大奥では極めて重要な役だが誰を付けても長続きしない。そこで京から来た近衛家の侍女の中で、色白な上に大柄な染子が老女達の目に止まり「まだ十三じゃそうだが、それくらいの方がまだ春情の何たるかを解せず、御用大切に勤めるだろう」と、一の井戸番を名指しで命じられた。

(万一の際には組下の女達を呼んで汲みおきの水を掛け、空になった桶に水を注ぐ)といった御役は出火の際だけゆえ、滅多にそうあるわけではなく、いつもはただ、「何処からか煙など出はせぬか?」と御様座敷の内部を、将軍家おなりの節は、眼を皿のようにして敷石の所へ手をつき、じっと食い入るように見守っていなければならない。
御寝の次の間には、ご老女詰め所から両名ずつが襖越しの御参の間にて、不寝番を勤めているので、一の井戸番は御寝所内よりも他からの延焼や類焼の方に留意し御用大切に勤めるのである。
 こうして染子は他の女ではあまり長続きしない一の井戸番を必死に続けた。
しかし、十三や十四の時はまあ辛抱でき、ただ好奇心だけぐらいの処で済んだが、十五歳になると、さすがに全身が火照って頭へ血が上ることが多くなった。
さて、綱吉も初めは気づかずだった。何しろ一の井戸番というのは、これまで目まぐるしく変わっているので、大奥へ通る度に庭先で見かけても、ろくに顔など覚えはしなかった。しかし染子になってからは、何年も続けているので、その内に綱吉も次第に「ほう、同じ顔が良く続いているな」と染子を意識するようになった。
そこで意地悪でもないが、それからというもの相手の女との痴態をわざと見せつけるようになった。勿論、覗き見している染子へよく眺めさせてやろうとの親切心からではない。
綱吉にして見れば、あれと指させばその女を老女達が入浴させ身を清めさせ、決まりきった恰好にし床へ送り込んでくるのに、倦が来ていたというか、味気ない想いをしていたのだ。つまり変わった刺激が欲しかったから、染子に見られているのを良い事にし、抱く女よりも庭先の方ばかり綱吉としては気にするようになった。
綱吉にしてみれば悪戯心も半分は有ったろう。しかし染子にしてみればそうした有様を露骨に見せつけられ、うめき声や妙な言葉を次々と聴かされては、いくら京女の意地を示す為とはいえ、ますます気が変になって来てしまい、
「死んだが増し」といった悲壮な想いにもさせられていた。さて、こんな時、
「あの色白な井戸番の娘は何歳になるか?」と綱吉が控えの老女に声をかけた時、
「はい十八歳になりますが」と答えが戻ってきた。そこで、
「そうであるか、一の井戸番を勤めてより何年になるか」と気になるゆえ尋ねた。
「はあ他の女どもとは違い、十三歳より五年の御奉公」との返事に、ほう真面目な ものであるなといわんばかりに綱吉は大きく頷いた。
こうした経緯があって染子はとうとう将軍家のお手がつくことになった。この後、綱吉は「染、染子」と一辺倒になった。何故かという理由については推測するしかないが、将軍とて男である。男女の間は今も昔も情愛と性愛の絡みあいでしかない。
しかしこの円満な関係も長くは続かない事になる。

 染子 柳沢へ下げ渡す
綱吉の生母である桂昌院が調べたところ、染子は近衛の姫の侍女とはなっているが、貞享二年二月に、風邪で京都御苑の北隅に捕りこめ小屋で崩じられた前帝後西さま、その母方櫛笥家の養女で、倒幕謀叛の容疑をもって幽閉中の前帝を救おうと、権中納言の家柄を隠し通して侍女となって東下りしてきた怪しき身分の者、と判明した。
そして綱吉を説得して無理に染子を引き離してしまった。綱吉にしても二年も寵愛していた染子をそう惨くは扱いかね、柳沢吉保に下げ渡す事にした。だがこの時染子は妊娠していたのである。勿論、綱吉の種である。
綱吉はこの時四十二歳になっていたが、染子懐妊と聴くと、「其の方の子として育てるように」と柳沢に命令した。やがて秋になるとまるまるとした男児を産み落とした。これがため元禄元年十一月には柳沢に一万石の加増が言い渡された。しめて一万二千三十石である。正式に「御側御用人・柳沢美濃守」の役目にもなった。
元禄三年四月二日に、将軍綱吉は千代田城大広間で、自ら仕舞いをして諸大名に参観させた。
それゆえ当日は舞の後でも機嫌が良く柳沢へも、「染子の児は如何であるか」と珍しく見せて尋ねたりした。
「はあ明けて数えのおん五歳、おん健やかにて」と答えたところ、「もう五つにあいなるか、では何かと物入りであろうな」と即座に、二万石の加増が言い渡され、しめて三万二千三十石である。
これはどう考えてみても、今度の加増とてこれまでの忠誠の報酬ではなく、染子の産んだ児を預かっていることへの里親扶持のようなものである。この後、綱吉は生涯五十五回も柳沢の屋敷に立ち寄る異例な行動をとるのだが、 わが子可愛さと、染子に逢うためかのどちらかだったろう。
この後七万石、十五万石、と次々に加増を重ね、二十二万石にまで出世し、大格老として幕閣を牛耳り、その子孫は幕末まで続いた。
 
 


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