本名、木村継次。水戸藩那珂湊芹沢村郷士出身。 幕末水戸藩へ、京所司代酒井若狭守を飛び越えて直接水戸京屋敷へ攘夷の宣旨が下された。
よって直ぐさま秘かに水戸のお城へもたらされた。 が、これを察知した江戸の大公儀から、順当でないからと返却を命じられ、 その為水戸城は大騒動になった。そして家中では攘夷を叫ぶ激党とそれに反対する鎮党の反目が、日増しに昴まり刃を交えるような事も起き出した。 当時、近習役を勤め「返却など、もっての他である」と強硬派の一人だった斉藤留三は、この坩堝に巻き込まれていた。
従って「用心の為」といった目的で、撃剣のできる者を召抱えることとなった。 継次は兄が私学校文武館で師範役をしていたので、そこで稽古役をしていたのだが「士分に取立てるゆえ、然るべき者を」と、その那珂湊芹沢村二百石の知行所を 持つ斉藤から、館の方へ推挙の依頼があり、出来れば兄の木村三穂之助をとの申し出だったが、「手前の代わりに弟の木村継次を」と身代わりに推され、 奉公していたのである。若党と言えば聞こえは良いが用心棒である。
しかし、勅諚を返却するのに反対な斉藤留三は切腹して、憤死してしまった。 遅れて駆けつけた継次は驚いたが、 城の大手門も裏手も、鎮党の目付に塞がれているため、軽輩の継次なら城外へ 出られようと、水戸の執政大場一真斎に使いを頼まれた。 この時、後年有名になる「尽忠報国」の四文字を柄に刻んだ鉄扇を渡される。 これは斉藤留三が国を憂える赤誠を鑿に託した物で、これが大場に渡り、愛用して いたものである。
これを身の証として持って、長岡の宿場へ早馬で使いに出た。 と言うのは、この宿場の旅籠には、 ◎内を整え外夷の侮りを受けぬようにとの、畏き御諚を賜った水戸が、いくら井伊大老の恫喝を受けたからとて、返却はならぬ。 ◎御為ごかしに江戸へ勅諚を差し出そうとする鎮党の腰抜けは君側の奸だ。
◎この長岡を押さえておけば、江戸へ勅諚を奉戴しょうとする者達を通らせないため、断固防衛する。 と、こうした考えの若者が集まっていたからである。 しかし、大場の書面の中身とは、 「御三家の水戸が大公儀に逆らってはまずいと、鎮党の意見が勝ち、執政大場は 城内にて謹慎の沙汰が出た。よって長岡の宿場に頓集している者達を総召捕りの ため、徒目付国友忠之介率いる役人が向かうので解散せよ」 というものだった。
この後、 幹部の関鉄之助らが来て、「同じ家中で斬り合いなど軽挙妄動は慎もう。実は もう勅諚は別の者の手で江戸小石川の上屋敷に移されている」となった。 これでは居残っていても無駄だからと、皆長岡から引き上げてしまた。 この時、継次は別棟で酒でも呑んで寝過ごしたか、逃げ遅れてしまったらしい。 そして召捕りに来た国友忠之介に見つかり、彼を斬り倒してしまった。 継次が徒目付国友忠之介を長岡で殺したのは二月五日。
その五日後江戸へ逃げてきたが行く当てが無く、そこで神田駿河台の旗本 鵜殿甚左衛門邸へ転がり込んだ。鵜殿は水戸の支藩宍戸一万石松平大炊頭の伯父に 当たるから、安政の大獄の時水戸派と目され駿河町奉行の職を追われ、今では 小普請入りとなっていた。
継次が此処に来たという訳は、同郷の平山五郎に匿って貰うためでる。
しかし、何日かする内、鵜殿に見つかり、水戸の様子を知悉していたので、「木村の弟というは、長岡でお徒目付を斬り殺した男で、行方を探索されている男だろう、もし、此処に居ると判れば、小石川の水戸屋敷から討っ手が掛かろうが」と、平山は注意された。 そこで此処にも居れなくなり、前の郡奉行金子孫次郎が出府していて、そこに長岡屯集の残党が集まって居るので、その隠宅に移る事になった。 この金子孫次郎というのは、奥祐筆から郡奉行になった二百石取りの身分で、 亡くなった前主人斉藤留三より格式が高い人と聞かされ、気後れしたか、平山から 渡された金で酒を飲み、女を買って寝過ごしてしまつた。 慌てて翌朝駆けつけたが、この一党の「桜田門の変」に間に合わずだった。
継次にしてみれば、大老襲撃の事など聞いていなかったし、自分は寝過ごして 翌朝駆けつけただけである。
だから事件を聞いてびっくり仰天。 他に行く当てもないから、又鵜殿邸に平山を頼って逃げ込んできた。 処が、井伊大老のため、駿河町奉行の職から追われ、恨み骨髄に徹していた鵜殿は すっかり歓んでしまい、「良くやった。其の方こそ水戸人の華だ」となった。 とんでもない誤解だが、鵜殿としても継次が関係ないのを知らぬ訳はなく、 有り体は「政治的利用」の何物でもないだろう。
芹沢、水戸の為に京へ行く
そうこうする内、ある日鵜殿に呼ばれ、 「京へ行ってくれ。わしが浪人奉行として伴っていく浪人組に加わって上洛する のだ」と、藪から棒に言われた。 「明朝早立ちだ。公儀からは山岡鉄太郎や松岡萬がつく。その方は水戸のために行くのだ」と命令された。 文久三年二月八日。木曽路を経て、半月掛かりで京へ上がった浪士隊は、壬生村の 新徳寺、更祥寺、地蔵寺の三寺を宿舎に割り当てられた。しかし寺の宿坊では 不便だろうと「八木源之丞持家」というのに鵜殿の命令で継次だけ移された。 この頃は「これまで通りではまずい」と鵜殿が継次の村の名を姓に、その村に 多い野鴨から名をとって、芹沢鴨と改名されていた。
芹沢が水戸京屋敷に行くと、「錦山」の号を持つ儒者上がりの新見錦や、鵜殿家 に居た平山五郎、平間重助といった水戸人がもう集まっていて、桜田門義挙唯一の生き残りとしての足下の知名度は高い。ひとつ今後は浪士組の頭株となり、常陸の国に忠を尽くして報いて貰いたい」 京屋敷取締役山口徳之進に言われた。
手前ごとき郷士あがりの軽輩者が・・・・」と固辞したが、 「水戸にあっては家名により上士下士の差別ははっきり付けられているが京へくれば別個な話し。此処は姓や苗字でなくその人間自体の値打ちが全てを決める 土地柄。戸ヶ崎熊太郎流の剣をよくされる貴方が、先ず水戸人の頭分となり、 ついで浪人組三百も手足のごとく使いこなし、そっくり水戸の別働隊に仕上げる 事こそ、常陸御領内に生を受けし者の、常陸国へ尽くすが御奉公」と、 山口からこんこんと言い聞かされた。 さて、水戸屋敷から戻ると壬生はえらい騒ぎになっていた。 清川八郎一味が独断で勤皇の志を御所へ上奏したのを、京所司代が知り、浪人組 をすぐさま江戸へ引き上げさせようと画策しているというのである。 これには鵜殿も激昂し、 「水戸人以外もこの際は一人でも多く糾合して、せっかく伴ってきた者を散らさ んようにせい」と命令された。
そこで芹沢は、文武館で兄三穂之介の門弟だった平間重助を呼び、 「牛込二十騎町の天然理心流は、八王子千人同心の捕物用棒術が岡田十松流から変わったもので、わが神道無念流とは同じ流れだ。だから六番隊の近藤勇、土方 歳三といった連中に、気兼ねはいらんから移って来るように云ってこい」と、 鵜殿の言い付け通り残留者の確保にかかった。 新撰組の誕生
文久三年三月二十五日、水戸斉昭の跡を継いだ慶篤は御所より、 「上洛中の将軍家茂に代わって関東支配」の勅諚を賜り東下りした。 が、世嗣の左衛門佐は京へ残され、大場一真斎、山口徳之進がこれを守った。 芹沢は水戸人八名に、近藤勇らを加えた十六名をどうにか百を越す別働隊に 仕立て上げた。「新選組」と隊名も決まり、隊規も作った。 浅黄袖口白縁とりだんだら染めの揃いの羽織も、大丸呉服店から染め上がってきた。 こうなると、入隊志願の若者も増え、芹沢は大いに多忙だった。 遊び好きの新見錦に、息抜きに島原や祇園に誘われたが、酒は付き合ったが女遊びはぴたりと止めた。芹沢の心境としては、 (わしらが使っている水戸屋敷からの下賜金は、常陸三十五万石の民百姓の汗みずく の金、それで女など抱けよう筈はない)と心を鬼にしたのだろう。 だから水戸派の若者も近藤一派の連中も、 「さすが芹沢さんは桜田門生き残り。誠の志士とはああした御方であろう」 評判が良く、黒谷の守護職会津屋敷でも「芹沢のような身持ちの良い者ならば」 極めて受けが良く、やがて家老田中土佐から、
「昼は仙洞御所前、夜は禁裡御所南門」と御所警備を命じられ、芹沢はすっかり張りきって昼夜を問わず詰めきっていた。 ところが八月十八日、政変が起こった。
薩摩や中川宮の手によって長州兵が堺町御門の警備を解かれた上追放となり、三条中納言以下七卿を奉じて都落ちをした。そこで、これまで長州と仲の良かった水戸へも、弾圧の手がのびてた。 機を見るに敏な大場一真斎は、直ぐさま若殿を守って京を脱出し、山口も江戸へ 引き上げてしまった。
この結果、新選組の水戸人は当惑した。 水戸屋敷からの資金が断たれ、黒谷の会津屋敷からの、表向きの御用金だけでは、 今や二百を越えた新選組を賄ってゆけなかったからである。 芹沢としても、この政変にはどうしょうもなく、儒者上がりの新見を信用して 相談した。が、新見とて格別の当てがある筈もない。
そこで「切り取り強盗、武士の慣い。ひとつやりますか」となった。 この夜から、新見黙認のもとに水戸派の連中の荒稼ぎが始まったが、芹沢は昼夜 御所の門外に立ち、尽忠報国の鉄扇を握って指揮をとっていたから、それらのこと は迂闊にも知らなかった。しかし土方歳三はその一切を調べていた。 この当時の会津の意向は、水戸人が主流を占める新選組では安心出来ない。 もし彼らを一掃出来るなら、近藤勇一派に全てを一任してもいい、というものであった。
土方歳三、水戸一派を粛清する
そしてすでに水戸派追い落としの為の支度金が土方歳三に渡されていた。 近藤としては、八木屋敷へ引き取られてから、芹沢に呑ませて貰い、奢って貰った恩もあり、何より近藤は芹沢の真面目な人柄や、御所に尽くす勤皇精神に感化されてもいたので、彼を殺すことには反対だった。
しかし土方は水戸派一掃を強引に実行したのである。 その夜、土方の奢りという事で、芹沢鴨、平山五郎、平間重助らは馴染みの芸妓を 連れて宿舎に戻ってきた。しかし芹沢は初心を貫いて酒を呑むだけで戻り、 菱屋の後家の梅と別棟で寝んだ。
だから、頃合いを計って忍び込んだ土方歳三と沖田総司に、すっかり前後不覚に 眠りこけていた芹沢は、滅多やたらに突きまくられて死んだ。同じ頃、原田左之助と山南敬助の二人が、一番隊宿舎で芸妓と寝ていた平山五郎 をなますのように斬り刻んで殺した。 【補記】 この時、平間重助だけは素早く縁下へ逃げ込み、土方らの引揚げた後、芹沢の髪毛と尽忠報国の鉄扇を形見に持ち出し、那珂湊の文武館へ逃げた。 そして翌元治元年六月、 「水戸天狗党」の乱が起きると、平間はその鉄扇を竹竿に付けて常州野州を転戦 した。そこで芹沢鴨がまだ生きていて、天狗党に加わったものと間違われてしまっ たのか、今となると「天狗党くずれ芹沢鴨」と年代が逆に誤って書かれた本もある。
又、芹沢と一緒に殺された梅なる女は、菱屋の主人が脱藩浪人の押し込みに襲われ 殺された後、また何度も狙ってくるのを怖がって匿ってくれと来たのを、芹沢が 八木屋敷に置いていた後家さんである。
今となっては推測するしかないが、二人は互いに好きあっていたのかも知れない。 維新という大きな時代の流れの中で翻弄され、殺されて逝った二人は哀れである。合掌。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます