新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

徳川家康は「サンカ」出身 葵紋はサンカの象徴 旭日旗は世界を照らす

2020-04-22 16:52:26 | 新日本意外史 古代から現代まで


徳川家康は「サンカ」出身
葵紋はサンカの象徴
何故、春日局は家康の子を産んだのか
旭日旗は世界を照らす

徳川家の家紋は葵ということは誰でも知っている。
この葵という植物は、葉が絡みあっていて、サンカ言葉ではセケ葉とか、セケンツナガリともいう。
 どうも独断みたいだが、「アオイの葉」が全国サンカの目標だったとみれば、作りものにすぎぬテレビの「水戸黄門漫遊記」でも毎回きまって、
フラメンコギター(趣味のフラメンコギターが玄人はだし)の為の爪まできって、ぐっと差し出す助さん役の俳優、伊吹吾郎の印籠に、全国のイツキサンカ(居付き、五木)は胸を躍らせて視聴率をあげているのではあるまいか。
 「紋章学」の本などでは「アオイの紋所は、将軍家特有のものゆえ、一般には使われずである」とでているが、隠れサンカが殆んどこの葵紋だとなると、
まさか、それを見え見えの紋付きにつけて着たり、幕に染めぬく者もない。国中に多くはある筈だけれど、唯、人目にはつかぬだけの話である。
 「初代市川団十郎物語」というテレビで、万治三年(一六六〇)に生まれ宝永元年(一七〇四)に殺された生涯が放映された。
これもフィクションゆえとやかく言うべきプロットではないが、その親が「町奴」で「唐犬の権兵衛」が世話して役者になるという筋立で旗本奴との衝突もする。
 幡随院の長兵衛が水野十郎左衛門の風呂場で槍で突き殺される芝居が、講談でも映画でも広まっているから、それに合わせて説得性があるだろうとの脚本によるものだろう。
(注)水野十郎佐衛門は備後福山城主水野勝成の孫にあたる。勝成がその働きを認められて家康から、明智光秀遺愛の朱槍を「汝も光秀にあやかれよ・・・・」と渡された。
  十郎左衛門が幡随院長兵衛を殺した事は全くお咎め無しだったが、突き殺した槍が問題になったのである。槍は祖父から受け継いだ、家康遺愛のものである。
  「恐れ多くも権現様より拝領の槍で、寺奴風情を殺すとは不敬である」ということになって「切腹」を命じられたのが真相。 
だが、江戸初期の有り方を、まったく誰も書いていないし、活字で残っているのは講談速記本の類しかないのが現状。
しかもそれを下敷にした「町奴と旗本奴」といった本しか大正時代になっても出ていないのである。
 
判りやすく話を遡らせてみる。普通の仏教という墨染衣僧が中国から伝来させ建国統一前の日本列島の原住民の武器は、鋭く磨いた貝や青銅が主だった。
当時文化度が高い中国では頑丈な鉄武器が普及していた。
だから原住民である、大和の豪族たちは、鉄器や鉄剣欲しさに歓心をかおうとして輸入を求め、本心は隠して上辺を取り繕って仏教を信じたふりをした。
仏教は「西方に極楽浄土」とするもので、中国勢力は宣教することによって接取したがったか、当時日本列島に居付きして暮していた原住民のうち、
裏日本系は騎馬系で白山信仰。表日本の黒潮渡来系は祇信仰で誰も改宗しない。そこで大和を平定して原住民を東へ追い払った権力は彼らをも宣撫しようと、
「東方にも瑠璃光如来とよぶ有難い御仏がある」と、彼らにも信じやすい仏像を持込み、各地に、拠点寺を『国分寺』として設置し、信者には薬草を与えて医者の真似をボッズ共にさせた。
そのため、「東光寺」とよばれる原住民宣撫用の寺には、どこも「医王山」と上につける。
明治になる迄は、医者や薬屋が限定職の賤業として厳しく取締られていたのは、この時からの定めなのである。
さて家康も、せっかく収入の安定していた駿河、遠江、三河の三ケ国を小田原攻めが済んだ途端にもう遠慮する勢力が無くなったので、秀吉に取られてしまった。
その代わり、当時は未開地にひとしい関東八ヶ国を代りにもたされる事となった。
 初めて江戸入りした家康が「人心を慰撫するため訪れたのも、東光寺であった」とは、当時の近習にょって書かれた日誌にもででいる。
しかし家康や信長は反仏派だったゆえ実際には、「仏寺の新築」などはする必要もなく、江戸の町には当時は一つも作らせなかったのである。
処が、信長殺しを丹波目付斎藤内蔵介に頼んで命からがら堺へ逃げた家康は、その時に、よくよくの事だったろうが、
 「もし徳川の家が残これば、おことの血脈をもってあてる」とまで固く約束をしているのである。その証拠に、
 安土城より暇乞いして天正十年五月二十七日より京へきていた家康一行は、一日おいて二十日夕刻に本能寺へ信長主従30騎が入洛すると、従来なら信長に直ちに訪れて挨拶すべきなのに、
周章狼狽して斉藤内蔵介屋敷を訪れて後事を託し堺へそのまま逃げたのである。
だが、堺政所の松井友閖に船をみな押えられていたので海路脱出は失敗した。翌30日にカブト越えで伊賀を抜け白子浦へでた。
そのため本能寺が襲撃された6月1日には、ようやく船の上だった。
 さて六月二日にはやっと自国の三河へたどり着き、酒井忠次に西三河衆とは呼ぶが、浜松城直属の親衛隊で駿河者や渥美衆の部隊を、内蔵介へ味方させるため進発させた。
しかし、尾張津島まで到着したとき、内蔵介が敗死したと伝わってきて家康はやむなく撤兵した。
その後、家康が天下を取り、伏見城に入ると、斉藤内蔵介の末娘の阿福が、稲葉佐渡守の妻となって既に四人の子持ちだったのを探し求めると、
夫には五千石の手切れを払ってまでして彼女を伏見城に迎えた。於福(後の春日局)に己の種を仕込むためである。
川越の喜多院に今も残る「家光生誕の問」とよぶ居室が、(江戸城よりと説明されているものの)京間で、畳の寸法が上方寸法なのは、伏見城から運ばせて移築したゆえである。
       家光の母は「春日局」
さて家康は阿福のうんだ児を己れの種と思いこんだ。これは男なら当然のことである。
 当時は血液鑑定などなかったから仕方もないが、伜の秀忠へ、家光20歳とならば将軍職を譲れと遺言した。
明治になって千代田城三の丸の、今の国会図書館なみの「紅葉山文庫」が反古同然に襖下張り用と払い下げられる世となった。その散逸をおそれ[国書刊行会]ができた。
 明治40年代から次々と活字本として、非売品として刊行された一冊の中に「松のさかえ」なるのがある。
家康の遺言の形式みたいになっているが、その中に、はっきりと、
   国 松 (駿河大納言 忠長) 御腹 江与の方。(織田信長の血脈)
   竹干代 (のち三代将軍家光) 御腹 春日局。 (足利蜷川の血脈)と明白に書かれている。
これを見ると、竹千代(家光)の母は春日局で、父親の名は明白にされていない。
国松(忠長)の母は、二代将軍秀忠の正室(御台所)である江与の方だから、血筋としては正統なのであるが何故か三代将軍になれず、後年大納言を剥奪され、
「素行悪きをもって・・・・・」と安藤家へお預けとなり、自殺している。
だから徳川家は家康、秀忠まではれっきとした日本原住民系「サンカ」の血筋だったが゛、三代家光以降は大陸の血が混じり、混沌の徳川史となって今に至っている。
春日局とは女性としては最高の位で従三位の官位をもつ小御所まで入れる身分の女人のことで、足利将軍家では、代々にわたって15人の春日局がいた。
将軍直接では言い憎い上奏を代ってさせる為の者の称号なのである。
家康が将軍職についたのは慶長八年二月十二日のことゆえ、阿福が徳川家第一人目の春日局に任官したのは、その何日か恐らく後のことであろう。
 「大師は弘法にうばわれ、局は春日でおわる」と言われるのは、次の秀忠が将軍職になっても、まだ阿福の春日局が活躍して、秀忠の娘を「女御」として入内させたり、
和子が入内して23歳の時にうみ奉った一宮姫が七歳になられた寛永六年には、ときの後水尾帝に退位して頂き、
 「人皇百九代の明正女帝」に即位と一切を仕切っていたので、己が春日局をたてる訳けにはゆかず、家光の子らが第四代、第五代となったし、御所よりは節刀を頂き勅命を拝する儀式も、
四代家綱から、もはやしなくなったので、「春日局」の号は阿福をもって最後となってしまったのである。
 さて於福は、京五山と結びつき銀本位貨幣制度を足利時代から司ってきた蜷川家の血筋である。
そして、秀忠が寛永九年正月に亡くなると、於福は江戸湯島に遠慮なくまっ先に寺をたてた。さて
(徳川家は家康、秀忠まではバリバリの神信心だった。しかし三代将軍家光は春日局と天海僧正の種なのである。ここから徳川家は仏教の血筋に変わり、混迷の徳川史観が始まる。)
寺のガードマンも奴隷だった
こうなると京阪紀伊の仏教各宗本山は新興都市江戸への、進出をしたくて、それぞれ狙うようになった。
 しかし反仏教の者らが、ひしめく江戸の町々である。原住民に襲われる用心をせねばならなかった。
 山の頂上にでも建てればよいが、「府内」とよばれる江戸市内では、小さな山はあっても削られて埋めたてに使われていてとても地の利をえた安全な敷地など見つけようもなかった。
 やむなく町中の到る処に寺をたてた。だが不用心にすぎる。仏つくって魂入れずと言うが、寺を建てても坊主だけでは物騒である。そこで扶持離れした牢人とか、
腕っぷしの強いのを「寺男」としてガードマンにすることにした。だが江戸は、埋めたてが盛んで土木工事に賑わっているから、屈強な男は府内ではあまり雇えぬからして、
各寺では限定地の奴隷百姓をつれてきた。
これを「寺奴」とよんだが、ヤッコでも寺の使用人ともなれば、寺発行の通行手形が入手できる。
 そこで限定の者を次々とよびよせて、斡旋ブローカーみたいな私設職業安定所のような口入れ屋を始めた。
しかし寺奴とは違い臨時雇いが多いので、仕事のない時には三々伍々つれだって飯をくえる処はないかと、町のあちらこちらを、ほっつき廻って歩いていた。
「町奴」の名称は。これからついたのである。つまり「幡随院」という寺にゆかりのあるのが、「幡随院の長兵衛」と名のったり、「小仏の五平」といった名の由来もそこからでている。
日本史では「奴隷」の名称を使ったのは、阿部弘蔵の『日本奴隷史事典』が嚆矢で、それに対して官学の滝川政治郎法学博士が「日本奴隷経済史」をだし、吾国の奴隷制を初めて認めた。
だが、奴隷人口は全人口の僅かに5%だったと事実をまったく逆にしての発表をした。しかしそれまで一般には、
「ヤッコさんは辛いね」の小唄のごとく用い、賤業の女も、ただヤッコとか、奴女郎と言われていた。
 だから奴隷が逃亡してもすぐ発見して捕えやすいように、ゴバン割りの区画にして奴隷たちの限定居住に明治までされていたのが実態だった。
今でも豆腐を賽の目に切って出す冷めたいのを「冷やヤッコ」というのはここからきているのである。
そして今でも日常に使われている「困ったヤツ」とか「厭やなヤツ」とか略して、「ヤツ」だけでも、奴つまり奴隷のことをさす。
「海洋渡来居付き民族」はアカサタナハマヤの八母音の発音を今の名古屋弁みたいに、アラブ式に使うから「八つ」とこの日本ではいうのである。「ヤツ」の意からもきているのである。
 「汚れ多し」の仏教語の、忌み嫌われる言葉を当てはめてエタとも被差別されてきたが、この文字こそ神話時代のそんなに古いことではなく、
六世紀七世紀の建国時期に統一の妨げとなる、「天の王朝」系の、額田のオオキミと同じではないかとみられる投影的な存在なのである。
大陸勢力が原住民を滅し去った掃討作戦の結果を、ことさらに糊塗せん為の、偽装の仕事だったと認められる。その理由は、
 「イザナギ、イザナミの男柱女柱が、天ノ浮橋ニテ互イニ見染メタマイテ近カヨラレテ『エナ男ヤ』『エナ女ヤ』と、互いに両性の結合を意識なされて立った儘にてマグワラレたまい、
その時に下へたれしたたった雫にて、秋津島、大八州島と海上に日本列島の土地形成はされた」
 とするのが、神話の中での日本列島が出来た時の秘話とされてきているが、この際に使用の、
 「エな」が、グッド、良、可の意味であって、今でも出産の際に胎児についで排泄される胎盤を、殆んどの日本人が祝う意味から、サンカ用語でも同じく[エナ]と袮し「胞衣」とあてる。
 そのエナのエをつけるのは征服宗教仏教が、嫌味なケガレ多しの当て宇からして視覚反応で不快感さえもたされたにしても、決して彼らの描いた図面通りに踊らされてはいけないのである。
江戸期、本居宣長が、「古事記伝」を書いた時の下地にしたと思われる「骨事記」や、それより古いらしい「乞食」には、
 「紅がら塗りの柱たよりに彷徨の、飢えし隠忍は江津多やあらめ」の一句が残されている。
この「紅がら塗りの柱」のあるのは「祗」とか「宮」とよばれる七福神系の拝み堂なのである。
 「隠忍」は、仏教が宣撫用にもちこんできた脅しの地獄図絵の、虎皮褌に鉄棒をもつ赤鬼や青鬼の類ではない。
虐げられた日本原住民が隠れ忍んでセブをはり、危うくなれば疾走(のり)で姿をくらまし、辛うじて生きのび、「鬼は外……」と、一掴みの豆を外へ放られると、
こそこそと拾って食し、逃げ隠れするのが隠忍なのててててである。
 日本にいもしない虎の皮や、鉄が採鉱されぬ国に鉄棒などある訳もないし、角をはやして強いのがオニならば、飢えはて彷徨する筈などはない。
隠忍だからこそ桃太郎ごときに攻めこまれても降参して、取っておきの干魚やアワの宝物までを、みな奪われる破目になってしまう。これが桃太郎伝説の実態なのである。
 「江津多」は、グッドの良き民が黒潮の流れっく「津」のある地方には「多く住みつく」の意味である。
 「越」は「エツ」なのに裏日本の越前越中越後とされ、わざわざ「コシ」の国とし、「古志」と当て宇までされるゆえに、こんがらがって、判らなくされてしまう。
もともとは今の佐渡が「夷島」と呼ばれ、そして新潟が幕末までは「白山島」と呼ばれていたくらいに、沿海州や満州、北朝鮮からベーリング寒流の親潮で、
能登半島や夷の新潟へと突入するごとく流されてきた騎馬民族系である。
 処が大和に建国されて、初めは京阪から九州を統一しだした体制は、裏日本の源氏となる白旗を目印にするのは後の源氏である。
彼らは遊牧民族で農耕や漁業といった食糧の生産業務をしないから「穀潰」しだとして、「守戸」「森戸」と前述したように、抑えて降参したのは陵の番人にした。
だが逃げ廻る者たちは、東北へと順次に追い落しにした。処が、逆に近江の「八」のへ逃げたものもいる。
後に「近江源氏」とよばれる佐々木四郎の白旗が奇蹟的に残っていて、彼らは「蜂起」の文字旗を立てて戦った。だからこの「ホウキ」とは「「ハチ起し」つまり、
山の中の蜂が、巣を叩かれた時のように一斉にブンブンと飛び出す有様で、この「烽火」を「ノロシ」ともよぶ。
サンカ用語の「焔待ち」のホマチと同じである。と言う事は、白の者が赤のハチを旗印にするのゆえ、はっきり言えば俗に近江源氏とされるのはトケコミサンカなのである。

だから北条政子の源氏潰しに梶原、和田、三浦と次々やられても、免れた訳けでもある。尼子氏の家臣だった、
山中鹿之助らサンカ十勇士が=ツキサシ(突撃)して上月城たてこもり相互扶助しつ戦って玉砕したのもうなづける。
 さて建国統一のため、裏日本騎馬民族系を追払ってしまった後、今度は温暖な表日本が狙われた。
 そこで静岡、愛知、三重の黒潮で漂着して住みついた者らは、三河の額田郡のオオキミが近江の野洲川での決戦で敗れた後は、堰を切った奔流みたいな官兵の掠奪暴行をうけ、
牧童が牛の群れを追いこむように、雪深かい裏日本へと縄うたれ、鞭で叩かれつつ集団移住をさせられた。
八紘一宇の「旭日旗」の由来
 もちろん官兵の目を逃がれ山へ匿れた者もいるし、降雪同mといった山中へ秘かに逃げこんだ者もいる。海の民が気候のよい住み慣れた太平洋沿岸から、
山国や凍てつく北国へ追いこまれては悲惨だった。この怨念の吹き溜りが身にしみたことだろう。
現代でも、海のない山間部に住む民でも、魚好きが多く、魚にひかれるのが日本人の特異性と言われるが、なんの事はない、それには深い意味がある。
日本が建国された七世紀から、順次に海の民が山へ追われ、匿れ住んでいた先祖からの血の流れで求めたのである。
本当は「理休」なのに「千ノ利休」とも誤られる茶湯者も、生家は足利時代からの塩魚屋だったのが本当で、
 「せめて正月ぐらいは大きな魚を……」といった山の民の願望が、世界に類のない「アラビキ」とか「新巻鮭」となって宅急便として運ばれるし、
乾鰯とか煮干し、イリコが日本製ポタージュの味噌汁のダシに使われる。
前にものべたが今では「八紘一宇」と難しい字を当てて惑わされるが、昔は、「八光」だったのは同違いなく確かである。
神武さまが高千穂峯へ天孫降臨したとの仮説歴史の、更に昔にさかのぼる神話歴史で、天照大神さまは神武さまの御先祖さまなりと、雲のまた上の雲の存在のごとくされてしまっている。
だが、実際は建国統一時の七世紀の御方さまなのである。
 だからこそ、「八紘」が、太陽が世界を照らす光として「旭日旗」となったのである。かつて帝国海軍として「水ずく屍」となって日本を守るために潔よくみな散っていった。
それは、八の民が祖先から住みついた国土を守る為であった。
 運動会に張りめぐらす幕でも紅白とはいえ、交互は同じでも天地に赤は一反ずつ余分についている。その意味は、豊葦原を大切にする、白の騎馬民族より、
赤の八の黒潮渡来民族の方が先に住み着いて、この日本列島を開拓し、米を植え付けミズホ(瑞穂)の国にしたからなのである。
「親の光りは七光り」というが、それより上の「八光り」が、この日本を作ったのである。
今も海上自衛隊の軍艦旗が、八光の倍の十六光なのは、こうした日本海洋渡来民族の深い意味があるのである。
韓国や中国が旭日旗に文句をつけても、日本人は大いに誇りをもって堂々と掲げるべきである。
 北海道のアイヌ達は昔、内地からくる舟乗り連中を、彼らが七福神信仰ゆえ、「べんてん衆」と呼んだ。
新泉社刊行モンプチのアイヌ民謡集の本にも、何箇所にもでてくる呼称なのである。
 江戸時代に北海道の松前へ渡っていって、昆布や鮭や獣皮を集めていたのは、函館に銅像が立っている高田屋嘉兵衛だが、
それより以前は、越前加賀の銭屋五兵衛の五百石船である。となるとサンカは「セブ」をはる山の民だけに限るような見解は直すべきである。
海洋サンカは荒波を集団で乗り切って働いていたのである。
そして、日本国旗の「日の丸」についても、これには前述したように、日本民族の二大区分をなす、海洋民族と騎馬系民族の連携という意味がある。
次回に「日の丸と君が代の由来」を掲載予定です。



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