考察 明智光秀 「若かりし頃の明智光秀」
明智光秀は、東美濃可児郡明智城、享禄戌年生まれ。明智光継の三女で小見の方が母親である。しかし父親は不明。母親の小見御前というのは、上の姉二人は十五歳でそれぞれ縁づいたが、二十一になるまで嫁に行っていなかった。時の美濃国主、土岐頼芸が無理矢理四十男の斉藤道三へ嫁がせた。(当時の平均結婚年齢が十五~十六歳なのに、六年も嫁入りが遅れたのは何故なのか、謎である)そして後に道三と小見の方の間に奇蝶が生まれ、この奇蝶が織田信長の妻となる。従って奇蝶とは異父兄妹であり、信長とは義理の兄妹にも当たる。
天文二十年三月、道三に嫁いだ小見の方が亡くなると同年四月、二十三歳になった光秀は明智城を出て諸国を流浪する。越前の朝倉義景の家臣の端くれに納まっていたとき、足利義昭が朝倉を頼って越前にやってきた。 (三年前の永禄八年五月、三好松永勢に将軍足利義輝が襲われた時、弟に当たる義昭は当時奈良一乗院の門跡で「覚慶」を名乗っていたが、近江甲賀へ逃げ、やがて矢島の六角承視を頼り、翌年は若狭の武田義統へ行ったが協力が得られずやむなく朝倉を頼って来たのである。
世が世なら将軍になる筈が、この時は諸国流浪の身であった)この足利義昭に申次衆として仕えていた長岡藤孝(後の細川幽斎)がなかなかの策士で、光秀が今は無名だが、信長の正室奇蝶と異父兄妹と判るや、「利用価値有り」と判断して義昭にこの事を進言した。というのはこれには訳がある。当時貴人に会うには”色代”といってそれ相当の銭が必要だった。室町御所での表向きの色代は銭三十疋が相場だった。当時雪深い越前当たりをどさ廻りの義昭にとっては、銭十疋でも御の字あっただろう。それを実直にも馬鹿正直な光秀は、相当に無理をしてかっきり三十疋持って行ったから、金蔓だと思われたのだろう。
「身分や地位などどうでも良い、金蔓と思うたら逃がすでないぞ。なんせ、この義昭が晴れて将軍になれるもいなやも、一に懸かって金次第じゃ。今の明智とか申す奴にも其方の口より、もし精出して忠義を尽くすにおいては、将来直臣に取り立て目を掛けてやらぬでもない、等とおいしいことを申し伝えておけよ」と長岡に言いつけた。この時代には忠義などと言う儒教の訓育は輸入されていない。だから(金を貢いで持ち込んできたら)といった意味でもあろう。何しろ義昭にしてみれば、ここ朝倉は思いの外にケチで軍資金を出さぬから、越後の上杉や地方の主立った武将に対して片っ端から、(兵をだしてくれるか金をだしてくれるか)側衆を派遣して催促していた矢先なのである。
例え無名の者でも、三十疋の現なまをポンと持ってくるような者は何としてでも自家薬籠中のものとしておきたいところだった。処が義昭は美濃尾張の兵力を使うために、信長と義兄弟の光秀を何とか信長との間の橋渡し役に使おうと画策し、色々汚い手を使って朝倉家からの追い出し策を弄する。
この時、流浪の旅に疲れ果てた光秀の妻、しら、が奇蝶を頼った。というのは、信長が美濃を占領したので奇蝶も岐阜城の二の丸へ来ていた。そして、新しく美濃で領地を貰った尾張衆と、それまでの美濃者との争いが多く、公事の裁きを奇蝶はしていたので、夥しいお目見得料が集まっていたのである。しらから今までの経緯をすっかり打ち明けられた奇蝶は、
「長岡藤孝が十兵衛殿に目を付け、義昭公の直臣にと言うは、おそらく斉藤龍興が失脚した今日、この織田家を利用せんとの企みとも覚ゆる。が、こないな内幕を教えたとて、あの一本気で石頭の十兵衛どのには、とても判っては貰えまいのう」と思案にくれていたが、「これまでは十兵衛どのは意地になって、わが夫の織田信長には近づくまいと避けていられたが、義昭どのの御家来ともなれば、向こうさまはその為にお傭いになるのゆえ、もう否応なしにわが夫と逢わねばならぬだろう。
その時十兵衛どのにみすぼらしくされていては、うちの信長どのは、直ぐ他人を小馬鹿になさるお人ゆえ始末がつかぬ。幸いこの岐阜城二の丸へ戻ってからは銀も銭もどしどし入ってくる。
これを悉皆そちらへ送り届けるによって、先ずは京で大きな屋敷を求めて引き移り、名のある牢人にて素性の良き者など集めなされ」と、助言した。
そこで、しらは奇蝶の腹心の者に案内され京へ行くと、二条小路に一町四方もの大邸宅を見つける。次の日から三々五々武者達が、「この度、手前お取立を頂きました何某でござる」次々と挨拶に来た。館の裏手には長屋が並んでいて、そこが武者長屋になっていて、新規に召し抱えられた者たちは皆そこへ納まってから、「明智の殿は何時御上洛にて」と、しらの許へ毎朝ご機嫌伺いに来た。そこでしらが使いを立てて夫光秀に来て貰った。
到着した光秀は呆気にとられて驚いたが、それより面食らったのは出迎えた新しい家臣の面々である。(これ程の大きな館をもうけ、どんどん自分たちを採用してくれるからには、さぞかし立派な武将で、きっと馬に乗り雄姿堂々とあまたの共武者を従えてくるもの)とばかり思っていたところ、尻端折りして古槍を担いだのが共も連れずに、「おう」と館へ入ってきたのだから、すっかり皆が予期に反し、ビックリ仰天してしまった。また光秀の方も居並ぶ連中が、新しい家来だとしらに言われても「えッまことか」と、自分が主人なのに「みな、よろしゅう頼むぞ」と此方から声をかけ頭を下げてしまった。(奇蝶の方から光秀に接触したと書かれた物もある)
だが、人間の心理というのは妙なもので、頭ごなしに横柄に扱われるものとばかり覚悟していた新参の連中は、こうなると光秀の人柄に傾倒してしまって、口々に「実るほど頭の下がる稲穂かな、と言うけれど、この殿はよくよく出来た御方らしい。この殿のために吾らは粉骨砕身の奉公をせずばなるまい」とみな感動して光秀を慕った。
ここで「細川家記」永禄十一年七月十日の条を引用すると、「明智光秀の家来溝尾庄兵衛と三宅籐兵衛が二十余人の共武者をもって阿波口にて待ち、七月十六日に一乗谷を出た足利義昭の一行の供をなして穴間の谷から若子橋へ出ると、京より明智光秀が仏が原の所で五百余の家来を率いてこれを迎え、それより織田信長の家臣不破河内守、村井民部、島田所之助らの待つ近江犬上郡多摩へおもむき、二十五日には美濃の立政寺へ道中無事に義昭の一行は光秀主従に護衛されて到着した」とある。
これまでの通説のように、光秀は朝倉家へ奉公中も五百貫どり、信長に仕えた後も初任給五百貫というのは、どうも誤りのようである。一貫一石と換算しても五百余の家臣といえば、これはたいしたもので、後の三万五千石の浅野内匠頭等は士分の他に足軽小者を入れても三百とは家来がいなかった。少なくとも光秀は最初から六、七万石の格式である。
この当時の公卿の日記である「言継卿記」や「兼見卿記」「中山家記」「宣教卿記」などによると、「元亀元年二月三十日、信長の一行は岐阜より上洛し、光秀邸に泊まり翌三月一日光秀に案内されて禁裏へ伺候」「同年七月四日、姉川合戦に勝利をえて、織田信長はその旗本共と二条の光秀屋敷に逗留し、七日に岐阜へ帰る」などとある。勿論この時代は、光秀はまだ足利義昭の方の直臣であって、信長の家来に等なっていない。
そしてこの当時の階級制度からゆくと、武門の棟梁は室町御所を二条城に移した足利義昭だから、その直臣の光秀は格からいくと信長と同列となる。だから信長から足利義昭へ出した諫言の書簡でも、はっきり信長はそれに、「明智十兵衛尉殿」と殿という敬称を書いている。だから上洛の時信長が光秀の館を宿舎に当てたというのは、当時の京都にはホテル等なく、何百という人数を宿泊させる所は何処にも無かったせいだろう。
だから信長は、まさかその豪壮な邸宅が、妻奇蝶のスポンサーによるものとは知らず、(かかる大邸宅を持ち、五百余の家来を持つとは、光秀はなかなかの者である)と、今も昔も信用というのはやはり金だから、すっかり買いかぶってしまい、これは人材であると見込まれたらしい。
そこで、「足利義昭より、この信長の客分になりなされ」とスカウトされていて、織田家からも知行地を近江の志賀に貰っていた。だから秀吉が近江長浜で初めて城持ちになった頃は、光秀はとっくに近江坂本に自分で城を築き、すでに一国一城の主にまでなっていた。
小者として奉公し努力を重ねて立身した秀吉には、初から客分として入り込んできた光秀は、煙たい存在であったらしい。
また光秀は、恰好をよくつけるために、奇蝶から夥しい銀や銭を貰っていた義理から、天正十年六月二日の本能寺の変が起きると、光秀に付いていた軍監の斉藤内蔵介の仕業で自分は無関係だったにもかかわらず、その黒幕が奇蝶だと聞かされると、仕方なく名目人になったりして、まんまと長岡藤孝のもうけた罠に落ちてしまい、現在では本能寺の犯人にされてしまっている。
何しろ秀吉にすれば、かねて面白くない競争相手だったから、これを山崎円明寺川で破るや、さも光秀が信長殺しで、自分は仇討ちをしたように宣伝した。また徳川三百年の間は、この信長殺しというのは、これは徳川家のタブーであったから、御三家水戸の御用学者頼山陽は、「神君家康公のおんため」を慮って、「敵は本能寺にあり」といった光秀謀反説を強調するものを作り、これを流行させてしまった。
天文二十年三月、道三に嫁いだ小見の方が亡くなると同年四月、二十三歳になった光秀は明智城を出て諸国を流浪する。越前の朝倉義景の家臣の端くれに納まっていたとき、足利義昭が朝倉を頼って越前にやってきた。 (三年前の永禄八年五月、三好松永勢に将軍足利義輝が襲われた時、弟に当たる義昭は当時奈良一乗院の門跡で「覚慶」を名乗っていたが、近江甲賀へ逃げ、やがて矢島の六角承視を頼り、翌年は若狭の武田義統へ行ったが協力が得られずやむなく朝倉を頼って来たのである。
世が世なら将軍になる筈が、この時は諸国流浪の身であった)この足利義昭に申次衆として仕えていた長岡藤孝(後の細川幽斎)がなかなかの策士で、光秀が今は無名だが、信長の正室奇蝶と異父兄妹と判るや、「利用価値有り」と判断して義昭にこの事を進言した。というのはこれには訳がある。当時貴人に会うには”色代”といってそれ相当の銭が必要だった。室町御所での表向きの色代は銭三十疋が相場だった。当時雪深い越前当たりをどさ廻りの義昭にとっては、銭十疋でも御の字あっただろう。それを実直にも馬鹿正直な光秀は、相当に無理をしてかっきり三十疋持って行ったから、金蔓だと思われたのだろう。
「身分や地位などどうでも良い、金蔓と思うたら逃がすでないぞ。なんせ、この義昭が晴れて将軍になれるもいなやも、一に懸かって金次第じゃ。今の明智とか申す奴にも其方の口より、もし精出して忠義を尽くすにおいては、将来直臣に取り立て目を掛けてやらぬでもない、等とおいしいことを申し伝えておけよ」と長岡に言いつけた。この時代には忠義などと言う儒教の訓育は輸入されていない。だから(金を貢いで持ち込んできたら)といった意味でもあろう。何しろ義昭にしてみれば、ここ朝倉は思いの外にケチで軍資金を出さぬから、越後の上杉や地方の主立った武将に対して片っ端から、(兵をだしてくれるか金をだしてくれるか)側衆を派遣して催促していた矢先なのである。
例え無名の者でも、三十疋の現なまをポンと持ってくるような者は何としてでも自家薬籠中のものとしておきたいところだった。処が義昭は美濃尾張の兵力を使うために、信長と義兄弟の光秀を何とか信長との間の橋渡し役に使おうと画策し、色々汚い手を使って朝倉家からの追い出し策を弄する。
この時、流浪の旅に疲れ果てた光秀の妻、しら、が奇蝶を頼った。というのは、信長が美濃を占領したので奇蝶も岐阜城の二の丸へ来ていた。そして、新しく美濃で領地を貰った尾張衆と、それまでの美濃者との争いが多く、公事の裁きを奇蝶はしていたので、夥しいお目見得料が集まっていたのである。しらから今までの経緯をすっかり打ち明けられた奇蝶は、
「長岡藤孝が十兵衛殿に目を付け、義昭公の直臣にと言うは、おそらく斉藤龍興が失脚した今日、この織田家を利用せんとの企みとも覚ゆる。が、こないな内幕を教えたとて、あの一本気で石頭の十兵衛どのには、とても判っては貰えまいのう」と思案にくれていたが、「これまでは十兵衛どのは意地になって、わが夫の織田信長には近づくまいと避けていられたが、義昭どのの御家来ともなれば、向こうさまはその為にお傭いになるのゆえ、もう否応なしにわが夫と逢わねばならぬだろう。
その時十兵衛どのにみすぼらしくされていては、うちの信長どのは、直ぐ他人を小馬鹿になさるお人ゆえ始末がつかぬ。幸いこの岐阜城二の丸へ戻ってからは銀も銭もどしどし入ってくる。
これを悉皆そちらへ送り届けるによって、先ずは京で大きな屋敷を求めて引き移り、名のある牢人にて素性の良き者など集めなされ」と、助言した。
そこで、しらは奇蝶の腹心の者に案内され京へ行くと、二条小路に一町四方もの大邸宅を見つける。次の日から三々五々武者達が、「この度、手前お取立を頂きました何某でござる」次々と挨拶に来た。館の裏手には長屋が並んでいて、そこが武者長屋になっていて、新規に召し抱えられた者たちは皆そこへ納まってから、「明智の殿は何時御上洛にて」と、しらの許へ毎朝ご機嫌伺いに来た。そこでしらが使いを立てて夫光秀に来て貰った。
到着した光秀は呆気にとられて驚いたが、それより面食らったのは出迎えた新しい家臣の面々である。(これ程の大きな館をもうけ、どんどん自分たちを採用してくれるからには、さぞかし立派な武将で、きっと馬に乗り雄姿堂々とあまたの共武者を従えてくるもの)とばかり思っていたところ、尻端折りして古槍を担いだのが共も連れずに、「おう」と館へ入ってきたのだから、すっかり皆が予期に反し、ビックリ仰天してしまった。また光秀の方も居並ぶ連中が、新しい家来だとしらに言われても「えッまことか」と、自分が主人なのに「みな、よろしゅう頼むぞ」と此方から声をかけ頭を下げてしまった。(奇蝶の方から光秀に接触したと書かれた物もある)
だが、人間の心理というのは妙なもので、頭ごなしに横柄に扱われるものとばかり覚悟していた新参の連中は、こうなると光秀の人柄に傾倒してしまって、口々に「実るほど頭の下がる稲穂かな、と言うけれど、この殿はよくよく出来た御方らしい。この殿のために吾らは粉骨砕身の奉公をせずばなるまい」とみな感動して光秀を慕った。
ここで「細川家記」永禄十一年七月十日の条を引用すると、「明智光秀の家来溝尾庄兵衛と三宅籐兵衛が二十余人の共武者をもって阿波口にて待ち、七月十六日に一乗谷を出た足利義昭の一行の供をなして穴間の谷から若子橋へ出ると、京より明智光秀が仏が原の所で五百余の家来を率いてこれを迎え、それより織田信長の家臣不破河内守、村井民部、島田所之助らの待つ近江犬上郡多摩へおもむき、二十五日には美濃の立政寺へ道中無事に義昭の一行は光秀主従に護衛されて到着した」とある。
これまでの通説のように、光秀は朝倉家へ奉公中も五百貫どり、信長に仕えた後も初任給五百貫というのは、どうも誤りのようである。一貫一石と換算しても五百余の家臣といえば、これはたいしたもので、後の三万五千石の浅野内匠頭等は士分の他に足軽小者を入れても三百とは家来がいなかった。少なくとも光秀は最初から六、七万石の格式である。
この当時の公卿の日記である「言継卿記」や「兼見卿記」「中山家記」「宣教卿記」などによると、「元亀元年二月三十日、信長の一行は岐阜より上洛し、光秀邸に泊まり翌三月一日光秀に案内されて禁裏へ伺候」「同年七月四日、姉川合戦に勝利をえて、織田信長はその旗本共と二条の光秀屋敷に逗留し、七日に岐阜へ帰る」などとある。勿論この時代は、光秀はまだ足利義昭の方の直臣であって、信長の家来に等なっていない。
そしてこの当時の階級制度からゆくと、武門の棟梁は室町御所を二条城に移した足利義昭だから、その直臣の光秀は格からいくと信長と同列となる。だから信長から足利義昭へ出した諫言の書簡でも、はっきり信長はそれに、「明智十兵衛尉殿」と殿という敬称を書いている。だから上洛の時信長が光秀の館を宿舎に当てたというのは、当時の京都にはホテル等なく、何百という人数を宿泊させる所は何処にも無かったせいだろう。
だから信長は、まさかその豪壮な邸宅が、妻奇蝶のスポンサーによるものとは知らず、(かかる大邸宅を持ち、五百余の家来を持つとは、光秀はなかなかの者である)と、今も昔も信用というのはやはり金だから、すっかり買いかぶってしまい、これは人材であると見込まれたらしい。
そこで、「足利義昭より、この信長の客分になりなされ」とスカウトされていて、織田家からも知行地を近江の志賀に貰っていた。だから秀吉が近江長浜で初めて城持ちになった頃は、光秀はとっくに近江坂本に自分で城を築き、すでに一国一城の主にまでなっていた。
小者として奉公し努力を重ねて立身した秀吉には、初から客分として入り込んできた光秀は、煙たい存在であったらしい。
また光秀は、恰好をよくつけるために、奇蝶から夥しい銀や銭を貰っていた義理から、天正十年六月二日の本能寺の変が起きると、光秀に付いていた軍監の斉藤内蔵介の仕業で自分は無関係だったにもかかわらず、その黒幕が奇蝶だと聞かされると、仕方なく名目人になったりして、まんまと長岡藤孝のもうけた罠に落ちてしまい、現在では本能寺の犯人にされてしまっている。
何しろ秀吉にすれば、かねて面白くない競争相手だったから、これを山崎円明寺川で破るや、さも光秀が信長殺しで、自分は仇討ちをしたように宣伝した。また徳川三百年の間は、この信長殺しというのは、これは徳川家のタブーであったから、御三家水戸の御用学者頼山陽は、「神君家康公のおんため」を慮って、「敵は本能寺にあり」といった光秀謀反説を強調するものを作り、これを流行させてしまった。
が、徳川政権はその後つぶれてしまったから、もう家康に気兼ねする事もないのだが、今でも江戸時代と同様に、光秀が信長殺しと誤っているような不勉強な読み物も多い。さて「人生は禍福をあざなえる縄のごとし」というが、光秀の妻のしらが、
岐阜城へ奇蝶を訪れなければ、よし貧乏であったにしろ流れ者の暮らしであったにしろ、この夫婦はもっと穏やかに人生を送り、天寿を全うできたかもしれない。また光秀が四十過ぎるまで、縁続きの奇蝶を厭がって近づかず、その夫の信長の許へも行かなかった理由は、(接近すると将来ろくな目に遭わない)といった予感が有ったのか、又奇蝶の烈しい性格をよく知っていて(剣呑である)と用心して、側へ行かぬ算段をしていたのかこれは明らかではない。
岐阜城へ奇蝶を訪れなければ、よし貧乏であったにしろ流れ者の暮らしであったにしろ、この夫婦はもっと穏やかに人生を送り、天寿を全うできたかもしれない。また光秀が四十過ぎるまで、縁続きの奇蝶を厭がって近づかず、その夫の信長の許へも行かなかった理由は、(接近すると将来ろくな目に遭わない)といった予感が有ったのか、又奇蝶の烈しい性格をよく知っていて(剣呑である)と用心して、側へ行かぬ算段をしていたのかこれは明らかではない。
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