新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

高松塚古墳はカマクラ(住居)だった。 桃源郷が藤原京 松本清張の説は卓越していた

2019-06-29 12:25:50 | 新日本意外史 古代から現代まで

    

     高松塚古墳はカマクラ(住居)だった。

 
 日本は万世一系の国だが、株主総会で役員が変るごとく、王朝も天(あま)の朝は天照大神を最後に、崇神、仁徳、継体と変遷がある。 さて、高松塚古墳が作られたとみられる飛鳥朝の欽明、推古期は、六世紀の後半から七世紀へかけてである。
その欽明朝は、継体帝第四子天国排開広尊だが、もちろん上にアマの字がついても、これは『日本書紀』を作った藤原体制の都合での命名で、天の朝とは無関係である。  なにしろ日本列島は、この時代から、 「世の中が変わった」という現象を示し、仏教が入ってきたり、唐風にすべてが変り、 「弁髪」と称して男でも豪い人は三つ編みのお下げを、だらりと垂らしていたから、「‥‥長い物には巻かれろ」とする日本人的精神が地下(ぢげ)人達の間にここに芽生え、今でいえば英会話学校のようなのが出来て、そこで、会計や計算を、 「イ、アル、サン、スウ」とやったものらしい。
 今日でも数の数え方を、「算数」とよんだり教科書のタイトルにするのも、その頃の名残りである。もちろん若い人は物覚えが早かったが、中年以上の者はそうはゆかず、といってカンニング・ペーパーを作ろうにも紙があまりなかった時代なので、木片を削って、「何であるか‥‥シヨマ」「判りました‥‥ミンパイ」「早く‥‥カイカイジー」などと、会話早判りを細かく書きつけたものを、みな持ち歩くようになった。
しかし、あんまり大きなのを担ぎ廻っては後の主婦連に間違えられるから、その範囲を一坪つまり3.3平方メートルの百分の一以下に定めて勺(しゃく)とよんだ。 今では何坪何合何勺といった使い方をされ、木片の方は「笏(しゃく)」の字が当てられている。イチイ、ヒイラギ、桜といった書き直しに便利な削りやすい物ばかりだけでなく、竹の太いのも使われていたのだろう。 しかし明治になると、この笏のすこしの大小でも問題になり、「爵位」となって、お公卿さんは公、侯、伯、に分けられ、旧大名は子爵となったのである。  さて、高松塚古墳は、ちょうどその頃のものゆえ、壁画のカラフルな美人画が、カラ風(ふう)な下ぶくれ型であっても別に可笑しくない。  しかし、藤原氏は天下を握りだすと、「カラ=唐」という用語は禁じてしまい、「韓=カラ」と呼ばせるようにしだした。 いわゆるカラ神と称されるのが、高句麗系だったり百済のであるのはこのせいである。
 
                  桃源郷が藤原京    (漢字の当て字に惑わされてはいけない)
 
そしてカラを韓にすり替えただけでなく、「漢」の字も、天の朝に似通ったアの発音をつけてアヤと称せしめた。『延喜式』などの「今来漢人(いまきあやひと)」も、漢つまり唐から来たばかりの新知識というのではなく、百済人をさして用いている。 つまり作成者の都合で、カラはすべて、みな唐ではないように書かれている。では、日本史で彼ら自身のことは何と自称したかといえば、そこは漢字の国の出身ゆえ、 「トウはトウでも、藤」としたものらしい。
うがった見方をすれば、春夏秋冬季節の移り変りがはっきりしていて、当時はスモック公害もない日本列島へやってきて、「これ、桃源郷か」と、「トウゲン」とよび、それが藤原の名のりになったのかも知 れぬ。なにしろ高松塚古墳の見つかったところも、「藤原京」というが音読では「トウゲンキョウ」なのである。
 
 なにしろ日本では明治中期までは、「漢字は当て字、つまり発音さえそれで通れば差し支えない」とされていたので、新選組が新撰組になったり、今の秋刀魚も昔の『浮き世風呂』や『吾が輩は猫である』 では、三馬と書かれているくらいのものである。
誤字とか当て字がうるさくなったのは、入社試験の問題にフルイとして意地悪く使われ出した時からで、まるでそれが常識や教養を計るバロメーターなみになったのだが、昔は、当て字どころか当て絵で、暦さえ出来ていた程である。
 
さて、今ではあまり豪くはないらしいが、かつては家長として威張っていたのを、「トウさん」とあがめて呼んだり、 「良家の子女」つまり京都大阪方面の、大きな商家の娘に対して、 「嬢さん」と文字はかくが、これを、「トウさん」「トウはん」とよぶのも、現代ならば、やはり「唐さん」と書かねばならぬところなのだろう。なにしろ河竹黙阿弥の、『白浪五人男』の浜松屋の店先の場でも、 「これは、トイチな御嬢さま」と、江戸でも判るような台辞になっているが、この場合でも字を当てるなら、(唐でも一番の)といった最高級の賞め言葉であろう。 「といち、はいち」といった俗語もそれからでているし、『枕の草子』に、「近衛の中将を、頭(とう)の中将と申しはべる」とか、「蔵人の頭」というのもあって、 「頭はトウ、つまり唐」を意味するから、最高位をやはり公家ではそう発音し、適当に当て字をして用いていたものだろう。
 また、人形屋やデパートの宣伝で、「ひな祭りは古くから宮中でまつられた由緒正しき奥ゆかしいもので‥‥」と勿体をつけるけど、御所が平安京の京都にあった明治までは、絶対にそんなことはないので ある。『続日本紀』によれば、
 
 
「唐武太后の故事をしのび神護景雲元年三月三日より、文士を西大寺法院に集め、帝は曲水の賦をなさしめ、頭初(第一位)に賞扶を賜わる」とさえ明記される。 『事物起源』では、だからして、「三月三日は曲水宴[きょくすいのえん]とよび、御所では流水に漢文の七言絶句の色紙を浮かべ、文武百官酒盛りをなす。夷祭は明正帝の御代のみ、御生母中福門院 (徳川英忠の娘の和子)がなせしが、その後は忌み嫌われて、これは斥けられる」と出ている。
 つまり内裏さまや親王さまが並ぶお白神の元型で、今のこけしの原点であるお雛さまであっても、三月三日、御所で行われる唐武太后の曲水宴には、到底うち勝てなかったくらいである。 「トウ」と名のつくものは、つまりすべてにおいて立ち勝り豪かったのが、高松塚古墳のできた頃から始まった日本風俗なのである、といっても決して過言ではなかろう。  さて、日本史の根本資料の『日本書紀』では、 「日本には確定した国家が既にあって、そこへ唐に滅ぼされた百済などの人間が、現在の言葉でいえば逃亡奴隷のごとく、亡命してくるのを帰化人として受け入れ、それらへ保護を加えた」といったような書き方をしている。
 
しかし、これは藤原体制によって編さんされた歴史だから、彼らに百済人が降伏帰化したのがそうなっているだけの話にすぎない。なにしろ三韓時代から一衣帯水の距離にあった日本は、そのコロニーの状態だった。
つまり、弁韓、辰韓、馬韓の三つが、それぞれ日本へ植民地を持っていたらしい。その名残りは、 「ムネサシ(胸刺)の国が、今の埼玉」 「ムウサシ(武蔵)の国が、今の東京」 「サネサシ(実刺)の国が、今の神奈川県」 の例は前にも述べたが、サネは、「首城、主城、中核城」をいうのだろう。 「むね」とか「むう」というのは、その後、「仰せをむねとし」とか「むうと念じ」などと日本語に転化し、「さねさし」の方も、「相模の枕言葉」とされていたが、やがて、「女性自身の枕言葉」とされていたが、やがて、 「女性自身の中核」をさすようにもなる。つまり日本中が、かつては、 「備前、備中、備後」「越前、越中、越後」「羽前、羽中、羽後」とよぶごとく、三つに分かれていたのも、なんといっても三韓の頃の名残りであろう。ということは、 俗にいう、「神功皇后の三韓征伐」などは、本当のところ三韓よりの征伐であったのが正しかろう。
 
 
 しかし大陸の魏が乱れ五胡十六国に分かれるような世になると、朝鮮半島に鼎立していた三韓も、次々と唐に滅ぼされた。 オランダがナポレオンに屈伏した際も、日本の長崎の出島だけには、オランダ国旗が世界でただ一流はためいていたというが、普通は本国が滅ぼされると植民地も奪われる。 それにフランスから長崎では速すぎるが、中国大陸から日本はきわめて近いのである。 『日本書紀』の「天智紀」に出ている処の、「白鳳二年八月二十七日、吾軍唐軍と白村江に戦って利あらず」とされる六六三年が、どうも日本へ彼らの進駐の、きっかけを与えたものではあるまいかと想われる。  つまり、高句麗らの北鮮系を追い、南鮮系の百済人がもっとも勢力をえていて、「百済にあらざれば人にあらず」とされ、 「百済ではない‥‥詰らぬやつ」というのが、「‥‥クダラないやつ」と今でも訛って残っているくらいの権勢をもち、百済語で、「国」を意味するところの、ナアラをもって、「奈良」の都まで建てていたのが、次 第にその勢力を増してきたトウ氏によって、「本国の百済はすでに滅び亡国の民のくせに、汝らはよい加減にしたらどうや」と、せっかくそれまで営々として築いてきた地盤を、百済人が奪われてしまうのが、ちょ うど高松塚古墳が出来たと推理されている八世紀の初頭に当たる。   
 松本清張の説は卓越していた
つまり紺屋の白袴というのか。これまでの文部省検定パスの自分の本が、教科書として売れなくなるのを怖れてか、歴史家の肩書きをつけられる人は、まだ、「遺骨は帰化人貴族の百済人か?」などと、臆面もなくコメントを発表しているが、 その点はっきりと作家の故松本清張は、 「日本と朝鮮は、同一民族」の説をうち出している。つまり、その意見は、「皆が思っているように吾々が朝鮮文化を吸収したのではなく、もともと同一民族で極言すれば、日本は朝鮮から分かれた国で、対馬海峡があるので向こうが動乱のとき 日本は独立し、先住原住民の風習を融合しより日本的になった。つまりアメリカが英 国から独立したごとく‥‥」というのである。
 
凡俗の歴史家の述べるところよりは卓越なものである。 だが、竿頭一歩すすめれば、これでも違う。 つまり八世紀に大陸から独立をしたのは、なにも日本の国そのものではない。進駐してきていた藤原勢力が、「もはや、われらは唐ではなく藤である」 と、彼らは勝手に独立したのだろう。征圧されていた高句麗系の北鮮人や、土着の 天の朝系の西南種らの日本原住民を、奴隷化して、ここに独立したのである。 いうなれば、故マッカーサー将軍以下が、あのまま住みついて日本各地に、その後も基地を置きっ放しで、新アメリカ日本州として独立させてしまったようなものである。
 
 
さて、日本古代史が専門という井上光貞説では、「七世紀後半の物と高松塚古墳は推定できる。八世紀に入ってからとは考えられない。 文武天皇の時から火葬になっているのに、高松塚には骨が残っていない」と、きわめて明快だが、これではあまりに単純すぎる。東大で講座をもっている方の説だから傾聴したいが、どうも感心しない。これは六国史の中の、 『日本文徳天皇実録』の中からの援用だろうが、高句麗人は西南系土着民と混じってから、「拝火教」の宣撫をうけ彼らの火葬に同化するが、百済人は土葬であって、これは858年の文徳帝の死後も、河内交野を初め百済系の多かった墳墓の発掘によっ ても、明白にされていることである。
 
それでは、その首級のない高松塚古墳の遺骨が誰なのか? つまり何族人なのか?というので、いろいろ談義されているが、草壁皇子にしろ高市皇子であっても、百済人であるとみれば問題ない。 それを七世紀後半の日本列島に、ちゃんとした日本国が厳然としてあって、そこに、「日本人」とよぶ民族が既に今のごとく、存在していたとするからすべてが可笑しくなる。 つまり『日本文徳天皇実録』をも含む六国史が、渡来したトウの人の漢文によって書かれたものと正確につかめず、それを、(日本国なるものがイザナギ、イザナミの二神によって、天の浮橋より天の鉾にて創 られた時から、ある程度の国家形態をととのえ七世紀まで確固として存続。
 
百済が滅びた時も断固武力にて本土防衛をして、亡命した帰化人を保護し得るだけの実力があった) とするような妄想に取りつかれるからして、ために種々の揣摩臆測が出るのだろう。
「皇子」なる文字からして、どうも誤まるのだろうが、 『日本書紀』の中でも堂々と、中大兄皇子が蘇我入鹿を大極殿で仆してしまう条を、「韓人、鞍作りを殺す」と、中大兄皇子のことを頭ごなしにそう呼び、後に皮はぎして馬鞍や馬具作りとなる北鮮系の、騎馬民族の末裔の蘇我氏を侮るごとくに書いてい る。だから、その遺骸から首級がなくなっているのも、埋葬後何人かが入って荒らしている事実も、盗人の仕業ではなく、つまり、「政争で世の中が変わり、敗者となり反体制となった被葬者への、制裁か報復での墓あばきとみられる」と、奈良県種原考古学研究所でも、高松塚への意見を発表している。 ということは、これも、 (クダラ系が押さえていた天下を、やがて藤原氏と自称する唐からの人たちに奪われ、かつては吾らの事をさえ、クダラでないのはクダラねえと罵りおった不届き者め‥‥) と、その墓を荒らされたのだとする裏書きともなるのだろう。
 
 なにしろ高松塚古墳の場所が、「藤原京」ともよばれた橿原の朱雀大路の下ってきたところ。大極殿の建物のあった個所から真っすぐの地点にあるゆえ、そこの地元の研究所の意見は正しかろうと想える。 また、被埋葬者を、持統・天武の御子、とされる草壁皇子や高市皇子とする推測の他に、 「天武帝の九番目の御子の刑部親王」ではないかとする説も出ている。
しかし、後の戦国時代以降になっても、藤原体制の公家なるものは、七世紀から八世紀へかけての彼らの建国の際に、あくまでも抗戦したゲリラの末裔。つまり捕らえ た後、「別所、、院地、院内」の名でよばれた捕虜隔離収容所へ抑留した俘囚の子孫の武家に対しては、それが大名でも、
「清掃人夫取締役----掃部守(かもんのかみ)」
 「配膳台所勝手役----内膳正(ないぜんのしょう)」
 「水くみ運搬の役----主水正(もんどのしょう)」
 「税金を徴収の役----主税(ちから)」
 
そして、現今と違って裁判官を、他から怨嗟の的となる嫌われ者の役としていたから、 「弾正」の名称で、武家につけたが、「刑部」も、おさかべとは読ませたが、今でいうなら捕物に向かう刑事のことで、これも、やはり嫌われ役として武家に限った。 これは、千金の子は盗賊に死せず、とする中国の格言からきていて、「トウとい藤原氏の子孫のする役ではない」 と定まっていたものである。なのに、その刑部をもって名とされているという事は、いくら天武さまの御子でも、その御生母がぱっとしなかったせいではなかろうか。
また『日本書紀』の持統帝五年の記に、 「百済王義慈の伜にて持統帝より、百済王の名のりを許され公卿となって、飲食物や衣裳などを拝受した」とでている善広が、その遺骨の主ではないかとする説もある。 だが、みなれっきとした百済系ゆえ、これなら火葬してないのも当然だし、壁画の女人が、顔は唐風でも、チョコリ[チョゴリ]やチョマ[チマ]を身につけているのもうなずける。 さて、木棺を布で巻き、漆をかけた棺として発見されたので、墳墓と扱われている。
 
 しかし宮殿や公共の建物、社寺は別として、十一世紀頃になっても、日本人の一般は堅穴を掘って生活していたのは事実である。 百済人もまた横穴を大きく掘り、石材で周りをかため、住居にしたのは、建築技術の進まなかった当時、冷暖房上きわめて自然だった。 という事は、棺があっても墳墓でなく、マイホームだったかも知れぬという疑問である。 なにしろ、そのマイホームの事を古代朝鮮語では、「カマクラ」とよぶ。 のち騎馬民族の末裔で、自分らこそ、「ミナモトの民なり」と自称した連中が、相州釜利谷(かまりや)別所の山にたてた鎌倉幕府の、「カマクラ」だが、今も東北で雪をかためて作る小さな氷室をよぶごとく、朝鮮系の マイホームは小さな円形横穴だったのである。
 さて、日本では、 「木が流れ、石が沈む」という真逆で倒錯した譬がある。
 
というのは、遺骸の主かともされている高市皇子が、十市(といち)(唐一)皇女の死をなげき、(山吹の咲く泉への道を知らぬのは悲しい)  とうたっている挽歌について、 「これは、シルクロードを通って伝えられた生命の泉の絵があったのだと、K・Dさんがいっているのを、高松塚古墳の墳墓の絵をみて俄然私の中によみがえってきた」  と、四月十八日付のY紙の夕刊に、成城大の某さんという人が書いている。
さて、高松塚古墳の副葬品の中に白銅鏡が発見されている。「海獣葡萄鏡」とよばれるもので、法隆寺五重塔の心礎から発見されている葡萄鏡と図柄が酷似している。 また同じく正倉院御物の、「金銀鈿荘唐太刀(でんかざりからたち)」の刀の柄と同じ唐草形の透かし彫りが、やはり副葬品の中にある。 これと壁画の「白虎」の後足にみられるなつめ椰子の葉をイラストしたとされる、「パルメット模様」について、高名な歴史家達は同じように筆を揃えて、 「シルクロードを通ってペルシャあたりから唐へ入り、それが日本へ伝来してきたもの」と、まことあっさりとかたづけられている。 勿論、なにもこれは今になって始まったことではなく、素戔嗚尊を祀る祇園祭のときに、山車に吊り下げられる古代ペルシャの布も、正倉院御物に入っているペルシャ布も、 「これらはシルクロードを通って、遥々と日本へ運ばれてきたものである」と注釈がつけられ、それが今では定説になっている。  
 
だから高名な歴史家達も成城大学の先生も、あっさりそのまま鵜呑みにしているらしい。
 しかしである。 「シルクロードが西暦何年頃に出来たのか?」  はたして調べてみたり、その研究書でも見たことが彼らにはあるのだろうか?  レニングラード大学モナザビスキー教授の1969年版の、 「シルクロード、その歴史」なる研究論文によれば、13世紀初頭の元の遠征のとき、今日のハンガリヤへ進軍路をひらくため、トルキスタンの多くの捕虜を使役にして、軍用道路として何万頭もの羊を通すため開発したものが、後には荒廃したが、14世 紀になって隊商によってまた踏み固められ、どうにか通れるようになったのだとある。 なにもロシアの教授を信用して、日本の学者をとやかくいうのではない。
 
しかし旧ソ連という国家では、もし怠惰とか研究不熱心を学生から告発されたら、大学教授といえど罷免されて、地方のウチーチェリとよばれる公学校の教員へ飛ばされてしまう国である。  日本のように十年一日のごとき講義をしたり、己れの本が多くの学校の教科書に採用されて、隠れたベストセラーになることだけを生き甲斐にしているのとは違う。
シルクロードをトラックで何度も往復している教授の研究論文では、これまでのように、なんでもシルクロードを通して日本へ入ってきたのだと胡麻かしている学説は、みな消し飛んでしまう。 日本のようにインフレ政策をとるため、産業道路をどんどん作るのは滅多にない例で、普通、ロードと呼ばれるのは、昔の軍用道路があとで民間人に使われだした例が多い。 やはりジンギスカンの羊の群れが踏み固め開発したとするのが、常識的にも正しいようだ。
 
 
勿論、日本列島は暖流寒流が交互に、突き当たるように流れてくるから、なにもシルクロードがなかった頃でも、ペルシャ湾からでも、潮流とよぶ時速6ノットから10ノットに及ぶ水中エスカレーターににのれば、筏でもこられないことはない。 「スメラミコト」の「スメラ山脈」や、「男山のスサノオ」「女山のオマン」が、そのペルシャ湾には今も面して聳えているのである。 そして十六枚の花弁をもつ菊も、原産地は朝鮮や中国ではなくて、ペルシャなのである。  だからして、ペルシャ独特の「パルメット図案」や、アラベスクの副葬品をみると、遺骨の主はペルシャ人だったかも知れない。  壁画そっくりの下ぶくれの型が、今でも向こうではビューティとされているから、姿や形はチョマリでも、ペルシャ女でなかったとする反証はないようである。
 

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