新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

敵は本能寺 第五部 旗印と旗指物の意味

2020-02-13 12:01:08 | 新日本意外史 古代から現代まで
敵は本能寺 第五部  

旗印と旗指物の意味


 とは言うものの、なにしろ、
「本能寺を襲った者は、それは明智光秀」 という定説が一般化してしまっているから、語句の上の注釈で、私がとやかく言ったとしても、詭弁を弄しているようにとられるかもしれない。また、
その危険性も充分にあろう。
 だから、私は話を反転させて、今日まで<真実>として伝わっているように、「明智と見受けた」という、一つの仮定のもとに、立ってみることにする。
 さて、当時の習慣では、主人が存在する事を示すためには「馬印」を立てる。そして相手方に対して、その責任の有無をはっきりさせる筈であり、これが定法である。
そこで<明暦版の「御馬印武艦」>によると、「あけち、ひうかのかみ」は「白紙たて一枚に切目を入れた旗もの」とある。
 これが<總見公武艦>にいうところの、「白紙のしでしない」である。
 これは神棚にあげる神酒の壷にさす、鳥の羽の片側のような物、つまり白紙の左耳を袋状にして竿に通し、右側に切れ目をずうっと入れ、
風にはためくようにしたもので、風圧を受けるから貼合わせなしの一枚ものである。当時の寸法として計れるのは<美濃紙縁起・日本紙業史>によれば、
 手漉きの枠が30センチから70センチ幅が最高だったというから、美濃全紙を用いたにせよ、およその形体は想像できる。
勿論、このサイズは、眼の前に拡げた大きさであるから、本能寺のような周囲が1.2キロ平方であれば、信長のいた客殿を中央とみても、これに築土外の堀割1メートル80を加え、
やはり600メートルの距離ともなるから、これは、「遠見物体に対する被写距離計数の算出法」という旧日本陸軍の「砲術操典」の測定法に従って計算すると、
縦1メートルの物でも600メートルの間隔で割り出すと3センチ弱にしか視えないとある。
 ところが、である。
 これは視界が良好な、晴天の太陽光線による肉眼識別のものであって、
(「ようやく夜も明け方にまかりなり」で、京都へ入ったところ、「すでに信長公御座所本能寺を囲み居る」)といったような、午前三時から四時と推定される刻限において、
はたして肉眼で、その3センチ弱が、視えるだろうか。
<高橋賢一の「旗指物」>によると、
「水色に桔梗の紋をつけたる九本旗。四手しなえの馬印。つまり旗の方は『水色桔梗』といって、紋自体が青い水色をもち、むろん旗の地色も水色だった。
これは『明智系図』といって、光秀の子で仏門へ入った玄琳が、父の五十回忌に編したものに出ているので間違いない」とある。
純白の馬印さえ見えない時刻に、水色の桔梗の旗が見える筈も、これまた考えられない。
 さて、うっかり全文を引用してしまったから、ついでに解明しなければならないが、光秀の男児は二名しかいない。
 それなのに、この『明智系図』というのは<鈴木叢書>に所収のもので、寛永八年六月十三日に、妙心寺の塔頭にいた玄琳という坊主が、喜多村弥兵衛宛に差出したものとあるが、
これでは実子だけでも男子六人、女子五人となる。子福者になっている。そして作者は己を光秀の伜にしてしまい、姉の一人などは、
講談で大久保彦左と渡り合う隣家の川勝丹波の奥方にしているし、弟の一人を(筒井伊賀守定次養子、のち左馬助と改め、坂本城にて自害)としている。
が、俗に明智左馬助というのは、狩野永徳の陣羽織をきて「湖水渡り」で有名な講談の主人公である。
実在の明智秀満の方ならば、これは明智姓でも光秀の娘婿で、その実父の三宅氏は、「天正十年六月十四日に丹波横山で捕えられ、七月二日に粟田口で張付柱にかけられて殺された」
と<兼見卿記>に記載があり、<言経卿記>には、「その年齢が六十三歳」とまで明確にされている。
 つまり高橋賢一は「間違いない」と言い切るが、「明智系図」や「明智軍記」といったものは、なんの真実性もない「為にするためのもの」であって、資料にはならないものである。
こういうのを資料扱いされては困る。
 なお、この寛永期というのは、明智光秀の家老斎藤内蔵介の娘の阿福が春日の局となって権勢をふるい、その寛永六年十月十日に後水尾天皇に強訴をして、翌月八日、
堪りかねた帝が、徳川秀忠の娘の東福門院の産んだ七歳(又は二歳)の女一官に帝位を譲られたりして、物情騒然としていた。そして、これから二十八年後の明暦二年。
つまり由比正雪の謀叛騒ぎがあって五年目に、玄琳の俗世の時の伜というのが、やはり妙心寺にて得度し、密宗和尚というのになる。
さて、この人は、自分は光秀の孫だと、
「明智系図」の代りに「明智風呂」というのを、妙心寺の本堂参拝道の脇に建てた。
三十坪ほどの豪勢な桧造りの蒸風呂である。これに参詣人の善男善女を入れて、おおいに明智光秀のPRを、その当時はしたようである。
 現今のトルオ風呂、サウナ風呂のようなものであるが、今は閉め切った侭である。京都駅から車で二十分程のところの花園に現存している。
 さて、こういう時日は、玄琳にしろ密宗にしろ、事実上はなんらの血縁がないにもかかわらず、
「謀叛人と定説のあった光秀の子や孫だ」と自分から宣伝するのは訝しいから、もはや、この時点では、
「光秀無関係説」が一度は、一般に流布され、事によったら慰藉料でも出るような噂があったのではあるまいかと思われる。これは後でも説明する。

 さて、である。動物と違って夜目のきく筈もない森蘭丸の目玉に、どうして、まだ暗く、夜の幕もあけていないのに、そんな保護色めいた水色桔梗の旗や、
ペラペラした紙ばたきみたいな馬印が、識別できたというのであろうか。
 まがりなりにも「明智の手の者」とか「明智が者」と見受けたというからには、一体彼は何を視たというのだろう。現在ならば、こうした視野のきかない時には、
超赤外線望遠レンズというのが、国庫援助で、コダックで開発されているそうだが、当時のドイツは、免罪符騒ぎである。
カール五世陛下はレンズ事業などは知ったことではなかったろう、と想像される。だから、そんな便利な望遠鏡はまだ発明されず日本へも輸出していなかったろう。
 それに、この本能寺包囲という限定状態は、どう考えても合戦ではない。だから源平合戦や当今の選挙運動のトラックみたいに、まさか、「明智党公認の○○が、ご挨拶に参りました」
とは、声もかけなかったろうし、連呼もしなかったろう。
 そうなると、目からは視えず、耳からは聴こえずである。あとは臭覚の鼻であるが、本能寺に信長は軍用犬をつれてきている形跡はない。
シェパード種は嗅覚がすぐれている点で警察犬にも採用されているが、当時は、今のように犬屋がなかったから輸入されてもいない。もし本能寺自体に飼犬がいたとしても、
これは日本犬であろう。そうなると、お人好しの忠実さしか取柄のない純日本犬のことだから、人間のお伴をして焼け死んだぐらいが落ちで、とても外部の偵察などはしてない。
 また信長は、鷹によって鳥をとるスポーツが好きだったから、鷹匠の名前は<信長記>の、この時の一行には見えないが、一人ぐらいはついてきていたかもしれない。
だが、鷹や雉が空をとんで「ご注進」とやるのは、あれは「桃太郎」の譚である。
 するとである。眼で視えずに耳に入らず、臭いも嗅げない状態で、まさか手さぐりに撫ぜもしない寄手の実体を、どうして森乱丸は判別したというのだろうか。つまり、
これは識別したというのではなく、当時の常識によって、もし答えたものなら勘だろう。
 なにしろ‥‥
 当時、関東派遣軍は滝川方面軍は上州厩橋。
 北陸方面軍の柴田勝家は富山魚津で攻戦中。
 中国方面軍の羽柴隊は備中高松で功囲中。
 四国派遣軍の丹羽隊は住吉浦から出発準備中。
 指を追って数えていけば、どうしたって兵力を集結して、まだ進発していないのは中国応援軍の明智隊しか残っていないということになる。
 だから引き算をして、そこで差引きして残ったのを、「明智が手の者と見受けられ候」と答えたのだろう。
という「原本信長記」の一章ができ上るのである。そして、この言葉の用法は、今でも「~さんと見受けますが、違いますか」
といった具合に、必ず後にダブドがつき、?の疑問符をつけて、これは使用される。
 だから、<信長公記>の方でも、「明智が者を見受けられ候も、しかと分別仕つれず」というニュアンスを残している。
 つまり「如何でございましょう」という疑問なのだから、これに対して信長自身も、「そうか。そうであったのか」
などと肯定もしていなければ、「まさか」と否定も、していない。
 ここの一節が(信長殺しは光秀か)どうかという分岐点になる微妙なところである。
 しかし、講談や、それに類似した娯楽読物では、「花は紅、柳は緑」といった発想で、(信長殺害犯人は光秀)という純な決めつけ方で、判りやすくというか、
読者に反撥を持たせないように媚びてしまって、ここを脚色し、「おのれ、光秀め、よくも大恩ある、この信長に対して」と、はったと戸外を睨みつけ
「おのれ、無念残念、口惜しや‥‥」と作っている。だが現実は、そうはゆかない。
 いくら考えたって、そんな事には、なりはしない。いくら首をひねっても、とても変なのである。
 今の時点では「光秀が信長を殺した」というのが、一般大衆に植えつけられてしまった定説であり、常識であるが、この<信長公記>が筆写された寛永期というのは、
「明智系図」の説明でも触れたが、「光秀は信長殺しではない、寃罪であった」というのが、その時代では常識であり、定説になりかけていたのだ。
でなければ、何も玄琳なんて坊主が、わざわざ大金をかけて、総桧造りの銭湯ぐらいの広さのある蒸風呂を、山門の入口に建てて、参拝人に入浴させ、
これを「明智風呂」と命名し、「何を隠そう、私こそは」と、天一坊になって、儲けを企む筈はない。また、「明智系図」だって、まさか素人の坊主の玄琳には作れっこないから
(現代でも、泥棒のとってきた品物を売り買いする商人を「故買屋」つまり「けいずや」というが、その専門である系図屋の、源内のような専門技師に頼んで、
相当の銀を払って何通も贋作してもらって、これを諸方にばらまいたのか、理由を考えればわかる。
 そもそも坊主というものは、古来「坊主まる儲け」といわれるくらい、取るものはとって懐へ入れても、出す物は紙一枚でも惜しむとされている。
それなのに玄琳や、その伜の密宗が、現在の観点からみれば、おかしいみたいに、「私こそは、謀叛人で主殺しの、光秀の忘れ形見であります」と、
わざわざ、そうでもないのに名乗りを上げ、貰い溜めた銀を惜し気もなくばらまいたというのは、この寛永七、八年に、京では「光秀に贈位の沙汰が出て、その遺族には特別の沙汰」
という評判が相当にあったものとみられる。
 今でも「ブラジルで死んだ一世の遺産」など新聞記事が出ると、「我こそ、その縁者である」と無関係な者まで名乗り出るのと、これは同じケースのようだ。
 つまり、寛永期という17世紀は、「光秀は信長殺しではなく、故人の供養料として、遺族には慰藉料として、莫大な恩賞か、位階の褒美がいただける‥‥」
といったような風評のあった時代だったらしい。
 だから、「信長公記」を、売本にするため、せっせと筆写する人間も迷ってしまって、是とも非とも書けぬままに、ここは徹底的にボカしてしまって逃げをうったのらしい。
 でなければ、
「明智が(手の)者と見受けられ候」に対し、「是非に及ばず。と信長が上意候」というのでは、ぜんぜん文章が繋らないのである。
 なぜ、(是非に及ばず)なのかも判らない。ふつう私共が、この文句を使うのは、
いよいよ万策尽きはてて、なんともならない最後の時のこれは終局語である。
 それなのに、この場合は、あべこべに冒頭に用いられている。
 だから、後年になると「明智と名を聞いた途端に、是非に及ばずと、すぐ観念してしまうからには、信長には思いあたるものがあったのだろう」と、揣摩臆測されて、
後述するように、光秀怨恨説が四十近くも作られてしまう。
 しかし、本当のところは、「是非に及ばず」と信長が言った事にしてあるのは、筆写者自身が、原作と世評の板挟みになってしまい、途方にくれて、
自分自身が(是非に及ばず)と、こう書いたものと、私は考えている。また。それしか想えようもない。



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