新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

ノルマンデー上陸作戦の考察

2020-02-22 18:43:45 | 新日本意外史 古代から現代まで

ノルマンデー上陸作戦の考察

プロローグ
ルントシュテット(西方総軍総司令官)とロンメル(西方総軍B軍総司令官)この二人の司令官は当初はカレー上陸を信じていた。
ヒットラーも国防軍最高司令部もカレー上陸を信じていた。
何故なら連合軍の諜報機関がその総力を挙げた、ノルマンデーからドイツ軍の目をそらす欺瞞作戦が功を奏したからである。
この熾烈な欺瞞工作の詳細は多くの書物になり、映画の名作「針の目」にもなっている。
(ヒットラー直属のスパイが、イギリスに埋め込まれて活躍し、連合軍の欺瞞工作を見破り、ノルマンデーこそが上陸地点だと、ベルリンへ
知らせる、という内容だが、正体を知られ、イギリス官憲に殺される)
さて、以下がノルマンデー作戦に対する、ウィンストンーチャーチルの言葉である。
 「もつれにもっれた混乱ぶり、策略と対抗策、計略と背信、投降と裏切り、本物のスパイ、偽物のスパイ、二重スパイ、黄金と鋼鉄、爆弾と短剣と銃殺隊。
こうしたものが織り込まれて、にわかには信じられないほど複雑だが間違いなく真実である布地が何枚も織り上げられた」
また、孫氏の兵法には「敵に、我が軍が攻撃しようとしている場所を知られてはならない。なぜなら、我が軍が攻撃しようとしている場所が分がらなければ、敵は多くの場所で備えをしなくてはならないからだ。
備える場所が多くなれば、そのうちの一つで我が軍が戦わなくてはならない敵の兵力は少なくなる。敵がどこもかしこも備えようとすれば、敵はどこもかしこも手薄になる」がある。
この兵法を忠実に実践した連合国の勝利といえよう。
ノルマンディ上陸作戦
イギリスの欺瞞先戦に負けたドイツ軍
1941年、ソ連へ攻め込んだ「バルバロッサ作戦」はモスクワも、レニーグランドも陥落させることができず失敗しつつあった。
そして1943年3月にはロンメル元帥は、北アフリカ戦で敗退し、ドイツ本国に送還されてからしばらく療養生活を送っていた。
ロンメル率いるアフリカ軍団の構想は壮大なものだった。チェニジアからトリポリ、ベンガジ、トブルクを抜き、エジプトのカイロを占領。
イギリス軍をアフリカから追い出し、更にイラク、トルコから、ソ連の油田地帯を占領する戦略だったのである。
しかしヒットラーはこの計画に許可を与えず、戦車も燃料も航空機も兵も送らなかったため、ロンメルは北アフリカで敗北した。
後、健康が回復したせいもあり、6月にはギリシャの防衛を担当していたE軍集団の指揮官に任命された。
これは英軍によるギリシャ上陸を警戒しての人事であったが結局ギリシャに連合軍が上陸を仕掛けることは無く、その年の8月ロンメルは北イタリアを防衛するために新設されたB軍集団の指揮官に転属された。
しかし11月にヒトラーがイタリア戦線全般の指揮権をケッセルリンクに与えたため、B軍集団の担当地区は北イタリアから北フランスに変更された。
ロンメルはB軍集団とともに北フランスに移動し、ルントシュテット元帥率いるドイツ西方総軍の指揮下に入った。 
ロンメルは着任早々難攻不落だと大々的に宣伝されていた「大西洋の壁」を視察し、この宣伝が本当に宣伝だけであった現実を見て愕然とする。
連合軍の上陸が予想されていたカレー方面ですら工事の進捗具合は80%、自分の部隊が展開していたノルマンディー地方では20%と言う悲惨な状況でありとても難攻不落とは言い難かった。
その日よりロンメルは精力的に活動し、未完成の「大西洋の壁」を少しでも完成に近づけるために全力を傾注した。
ロンメルは北アフリカでの経験から連合軍が圧倒的な航空優勢のもとで攻撃を仕掛けてくるという事が分かっており、
その圧倒的航空優勢下では反撃のために大規模な部隊展開を行う事が事実上不可能であると知っていた。そのためロンメルはもし連合軍が攻撃を仕掛けてきた場合は上陸時に水際で迎撃する事を主張。
上陸第一日が防衛軍にとって「最も長い一日(Der langste Tag)になる」と訴えた。 
しかし、西方軍総司令官のルントシュテット元帥は英米の航空戦力の脅威を正確に評価せず、連合軍を上陸させた後に装甲師団で叩く戦術を主張し対立した。
ルントシュテットは敵航空戦力が弱体な東部戦線の経験しか持たないが、ロンメルはエル・アラメインでの敗北により、航空兵力が戦況の鍵を握る事を知っていたのである。
結局ロンメルは水際での攻撃を主張したため装甲師団は前線の近くに配置されるべきだと主張し、対するルントシュテットは連合軍による空爆による被害を避けるためにもより後方に配置されるべきだと主張し、
両者とも譲らなかった。 
こうした将軍同士の対立の中で準備が進められた。ロンメルは自分でデザインしたロンメルのアスパラガスを空挺部隊の落下が予想される地域に設置したり、
地雷を山ほど埋設して連合軍の上陸に備えたが6月の時点ではまだまだ十分ではないと考えていた。そして、D-Dayこと1944年6月6日、
連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行される。航空部隊の支援が制限される雨季に上陸する可能性は極めて低いと考えられていたため、
不覚にもロンメルは妻の誕生日を祝うためにベルリンで休暇を取っていた。このためロンメルは軍団を指揮することが出来ず、
ルントシュテットの作戦により連合軍の制空権下で味方の装甲師団の昼間行動は大きく制約され、有効な反撃が出来なかった。 

叩き上げの軍人ロンメルの悲哀
短期間に中佐から元帥にまで昇進したロンメルは、軍人の閥族を軽蔑していた。
 ロンメルは、テーブルの向う側でブランデーを嘗めているグデリアンに鋭い視線を送った。きょうグデリアンは、随伴のフォソーガイェル将軍とともに、この北フランスの
リ・ロシューギョンにあるロンメルの司令部へ、兵力展開の指示にやって来ていた。この種の訪客に対してロンメルは、いらだちから激怒までのさまざまな不快の反応を見せるのが常だった。
参謀本部というものは、彼の見解によれば、信頼できる情報と軍需資材を遅滞なく前線に川けることこそが任務であるべきにもかかわらず、彼のアフリカ戦線での経験でも明らかなように、
それすら満足にやれないのだ。
ハインツーグデリアン将軍との会談が口論に終わるだろうことは、エルウィンロンメル将軍には最初からわかりきっていた。
 グデリアンは、ロンメルが嫌っている典型的なプロシヤ貴族タイプの男だ。両人は以前から知り合っており、ロンメルは、さきに敗色濃厚なアフリカ戦線を去るに当って、
自分の後任としてひそかに彼を推薦したことがあるが、この裏工作は、当時ヒトラーがグデリアンに好感をもっていなかったことから相手にされなかった。
この当時トルコでは、英軍が、トルコ軍との連携のもとに、その第九および第十軍をギリシア国境へ展開し始めており、ユーゴではパルチザンも集結しつつある。アルジェリアでは、
フランス人部隊がリビェラで侵攻を準備中であるし、ソ連軍は、スエーデンに対して水陸両面からの侵攻を企図しているように見受けられる。イタリア戦線の連合軍は、口ーマ進撃の態勢にある。
 以上のほか、小規模な動きとしては、クレタ島での将官誘拐事件、リョンでのドイツ情報将校殺害、ロードス島のレーダー基地攻撃、アテネでの航空機破壊、ブーローニュ・シェル・セーヌの
酸素工場爆破、アーデンの列車転覆事件など、ほかにも数かぎりなくドイツ軍に対する破壊活動が頻発していた。
 このように、状況はきわめて明白、つまりドイツ軍の占領地域で各種の妨害工作や破壊活動が激化しており、ドイツ軍との境界線では、いたるところで進攻作戦の準備が進められていた。
ドイツ参謀本部では、この夏に連合軍の大規模攻勢があることを疑う者はなく、各所で頻発する小事件は、攻勢の日標地点をわが方に察知されないための偽装工作との見方で一致している」
グデリアンはここでひと息ついた。彼の訓辞調の話しぶりにじりじりしていたロンメルは、すかさず口をはさんだ。
 「だからこそ、参謀本部がそういう情報を総合・分析し、敵の行動を予測するのを、われわれ前線部隊では期待している」
 グデリアンは、苦笑をうかべてつづけた。「そういう予測には、おのずから限度というものがあることも認めなくてはならない。そこで、貴官には貴官なりの敵攻撃地点の予測があって然るべきだし、
われわれにも勿論それがある。だが、戦略は、その前提となる推測に誤りのある可能性も考慮して検討されなくてはならない」
 回りくどい話し方だが、グデリアソの論点はもうロンメルには読めていた。彼は、どなりつけたい衝動を押さえていた。
 「貴官の指揮下には四個の機甲師団がある」グデリアンはつづけた。「さきにフォン・ガイエル将軍は、これら機甲師団を海岸線から内陸部へ移動させ、必要の際、
直ちに敵攻勢に対する報復に出られる態勢に置くよう貴官に申し入れた。これはわが軍の基本方針に基づく戦略であるが、遺憾ながら、貴官は、この提案に従わなかったのみか、
かえって第二十一機甲師団を大西洋岸へ移動させ……」「いや、残りの三個師団も」ロンメルはとうとうこらえきれず、まくし立てた。「早急に海岸線へ移動させる必要がある。
いったい、貴官たちはいつになったらわかるのか?制空権は、完全に連合軍に握られているのだ。いったん敵の上陸進攻が開始された場合、わが機甲部隊の動きは英空軍に封じられ、
機動作戦はまったく不可能になる。貴官らがやたら大事がる機甲部隊は、それがどこにいようと、連合軍の進攻時にいる場所から動けなくなるのだ。経験上、私は、それをよく知っている。すでに二度も経験ずみだ。
機甲師団に予備機動部隊の役目をさせるなどということは、それ自体を無用の長物化することでしかない。敵進攻に対する戦術は、敵が最も攻撃に弱い上陸時に、水際でたたいて海に追い落とすにかぎる。
いったん上陸を許して橋頭堡を確保させたならば、反撃などもってのほかだ」ロンメルは、いくらか憤懣の色を和らげてさらにつづけた。
 「すでに私は、水際に水面下の障害物を設け、海岸防壁を強化し、地雷を敷設した。さらに、内陸部の牧場で飛行機の着陸に使われる可能性のあるものには、すべて着陸妨害用の杭を打ちこんだ。
現在麾下の部隊は、戦闘訓練以外の時間には全員塹壕掘りに従事している。
 私の指揮下にある機甲師団をすべて海岸線へ移動させるのは当然であり、そのほか、ドイツ国防軍の予備兵力をフランス領内に再展開することと、
東部戦線の第九および第十SS師団を西部戦線へ復帰させることが急務である。
わが軍の戦略は、連合軍に橋頭堡を確保させないため、すべてを傾注するものでなくてはならない。いったん敵にそれを許したならば、迎撃作戦はおろか、この戦争に完敗することになりかねないのだ」
 グデリアンは、冷やかな笑みを浮かべて身を乗り出した。「貴官のいわんとするところは、北はノルウェーから南はイベリア半鳥を回ってローマまで、
全ヨーロでの海岸線を防禦することと同じだが、いったい、それに要する兵力をどこからもってくればよいのかな?」
 「そんな質問は、七年前の一九三八年にすべきだったんだ」と、ロンメルはつぶやくようにいった。かねて政治的な発言をしないロンメルにしては、めずらしいことだった。
 それを間いて、グデリアンとフォン・ガイエルはギョッとした感じで口をつぐんだ。
 やがて、フォンガイェルが沈黙を破った。「では、元帥は、敵がどこを上陸地点に選ぶと思われますか?」
 ロンメルは、ちょっと考えてからいった。「以前は私もカレー説を信じていたが、前回総統との会議の折、総統の主張されたノルマンディ説に感銘をうけ、その後ノルマンディ説に変った。
総統の直感は、過去の事例をふり返ってみるときわめてよく当っている。そこで私は、わが機甲部隊はノルマンディの海岸線へ移動すべきだと主張する。ただし、そのうちの一個師団はソンム川河口に展開し、他の
軍団の支援をうける」グデリアンは、首を横に振った。「いや、いや、それはあまりにも冒険すぎて、問題にならない」
 「では、直接ヒトラー総統に私から進言してもいい」「貴官が総統に進言するのを止めはしないが、私は、それに同意できない。ただ……」
 「ただ何?」ロンメルは、グデリアンがことによると譲歩するのではないかという感じをうけ、内心むしろ駑いた。グデリアソは、しぶしぶさきを続けた。「貴官も知って
のことと思うが、総統は、目下英国内にいるきわめて優秀な密偵からの報告を待っておられる」「それは私も覚えている。ディーナデルとかいったな」
 「そのとおり。この密偵は、束部イングランドにある米パットン将軍指揮下の米国第一軍団の兵力調査を命ぜられている。もし彼から、同軍団の兵力が強大であり、
かつ発進態勢をととのえているとの報告があれば、遠からずそういう報告があると思うが、当然ながら貴官の主張を容れ機甲師団をノルマンデーへ移動させよう」
こうしたロンメルと上部司令部の対立の為、連合軍の上陸後やっと機甲師団がノルマンデーへ向かったが、制空権のないドイツ軍は橋頭堡を作られ、上陸は成功した。
(当時ドイツ軍の配置)
ロシア戦線  歩兵師団 122
       機甲師団 25
       その他 17個師団
イタリアおよびバルカン半島
       歩兵師団 37
       機甲師団 9
       その他 4個師団
西部戦線   歩兵師団 64
       機甲師団 12
       その他 12個師団
ドイツ国内  歩兵師団 3
       機甲師団 1
       その他 4個師団
ドイツ軍は、敗戦濃厚になった、この時期でさえ歩兵師団243、機甲師団37も維持していたのである。
その西部戦線の機甲部隊十二個師団のうちノルマソディ海岸にいるのは一個師団だけだった。SS部隊の精鋭二個師団も、それぞれツールーズとブリュツセルに駐屯したまま移動する気配がなかった。
この虎の子の師団がノルマンデーへ移動したのは、連合軍が上陸し、橋頭堡を築いた後であった。
が、制空権を握られたドイツ軍は(戦闘機による爆撃や機銃掃射が激しく、ドイツ軍は彼らを「ヤーボ」と呼んで非常に恐れた。後にロンメルも機銃掃射により負傷)
時すでに遅しで、以後連合軍はベルリンまで進撃し、ドイツの降伏で終わる。

  


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