新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

ジンギスカン義経説の考察 元寇は何故起きたのか 楠木正成悪党説の由来 北条政子は美人だった

2019-07-01 16:35:09 | 新日本意外史 古代から現代まで
    ジンギスカン義経説の考察
 
◎北条政子は美人だった
◎元寇は何故起きたのか
◎楠木正成悪党説の由来
◎豪傑新田義貞の謎
                                  
 
 
 
 
「源」と、「元」の音読みが、どちらも同じであり、それに源氏の笹竜胆の紋にそっくりなマークを、ジンギスカンが用いていたから、源義経は衣川の館で討死したのではなく北海道へ渡り、そこから大陸へ入って、ジンギスカンになったのである。という説が、大正時代に発表された。  丁度その頃、 「狭い日本にゃ住みあきた、シナにゃ四億の民がある」といった「馬賊の唄」が、これまた大流行していたので、 「どうせ大陸へ渡って馬賊になるなら、ジンギスカン位の大物になろう」と、その本は洛陽の紙価を高めた。だからそれを下敷きにしたものが、戦後にも出版されたが、今や中国は、 『毛沢東語録から習近平』の世の中で、馬賊など時代錯誤のせいとなってしまった。  そこでオーストラリヤ輸入のマトンをさばく為に、「ジンギスカン鍋」として、その方で彼の名前が宣伝されているようである。
 
それに大正時代の青少年の海外雄飛といえば、満蒙の天地と限定されていたものだが、今はエベレストまで出かけて行って滑降してきたり、ヒマラヤへ登って女性も遭難して遺骸で戻ってくるような世の中だから、いくら、「ジンギスカンは源義経」といっても、ただ単に伝奇ものみたいに、興味本位に扱われるだけのことであるらしいが、 「真相」というか、その真実はなんだったろうか。やはり気に掛かる一つの命題である。というのは、火のない所に煙が立たぬ譬もあるように、それは、 (ジンギスカン=ツングース騎馬民族) (源氏一族=やはりツングース系出身)  といった同族的な血の流れを同じくしているらしい点も推理されるからである。こじつけられるにはそれだけの、道具立もあろうというものである。
 
「ジンギスカン義経説」は、なにも大正時代の小谷部全一郎のベスト・セラーが皮切りではない。
 江戸時代文化年間頃の刊行物で小判十六枚とじの黄表紙もので、 「判官堀川逆夜討ち」なるものがある。これは京にいた九郎判官義経の堀川の館へ、頼朝が差し向けた土佐坊らの追手が押し寄せてきた事への仕返しに、蒙古兵を率いて京へ逆襲してきた判官が、 「おれが女を何処へやった」「かくなる上はせんもなし」と被衣をかぶった身分のある女性や、牛車にのった高貴の女性を、手当たり次第に引っぱり出してからが、それを押さえこみ、「穴埋めに致すとは、ほんに、これがことをいうのかい」と、大見得をきっている絵がでている。
はっきりとジンギスカンの名など何処にも出ていないが、蒙古兵を従え自分も同様の衣裳をまとっている処をみると、江戸期にあっては、 「元寇」という十三世紀の出来事を、なぜ元軍十万が何度も懲りずに日本へ攻めこんできたかという、その理由が納得できず、 (源義経の亡霊が、仇討ちに殴りこみをかけてきたもの‥‥)といった受け取り方を一般はしていたものらしい。それゆえ黄表紙本では、 「あらゆる恨みや憎しみは、みな食物と女のことが、その原因である」  といういい伝えにのっとって、さも女のことで妄執を残し、その未練から押し寄せてきたようになっている。しかし今日の史家は、頼朝の妻政子が北条氏なので、そこに重点をおき、 「源氏と北条氏とを一つ」にみているようだが、江戸期では、まさかそうした誤りは作者もしていなかったという、これは裏書きでもあるらしいといえる。 つまり元が攻めこんだ頃の日本は、源氏を滅ぼして取って代わった北条政権の時代なので、フビライ汗は同族のその仇討ちに乗りこんできたのだと、考えられていたようである。
 
 
さて、高木彬光の『ジンギスカン義経』の種本は、小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経なり』だが、それにも種本がある。 福地桜痴居士の『義経仁義主汗』と、(日本人はギリシャ民族の一部の東来説)をもって明治時代の洛陽の紙価を高らしめたことのある前述木村鷹太郎の『義経ジンギスカン』の二冊がそれである。 処が、それにも、また種本がある。『義経再興説』という明治十八年刊のものである。 これは末松謙澄がロンドンで集めたものだそうで、内田弥八訳述という体裁になっているが、今でいうリライトものらしい。 私はこれを持っていて、かがり糸も切れ切れで相当傷んでいる。しかし古書相場では80万円と聞く。
 だが山岡鉄舟の題字が入っていたり、日清日露と大陸進出作戦を意企していた明治軍部が、 (朝鮮征伐の豊臣秀吉)を国策に用いたと同様に、この義経大陸再興説も、「国民精神作興用」にと、おおいにすすめて買わせたから明治三十年代の末には、三十六版と重版し当時の一大ベスト・セラーになっていた。
 
とはいえ時代が時代なので、「たまたま友人一英書を恵む。繙(ひもと)きて之を見れば、即ち義経蝦夷より満州へ渡り、元祖鉄木真(テムジン)と為るを記載するの書なり」といった思わせぶりな序文から始まり、
「義経主従蝦夷ヨリ満州ニ渡航セシハ全ク事実ナリ、果シテ然ラバ斯ノ如キ文武両道ノ才幹ヲ有スル人傑其名声ノ後世ニ伝ハルベキ大事業ヲ企図セズ、空シク日月ヲ徒費スルナラント云フモ、吾人ハ之ヲ信ジ得ベキヤ、余ハ直チニ否ト云ハンノミ、謂フニ義経ハ彼ノ豪傑成吉思汗其(ソノ)人ナラン」  といった大上段にふりかぶった内容で、 「義経の大陸に渡りし証左ハ、寛永年間越前ノ小港神保ノ船人満州ニ漂流セシニ恰(アタカ)モ清朝北京遷都ノ時ニシテ、彼ノ船人モ共ニ北京ニ送ラレ道スガラ建夷奴児(ケインイドル)地方家々ノ門戸ニ、義経及弁慶ノ画像ヲ貼付スルヲ見タリ、是レ義経主従大陸ニ渡リシ顕然タル証左ナリト‥‥」  はっきり断言しきっていて、さも、 (青少年よ大志を抱け、諸君らは第二の義経となって、大陸に雄飛せよ。
 
すすんで御国のために御奉公せよ)といわんばかりにアジっているような感じをうける。  これは前大戦中に、白虎隊の詩吟が流行したり、「二本松少年隊」といった本の広告が大きく新聞に出たと思ったら、すぐ後ろから、「少年航空兵募集」や「少年戦車兵志願受付」が開始されたのに、軌を同じゅうするような感じさえ連想させられる。  だから今日考えるような伝奇種ではなく、種本のそのまた元祖の、 『義経再興記』という本は、お国の為にと出された本であったことがよく判るのである。  そして義経に国民の関心をひくため、 「義経千本桜」といった芝居や、「牛若丸」が、学童向きの絵本の主役になったし、尋常小学校唱歌にまでうたわれ、「京は五条の橋の上」とひろまったので、いわゆる「判官びいき」といった熟語さえ、今では生まれたのであろうか。
        北条政子は美人だった
さて話は戻るが、その源氏の世も一代限りで、意識的に義弟の義経を遠ざけさせてしまったのも、北条氏の出身であるところの政子であったという事実。 そしてその源の頼朝の妻の政子が、いくら夫に先立たれた後とはいえ、その死ぬ時に当たって、敵姓の氏名を、ことさらにつけ、 「源の政子」で最期をとげず、「平の政子」としてこの世を去ったことの奇怪さは、歴史屋にとっても難しすぎるのか、あまり問題にされていない。 だが、北条一門がそれを認めて政子を葬っているのだから、これこそ源氏の謎を解く鍵だろう。
北条氏の根拠地の鎌倉は、新田義貞によって滅ぼされ、殆んど史料がそのとき戦火に焼かれてしまって、残されていないから、断定を下すのは難しいが、 「信州諏訪神社文書」に「伊豆伊藤(東)から廻されてきた別所者が、神領について滞在し指図をしていった」旨の記載の個所がある。源頼朝在世中の古文書である。
 
 
 となると、現在は温泉郷の伊豆伊東というのは、十二世紀末までは、原住民捕虜収容地であったことになっている。 そうなれば、その伊東の役をしていた北条時政が、「よろしゅうござる、家の子郎党共をもってお味方しましょう」と頼朝に肩入れして、ところの目付、つまり監視所の代官を討ち、石橋山で平家追討旗上げをさせたのも、原住民と源氏との相互扶助的役割からみて納得できる。しかし北条氏が、頼朝の死後、 「頼家」「実朝」といった血脈を殺してしまい、 「左大臣九条道家」の子の三寅丸(頼経)二歳を、政子の養子に迎え、形だけの征夷大将軍となし、やがてそれも有名無実化していって、北条氏独裁制を確立する途上で、邪魔者は消せとばかり、「梶原源太景時の一族」「比企能員一族」「畠山重忠一族」「和田義盛一族」「三浦義村一族」と源氏家臣団の皆殺しを企てたのは、「出自」と いう当時の出身部族が、もし源氏と、伊豆伊藤別所の北条と同じ種類のものなら、これは可笑しなことになる。 だから後世の系図屋は、なんとかしてそれに辻つまを合わせようと、 「平貞盛----維時(これとき)----直方----維将(これまさ)」というのを作り、すこしは良心が咎めるのか、「維将これまさに北条の祖なり」と、でっちあげて居る。 系図屋というのは、注文されれば何処からでも、もっともらしい名前をもってきて、なんとか先祖にすえてしまい、それで依頼主の歓心をかう系図を作成していたリライト業だったので、現代でも、注文通りの品物を巧く盗みだしてきて、それを捌く
 
商売 人を、漢字では臓物商、故物買いとかくが、発音では『けいずや』と、まだいっているほどのものである。
さて歴史家の中には、政子が死ぬ時に、「平政子」を名のっている点からして、北条氏は平家なりという系図を、その立場とご都合主義で信じている者もいるようだが、 常識的に考えて、(平家の一族が頼朝に加担し、とうとう平家を没落させてしまう‥‥)  といった事が有り得るだろうか。また、いくらかでも平家の血筋を引くものなら、その地位を利用して親しかった平家の一門を匿っておき、源氏全滅後にそれを表面に出してもよいと思うが、てんでその形跡すらない。だから北条一族は、反源氏であっ た事は確かだが、「平氏の末裔」というのは単に名目上の恰好をつけたにすぎなかろう。
もちろん政子の場合は、泥臭い源氏よりも海外ムードの平氏の方に憧れていたから、自分でペンネームのように気儘につけたものか、それとも北条一族が、「打倒源氏」の正当性をPRするため、こじつけに政子の死後、そうした命名の仕方 をしたのか、今となってはそこまでは判らない。しかし延暦の昔、日本全国二千有余に作られた捕虜収容所の別所とはいえ、そこに入れられた原住系は決して単一ではなく、地域によって南方系北方系と雑多であったらしい事は判る。そして、 「義経が向こうへ行ってジンギスカンになったのではなく、ジンギスカンの先輩で日本列島へ先にきていたのが、源氏になったらしい」のは、騎馬民族説でも立証されるが、北条時宗の時代に元のフビライ汗が十万の兵 を向け、くり返し差し向け日本遠征を企てたのは、「北条体制が反ツングース系だった」理由に、やはりよるものだろう。
 
 
イスラエルがアラブ諸国と戦をすると、世界各地のユダヤ人が援助し、アメリカのようにユダヤ人が体制を維持している国は、全面的にイスラエルを助けるごとく、民族の血は濃いもので、山口の大内義隆のごときは南支那のニッポーに、祖先の地として今でいう領事館さえ設置していた程である。  だから、もし北条氏が、 (ツングース系だったら)元とは友好関係を結んでいて、彼らから決して攻められるような事はなかったろうともいえる。  また人類学上では、鼻の根元から上顎の門歯へひく線と、耳孔と眼の窪みへひく線との対角を、「全側面角」というが、石器時代人は80.8度、古墳時代人は81.5度、鎌倉源氏は81.7度。ツングースは81.6度と、みな出っ歯型である。 「源義経は出っ歯の小男だった」といわれるのは、この骨格からの割り出しだが、ジンギスカンやフビライ汗も、西瓜を食べるのに好適な顔をしていたことになる。
 
しかし北条政子が、反源氏反ツングースとなると、これは出っ歯型ではない。現代日本人の「全側面角」は、平均85.1度だそうだが、政子もそれ位で口許の整った顔ををしていた事になる。 俗に関東女は肌が浅黒いといわれるが、十二世紀から十三世紀頃のものと推定される人骨で、この角度に近いのは、ギリシャ人の進攻によって混血を余儀なくされたインドや、マレー人のものだけだからして、 「北条政子というのは、やや褐色の皮膚をして、口許尋常の女」つまり当時としては、美人という事になるのである。
(江戸時代になっても、関東では「口許尋常」というのが美人の標準だったから、反っ歯が割りと多かったらしい) それゆえ頼朝もすっかり参ってしまったろうが、各地から集ってきた出っ歯の関東武士も、この政子をしみじみ垣間見てからが、「ええ女ごじゃのう」と、ぼおっとしてしまい、さて、それからというものは、(花 は霧島、煙草は国分)などというオハラ節はまだなかったが、彼女の名に敬語のオの字をつけて、「女ごは、オ政子」といいふらすようになったらしい。 というのは、今では「マサコ」とよませるが、彼女がいた屋敷は、「マンドコロ」と呼んでいたし、後の秀吉も、その母を「大政所」妻ねねを「北の政所」といっていた。といってマンを致す所の意味ではなく、人間を意味するマンが、 マライ語では、施政官をさしていたから政務の意味だったろう。 つまりこうなると、南方系の平氏をツングース型北方人種の源氏が追っ払い、それを別所に分散されていた中の古代マレー系の北条氏が滅ぼしたのだから、北条時宗の時代になって、 「おのれッ」と北方系の元が攻めてきたことも、ややこしいが人類学上では解明できるのである。 ちなみに、頼朝の事は「助殿」と呼ばれていたのは事実だが、助、介、輔、と書くが、これは次官、の意味になる。 では頼朝が次官なら、だれが長官だったかといえば、これこそが政子なのであり、鎌倉で絶対的な権力者であったことが判る。
       楠木正成悪党説の由来
 長州人吉田松陰は、松下村塾を開くに先立って、安政三年(1856)四月十五日に、「七生説」をまず書き、ついで嘉永四年(1851)に、「楠公墓下ニ作ル」を詩作し、ときの光明天皇さまを後醍醐帝に、当時の大原重徳卿 を建武の中興の際の藤原卿になぞらえ、自分を楠木正成に擬した。そこで大原卿が、「七生滅賊」の書を松陰に与えたが、これは今でも山口県萩町の松陰神社に蔵されている。 さて松陰は、「七たびも生き返りて、夷敵をを打ちはらわん心、われ忘れやめ」と刑死するに当たっても辞世の歌を残している位なので、彼によって教育された松下村塾の教え子が、明治新政府の実力者になると、まず、 「正三位」が楠木正成に贈られ、やがて小学校令がでて、『国定小学読本』が明治六年八月に初めて発刊されるや、楠木正成の話が文部省命令で入れられ、ついで八年四月から全国の小学校で使わせることになった『日本略史』 にも、「後醍醐天皇」の条に、(正成正行の桜井の駅の分れ)が挿入され、義軍奉公の教育がそれで施されるようになった。
 
 
そして明治十三年七月の聖上西国巡幸の際、「正一位」が改めて正成へ追贈され、「大楠公」として国民精神作興の一大柱石とされたのである。 なのに戦後の歴史家は、「楠木正成は土豪だった」とか「悪党」だったと、まるで逆な評価をするのだがどうして正反対に逆転してしまったのだろうか。 日本人として天皇さまにお尽し申し上げるのは、それは民族として至上命令ではなかろうかと思うのに、時代によってはその価値観まで違ってくるということは、これには黙っていられない義憤を感ずる。
「正一位」に勅旨策命されたとき、「橘朝臣正成」とされたことが、ややこしくなる原因ではなかったろうか。とまず考えられる。なにしろ、『尊卑分脈』とか『姓氏撰録』といった一方的なものでは、すべての日本人はこれこ とごとく、「源平藤橘」の四つに包合されねばならぬ事になっている。そこで、「楠木正成程の人の出自が、はっきりしなくては、いかぬではないか」というのだろうか。 歴史家は、まず『尊卑分脈』や『大系図』、そして『群書類従』中の橘氏系図に結びつけてしまった。
この結果が『吾妻鑑』の元久二年(1205)七月の条に現れてくる「四国伊予の家人の橘六公久(むつきみひさ)」とか、 『承久軍物語』巻四にでてくる「ならの橘四郎」そして、『新撰玉藻集』の橘右馬太夫公成なども、順に結びつけ、 「橘氏の先祖」とされる敏達天皇を、楠木氏の遠祖とし、その十二代目の好古(または遠保)が、従三位大納言鎮守府将軍になったと、家格をもっともらしくして、これを正成まで系図で結びつけた。
 
だから戦前は、由緒正しき家柄に生れた正成なればこそ、「楠の木の匂いがしてくる処に、忠勇の士がいる」と後醍醐帝の夢枕にまで現われ、 お召しをうけて御座所へ伺うや、両手をつき、「臣正成ここに一人有る限りは、如何なる事がありましょうとも、大御心を安じ奉ります」と言い切ったものと思われていた。
 処が戦後になると、 (いくら漢字の感じが、楠と橘で似てるとはいえ、同族扱いして、系図を結びつけてしまうのは信頼がおけないことであるまいし)となって、「橘一門であるなら、建武の中興の時に、もっと上位の段階に昇進できた筈である。
 
 なのに従五位にしかなれなかったのは、地家だったからではあるまいか」といわれだした。
「地家」というのは「公家」に対する呼称である。 つまり御所に仕えている公卿を、「公家」というのに、「地家」とは、俗に「地家侍」といわれるごとく、かつて別所へ入れられていた俘囚の裔。刀伊の来寇のときに急ぎ片刃の刀を持たされた俄か作りの武士団の子孫ということになるのである。 この時の武士団は、せっかくの軍備を遊ばせておくのは勿体ないと、東北遠征をいいつけられ、これが俗にいう、「前九年の役」「後三年の役」だが、戦後、生きて戻ってきた失業軍人の救済策にと、 ときの後鳥羽上皇の御仁慈により、今の皇宮警察官のような、「北面の武士」に彼らは援用された。 しかし全部を御所で、召し抱えられる筈はない。 そこで大半の武士は、それぞれの生まれ在所へと引きあげた。 「在郷侍」と地家武者のことをいうのは、この為である。
 
 
もちろん元寇の際に募集され、九州へ進発して、雄々しく戦ったのも彼らである。しかし弘安の役が済んでしまうと、またお払い箱になった。台風のため思いがけぬ大損害をうけたのは、元軍だけでなく彼らもまた同じ被害者だった。 それから四十三年。北条氏のあくなき専横に堪りかねた後醍醐帝は即位七年にして、密かに討幕密勅を降された。それを奉じて各地の地家武者は、すぐさま御前に馳せ参じようと立ち上がった。しかし、未だ時期尚早。天皇さま側近の資朝や俊基らは捕らえられ、美濃の土岐頼兼や多治見国長らは、北条高時の命令で、謀叛人、国賊として京六条河原で、首をはねられた。 「正中の変」といわれる1324年の王政復古未遂事件である。
挫折感に御宸禁(しんきん)を悩まし給うた帝は、その後ますます圧迫を強めてくる北条体制に堪えかね、七年後の1331年(元弘元年)八月。 ついに京の御所を脱出され奈良の笠置山へと、決死の逃避行を遊ばされた。何故そこを選ばれたかといえば、笠置は柳生庄だったからである。 今では新蔭流柳生但馬守でしか知られていない土地だが、ここは伊賀の名張川と木津川に挟まれた地域で、崇神天皇陵を初めずらりと天皇の御陵が並んでいる「守戸」の地帯であった。
 
 つまり別所地帯で、かつて北条政子やその父時政によって追われた源氏の残党が、原住民と一つになって世をひそみ、匿れ住んでいた地帯ゆえ、北畠親房が、「彼の地へお越しなされましたなら、土地者は反北条の者ゆえ、みな帝のおんため尽 忠のまことをお尽し致しましょう」と帝におすすめ申しあげ遷幸を願ったのである。このとき、三河の足助次郎らは、筒針別所の原住民の者百名を率いて来り投じ、 「楠木正成」もまた河内金剛山において、「大君の御前に召され戦うは、生とし生ける者の勤めである」すぐ赤坂山に土塁を築き、矢竹を集められるだけ運び上げ、別所の面々に檄をとばして、 「われら地下の者が、おおみこころにそい奉れるは、この上もない男の栄(は)えぞ ‥‥われら菊の御紋章の下に、流水のごとくにも潔よく、この血を流し奉り御奉公の誠をつくさん」
 当時のことゆえ文字を読める者は少なかったから、 (菊を上下半分にし下へ水の流れを、判じ物のように書いた紙札)を配らせた。これが後に有名になる「菊水」の旗印である。  しかし、その頃、 「やぎゅう者」とよばれ人まじわり出来ぬような、扱いをうけていた大柳生、小柳生の守戸の千二百の男女が、帝を守って力戦奮闘したが、六波羅の精鋭五千に包囲されては、月余の抗戦もむなしく、土地の百姓共が間道から敵を案内してきて、九月二十 八日には落城。謀叛人として柳生谷が赤く血の河になる程、ここの住民は斬り殺され、帝はまた捕われの身となった。
 
翌月十五日。笠置を陥した六波羅勢五千は、楠木正成のたてこもる河内赤坂城を攻めた。が、なにしろ僅か数百の別所者がたてこもっただけの、城とはよべぬ小屋同然のものである。 「吹けばとぶような掘立小屋ではないか」 「鎧袖一触、叩きつぶしてしまえ」と四方八方から力攻めに掛ってくるのを、弓矢はおろか槍や刀もろくにない別所者は、巨岩を転がし大木を上から投げてくいとめた。
しかし血みどろの抵抗も六日にして、戦力のない赤坂城は六波羅方の占領する処となった。そこで翌年三月七日。 「もはや叛乱はすべて規制できた」とばかり北条高時は、「帝を本土でなく隠岐の島へ流すべし」と、恐れ多くも日本人としては、とても考えられぬような不敬をあえてした。 赤坂失墜後、地下へ潜行していた楠木正成は、十一月に千早城に拠り今度は河内の別所者千を集め、菊水の旗を秋空にはためかせた。
 
今度は前の赤坂合戦で敵の武具を奪ったり、拾い集めていたから、装備も良くなっていたので、翌月には奪取されていた赤坂城をも取り返し、気勢をあげることができた。 「昨冬討死」と伝わっていた楠木正成が生きていて、またしても旗上げした事に諸国の勤皇の士は奮いたち、護良親王は吉野で旗上げ。  播磨では赤松則村の挙兵。関東では新田義貞が鎌倉へ攻め込み、足利尊氏が協力して、ここに「建武中興」は成ったのである。
 だから、いくら楠木正成が、やぎゅう者同様な、守戸あがりの別所者であったにしろ、今になってその出身ゆえ差別観念から、 「悪党」よばわりはもっての他である。上海事変のときの、「爆弾三勇士」にしろ、その二名までは楠公精神をうけつぐ地方の出身者で、それゆえ彼らは軍神にはなれず 勇士に止まったのだというが、われらの中なる誤った歴史学者の観念的差別でもって、軽々しく論じたりするなどもってのほかでなかろうかと想う。
       豪傑新田義貞の謎
大正、昭和の時代、青空高く舞い上がる凧の武者絵は、みなこれ「新田義貞」の髭もじゃの顔に統一されていた。 私が子供の頃のメンコ遊びの、丸形のボール紙にはりついていた髭もじゃの武者の顔にも、「新田よしさだ」と書いてあった。 だから『三国志』の張飛やハンカイにも匹敵する吾国の大豪傑は、「新田義貞そのひとなり」と思いこんでいたが、さて調べてみると、鎌倉攻めのとき稲村が崎で、 「波が逆まき荒れ狂うは海神の祟りならん。わが宝剣をもって神慮を慰め奉らん。もしこの剣を水中へ投じ、波が鎮まれば海神の御意に、この義貞がそうた事になるゆえ一気に波打ち際まで突っ走り、鎌倉の北条御所へ討ちこまんず、如何」  と、海上を伏し拝み、おびたる佩刀を水中へ投じ、見る間に波のひくのを眺め、おおいに勇みたつと、左右の者をかえりみて、 「神意は吾らにあり、今ぞ北条一族をば誅殺の時なり。われと共にいざ進み候え」とばかり馬に鞭打ち突入し、北条高時の首をとった。
 だから、海神より見こまれた豪傑というので、新田義貞は英雄なのだろうか、どうだろう‥‥彼に従ってきた上州新田別所の者達は、生れて初めてみる太平洋に、びっ くりしてしまい、「海は広いな、大きいな」と面喰ったかも知れぬが、 (潮の干満、その日は何時頃に引き潮になるか)位は、近くの漁師に聞いてもすぐ判る事ではなかったろうか、と思えるのだが。  つまり、それ位の知識で佩刀を投げこむトリック程度で、彼が幕末まで、「豪傑」として特別扱いされていたのは、常識的には納得できぬし、明治になって俄かに声価が、どすんとがた落ちしてしまったのも怪しい。
 
 「雨あられと飛びくる矢は防ぎきれず、さながら全身針鼠のごとき有様となり、もはやこれまでなりと、馬が深田にはまりこみ転げ落ちたるを潮に、潔くその身に刃を突きさして、かねて覚悟の最期をばとげにけり」  といわれた新田義貞の霊を慰めんと、万治三年(1660年)に福井藩主松平光通は、その討死したあたりに建碑したが、やがて明治三年になるとそこに小社が建立され九年には別格官弊社となる。明治十五年には正一位が贈られた のであるが、地名をとって「藤島神社」と呼ばれて新田神社といわなくなる。しかしそれ以前の徳川時代にあっては、 (コレラやチフスといった伝染病や厄病よけの呪祷(まじない)絵にも画像が刷りこまれ、新田義貞の一と睨みで、いかなる悪鬼羅刹も退散するもの)とされていたのだが、位階だけは正一位に昇進したものの、いつの間にか楠木正成 にその王座を奪われた形で、皇居前の銅像にも義貞は洩れ、しがないメンコ絵や凧の武者絵にと転落してしまったのである。  もちろん新田義貞は豪傑といっても、それは容貌が、それらしいというだけであって、確定史料には誰と組打ちしたとか、何某を押さえつけて首をとったとかいった話は伝わっていない。 初めは元弘の役に際し、鎌倉幕府の命令で西上軍の中へ徴発編入され、河内へ進軍していった。
 
 そして、 「あれなる千早城を陥しそうらえ」と命ぜられ、 「かしこまって」と攻めてはいったが、新田義貞より楠木正成の方が強かったのかどうかは判らぬが、何度も攻撃したが向こうがそれに応じてこないので一度も勝てずじまいだった。
もたもたしている内にそのうち嫌気がさしてきて、義貞は東国へ引きあげてしまった。すると後醍醐帝よりの綸旨が、 「汝義貞も、北条高時の追討をなせ」と、秘かに届けられた。  天皇さまのご命令であるからには、日本人としてそれに否応のあるはずがない。そこで義貞も、
「はあッ」とばかり、昨日の友は今日の敵と北条高時の軍勢を討たんと進発しかけた処、遥々陸奥の国から石川義光、武蔵からは熊谷直実の子孫の直経、遠江からは天野経頭らも参集した。
 
そして、今は茶の産地で知られている狭山は、昔からの別所ゆえ、そこの武蔵七党の連中が、常陸の塙政茂に従って参陣してきた。そして、「北条というは、われら源氏の者共を殺掠したり、別所へ押しこめ差別待遇をなせし 不届きな輩‥‥いざこの時ぞ昔の仇討ちをなさん」「さん候、今や復仇の時にてござそうろ」「戦わんかな時きたる‥‥高鳴る胸の陣太鼓」  といった具合で新田義貞の軍勢は見る間に二千近くにふくれ上り、上州新田の庄から世良田へでて、そこから利根川を渡り、やがて一行は、 「利根の川風」を背中の母衣に入れてふくらませ武蔵の比企郡高見から入間川を突破、小手指原から府中へでた。  すると、鎌倉から廻されてきた北条泰家の軍勢が、 「来らば来れ、別所のやつばら」と待ち構えていたが、思いがけぬ新田義貞の軍勢の多さに愕き、 「戦は兵の多寡によって決まる」とばかりに退却してしまい、「それ追っかけろ」と分配河原から関戸河原へでた新田軍は、多摩川を渡って鶴間原から世谷原へでて、そこから、 「本隊は片瀬腰越から極楽寺口の大手門へ」 「陸奥隊は村岡、州崎から鎌倉小袋坂口へ」 「武蔵隊は梶原の山越えに化粧(けはい)坂の裏手へ」  と三方から突入。
 
このとき義貞が稲村が崎で潮の干満を計って、佩刀を投じたのだが、さて五月十八日から五日間にわたる大激戦で、とうとう北条高時以下の一族一門を、葛西谷の東勝寺へ追い詰めてしまい、そこで彼らを全滅させてしまった。
 
しかし、これは義貞個人が強かったというより、つき従う武蔵狭山の別所の連中や源氏崩れの連中にしてれみれば、 「失地回復」の戦いだったから勇戦したのだろう。 というのも、カマクラというのは朝鮮語では、「家居」の意味だが、古代ツングース語では、それは「首都」をさしているからである。  さて義貞は船上山行在所におわした後醍醐帝のおん許へ、「鎌倉占領、北条全滅」の報を急ぎお知らせ申しあげると、 「よくぞ致した」と御嘉賞を賜り、「左馬助(さまのすけ)」に任ぜられ、建武の中 興の論功行賞では「従四位ノ上、左兵衛督(さひょうのすけ)」として、越後守に任官した。
やがて上野、播磨二ヵ国の介(すけ)も兼任したが、中興の政(まつり)が破れ足利高(尊)氏と戦うことになって、箱根宮の下の戦で義貞は敗走した。 そして、翌延元元年(1336)、京に迫る足利軍を防いだ大渡合戦でまたしても負けた。しかし源顕家の援軍でようやく京を回復したものの、またしても攻められ摂津和田岬に陣をはったが、義貞は足利高氏に背後をつかれるのを恐れて退却し、この ため湊川の楠木正成は放っておかれた格好となって、敵に包囲され、全滅してしまった。 その後、義貞は北陸におもむき敦賀の金ガ崎城によったが、翌年ここも足利高経に攻め落された。
 
 その次の延元三年には平原寺の僧兵に包囲され、ついに藤島で最期をとげたのである。 勤皇の至誠もよく判るし、転戦して苦労したのも充分に納得できる。 が、だからといって、大豪傑だったような面影はないのである。 なのに明治になってからは、すっかり影が薄くなったが、徳川三百年の間は、さも豪傑中の豪傑といわんばかりに、もてはやされていたその謎たるや、何かというと、 平凡社版『大百科事典』第二十巻五十四頁の、新田氏系図を引用してみると、これは一目瞭然たるものがある。
源義重___義兼___政兼___朝氏___(新田)義貞_____義顕     |                   |__義興        |                                    |__義宗__岩松満次郎__新田男爵        |        |__義秀___(世良田)頼氏___教氏___満義___有親___親氏___徳川家康
 俗に徳川家康は三河の松平元康が名を変えた同一人物で、先祖伝来の三河の地を守ったとされている。だが平凡社の事典では、 「家康は上州新田から出た世良田二郎三郎で、松平元康とは別人である」ことが、これでもはっきり示されている。 このため江戸時代においては今と違って (権現さまは世良田)と知られていたからして、「新田義貞は神君家康公の御先祖さまに当たる」というのでハクがつき、代表的な豪傑と奉られたが、さて明治になると、今度は話 が変わってきて、明治新政府の連中に、「新田義貞は徳川の祖ゆえ怪しからん」とされて、楠木正成の方が株が上がったのである。
 
なお新田男爵となった本家の岩松の方は、 「御系図お貸し」の代償として、江戸時代は交代寄合組お旗本として百二十石の捨て扶持を、代々徳川家から給されていたともいうが、何処の国にしろ決まったような運命ではあるが、英雄は政権が交代すると、昨日までのヒーローが途端に卑怯者や悪党 にされてしまう。  しかし豪傑までが、歌は世につれ、世は歌につれといった具合に、その価値転換をしてしまう例は珍しい。ヨーロッパでも例がない。  恐らくこれは、絵草子屋ともよばれた江戸時代の出版業者が、命令もされないのに、体制である徳川家へのおもねりに、 「武者絵は、権現さま御先祖の新田義貞」と決めてしまって余りにも媚びすぎた結果、それが薩長の憎むところとなって、その豪傑の地位から足を引っぱられ、今では忘れられてしまった存在になったのであろ う。 が、彼も天子さまに命を賭してお尽し申し上げた一人である。 またいつの日にか見直され、豪傑でなくとも、かつてこの国にいた一人の忠臣として再評価される時はきっとあるであろう。
 
 
 
 


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