西暦8世紀の人皇43代元明帝の710年から、784年の人皇50代の框武帝の延暦三年までをさし奈良時代とします。しかしナラはクダラ語で言う処の国の意味なのです。西暦六六三年の白村江の戦いで、奈良王朝の百済人は、本国のクダラ救援に総力をあげて攻めこんでゆき大敗した。
その翌年から当時は三つ編みの弁髪の中国の将兵たちが堂々とのりこんできて、 奈良の王宮へきていますのに、なんで今さら唐によって滅ぼされてしまったクダラが、日本列島にナラ王朝などを作り得るでしょうか。変な話だが、これには裏がある。
また仮りに8世紀初頭から、圧迫された日本原住民たちが堪りかねて捲き返しに一致団結して、駿河の清見潟までアイウエオを一二三四五の合言葉に怒濤のごとく進撃してきましたゆえ、 大東亜戦の時に本土決戦にそなえて信州の松代へ大本営を移そうとしたごとく、20世紀の今でさえワラビ採りに行った主婦二人が襲われ殺され迷宮入りしているような、辺ぴな長岡へ急遽、都を移した延暦三年までがクダラ王朝であるとみるならば、これまた可笑しなことが二つあります。
この年代に、まず古事記が712年にでき、ついで8年後に、日本書紀ができている事なのです。
クダラ王政下でしたら諺文(おんもん)でなくては変なのに、これが唐よりの四角い文字即ち漢字で書かれているという事である。マホメットのコーランがイスラム語で書かれているからこそ信用されるのでして、もしラテン語でしたら十字軍遠征時代の手作りと怪しまれ、絶対にアラブの信仰の対象にはならないでしょう。
仏書や仏典にしても初めはサンスクリット語のものが、中国経由で渡来したからこそ漢字漢文になっても許容されている。
それでも梵語、梵字も伝わっているのです。となると漢文体の古事記や日本書紀の原本も中国大陸経由できたものでしょうか。オンモンとよぶ朝鮮文字が共に残っていないのも、実に変な話です。唐令そのままの大宝律令が、飛鳥浄御原律令を拡大整備させたものとし、藤原不比等が立法化したとされ、 彼が西暦708年から右大臣となるのも、これまた、まことに申して辻つまが合いません。
その才覚をかって登用とか、藤原鎌足の子ゆえといろいろに言われますが、正直に申して朝鮮の人より中国大陸の人方が頭が良かったということもありません。
ただ本当の歴史からみて中国大陸の唐人は戦勝人間でして、朝鮮半島人は当時は戦敗人間だっただけ差異でしかありえません。
さて大陸人は、白村江の戦いの前から日本へ渡来してきていたのを桃の文字を使用し、その後は藤と変えますが、この時代からは藤原と同一の貴姓にします。 騎馬民族の崇神王朝系の蘇我の人々が、芝居では「曾我の仇討」という同音の当て字も使いますが、一般には「われこそミナモトの民なり」と源を姓に統一しますし、 その前の天の王朝系も当初は、みな天の御一門である。のちになると改姓して皆それぞれ熊野者も「平」の御一門となる。
処が百済、新羅、高麗となると統一姓はございません。
「コウラーイヤ」と芝居で松本幸四郎らに掛け声が残る他は、瀬戸物の青磁の名物ぐらいです。 もちろんコマと縮めれば、狛犬とかコマエ百姓、独楽のコマの原語もそうですが、占いコックリさんとしても残っている。
新羅となると、八幡太郎義家の弟で、新羅三郎義光ぐらいで統一姓どころか何も伝わりません。
百済にしても「クダラにあらざれば人にあらず」とし、クダラねえといった俗語が21世紀の今でも使われる程なのに、法隆寺の百済観音像の他は、平安初期の画人百済可成の名ぐらいしか残りません。
三韓時代から日本列島を植民地にして、あらゆる地域を三分し備前・備中・備後と命名していたくらいのオーナーなのに、各別はおろか統一姓すら伝わっていなくて、奈良の国名すらも、今では「オナラのごとく消え」とされ、江戸期でも「音はすれども姿はみえず、ほんにそれゆえヘイ城京」と狂歌にされているくらいです。
ということは徹底的に奈良人は進駐軍によって奴隷扱いされキイの川の流域に初めは閉じこめられ、やがて男はヨボの走り使い、女だけは単身進駐の大陸人の臥床御用だったようです。 「いにしえのナラの都の八重桜今日ココノヘに匂いぬるかな」の唄にしても、
桜の花は八重桜にしても染井桜にしろ決して芳香などは致しはしません。
また、良い香りは、かおると言いまして、匂うというのは臭いということです。ヤエは古代クダラ語の女人のこと。サクラは寅さんのような香具師言葉になっては、人寄せの連中の意味になりますが、 群がるとか多いの複数の意味でした。つまりこの歌を綺麗ごとに教えこませているのは学校歴史の嘘でして、当時の怨歌であるこの意味たるや……
昔の奈良の女どもは粟ばかり食していたゆえ、キビ、つまりコウリャンを食させるようになったので、消化不良でガスが溜るのか、その最中にさえプウスカ洩して臭くて堪らぬわえ…… といった進駐軍の歎きのバラードが真実なのであります。
が21世紀の令和になっても「朝鮮美人」とよばれるのが、白人とのハーフ全盛の現代になるまではおおいに賞讃され、かつては女優の司葉子がそうよばれて人気があったのをお覚えの方も、 まだいられるでしょう。 つまり8世紀を女上位の時代とみれば、ブウブウやりながらも威張っておられた奈良美人の世ですから、これを奈良朝とよんでも、一向に差支えはありません。 しかしクダラ系の中大兄の天智さまの死後、その御子の弘文さまを倒して、取って代わった天武さまは反クダラで大陸人である。次の持統さまはその妃であられたゆえこれは同系。
御子の文武さまとてやはり同系。ついで立たれて大和平城に遷都された元明さまとて文武さまの御生母ゆえ、やはり同系貴種であらせられるのであります。 次の元正さまも元明さまの皇女ゆえ同系。聖武さまは元正さまの御子ゆえ、やはりまた同系です。
藤原鎌足の孫にあたると伝わる光明皇后さまを迎えて、おおいに仏教のPRをなされ、やがて御子の孝謙さまへ西暦749年に御譲位なされたが、7年目にまた御自身が取って代わられて人皇49代の称徳さまにならせられたもうが、慎しむべきは何んとかの途と下世話にも申すよう、道鏡さまのことで問題になり、 やがて崩じられて、次は光仁さまの世となりまするが、さて781年の天応元年、「正月三日、光仁帝、不豫ノ故ヲモッテ、桓武四十五歳二譲位」という緊急事態となるのであります。
何故に継体王統に突如として、この時に消滅させられていた奈良系の桓武さまが人皇50代になられるのかという謎は、なんの文献も残されてはおらず「六国史」にさえも何もでていません。変です。 まさか唐によって滅ぼされた百済が、このとき再興して唐を破り日本へ攻めこんできて、河内の国より桓武さまをかつぎだしたという訳でもないようです。
だが、明白に同年十二月に前帝崩じたもうや、恐れ多くも桓武帝は「天皇哀号卜咽ヲ摧イテミズカラヤムコトアタワズ」つまり、帝は悲しまれて、哀号、哀号と叫びつづけられ咽喉をつぶしても、なお叫ばれ哀悼の意を表されたというのです。 が何故にこんなことを、藤原勢力がここまで書き残しているかといえば、せっかくの王統がここで替わるゆえ、その埋め合わせに挽歌として強調して、こうした文章を書き加えたのでしょう。 不自然さはそのせいだという事がこれで判ります。 つまり西暦七八四年までが奈良朝となるのならば、最後の3年間だけが実際の奈良系の王朝です。
それなのに一括し「奈良朝時代」などと日本歴史がするのは、結果論によると申しますか、はたまた、「終りよければ、すべて良し」のきめつけでしょうか。 まことに何も裏付けするものは残っていません。 これは中国勢力(藤原氏)が自分たちの都合で、すべて匿してしまっているので、今も誤られている藤原日本史なのであります。
さて、せっかく大化改新のクーデターを敢行させた黒幕のフィクサー藤原鎌足が、中大兄の死後はその御子の弘文さまも殺して、自分らの世となし、朝鮮美人の臭みにも馴れ、おおいに持ちこんできた仏教の興隆につとめていたのに、この期に及んでどうして、又も逆に戻ったのかとなります。
それは日本原住民が蜂起したため、治安維持のために旧奈良人を味方にせねばならぬ突発事態になったから、やむなくとった政策であろうと想われます。 その証拠に、西暦七七四年七月に藤原王朝は、陸奥按察使兼鎮守将軍大伴駿河麻呂を副将軍として河内守紀ノ広純を任命して、検税使を各地に向わせ反乱鎮圧に出向いているからである。 そして駿河麻呂が討死となるのは日本書紀に書かれている。
さて、世に史書と云われるものは数多く存在する。記紀を「これしか無いのだから、これが正しい」として、歴史屋は金科玉条のものとする。 しかし、実態は上記した通りである。ここで一つ例を挙げれば、現在一級史料と云われる「細川家記」がある。 あれだけ詳細に書き残されているということは、本能寺を襲った第一戦部隊に、先祖の細川幽斎が参加していたという、事実を糊塗する目的の書なのである。 誰が、何のために、何を隠したいが為に書かれたのか、ということを必死に考えることが大切なのである。 そして、記紀などは「歴史の改竄」等の生易しいものではなく、己らに都合よく歴史を捏造したものだという事である。
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