昭和の回顧談 キャバレーのお話 男のお洒落
私は戦前生まれの世代だから、餓鬼の頃欲しかった憧れの時計といえばセイコーやシチズンは眼中になく、スイス製の「オーデマビゲ」だった。大人になって、稼ぎが出来るようになり、さらに手に入れたい物と言えば、車はキャデラック、服装と言えばスーツは英国屋のテーラード、帽子はボルサリーノ、コートはバーバリー、靴はコードバン、これに腕時計がオーデマピゲとなれば上から下までビシッと決まった。 現在高級スーツといえばイタリアのベルサーチだが、(歌手の細川たかしが250万円のスーツを着て自慢していたが、高値すぎ、成金匂が強くていただけない) 当時のスーツは英国製全盛だったのである。
煙草は両切りのピースの甘い香りにしびれて居た。強烈な香りのドイツ煙草に、ゲルペ・ゾルテなんかもよく吸った。酒もスコッチのオールドパーが一番だと思っていた。 しかし、18歳の頃、当時よく行っていた横浜ニューグランドホテルのバーテンに「お兄さん、スコッチばかりがウイスキーじゃござんせんよ」 と、勧められたのがアイリッシュウイスキーの「タラモア・デュー」で、その芳醇な深い味に病みつきとなり、今も愛飲している。
当時、渋いお洒落の大人たちと言えば、万年東一、白神英雄、安藤昇など右翼の大物やヤクザが綺羅星のごとく闊歩していた。現在堅気の作家に収まっている安部譲二なんかも、 今は爺さまになって、猫と遊んでいるクスブリだが、彼も若い頃は安藤組(東興行)の若い衆で、喧嘩も強かったが、お洒落で苦み走ったいい男だった。 彼はやくざで最初にベンツを乗り回した男だが、おしゃれでは今の俳優やタレントなど足元にも及ばないだろう。 近頃の男のお洒落って奴は、服装が小汚く、容姿は、フヤケてにやけた、なよなよぼうず多いが 、おしゃれや上質(いい)男の物指しが変わったのだろう。
渋い映画俳優
現在は、安っぽいテレビ映画が全盛で、映画監督も小者揃いで、漫才あがりの北野武が巨匠なんぞと持ち上げられてるのは、おへそで茶を沸かしたいようなものである。 役者はテレビタレントが大手を振って大根を演じているし、役者の範疇にも入らぬ小者のオンパレードである。 二枚目で売れていた俳優が、テレビの「食べ歩き番組」で、馬鹿な漫才屋に合わせて下手な食リポをしている姿を見るにつけ、哀れを催す。
スポンサー、デレクターやテレビ局に媚びへつらうい、何にでも、何とか出演させて貰おうと涙ぐましい努力は見苦しい。 スケールの大きな、自己の美学に頑なに拘る役者も居なくなった。 食うために背に腹は代えられない現状は理解するが、夢を売る俳優が「媚びを売る」らなければならない現状は、「日本映画の死」を意味する。 敢えて、好みが入るので、女優や大物たちの名はあげないが、主役も脇役も、昭和は渋い俳優が多かった。 森雅之、水島道太郎、天地茂、成田三樹夫、上原謙、岡田英次、三国連太郎、田宮二郎、等々。
キャバレー物語
1960年から1970年にかけて、キャバレーは全盛時代だった。 特に大阪は大箱というマンモスキャバレーが多く、その規模は当時では日本一だったろう。今覚えているのは大劇サロン、処女林、令嬢プール等である。
千日前のD劇場を曲ると、処女林のネオンが、夜空に咲いた大愉の菊花のように、華やかに煌めいている。 事実大きな花弁のネオンで、その一つ一つが、赤、紫、黄と三色に彩られていた。花の真中は真紅で、処女林となっていた。 その巨大なネオンの花は、三十秒回り、十秒とまるので見ていても飽きない。 処女林が出現した時は、マンモスキャバレーに動じない大阪人も、さすがにあっと言った。その規模が常識外れて、馬鹿でかかったからだ。
地下から四階まであるが、それが全部アルサロ、キャバレーなのであった。地下はアルルサロ娘千人を擁する処女群で、 一階と二階がキャバレー美女群である。 これがAとBに分かれていて、それぞれに七百人づつ、千四百人ホステスがいると誇称していた。
セット数は一千もあり、客席の真ん中には円形の自動立体ステージがあり、その両側には二基の空中ステージを浮かせた巨大なステージが在った。 四台のゴンドラリフトが客席の上に下がり、二台の空中ゴンドラが客席の上を自由に飛んで、ゴンドラに乗ったヌードダンサーが、アクロバットのように 両手両足を拡げて頭上を通過していく様は壮観であった。 こんな大キャバレーでは、一日の売上げは、一体幾らになるのかと考えると、かりにセッ卜数が千とすると、一セッ卜三人の客が入って三千人だ。回転率を二とすると六千人、三では九千人になる。ただ満席近くなるのは、九時以後だから、 回転率は二ないし、二半と見るのが、先ず常識的な見方だろう。
控えめに、一人千円落すと見たとして一日に七千人入って七百万円。 月にすると二億一千万円の売り上げになる。これは昭和三十年代の貨幣価値だから、現代に換算して、一人五千円と勘定すれば、莫大な売り上げになることは想像できるだろう。 しかも、この建物には、アルサロ、洋酒喫茶、が地下と四階にある。だから総計すると最低月に三億から四億の金を客は落としていることになる。
ホールの模様、セットのボックス、デスク上のスタンドなどは常に改装されていた。こうして絶えず店内の雰囲気を変え客を飽かさないようにするのも、キャバレー経営のコツなのだろう。朝鮮人経営のあるキャバレーなどは、定期的に火事を起こして燃やしてしまう。原因は漏電と新聞発表だが、真相は知る人ぞ知るだ。 そのたびに莫大な保険金をせしめ、新しいキャバレーを建てる。火事を理由に税金を誤魔化す。保険会社こそ全く良い面の皮だ。
首都東京にも、キャバレー太郎の異名をとる立志伝中の、故、福富太郎氏のハリウッドグループが在った。彼はボーイから叩上げた苦労人で、その明るさゆえかテレビ出演も多かった。 銀座にあったハリウッドは、料金も高く設定されていたが、モデルの卵や女子大生などの美人が多く高級店だった。 一方、新橋のハリウッドは茨木、栃木、福島、山形、秋田県と東北娘をそろえ、大衆サラリーマン路線で大いに繁盛していた。 若くて素朴な田舎のおねえちゃんが多いという事は、東京のサラリーマンも東北出身が多いから、お国訛りの話題で、店内で同郷の話に大いに盛り上がり、酒類の売り上げがアップするという、 全く良いところに目を付けた上手い商売の方法である。
現代の「顧客選別戦略」の走りだろう。(2018年12月閉店した) 私がキャバレーで遊び始めた頃、セット料金がビール一本と御つまみがついて千円ぐらいだった。一人だけ、本番という女がついて彼女を相手にダンスをしたり話をする。 気に入れば指名に直すことができて、指名料は五百円から千円だった。 始めはシステムが判らず「ビールはジャンジャン持って来い。」とボックスの周りにビール瓶を林立させて飲んでたが、或る時ベテランのお姉さんから、 「お兄ちゃん、ここはそんなに飲むとことちゃうねんよ、飲みたきゃバーにでも行ったらええわ」と諭された。 由来、好みの子を指名して口説き落とし、随分と遊んだものであるが苦労の割には成績は悪かった。そこで、キャバレーで女の子を落とすコツを考えた結果閃いた。
これは女の子の沢山居る現代のスナックやクラブでも通用する。 先ず、若くて美人で、ナンバークラスの売れっ子は除外する。そして自分の好みもこの際捨てる。 大事なことは何百人の中には必ず自分のようなタイプが好きな子が居るので、「口説く」のではなく、ホステスに「口説かれる」のが効率が良い。 だから、少々太っていたり、30歳過ぎの年増でも、スタイルやお面が気に入らなくとも、一夜の関係ができれば、それでよしとするのである。 若い内に女の贅沢を言ってはいけない。
こうした女たちとの交流の中から、女の心理や行動形態を勉強する。 ネオンに焼けて、苦い酒と女に爛れ、夜の世界のマナーを水商売の巷でもがきながら学んで、男を磨くのである。 こうして成長し、地位や金が出来てから、大人の男の魅力を発揮して、ナンバーワンでも、若くてぴちぴちの女を口説けばいい。
昭和四十年代、当時、北海道各地を廻っての仕事だったので、各市のキャバレーでよく遊んだ。 札幌では、クラブハイツ、アカネ、白鳥、エンペラー、ミカド。 小樽はキャバレー現代。室蘭はエーワン。釧路は銀の目。函館は未完成、ハーバーライト、ロゴス等々。今はこれらは全て閉店し無くなった。現在はネオン街の質が変わってしまい、若者達は現代的な感覚の溢れたこじんまりした店に出かけていく。 そして若者の遊びも豪快で破天荒な飲み方をする者も居なくなってしまった。当時のキャバレー全盛時代を知っている私にとっては、淋しい限りである。
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