新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 太田道灌と江戸城 「箕のひとつだに、出せばよろしく」

2019-10-24 15:14:36 | 新日本意外史 古代から現代まで

  太田道灌と江戸城

「箕のひとつだに、出せばよろしく」

 
 これもサンカの言い伝えである。
現在では「身の一つだに、無きぞ悲しき」と誤って伝えられているが
「ミノひとつだに、出せばよろしく」が正しい。

江戸時代、浅草弾佐衛門は、四つと呼ばれた騎馬民族系統の頭梁だったが、 一般や武士階級からはと呼ばれ、蔑まれていた。
そしてこの弾家は騎馬系の者達から、一人当たり年二朱の人頭税を徴収していたので、その権威と財力たるや、格式として十万石の大名に匹敵する豪勢なものだったのが実相。
騎馬民族の末裔達のことを、馬が四つ足だから「四つ」と呼んでいた。
これらは江戸時代になると、江戸以北に二千万人から住んでいて、徳川幕府は、これら原住民の反乱を防ぐ意味で四つの弾佐衛門を頭に、その下に六人の手代を置いて、相互に牽制しあう制度を敷いていた。
この弾佐衛門は前記のよえに十万石の格式で毎年八朔と正月には白装束に大小二本差で、江戸城に登城を許されていた。
(弾佐衛門の本名は矢野内記で、幕末には薩摩の益満休之助に倒幕の加担を頼まれるが断っている)


だからそのためこの弾家の集団から脱けられると、例えば家族三人だと、年に一両の収入減になる。
だからこの「抜け人」とよぶを厳しく取り締まっていたのである。

 一方の海洋渡来民族系側は、江戸期には京へ出てきていた若狭の「水上の御坊(穏亡)」が総取締まりで、日本各地の阿元(テレビで網元となっているが間違いで、
「あーもと」が正しい)へ収穫魚を己の身の重さだけ納めさせ、塩尻と呼ばれるのには製塩一カマスを出させ、関西の堺港で集め塩魚にさせて、各地へ卸して上納銀としていた。
これに反してサンカ集団では「統治せず、統治されず」の相互扶助制度で原始共産主義とも言える制度を採っていたから、搾取などは一切無かったのである。

そして百姓が米を精米時には必ず使う竹で編んだ箕(ミノ)と呼ぶザルの大きなのを一つ編んで、ムレコ(サンカが住む山や川岸のテントのような小さな棲家)の隣組長のような頭に届ければ、
頭はそれを集めて、昔は農業の必需品だから、村に溶け込んで居付きで暮らしている仲間の者達に売らせ、その銭を、各国別に居るクズシリ(ムレコの上部組織の頭)に持っていく。

各国別に居るクズシリは、己の国の中で病気や怪我で貧しい困窮者が居れば、集めた銭の中から、その救いの銭を次々と届けさせた後で、残りを綾部の
オオモトさま(サンカ集団の最高頭領)の元に「余り銭」という名目で、預かっていただいた。
というのは津波や山崩れでもあってサンカの羅災者が出て、その地方のクズシリたちの手に負えないような状態の時には、オオモト様へ預けた余り銭を出して貰い、救済資金に当てる慣わしだったからである。

東の弾佐衛門や西の水上のような豪勢な暮らしはしないで、オオモト様も箕を編んで皆と同じようにセブリをしていたのである。
この実態は、学校歴史では絶対教えないが「サンカの歴史」の本の中に詳細に述べられているが、

「赤ばけサンカ」・・・海洋渡来系から抜けて、サンカの中に潜り込んで生活している。
「白ばけサンカ」・・・騎馬系から抜けて、サンカの中に潜り込んで生活している。

この赤も白も、それぞれに人頭税を上納するお頭が厳然と居るのに、彼らは何故にサンカの構成員に化けているのかと言えば、どうもその原因は人頭税のせいらしい。
徳川家康が江戸に入部の際、現在の室町の三越本店のある地域から、弾家は隅田川向こうの新地へ移ったが、関屋の頭の石出帯刀は、幕府に召されて世襲三百石の牢屋奉行になった。
そしてその跡地も全てが弾家の縄張りとなり、その組下に品川八汐に居た、赤(海洋渡来系)の車善七が、団子山から今の谷津辺りまでを支配していた。
四ツの弾家が、小塚原に処刑場を設けていて、此処では罪人の死体から生血や脳味噌をとりだして、いわゆる「生薬」を製造して大きな利益を上げていたが、
これは儲かるからというので、車善七の方は六郷川に当時は面していた大井の鈴が森にも刑場を作って、赤系の雲助達を使って奉行所配下の捕方衆にしていた。
こうして皆が雲助や駕籠かきだけをしていては、彼らは当時その日暮らしの日当制度だから 親方の車善七が京の水上家に上納する為の銭の工面は無理だったから、
日に何文かの積み立てをして、刑場の生血売りもしたのである。

また弾家支配の方でも、百草辺りで採れるモグサも売り歩いていたが、年に二朱の上納銀は相当に苦しかったらしく、致し方なく生薬売りにも手を出して凌いでいたと思われる。
つまり赤バケ、白バケという人々は人頭税が相当に過酷にすぎて、支払いが出来ない者らが結構居て「抜け人」として、制裁を受けるのを恐れてサンカの群れの中に潜り込んだのである。

そしてこれらの者が三代続けてセブリ暮らしを続けると、サンカと同じに扱われ掟があったので、サンカの中へ融合してしまったようである。
現代は税金の種類も膨大で、所得税、消費税、住民税、酒税タバコ税、車税不動産税、その他その他。
何時の時代も庶民は重税に喘いでいた実態は変わらぬということになる。
 
     太田道灌もサンカ出身者
 さて、東京都庁前に太田道灌の銅像が建っている。
彼にまつわる有名な話として、雨に降られて立ち寄った家の娘が

「蓑一つだに無きぞ悲しき」と詩を読み、代わりに山吹の一枝を渡されたという故事がある。
だが十五世紀の頃に雨合羽代わりのミノが、当時まだ未開発だった江戸に普及している訳は無い。
これはどうもカサ、ミノの方ではなく、箕であって、当時関東も山金が多く転がっていたから、
「山吹色」と俗称される黄金だと考えると辻褄が合うし、この歌の意味も理解できる。
そして太田道灌は、当時旨刺(むねさし)から武蔵と呼ばれていた地域の頭に当たると思われる。

従って道灌が自分の責任範囲である武蔵地方のサンカから、前記のように、箕を集めて廻っていて、娘の居る家族の処へやってきたが、
「ミノはこのたび編めませんでした。だから、その代わりにこれを納めてください」と、 拾ってあった山金の塊を一つ差し出したものと想われる。
そもそも太田道灌は、足利時代の関東管領だった扇谷の上杉家に仕えていて、江戸城を築いたといっても、当時のことだから、空堀を掘っただけの、砦並みの
小さなものだったろうし、それに道灌は丹波国桑田郡太田の庄出身というから、アヤベサンカの出身と考えられる。

なにしろ日本は、インドのカースト制度を導入した足利体制の中期以降は、室町幕府は片っ端から限定被差別地を各地に作って、幕府創業時に抵抗した、
反明国的な南朝の残党(朝鮮系、海洋系、騎馬系)を徹底的に弾圧した。
だからサンカ系も各地に散らばって「勢振り」ともいう反撃体制とっていた。
後には賎、つまり静と和訓の静岡の今川家に取り入り、やがては小田原の韮山氏の入り婿となって、武力によって箱根の山にかけて原住民系の解放地区にし、
後北条として覇を称えた北条早雲もれっきとしたサンカ出身だったし、
太田道灌もやはり丹波の国から出て、当時は未開発で足利の勢力が手薄な関東へ 潜入し、上杉家へ仕官した。
そして次々とサンカを結集して武功を立て、小さいながらも初期の江戸城ともいえる江戸砦を作ることが出来たのだろう。
もう少しで北条早雲より早く、江戸の解放地区が関東に出来たのに、上杉定正に謀殺されてしまったのは惜しいことである。
この謀殺の訳は、流れ者の癖に兵を集めて、足利体制では明国へ鉄のビタ銭と 等量交換の金を、ひそかに集め蓄えだしたのを怪しまれてのことと思われる。
だから後年、夷也を、稲荷と誤魔化して江戸中に祀った江戸サンカの溶け込みの子孫たちは、「太田道灌と田舎娘山吹のやりとり」を忘れがたく、
江戸期になると絵草子として美化し、後世に語り伝えたものらしい。
サンカ出身の武将はかなり居て、江戸期に大名になった者も多い。
 戦国時代の蜂屋頼隆、蜂須賀家、加賀の前田家などが有名だが、家康の遣命によって、家康もサンカの「葵族」出身だから、同族としてこれらの大名は、明治まで取り潰されずに残ったのである。




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