
新説 柳生新陰流
日本刀に刃は付いていない
日本刀は攻撃用具ではない
柳生こそ「家元制度」の元祖
武芸は芸事なのである


柳生石舟斎、上泉伊勢守より免許皆伝される
「柳生石舟斉の刀術は、もはや極秘の境地にまで到着している。これこそ新陰流の真随であって、もはや吾らの技術はとても及ばぬ、 教えるところとてないようであるな」と上泉伊勢守は、柳生の庄へ神後伊豆守や疋田文五郎ら門人をつれてまた久しぶりに訪れてきたが、 次々と彼らに立ち合わせて検分していたが舌をまき賞めそやした。そして。
「初めて此処へきて求められるままに、その熱心さにほだされて一手を教授した。疋田を残して腕を磨くようにさせてはいたが、まさか三年たらずで、 ここまで上達するとは思いもかけなんだ……さあ、最期の立ち会いをなさん。
遠慮せずに、このわしへ掛ってきんしゃい」と、柳生新介こと後の石舟斉にうながして、己れも携えてきた木杖を星眼にかまえ突きだした。すると新介は深々と一礼してから、 「御免なされませ……」前もって断わってから、たあっと近かよってゆくなり地面を爪先で蹴りあげて、今でいう走り巾飛びで、「……やあッ」と鋭く一声あびせかけるなり、 掬いあげるように上泉伊勢守の木杖を下から絡ませはね上げるやいなや、自分はそのままサアッと背後の松の木の枝に身を躍らせた。
「……とおっ」と、息をつく間もない一瞬の、あまりにも早や業なのに、神後伊豆らも吾を忘れて眼をみはって、思わず唸りをあげた。 上泉伊勢守も、その時すでに宙に舞い上った木杖を飛び上って取り戻し、すばやく握りしめつつ前に戻った体勢で身構えた儘であったが、「新陰流猿飛びの極意までよくぞ極めたり……」と、あまりの見事さにただ感服した。 「よし、かくなる上は、もはや教える事もなしだから、すべて皆伝であるが、やたらにと言うより絶対に、新陰流の秘伝を他へ洩らさぬように、誓書をわしへ入れてほしい」 と、松の木から身軽く飛びおりてきて、地面にかしこまっている柳生石舟斉に対して、上泉伊勢守は陽やけした顔をなでつつ、さも満足そうに言ってのけた。
そして脇から神後伊豆守がさしだす矢立の蓋をあけ、筆をつまみだして紙と共に手渡し口頭で書く文面を教えてから、上泉伊勢守は満足そうに大きくうなずき。 「天成の剣というか……持って生まれた天分と申すか。汝によって、吾が新陰流の名は大下におおいに広まろうのう」と、その日は柳生の庄に泊ったが、 翌朝まだ暗い裡に起き出て布目川ぞいに上泉秀綱は山城へ向かった。この事は、正親町帝の、天文八年(一五六五)のことであると<玉栄拾遺〉や〈武芸小伝〉にはでている。
兵法伝書は後世の偽書らしい
猿飛びというと今では、忍術の猿飛佐助にお株をとられているが昔は正面を向いたまま背後飛びすることを言ったのであるし、回転レシーブで飛びはねるのを猿廻しとよんでいた。 後述するが明国人茅文がこの技を珍しがって選文した「武備志」にしても、はっきりと。「猿飛び猿回し等の手法(技術)なり」と日本刀法を定義づけている程でさえある。 つまり猿飛佐助は大正時代の大阪の立川文庫の作り物であっても、猿飛新介の柳生但馬守厳石舟斎は実在していたのである。さて、 天理大学図書館所蔵の兵法家伝書なるものが現存していて、寛永九年というのは宗厳の子の但馬守宗矩が現在のFBI長官にあたる大監察を拝命し、役扶持として現実二千石の加増をうけ、 徳川家光の側近として戦場では使番の参謀の印である五ノ字の旗指物の許可をうけた年である。
なお、この年に「柳生家兵法伝書」ができたのであるから、筋目をはっきりさせるために上泉秀綱より柳生石舟斎へと挿入にさせるため、新しく手作りで書かせたものであるらしい。 日本へ渡ってきた一握りの大陸系藤原氏は、同姓の者を増やしたい為か現代の勲章代わりに、金のかからぬ恩賞として、奥州の古代海人族である、 アマの王朝系の流れを引く安倍氏らに対してさえ、藤原の姓を付けさせている。 それは徳川時代に各大名にも賜姓して、薩摩の島津にさえ松平姓を名乗らせたのと同じであるらしい。
前記した、兵法伝書には上泉秀綱を持ち上げるため、いくら権威をつけけるためとはいえ藤原の名のりは可笑しい。 また何々守も自称ゆえ、どう付けてもよいようなものの上泉は伊勢守であって、武蔵守にしてしまっているのは、剣道を神聖化したい立場の方には悪いが、 どうみてもこれは偽書としか言いようがなかろうとみられる。
日本刀に刃は付いていない
さて寛永九年に完成したと伝わる柳生家兵法伝書の基本となっているのが、柳生石舟斉が金春七郎に対して今でいうイラスト入りで書き送ったものという、 「新蔭流兵法目録」の〈三学円太刀〉の秘伝である。また後述するが、飛来する矢を止めるのが「矢留」の術であったが、それと同じで刀道も「切留」としきりに秘伝書に出てくるように、 相手が切ってくるのを受け留める術であった。沖縄の唐手やヌンチャクと同じように日本刀は攻撃用具ではなく、打ち太刀の名称で呼ばれていたように護身用として、 不意に突き掛ってくるのを打ち払って身を守るためのものだったのが本当。
処が幕末になって、土佐の岡田以藏とか薩摩の田中新兵衛といった八部衆出身者の殺しの鉄砲玉が、攻撃用具の槍を使っては怪しまれるからと、切先三寸にしか切刃がついていない日本刀で、 切るというよりは体当たりで突き刺す方法で人殺しをしてのけた。
つまり討幕のための邪魔者を片っ端から刀で殺して明治の世にしたのである。 だから「槍一筋が武士の嗜み」とされていた攻撃用武器の槍が新選組でも多用されたのだが、今は価値判断の逆転で、刀が主になってしまっている。
古道具屋も長くて、かさばる槍よりも扱いやすい刀に目をつけた。 旧幕府時代にあって、目見得以上のひとかどの武士でなくては、攻撃用具ゆえ槍はもてずだったが、刀は護身用ゆえ町人や百姓でも旅をする時には、 道申差しとして許されていた程度だったのが立場を一変させた。それに山岡鉄舟などがしきりと筆をふるって、「剣禅一如」の文字を書き広めたので、いつしか「刀が主役」のように思われだしたのである。
なにしろ廃刀令以降は刀は古美術商の目玉商品にされてしまい、その方が売りやすく儲けも大きいから、さも刀が攻撃用具だったような錯覚を与え
武十道とは日本刀と見つけたりのような、世の中になってしまったのである。しかし、これを読まれて従来の説とは違うからと、頭の固い人が多いから、 前にも引用した明国人の「武備志」をまたもちだしてみれば、「謂う、刀法の術は、もってもっぱら倭奴の芸となす」といいきってさえいる。
明国人の目からみれば双方が前後左右に振り廻して戦える剣と、さもなくば重量で相手を叩きのめす青竜刀なら武器であるが、 片一方だけにしか刃のついていていないゆえカタハが訛ってカタナとなった日本刀に、はたして武器として価値があろうかと疑問視したのだろう。 なにしろ日本刀が生れたのは、藤原道長が入道した寛仁三年(1019)四月から翌年にかけて、青い目をしたお人形ならぬ南蛮賊が壱岐対馬から、肥前にまで上陸してきた時点である。 「良き鉄は針にならぬ。テンホウの良き人間も兵にならぬ」と藤原体制は山に隠れ住む日本列島原住民を捕えてきて徴用した。
これで防衛軍を組織して九州へ派遣した。しかし当時は軍需工場などはなく、彼らに持たせる武器もなかった。といって中国製の剣や鉾をを持たせれば、 それで反乱されても困るからというので、大量生産しやすく、反乱できない武具として、日本には多く採れる砂鉄で鍛工し、付け焼刃の日本刀が作り出されたのである。 当時の藤原氏の公用語は「イアルサンスウ」の中国語だったから、今でも「算数」と当て字した教科書もあるように、一はイだから刀イと日本刀は片刃だから呼ばれていたので、 歴史年表の類には「刀伊の乱」とか「刀伊来襲」と出ている。
さて、吾々日本列島に昔から住み着いていた者たちは、唐や明の当時の先進国の人の目には「倭奴」であって、つまり、倭の国の奴隷としてしか映らなかったのだろう。 だから、武器にもならぬ片刃のもので、用いる時には寝た刃を起こすといって、研いでからでないと使えぬような、不安定なものをもって、 それで敵と渡り合うというのは、芸術的だと明国人の茅文は感心して「蔭流を広めしは柳生但馬の守宗厳その人なり」とまで、柳生宗在の門人佐野素内が、 江戸中期の正徳六年(1716)に書いた『柳生流新秘抄』の最後に援用しているのである。
戦場の武器としては直ぐに切れなくなるし折れるし曲がってしまうものでも、押しよせてきた南蛮賊の防衛に狩り出された御先祖さまは掉わしいけれど、 明国人に芸術とまで賞揚された柳生新蔭流は、さすがに至妙な芸であったことは疑いの余地もない立派なものだったろう。
が、所詮は芸事ゆえ、印可状や皆伝書には、きまって他へは極秘にして洩さぬよう誓詞をとることとか、大切な個所は口伝えにしか教えぬと定め、教わった方、も他へ勝手に数えたりしたら神罰をうけるとの起請文を入れさせている。上泉秀綱が創始者かも知れないが、現代の家元制度に発展させたのは柳生流なのである。 つまり師範代、師範、目録、皆伝、名取の順で、家元へ上納金を収めさせて、おさらいと称する稽古をさせ、巻物を巻いて流派の名を挙げるのは、 柳生石舟斎からその子柳生但馬の守宗矩あたりが考えた事である。これは現代の茶道、華道、舞踊、剣道など全ての仕組みになって残っている。 幕末になっても浅井又七郎の道場で学んだ千葉周作が、家元に入学金や月謝の速修金の半額提出を拒んで、弾佐衛門家の手代、井上石香に、その飛び地の、 神田お玉が池に道場を建ててもらい、「北辰一刀流」を新しく名のったのも、自分が別個の家元になるためてであったと「続関東英名録」には出ている。
つまり刀術の流派争いも家元制度による上納金の取り合いとみれば解りやす。金が万事の世の中の日本では、前記のようにお茶、お花から舞踊までみなそうなのである。
刀法は護身術
「倭奴の蔭流」と明国人が指摘したように、白村江の戦いで勝ち誇ったトウ氏が九州から進駐してきた時点から、彼ら及びそれに帰順降伏して手先の傭兵隊となったクダラ系は、 「陽」の民で嫡民だが、それまでの日本人の九割をしめていた古代海人部族アマの王朝拝火教徒や騎馬民族の日本原住民は、奴隷であり庶民であったから、日蔭の民とされていたのである。 「刀法」に、陰流、蔭流はあるが、正流陽流が一つもないのは、なにしろ刀イの乱に日本刀をもたされ出征させられた子孫だからなのである。
なにしろ日の当る場所の公家衆で、刀法を学んだのは明治になってから、天皇を東京へもってゆかれて寂れた京を復興させようとした愛宕通旭卿だけである。彼は十津川郷士と組み、 「勤皇」を叫んで盟主となり徒党を組もうとしたところ、新政府の京の弾正台に睨まれ、「明治の御一新になって、またぞろ勤皇運動など叫ぶのは不逞の輩である」と、薩摩の殺し屋に踏み込まれて、 革命下の反革命家として、妻もろとも無残に殺されている。 つまり大化の改新以降幕末に到るまで公家は、双刃の唐風の剣を佩用していて、刀法ではなく、突きの技法だった。
それも幕末の物情騒然たる世の中になって姉小路喞が、護身のために習練したというが、居合抜きの刀法にばっさりやられるのでは剣を抜く瑕もありばこそで暗殺されてしまっている。 居合というのは裾物斬りといって動かぬ物、たとえば木の幹とかに藁を巻いた竹柱のような物を斬るものであって、人問へ用いるのは不意をつく為に殺し屋がなすものと卑怯視された。だから新陰流兵法目録や極秘とされていた、「天狗飛び切りの術」の<天狗抄>にあっても正統派の柳生流にあっては、双方立ち会って構えあっての刀芸しか載ってないのである。
柳生流の門人で一国一人相伝の播磨での家元になった荒木又衛門が、道場で大小神祇の祀霊を拝んでいる処を、不意に背後から忍び足で近かよってこられ、ものもいわずに、 「サーッ」と真剣で宙を切っての居合打ちにあった時、すかさず祀檀に瓶壺たてて供えてあった丸まった奉書紙で、相手の刀の柄を、発止とばかり叩きつけて、荒木又衛門は防いでいる。 これは、講談から出ている話ゆえ、故直木三十五は、「真剣と紙とで渡り合えるものではない」と、びしっときめつけてしまった。しかし刀術とは護身の為であり、打ち払えばそれでよい。 刀の鞘に留金環金、こじりには鉄筒がはめこんであるのも、抜刀せずに鞘ごとで払いのけられる為なのである。奉書紙の丸まったものでもテイシュペ-パーと違い、
江戸初期の紙はコウゾが入ってごつごつしている。それで手首を力まかせに叩かれては、刀を取り落さないまでも、せっかくの不意の切りこみが駄目になってしまう。 また柳生の真剣白刃取りにしても、切先三寸以下は波紋流しがあって見た目には美しく、また鋭いけれど刃はついてないのだからして、 「身を棄ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とか、「刃の下は地獄にても、一歩つき進めば極楽なり」と囗伝書にあるように、切先がふれたら皮を斬らせ肉をも削られる真剣ゆえに、 及び腰になって逃げを打てば、隙がでて怪我もするし出血多量で死に至る。しかし身を棄てて相手の胸許へ掛ってゆけば安全であるという正攻法が、石舟斉の発案した柳生流の真随なのである。
つまり昔の大道芸で、真剣白刃渡りというのがあったが、「寝た刃を起す」とよぶ砥ぎに出さなければ切るに斬れぬ刀法ゆえ、並べて上を渡って歩けたのも当然のことだった。 「武士の嗜み」と袮して冬でも白扇をもち歩いたのも、突嗟の際に相手の刀の切先を叩いてのければ、切りこんでくるのが防げて身が守れたからで、 白扇が荒木又右ヱ門の奉書紙にあたるし、塚原卜伝の鍋の木蓋に匹敵したのである。つまり斬りこんでくる瞬間さえ避ければ、「仕損じた……」と相手は宙を斬ってのめる。そこを付けこんで素早く自分も引きぬきざま、「おのれ慮外者め……」と、 さぁっと一太刀あびせてしまえば良いのが刀法なのである。 もちろん稽占も大切であるが、今でいう反射神經と運動神経が卓越した者でないと剣豪にはなれない。その点、柳生新介のちの石舟斎宗厳は、雨降りの晩に忍びよった刺客を、「雨だれと雨だれの音の合間にに殺意を感じた」つまり刃を抜いて近かづいてくる気配を、バイオニックみたいに聞き分けてのけ
「おのれッ・・・・」と、灯油を吹き消し大刀を抜き放つなり、体を雨戸の脇に寄せ手「・・・・トオッ」と斬りこんでくるのを、たたらを踏ませて泳がせておき、 相手の肩先へ「覚悟」と声もろともに大刀をあびせかけ、ついで掛ってくる刺客を右に左に瞬く間に斬り伏せたという逸話もあるくらいゆえ、運動神経だけでなく、 赤外線カメラや望遠鏡みたいな闇の中でも見通せる眼の視覚神経、それに素早く物音を聞きつける異常な聴覚も、是非とも必要となってくる。
塚原卜伝の「一の太刀」といわれるのは、刺客に襲われた時に、すばやく打ち払うだけの技術ゆえ、稽古さえすれば足利義輝のような将軍家でも可能だが、 一般には余程人なみはずれた神経過敏の者でないと、とても柳生新介のようにはなれぬのである。 つまり柳生新介が、柳生新蔭流の開祖となりえたというのは、芸としてみれば彼は生れつき天成の大剣豪ということになるのである。
さて、武芸、武術、武道の、『武』という字は、戈を止めるという意味で、他へ害を与えることをいうのではない。他からの害の及ぶのを食い止める術なのである。 敢えて自ら争いを求めるのではなく、襲ってくる迫害の魔手から如何にして、己を守り抜くかという保身、護身のみが、戈を止める武の神髄なのである。
さらに、忍術も同じで、テレビや映画に出てくる、黒装束、手裏剣、忍びの者と間違ってはならない。 あんなものは全てフィクションで、本当は、体制から差別され、弾圧された部族が隠れ住み、耐え忍ぶ生活の知恵ともいうべきものなのである。 敗戦後、天皇陛下のお言葉通り「耐えがたきををたえ、忍び難きを忍び・・・・・」と、平和愛好のいかにも日本人らしい防御に徹したものが「武芸」なのである。
更に敷衍すれば、忍なのである。忍びに忍び堪えに堪えてその限度すれすれまで来たとき、本能ともいうべき自己防御本能が神気を放って、業に力を貸し、 術もまた優れた効力を見せるのである。要するに熟しきった柿がひとりでに落ちて、種を土中へ植え付けるがごとく、降り積もる雪の重みに撓いにしなった笹竹が、 最早堪えきれぬまでに至った時、折れそうになって初めて跳ね返し雪を払い落としてしまうのが、武の極意、武の在り方というものなのである。 これが即ち、柳生新陰流の神髄といえる。
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