新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 満州人肉食と間男狩り

2020-08-15 12:16:29 | 新日本意外史 古代から現代まで
            

     満州人肉食

毎年、八月十五日の終戦記念日が近づくとマスコミは一斉に関係事象を報道する。
しかしこの「終戦」という呼称は間違っている。日本は世界を相手に戦って敗れたのだから、これを「第二次世界大戦」と呼び、従って「敗戦記念日」が正しい。
日本は明治から日清戦争、日露戦争と、ずっと戦争を続けていたが、それは一部の兵隊だけが戦争を戦ったわけで、一般庶民にとっての戦争は、新聞で読むか、
ずっと想像の産物でしかなかった。従って戦争体験と戦場体験は違うのである。
私は戦前から満州に渡っていた関係で、軍隊には行かなかったので戦場体験はないが、以下は敗戦時の戦争体験である。

以前「アシュラ」という劇画で、人肉を食うのはいけないという、各地での非難がされたことがある。
しかし、中国の満漢全席で生きたサルの脳みそを食べるのや、げてもの食いで芋虫や毛虫を食するのとはこれは性格が違う。作中の人物にそれを食させねばならぬ必然性があって書くのだろう。
以前、リスボンへ行った時、古い記録類の中に(生きた女の生肌を剥がして作った革製)というB4版程の大きさの本を見たことがある。
しかし若い女にしろ老婆であったにせよ、なめし方が悪いのか、何百年も経つと人間の皮は脆い物で、縮んだり裂け目が出来ていて、羊革張りの方が遥かに堅牢だった。
だから人肉もいくらビールを連日呑んで、マッサージしている人のものでも、和田金や人形町日山の肉の程は、食しても美味では無かろうかと想える。
ところが大気汚染や海洋汚染や地球温暖化のため、人口増加に比例して食料増加は困難だから、近い将来には人間は食糧不足になって、やがては「完全人口肉」を口にする時代が到来するかもしれない。
といってそれは石油製品の人口肉ではないだろう。そうなると地球は、最早巨大な荒野(ランド)にしかすぎなくなる。
さて日本史では隠されているが、十六世紀の駿河にはその風習が在って、幼き日の徳川家康も生肉の残滓をしゃぶっていたともいわれている。
 昭和二十年満州
アメリカが原爆を日本へ落とした昭和二十年のあの暑かった夏。
白い入道雲の浮かぶ満州の荒野へ、日ソ中立条約を無視した赤軍が怒濤の如く侵攻してきた。
「無敵関東軍」とそれまで豪語していたのが、高級将校たちは、自分たちの妻子は疎開させ、現地召集のシロウト兵に「死して護国の鬼となれ」と命じ、自分らはさっさと逃げてしまった。全く酷いものである。
お陰で彼らが口を酸っぱくして演説していた「武士道」なるものを、それからは信用できなくなったのだが、さて当時の関東軍は現地満人に衣料切符を与えたが、現物は殆どやらなかった。
そこで孫呉や興安からの引揚げ邦人婦女子は、着物やモンペどころか腰巻きやショーツの類まで、途中で略奪されみな丸裸だった。
ところが、そこへ襲ってきたのが赤軍の機甲軍団。第一線はシベリアの囚人部隊であると聞いたが、これが物凄いなんてものでなく、
荒野を逃げ惑う邦人婦女子は、彼らの波状攻撃により、性の迫害が生そのものにまで及んで、何とか致死でばたばたと死んで行った。
さて、山で遭難した遺骸を燃やした経験者は御存知だろうが、人体というのは水分がそのほとんどのパーセンテージを占めているから、マッチと枯草位では焼けっこない。
そこで引揚げ同胞は、遺体を放ってもこられず、といって焼くには手間が掛かるから、よく燃えるように骨から水分の多い肉片をむしりとった。
が、それも棄ててくると山犬に後をつけられ、生きている方までが、ついでに餌食にされ、食い殺される。
だから、骨から外した部分を携帯しての逃避行となったが、さて次々襲ってくる連中は、「オーチン・ハラショウ」とばかり、荒野の中で包囲した生きた日本女性の体を、
寄ってたかって欲しい儘にしたあげく、死んでる肉片まで、彼女らの携行食糧の鹿の乾肉かと勘違いしてもりもりかじって食した。
やがて性的に経験の浅い少女達は、日に数十回の迫害に堪えかね荒野で死んだが、辛うじて生き延びられた女性は、カナカ土人のように腰に草葉を巻いたり、
破れた麻袋を拾って被り、獣の如く奉天へ辿り着いた。
そして、北春日小学校へ彼女らは収容されたが、赤軍包囲下のため初めは食料が無く、彼女らの中からも餓死者が一日おき位には出ていた。
やがて生き残った彼女らが、白粉や口紅を手に入れ、やむなくソ連兵相手の性業を初め出すまで、殆どの女達が窓硝子の割れた教室の中で「鹿肉」と呼んでいたそれを食べ、
悲惨な話だが飢えをしのいでいたのを私は眺めていた。
 さて私は幼時、尾張藩徳川家の臣だった血脈の母方の祖母に、桃太郎や金太郎の話の後で、「人間の肉は食べると酸っぱい 」といったような話を、
寝付きが悪かったので、話の種の尽きた彼女からよく聞かされた憶えがある。
祖母の父が維新戦争の時に尾州集義隊の小隊長として、越後へ戦をしに行った時、そこで見聞してきた難民達の話か。
 それとも大垣の奥の美濃の山者が天保以来の飢饉の折りに、武儀の荒地で展開していた共食いの地獄図絵の模様を、尾州領へ逃げ込んできて話したのか、そこまでは惜し
いが子供のこと故聞き返してはいなかった。が、そうした予備知識があったから、
「食うも食われるも同じ日本人どうし」と、ソ連兵に食されるよりは増しだろうと考えて、北春日小学校に収容した女性達を、私は咎め立てする気になれなかった。
しかし、祖母が教えてくれた言葉の、
「人肉は酸っぱい」の真相は同じ人間どうしゆえ、どうしても気が引けて切羽詰まるまで口にしかね、いよいよ堪らなくなって頬張る頃はもう腐りかけていて、そんな
酸味がしたのだろうとしか今となっては考えられぬ。聞いたところでは新鮮な肉なら決して変な味はしないもののようである。
  
      間男狩り

終戦直後の日本内地は知らないが、満州奉天にあっては、その年の八月一四日までは「北辺の守りは堅し関東軍」と叫び、
「在満邦人に告ぐ、鬼畜赤露を防がん」こうした事をラジオ放送していた奉天総務局の役人は、十七日に赤旗を立てた重戦車がキャタビラをがなりたてて北陵から侵攻してくると、
「在満邦人に告ぐ、決して反抗してはならない。街路を清掃して友好ソ連軍を迎えなさい」
となり、略奪のダワイ騒ぎが始まると、「進んで友好を示し国際親善のため、記念品の供出に協力すべし」となり、
略奪を防いでくれるどころか、持って行かれるのに邪魔するなとなり、やがては、親善使節の名目で二十代の日本女性の供出まで、日本人指導者は町会へ割り当ててきた。
そして十月になると今度は、「かって兵役にあった男子は調査したいことがありますから、各自その日本人町会事務所へ来て下さい。これは配給を高梁から米に変えるための人員調べです」
と、命令してきた。
クラフチェンコ赤軍元帥の占領宣言以来、日本人は米食を許されず高梁配給であった。それに、紛れ込んできた兵隊が、日本人の家に作男や下男みたいな恰好で住み着いていたが、
彼らは幽霊人口だから配給はなかった。だから、「これは助かる」と町会の事務所へぞろぞろ集まったら、邦人会の幹部がこれをトラックに乗せ北陵へと連れていってしまった。
ところが脱走してきている兵隊は勘が良い。(これは可笑しい)とトラックから逃げてしまった。こうなると頭数が合わなくなる。
そこで在満邦人会幹部は奉天総務局の役人と共に、(兵隊あがりらしい男が隠れていないか)と邦人の家々を調べて廻って連行した。
夫が出征した留守宅などは赤軍兵のダワイを恐れて、用心棒代わりに住まわせていた処も多かったので、これを当時「間男狩り」とも謂ったが、
十一月にはいると北陵の収容所は発疹チブスで死ぬ者が多く、又しても人員が不足してきた。そこで、
「お国の為であり在満邦人全体のためである。兵役の有無に拘わらず四十歳以下の男子は、進んで名乗り出るように」回覧板が廻された。
が、どうもシベリア送りになるらしいと噂が立ったので、誰もそうなっては志願者など現れよう筈はなかった。すると
「該当者にふさわしい男子の所在地を密告した者に限り、ソ連軍協力者としての目印の腕章を与え、自由に街路も歩けるようにする。
他に粟五斤を一人につき報奨として渡す」となった。密告の奨励である。町会の幹部は、町名簿から名を拾いだした。
だから、普通シベリア抑留者というと、戦線で武装解除されて強制連行された者、と思われがちだが、実態は、都市周辺で集められたのは、殆どが同胞の大人に売られた連中という事が判る。
樺太や千島からの引揚者は今でも○○会等を作って交際し合っているが、満州引揚者というのは相互不信感が酷く、あまり行き来をし合わぬのは、こうした密告が酷かった所為なのだろう。
さて赤軍が片っ端からダワイした機械類を、強制的に狩り集めた邦人の男供を人夫にし、運び出させた後に、今度は国府軍が来てしまった。
そこで、そうなると、「在満邦人に告ぐ。ソ連軍進駐時にその利便を図った者はすぐさま届け出てください。
もし国府軍によって摘発された場合は、邦人会は何の援助も出来ません」と命令が目まぐるしく変わって、又伝わってきた。
「日本人ほど信念が無く権力に弱く、体制べったりしたがるのはない」と、がっかりさせられ、しみじみと嫌になってしまった。
 なにしろ邦人会のAが呼び出されると、拷問されたわけでもないのに、
「BとCが元共産党員だったらしいから、ソ連に協力していた」と告げてしまい、
そのBやCが呼び出されると、これまた同じように彼らは、「DやEが臭い」と教えるのである。
 事実そう思い込んで云うのなら仕方も無い話だが、付和雷同。まこと単純そのものに「長いものには巻かれろ」で考えも無しに進んで協力し、ご愛嬌に他人を密告する。
こういう時に満州にサルトルが居て、
 「何故日本人どうしが庇いあえないのか。日本のオトナよ。君たちは若い人達をエスコートしてやるのが義務というものではないか」とやってくれたら良かったろう。
当時、田中総一郎とか古今亭志ん生なんてオッサンが居たらしいが、あれは日本に居ても自警団か、交通安全の白服を着たがる町会の役員並みの体制派なのだから、
己の保身にキュウキュウしていたのだろう。戦後になって、尤らしい事を書いているが、実態はこんなものだったのだろう。
 男はみんな密告に脅え満服を着て旧城内へ逃げ込み、残った日本女性の若いのだけが、「タワリシッチ」と昨日まで呼んでたのを、今度は、
「ワンさん待っててちょうだいね」と張り切っていた。美しく装いだした若い娘達に同胞の男として、私は嫉妬でかっかとした。
日本人の悪しき特性である「奴隷根性」は、こうした特異な状況ではモロに現れる。
さらに兵隊さえも捕虜になれば、良い子になりたいために、自分から進んで軍機をペラペラしゃべる。真珠湾攻撃時、海軍の特殊潜航艇で捕虜第一号になった少尉が居た。
彼は聞かれもしないのに海軍暗号を米軍に教え、これが後の山本五十六連合艦隊長官の撃墜に役に立ったという。そのため彼は米軍からご褒美としてワイン一本を貰ったという。
戦後、米軍の資料に皇居の見取り図まで出てきたというが、これは近衛師団の捕虜になった兵士が進んで米軍に教えたからだという。
天皇陛下の住む住居まで教えるとは全く驚きを通り越して悲しくなる。
捕虜は国際法で、名前と階級以外しゃべらなくてもよいことになっているのに、日本兵は全く信じられないから、東条英機陸軍大将は「戦陣訓」を出した。
これはいわば兵に対する、道徳で「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が有名であり、玉砕や自決など軍人・民間人の死亡の一因となった。
平たく言えば「お前たちは捕虜になれば何でもしゃべって、軍の損害が多くなる。だから捕虜になる前に精いっぱい戦って死んでくれ」の意味。
さて、我々は激動の昭和を生き、平和な平成も過ぎ現在令和を生きている。近現代史の宝庫ともいえる昭和だが、戦争という極限状態の中で八月十五日は、
庶民や兵隊がいかに生き、死んでいったかを考え直す機会ではなかろうか。





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