当世不倫と歴史の考現学
マスコミ、テレビでは不倫騒動といっても過言でない程、連日の報道でダルくなる。
テレビ局に対して「お前たち、それしか能がないのか」と言ってやりたい。
東出昌大と唐田えりか。泉洋人首相補佐官と大坪寛子内閣官房審議官。
東出は妻杏の妊娠中からの不倫で大パッシングにあっている。
傲慢で悪相、子役崩れの坂上忍が仕切るテレビの「バイキング」では、イエスマンの漫才屋や賞味期限の切れた俳優やタレントを雛壇に並べて壮大な茶番劇。
これはまさしく報道番組でも情報番組でもバラエティー番組でもない「下劣な茶化し漫談ショー」と言っていい。
己らが庶民の代弁者の如く正義の刃(やいば)を振りかざしている。そして軽薄で愚劣な正論?らしき批判と擁護を上手く取り入れ、大向こうからの批判を避けている。
誠に上手でお利口な番組である。この手の番組のMCと言われる、三白眼で下卑た宮根誠司、漫才屋の片割れ恵俊彰らは尊大な態度が目に余るし番組内容は同工異曲。
テレビ局に対して「お前たち、それしか能がないのか」と言ってやりたい。
東出昌大と唐田えりか。泉洋人首相補佐官と大坪寛子内閣官房審議官。
東出は妻杏の妊娠中からの不倫で大パッシングにあっている。
傲慢で悪相、子役崩れの坂上忍が仕切るテレビの「バイキング」では、イエスマンの漫才屋や賞味期限の切れた俳優やタレントを雛壇に並べて壮大な茶番劇。
これはまさしく報道番組でも情報番組でもバラエティー番組でもない「下劣な茶化し漫談ショー」と言っていい。
己らが庶民の代弁者の如く正義の刃(やいば)を振りかざしている。そして軽薄で愚劣な正論?らしき批判と擁護を上手く取り入れ、大向こうからの批判を避けている。
誠に上手でお利口な番組である。この手の番組のMCと言われる、三白眼で下卑た宮根誠司、漫才屋の片割れ恵俊彰らは尊大な態度が目に余るし番組内容は同工異曲。
さて、生きのいい若い男と女が出会い、双方に好ましい感情が醸成されればSEXするのは当たり前。妻が妊娠中でSEX出来なければ、他に求めるのも当然。
とっくに崩壊している一夫一婦制や道徳で縛ってもやる奴はやるしやらない奴はやらない、ただそれだけの事。これらの現象は動物生態学ではとっくに証明済み。
タレントや役者がやれば大騒ぎするが、市井では日常茶飯事で、三角関係の陰惨な事件は多い。国民の金で運用されている電波を使って、下らぬ他人の秘め事を暴くのは辞めろと言いたい。
「臍から下に人格はない」という通り、勝手にやらせておけばいい。
ただ、泉洋人や大坪寛子の場合は「公務員」である。質素倹約を旨として公務に弁ずる公務員、などという言葉は死語になったが、こ奴らは「市中引き廻しの上流罪処分」が順当。
何故なら、他人(国民の税金)の金で豪華なホテルでSEX三昧だから、国民をなめ切っている。
さて、こんな下司人間のケツの始末話を書いていると萎えてくるので、昔の壮絶な「女の性欲は男に劣らない」という物語を史実から掘り起こしてみましょう。
とっくに崩壊している一夫一婦制や道徳で縛ってもやる奴はやるしやらない奴はやらない、ただそれだけの事。これらの現象は動物生態学ではとっくに証明済み。
タレントや役者がやれば大騒ぎするが、市井では日常茶飯事で、三角関係の陰惨な事件は多い。国民の金で運用されている電波を使って、下らぬ他人の秘め事を暴くのは辞めろと言いたい。
「臍から下に人格はない」という通り、勝手にやらせておけばいい。
ただ、泉洋人や大坪寛子の場合は「公務員」である。質素倹約を旨として公務に弁ずる公務員、などという言葉は死語になったが、こ奴らは「市中引き廻しの上流罪処分」が順当。
何故なら、他人(国民の税金)の金で豪華なホテルでSEX三昧だから、国民をなめ切っている。
さて、こんな下司人間のケツの始末話を書いていると萎えてくるので、昔の壮絶な「女の性欲は男に劣らない」という物語を史実から掘り起こしてみましょう。
織田信長の伯母
(三人の夫を持った情愛深い女の物語)
これは徳川家の史料『当代記』にもでている、確定史料のある話である。
信長の父、織田信秀の妹で美濃岩村城へ嫁に行き「尾張御前」と呼ばれていた女人がいた。
夫が長生きしていれば問題は無いのだが、先立たれてしまった。
ところがこの岩村という所は、武田信玄のいる甲州からの出口の要所に当たっていた。
そこで武田信玄は、お悔やみを述べる使者として、甲府のつつじ館から秋山伯耆という者に、甲斐絹の本場だから、絹布など持たせて見舞いにやった。
勿論、未亡人になったばかりの彼女を慰めるためだから、厳つい鬼おもひしぐような豪傑をやるはずはない。
まあ女性好みのしそうな者を信玄は選んでやったらしい。
武田信玄の深謀作戦
信長の父、織田信秀の妹で美濃岩村城へ嫁に行き「尾張御前」と呼ばれていた女人がいた。
夫が長生きしていれば問題は無いのだが、先立たれてしまった。
ところがこの岩村という所は、武田信玄のいる甲州からの出口の要所に当たっていた。
そこで武田信玄は、お悔やみを述べる使者として、甲府のつつじ館から秋山伯耆という者に、甲斐絹の本場だから、絹布など持たせて見舞いにやった。
勿論、未亡人になったばかりの彼女を慰めるためだから、厳つい鬼おもひしぐような豪傑をやるはずはない。
まあ女性好みのしそうな者を信玄は選んでやったらしい。
武田信玄の深謀作戦
「このたびは、さぞかしお力落としでしょう」などと秋山は優しく尾張御前を慰め、何日も逗留しては彼女の相談ごとにものったりして、好印象を残して戻ったらしい。
そのうちに織田信秀が死んで、信長が尾張の跡目を継いだ。信長も二十七歳になっていて、桶狭間で今川義元を討ってからは、形勢を挽回するが、それまでは
今川義元が廻してよこす松平衆に攻め続けられ苦しい状況だった。
だからこの時、突如として武田信玄から軍勢を差し向けられた岩村の尾張御前は驚き狼狽し直ぐさま信長に救いを求めた。
しかし「今はとてもそんな余裕もなく、手が出せませぬ」ということなのか、信長から何の返事もなかった。
そこで尾張御前は、当時のことなので鎧に身をかためて兜を被り、城楼から取り囲んでいる武田勢を眺めていると「あいや・・・お懐かしや」
眼下へ馬を近づけてくる者がいる。見れば秋山伯耆である。
これには尾張御前も地獄で仏にあったようなもので、すっかり喜び愁眉をひらいた。
だがそこは女人のことなので、思わず体を乗り出して、恨めしげに秋山に対して「何で不意打ちに攻めてござったぞ」と詰問するような咎めかたをした。
すると秋山は「・・・・主命でござれば」済まなそうに口にした。
そうきかされると、軍律厳しきなかなれどこれが見捨てておかれよかと、尾張御前は、
「城の耳門(くぐりもん)を開けるによって、中へ入りや。立ち話もかなうまい」
すぐさま番衆にいいつけ、大手門わきの潜り戸を開けさせたところ、秋山伯耆一人のつもりだったのが、次々と糸の様に繋がって後から続いて入ってくる。
そのうちに織田信秀が死んで、信長が尾張の跡目を継いだ。信長も二十七歳になっていて、桶狭間で今川義元を討ってからは、形勢を挽回するが、それまでは
今川義元が廻してよこす松平衆に攻め続けられ苦しい状況だった。
だからこの時、突如として武田信玄から軍勢を差し向けられた岩村の尾張御前は驚き狼狽し直ぐさま信長に救いを求めた。
しかし「今はとてもそんな余裕もなく、手が出せませぬ」ということなのか、信長から何の返事もなかった。
そこで尾張御前は、当時のことなので鎧に身をかためて兜を被り、城楼から取り囲んでいる武田勢を眺めていると「あいや・・・お懐かしや」
眼下へ馬を近づけてくる者がいる。見れば秋山伯耆である。
これには尾張御前も地獄で仏にあったようなもので、すっかり喜び愁眉をひらいた。
だがそこは女人のことなので、思わず体を乗り出して、恨めしげに秋山に対して「何で不意打ちに攻めてござったぞ」と詰問するような咎めかたをした。
すると秋山は「・・・・主命でござれば」済まなそうに口にした。
そうきかされると、軍律厳しきなかなれどこれが見捨てておかれよかと、尾張御前は、
「城の耳門(くぐりもん)を開けるによって、中へ入りや。立ち話もかなうまい」
すぐさま番衆にいいつけ、大手門わきの潜り戸を開けさせたところ、秋山伯耆一人のつもりだったのが、次々と糸の様に繋がって後から続いて入ってくる。
咎めだてすれば「秋山が家来でござる」「共でありまする」というから、城の番衆とて止めようがない。
その内勝手に、大手門の閂を何人もでかかって引っこ抜くと、ギイッと引開けて、そこへどんどん竹田勢が入ってきたから、あっという間もなく岩村城は無血占領されてしまった。
さて、この時の武田信玄からの伝言というのが、なかなか思いやりのあるもので、
「それ、男子というは、一人のみにては常時に用いがたく候わば、後二名を差し遣わし申し候」というので、やはり信玄供廻りの中から選ばれた座光寺三郎、
大島勘解由という二名が又岩村城へすぐ差し向けられた。
(注)男はセックスの際、一度射精すれば、生理的にも中々二度、三度ととは行かないものである。しかしこれが後に二人も控えていれば女としては連続した濃密な行為が持続され、
おおいにセックスを堪能できるという意味である。大英帝国のエリザベス一世も夜な夜な屈強な男を、とっかえひきかえ寝室に引き入れ、
愉しんでいたというが、ナイトを格好良く騎士の称号として美化しているが、何のことはなく「夜専用、セックス御用男」なのである。
尾張御前が引見すると、この二人たるや秋山伯耆に比べても、勝るとも劣らぬ男ぶりである。
なにしろ男も綺麗な女に弱いものだが、女だって同じ人間だからなんら変わりは無い。
女城主の尾張御前が、こうしてメロメロになってしまえば、信玄の戦略は大当たりで、もうここに兵を置くことはなかろうというので、信玄は他へ転戦させるため軍をひいてしまった。
そして勿論岩村城は武田方のものになった。
その内勝手に、大手門の閂を何人もでかかって引っこ抜くと、ギイッと引開けて、そこへどんどん竹田勢が入ってきたから、あっという間もなく岩村城は無血占領されてしまった。
さて、この時の武田信玄からの伝言というのが、なかなか思いやりのあるもので、
「それ、男子というは、一人のみにては常時に用いがたく候わば、後二名を差し遣わし申し候」というので、やはり信玄供廻りの中から選ばれた座光寺三郎、
大島勘解由という二名が又岩村城へすぐ差し向けられた。
(注)男はセックスの際、一度射精すれば、生理的にも中々二度、三度ととは行かないものである。しかしこれが後に二人も控えていれば女としては連続した濃密な行為が持続され、
おおいにセックスを堪能できるという意味である。大英帝国のエリザベス一世も夜な夜な屈強な男を、とっかえひきかえ寝室に引き入れ、
愉しんでいたというが、ナイトを格好良く騎士の称号として美化しているが、何のことはなく「夜専用、セックス御用男」なのである。
尾張御前が引見すると、この二人たるや秋山伯耆に比べても、勝るとも劣らぬ男ぶりである。
なにしろ男も綺麗な女に弱いものだが、女だって同じ人間だからなんら変わりは無い。
女城主の尾張御前が、こうしてメロメロになってしまえば、信玄の戦略は大当たりで、もうここに兵を置くことはなかろうというので、信玄は他へ転戦させるため軍をひいてしまった。
そして勿論岩村城は武田方のものになった。
信長、伯母の行為に大いに困惑す
さて、このまま何事もなく過ぎてゆけば、尾張御前は幸せいっぱいだったろうが、又しても岩村城に危機がおとずれた。
武田信玄の生きていた頃は、信玄が恐くて、織田信長は大人しく、その末のほうの子供の源三郎を伯母の養子にするという名目で岩村城へ送り、
岩村ではこれを甲府へ送って信長の人質とみていた。(天正十年六月二日に二条城でその兄の織田信忠と共に爆死した御坊源三郎である)
しかし信玄が死ぬと、信長は待ってましたとばかり、岩村城に対して使者を送り伯母へ、
「伯母上、我らは肉親で御座れば、血は水よりも濃しのたとえもあれば・・・・・」と、すぐ武田方と手を切るように求めた。
だが三人の夫は、こういう時のために、武田信玄が付けていたのだから、口をそろえて「とんでもない」と反対した。こうなると、
「伯母殿といえどもほうってはおけぬ」そこで信長は、家臣の川尻与平らを先陣に出し、信長の跡目の信忠に岩村城を猛攻撃させた。
が、尾張御前は「三人の夫を庇うためには是非もなや」と濃茶威しの大鎧に身を固め薙刀をふるって寄せ手の真ん中へ突撃した。
尾張御前の男に対する激情
織田方にしてみれば、信長の父の妹にあたる尾張御前ゆえ、どうしても気兼ねして討ち取ることが出来ない。
そこをつけこんで、この尾張御前という女人は、日に何個も織田方の名のある武者の首を取って鞍につけ引き上げたという。
これには寄手の織田信忠もすっかり閉口して「和議」を提案した。
尾張御前も「三人の夫さえ助命してくれるものなら」と同意した。
ここのところを、『信長記』では、
「十一月二十一日、秋山、大島、座光寺、御赦免の御礼を申し上げに城外へ出たところを捕らえられ、濃州岐阜の長良川原へ」
と出ている。尾張御前も一緒に出てきたところを、これは長良川ではなく岐阜城内へと連れて行かれた。
信長にしてみれば肉親の伯母であるから、まさか殺す気はなく、まあ、尼寺へでも行ってもらおうという腹だった。
処が、尾張御前はまなじりを吊り上げ「この身を殺せ。が、三人の者は助けよ」と絶叫して止めなかった。
そこで信長も「お助けしようと思っているのに浅間しや」腹を立てて庭先へおろしたが、それでもなお尾張御前はひるまず、大声をはりあげ、
「三人の者を川原から無事にここへ連れて来や」とわめき続けた。
そこで信長が激怒し、自分で打ち刀をとって何度も斬ったが「・・・・・まだ三人は参らぬか・・・・早ようよべ」と
血を吐きながら夫たちの名を呼び続けた。
さて、このまま何事もなく過ぎてゆけば、尾張御前は幸せいっぱいだったろうが、又しても岩村城に危機がおとずれた。
武田信玄の生きていた頃は、信玄が恐くて、織田信長は大人しく、その末のほうの子供の源三郎を伯母の養子にするという名目で岩村城へ送り、
岩村ではこれを甲府へ送って信長の人質とみていた。(天正十年六月二日に二条城でその兄の織田信忠と共に爆死した御坊源三郎である)
しかし信玄が死ぬと、信長は待ってましたとばかり、岩村城に対して使者を送り伯母へ、
「伯母上、我らは肉親で御座れば、血は水よりも濃しのたとえもあれば・・・・・」と、すぐ武田方と手を切るように求めた。
だが三人の夫は、こういう時のために、武田信玄が付けていたのだから、口をそろえて「とんでもない」と反対した。こうなると、
「伯母殿といえどもほうってはおけぬ」そこで信長は、家臣の川尻与平らを先陣に出し、信長の跡目の信忠に岩村城を猛攻撃させた。
が、尾張御前は「三人の夫を庇うためには是非もなや」と濃茶威しの大鎧に身を固め薙刀をふるって寄せ手の真ん中へ突撃した。
尾張御前の男に対する激情
織田方にしてみれば、信長の父の妹にあたる尾張御前ゆえ、どうしても気兼ねして討ち取ることが出来ない。
そこをつけこんで、この尾張御前という女人は、日に何個も織田方の名のある武者の首を取って鞍につけ引き上げたという。
これには寄手の織田信忠もすっかり閉口して「和議」を提案した。
尾張御前も「三人の夫さえ助命してくれるものなら」と同意した。
ここのところを、『信長記』では、
「十一月二十一日、秋山、大島、座光寺、御赦免の御礼を申し上げに城外へ出たところを捕らえられ、濃州岐阜の長良川原へ」
と出ている。尾張御前も一緒に出てきたところを、これは長良川ではなく岐阜城内へと連れて行かれた。
信長にしてみれば肉親の伯母であるから、まさか殺す気はなく、まあ、尼寺へでも行ってもらおうという腹だった。
処が、尾張御前はまなじりを吊り上げ「この身を殺せ。が、三人の者は助けよ」と絶叫して止めなかった。
そこで信長も「お助けしようと思っているのに浅間しや」腹を立てて庭先へおろしたが、それでもなお尾張御前はひるまず、大声をはりあげ、
「三人の者を川原から無事にここへ連れて来や」とわめき続けた。
そこで信長が激怒し、自分で打ち刀をとって何度も斬ったが「・・・・・まだ三人は参らぬか・・・・早ようよべ」と
血を吐きながら夫たちの名を呼び続けた。
これにたまりかねた近習の者が、耳の傍へより「お三人ともすでに長良の川原で張付けにかけられ、最早絶命されてござりまするぞ」
と教えてやったところ、尾張御前も「なら、この身も遅れずついてゆこう」と、ようやく息を引き取ったという。
『当代記』では、天正三年十二月の条に、
「信長自身これを切り給うに刀切れずして死にかねられるとかや、もとよりこれ業物なり」と、
尾張御前に対して「不死身」という表現までしている。
何度切られても、その安否を気遣って、男の為に精神力だけで頑張ったというこの「崇高な愛の物語」は外国にも珍しい。
これはもっと評価されても良いのだが、夫が三人ではまずいのか、誰もこの話は書いていない。
と教えてやったところ、尾張御前も「なら、この身も遅れずついてゆこう」と、ようやく息を引き取ったという。
『当代記』では、天正三年十二月の条に、
「信長自身これを切り給うに刀切れずして死にかねられるとかや、もとよりこれ業物なり」と、
尾張御前に対して「不死身」という表現までしている。
何度切られても、その安否を気遣って、男の為に精神力だけで頑張ったというこの「崇高な愛の物語」は外国にも珍しい。
これはもっと評価されても良いのだが、夫が三人ではまずいのか、誰もこの話は書いていない。
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