新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日韓同祖論を斬る

2019-06-14 11:08:56 | 新日本意外史 古代から現代まで
皇室の紋である、十六弁の菊を始め、総ての家紋はアラブからであるとは〈天皇アラブ渡来説〉にも明白であるが、大正期までは太古に皇祖は朝鮮からという史論が軍部御用の歴史だった時期があった。 当時は清国と戦うのには朝鮮半島を合併領有せねばならぬというのが、時の明治軍部の至上命題でした。 そこで政府の御用学者として、星野恒に軍命令で、研究費というか稿料というか明治二十年代で五千円と言う、現今では五千万円の交付金で、東大史学会雑誌11号に発表させました。
 
 これが有名な「本邦の人種言語につき」の一文でして、全文が〈日本歴史資史料集大成〉の97頁より117頁に収録されています。明治に世直しとなり、それまでは無実の罪で誅された怨霊が、 迷ってでてきて祟りをせぬようにと封じこめしていた、人間以下の存在に過ぎなかった神や神社をば改めて、「現人神」さまなる信念に評価を加えて、 神とは拝むものなりといった義務教育を創始していた新政府としましては、従来は百済の古文書のみ紹介されてきて、 新羅や高麗のものはまったくかえりみられてこないのは、〈神皇正統記〉に、日本は三韓と同種の民なりと記載されし古書は、桓武の昔にみな焚書されてしまった結果であると発表させ、 日韓両国はもともとは、一にして他境ではなく、まったく別国のようになっだのは、天智帝の頃からであるとし、堂々と合併論の開き直りをした。
 
 「日韓の人種一言語同一なりというも、いささかも国体を汚すの嫌いなきのみならず、かえって吾が皇猷神算の広大深遠なりしを、窺うにたれり」と発表させ一世を愕かせたのである。
つまり、<釈日本紀〉に「任那新羅同種也」とあるように、今の慶尚道高霊県が「加羅任那」であったのは、〈東国輿地勝覧〉にもあるし、 その当時にあって「辛国」とよんでいたのが、何を隠そう新羅国であったからして、しまいには「からくに」とよび、唐国と後世では誤ってしまったものとした。 〈豊後風土記〉にある処の「新羅国神」や〈続日本後紀〉や〈延喜式〉にても(辛国)の二文字さえ冠称すれば〈忍穗耳のミコト〉は「新羅国神」であった事は間違いはないようであるとしました。
 となると〈古事記〉や〈日本書紀、神代下巻〉の「天照大神が、豊葦原瑞穂の国は、わが子孫の忍穂耳のミコトのしらしめ治める国なり」と天降したというのも、これなら判ってくるとあります。 〈新撰姓氏録〉の「右京皇別」にでてきます処の、「新良貴」の姓にして明瞭に新羅なのでして、「わが太古皇祖の新羅に国王であらせられたのは事実であって、これこそ真実な歴史的な一大要件」とし、 よって日韓両国語は発音こそ今では多少相違するものの、かつてはまったく同じでして、「みまなの地名が、御開城天皇」とならせたもうたと、同じく星野恒博士は力説します。
 
 
 そして〈倭訓栞〉に「朝鮮の読法、字にして助声。日本のテニヲを、向こうでは今は、オンモンとよぶ」、  よって、雲、道、郡、釜、熊のごときは、今も両国とも同一発音なのは同一民族のせいでもあり、王仁が詠じた難波津をよめる歌と、スサノオノミコトが八雲だつとよまれたのとが、 同調なのも彼我の語格が同一の為なれば、任那と新羅が争った崇神王朝には、吾国より塩乗律彦を将軍として派遣し鎮圧したのが、そもそも任那日本府の始まりで、 彼地より出でし皇統が彼地を統治したのたと致します。
 ついで星野説は、韓国は元来が我が旧国ゆえ言語風俗も昔はまったく同一ゆえ、よく服従したから、「安東将軍」と宋にも認められたのだと、「倭五王」の例を次々と援用しているのです。 そして、「王政改新、征韓の議やかましく、ついに江華島の事あり、よって今では敵国のごとくに視るけれど元来が同種にして、昔は隷属させていたのであるから、吾国人が属国としてみるは当然」と主張。
 
 
明治十五年七月二十三日に京城の日本公使館が暴動騒ぎにて襲撃をうけたとし、即日日本軍が朝鮮へ進駐した。 そして、武力を背景に講和条約を締結。翌年七月二十日に岩倉具視が死去。急ぎ八月三日に伊藤博文がヨーロッパから戻ってきたが、またもや十七年十二月には京城で暴動が勃発。 日本公使館が焼き討ちされる事態となった。
伊藤博文は内閣をつくり首相になると、それまでは政府批判だった新聞を、国有地払い下げや、新社屋建設に便宜を図ってやり、懐柔し、戦争止む無しの世論づくりに協力させた。   十八年十一月に入ると自由党大井憲太郎らが、会津小鉄ら博徒千名による朝鮮ヘの殴りこみを企画したとして一斉に逮捕。それを土佐派の自由党を弾圧する口実にしました。     
 なんとしても朝鮮を領有せねば大陸へ進出の足場がもてぬ、とする軍部の要望のもとに書かれた星野恆の、今なら一字一万円にあたる大論文です。 ゆえに日韓併合こそ当然の最良の途なりとして、「豊臣秀吉が八道を併呑せし余威あるをもつにあらずや。邦人の朝鮮を属国視するは皇祖の大御心数千年の後に到るまで深く人心にしみ消散せざるによる、 と言うてもよいのであろう」とし、「吾輩は右の諸証により断じて、上世は日韓一域なりと言わんとす。皇孫かつて新羅を統治し賜うというのも、  ニニギノミコトが西州宮へ移られたのと変りなき話。忍穗耳ミコトが辛国より御渡りあるというのも、神武天皇が日向を発して大倭に赴きたまうと異ならざるなり、 何故かというのに一地域を彼我往来あらせられる迄の御事なればなり。例えば松前氏が本州から海を渡ったとしても異国人のせいとせしや、 また黒田伯爵が北海道開拓長官となって赴任した時、北海道の人は彼を外国人の渡来として迎えたかという事である。
 
 
同一版図内にあっては、外国の称などないのは当然」と、 星野恆博士は〈日本歴史資史料集大成〉の115頁にものべていますが、これではコジツケと申しますか、ゴリ押しみたいなものでしたが、当時はこれが対外PRとして英文に翻訳されて、 在外各公使館に配布をし、事前に日韓同種同根をしきりに宣伝したものだから、金玉均を上海で殺しても問題にならず、東学党の乱のため、大鳥圭介が軍隊と共に京城入りをしても問題になりませんでした。 「朝鮮半島は、吾が日本と同一同種の民族の住む地域だが、清国は異国。よって領土権侵害なり」と朝鮮半島へ進駐してきている清国人を追払うために、武力行使をあえてしました。 これが日清戦争の始まりなのである。
日清戦争
日清戦争の原因は、中国にある広開上王碑文を削ったり歴史古文献を焚書するのが目的の一つであったとも言われるが、邪魔ものは討てと清国に向かって明治軍部は総力をあげて挑戦を敢行。 そしてあっという間に、成歓や牙山に進駐した清国軍を撃破。豊島沖で清国艦を撃沈。これにより明治二十七年八月一日に清国に宣戦布告。 平壌を占領、黄海海戦で清国北洋艦隊撃滅。十月二十六日には九連城を占領。翌月六日に大連湾を包囲。
 相撲の世界ではかつて指導してくれた恩人を土俵で突き落して勝つのを「恩を返す」と申しますが、星野恆の論文では朝鮮半島だけが皇祖発祥の地であったが、ついでに清国をも攻略です。  よって三国干渉も、日韓併合はそのままで問題にもされなかったのです。しかし前述したように、「朝鮮を属国視するは、皇祖の大御心」といくら大論文を発表しても、 属国にされた方は面白かろう筈はありません。安重根によって伊藤博文は元兇としてハルピンでついに暗殺されました。
 
 
しかし、やがてその次の、日露戦争も終りをつげる世となりますと、星野恆博士大論文の内容そのものが、「太古皇祖の新羅に主たる事実は、歴史上の一大要件」というのでは困ると、 昭和軍部になると、「星野恒の論文は、日韓併合に利せんとする為に発表されたにすぎぬものである」と、皇国史観の故黒板勝美博士によって抹消させてしまい、 今では〈日本歴史資史料集大成〉にしか収録されていません。 日本の歴史家が宮内省御用みたいに、権力べったりで、その時々の都合で変るこれはその好例の一つです。  日本の歴史屋さんには主体性がなく、軍部やおかみの言いなりに変えてしまうのは万国無比です。
 
つまりそれゆえリースでさえも日本人に「歴史学博士」の称号は不可、ときめつけたのでしょう。  しかし明治軍部は日清戦争の、あっけない大勝利におごってしまい、奴隷根性の国民全般に、「復讐」という観念をうえつけようとして、 三国干渉によって奪いそこねた遼東半島を取り戻すため、国民を戦争に駆り立てるため、「何とかして仇討の物語を探せ」となり、当時街頭で語っていた、デロレン祭文に目を付け、 『赤穂義士銘々伝』を桃中軒雲右衛門に、浪花節として語らせ広めさせ、日露戦争へと突き進んだのである。
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿