紀伊国屋文左衛門は革命家だった
有名な赤穂浪士が吉良邸に討ち入りの際、集まって出発したところが江戸本所二つ目に在った紀伊国屋の持長屋だったのである。 という事は紀伊国屋が赤穂浪士たちを秘かに応援ていたことになる。 だからこの事件の後、江戸では直ぐ芝居になり、まさか実名では町奉行所が許可しないので、仮名手本忠臣蔵の芝居では浅野内匠頭が塩谷判官になり、吉良上野介は高師直となっている。 そして陰から何かと浪士達を助ける人物として天野屋利兵衛が登場る。 有名な台詞に「天野屋利兵衛は男でござる」がある。 この天野屋利兵衛のモデルが紀伊国屋となっているのだが、紀伊国屋という人物は単なる金持ちの道楽者だったのだろうかとなる。 江戸の庶民は、徳川お上のすることに懐疑的で、何か事件が起こると必ず批判する。それは幕府が絶対といって良いほど庶民の幸せを見据えた政策などしなかったからで、これは現代にも通じる。 とはいえ、幕府の弾圧の目を盗んで、批判や風刺を芝居という形で表現して、庶民は逞しく抵抗した。
さて、昭和になってからの話だが江戸(東京)に紀伊国屋の邸宅跡が残っていて、現在は清澄庭園となっている。太平洋戦争の際のB29の絨緞爆撃の際、ここは何故か焼夷弾は爆発しない爆弾なのに次々と大爆発て、幾つもの大穴が開いて、今は大石で穴が塞がれている。 「江東区史」によればここは紀伊国屋全盛時代の邸宅だったとされているが、「不発弾が多数に残っている」とも、かっては云われていて、また火薬庫の跡らしいとも口伝えが残っている。俗説のお大尽の文左衛門と屋敷の下に硝石(火薬)樽を隠す大きな穴幾つも設けていた実際の文左衛門とはまるで違う。 (注)この硝石とは当時の火薬の主原料で、硝石75%、硫黄2.5%、木灰1%を混ぜたものが火薬になる。 硝石は白色だが、黒い木灰を混ぜるからこれを「黒色火薬」というのである。徳川幕府は、長崎出島から硝石を独占輸入して、西は大阪城天満櫓に保管し、天満与力が管理していた。東は江戸城二の丸に保管し、古くなったり湿気の来たものは、鍵屋、玉屋の花火業者に払い下げしていた。
当時も今も、この不思議な科学現象に疑義を挟む者は居ないが、紀伊国屋の実態を誰もが解明してないからだろう。 この紀伊国屋の清澄公園は、「江戸三園」と呼ばれる後楽園が水戸光圀ならば、六義園は、また時の権力者柳沢吉保が金にあかして造園し、文左衛門が共に元禄時代に造園したものである。光圀は水戸二十五万石の財力を傾け、現在の後楽園スタジアムの上屋敷に接近した広大な土地に造園したのに対して、「なにくそ負けるものか」と柳沢も、将軍綱吉より駒込染井に四万七千坪を貰いうけ、元禄八年より坪立千名にて「六義園」を作ったのである。 なのに天下の権力を傾けてさえ六年もかかったのに対し、町人の文左衛門は元禄十五年から十六年までの僅か一年間で大きな清澄園を完成している。 これは如何に当時の文左衛門の財力が巨大だったかの裏書にもなる。
さて、江戸時代八代将軍吉宗の貞享二十年から、今で言うならハイウエーパトロール並の五街道目付という制度が作られ、この役目を担ったのが堂(道)の者と呼ばれていた拝火教徒の流れ遊芸人達が、彼らは平氏の流れをくむ者だから、目立つように赤い鞘の公刀と捕り縄を持たされ、街道目付となったのである。
だからそれまで、徳川の御政道で差別されていて、日本各地の別所、つまり除地と呼ばれていた限定地に収容されていた者達が、同族が街道見回り目付となったものだから、同族の助け合いの精神で、伝達をつけて貰い、各地から秘かに脱出して、仕事があって稼げる江戸や京、大阪へと次々と流入した。 この先鞭をつけたのが誰あろう紀伊国屋なのである。
というのは、紀文(紀伊国屋)の生まれ住んでいた所は、紀州の湯浅別所でここは南北朝の頃、後醍醐天皇の南朝方の土地で、楠木正成や新田義貞らの残党が押し込められていた土地だから、足利時代から「北朝の足利尊氏に敵対したふとどきな者達」と被差別地帯になっていた。つまり奴隷扱いで死なせても構わない者達として、荒天の蜜柑船にに乗せられたが、船は難破し船主や船頭は死んだので、積荷の蜜柑も相馬で処分、金に変えて江戸へ出たのである。 現在では紀文を蜜柑で大儲けしたと誤っているが、難破船で塩水を被った蜜柑を売ったとて高が知れている。 何故なら、幕末に高田屋喜兵衛の千五百石積みの船が、銭屋五兵衛に銀四十三貫で売却との記録が残っている。 が、まだ元禄時代は五百石積み以上は造船禁止で、一般の積荷船は百五十石止まりだった。となると積載量は2トンしかない。 そしてかさばる竹篭に積んできた蜜柑は千五百キロ位である。暴風雨にあったものなら、波にさらわれたり塩水で腐ったものを引けば千キロ位だろう。 そして船は浦賀あたりへ漂着したらしいが、今の時価に換算して、キロ五百円としても、五十万円では、床柱にするような材なら一本も買えはしない。 当時の木場の年間扱い高は約八十万両に及ぶと、冬木場会所の記録にあるが、元禄時代の一両は現在の五万円に等しいから、蜜柑を売った金をそっくり持っていっても、みんなで当時の十両でしかないから、材木の買占めなどできはせぬ。 しかし、寛永寺の中堂建立落成式の当日、上野から出火して江戸府内のほとんどを焦土と化してしまった勅願火事で、文左衛門が材木を売りまくって大儲けしたのは、これは事実だから話しは可笑しくなる。
本当の所は江戸へ出てから、大火の際、復興の材木が高騰し、紀文は各地の山者も同族だから手付金なしの後払いで木材を集め、江戸へ運ばせて巨万の富をつんだのである。 ここの処は詳細に記すと、時の大老柳沢吉保が将軍綱吉の名代として、上野寛永寺の落成式に出席するのを聞いた文左衛門が「いい機会だ、ついでに殺してしまえ」と、人を雇って放火したところ、これが飛び火して江戸の大半が折からの烈風で焼失した。 この時「普請のためには、金に糸目はつけられん」と買いに来る連中に初めは秘かに売ったのだろう。 というのは何故かと言えば、足利時代に始まった商人の「座」の制度が江戸期には、組合制に変わっていたが、絶対にその仲間に入らねば商売は出来ぬ仕掛けになっていた。互いの商いを守るための独占企業法みたいなもので、どうしても加入して営業したいなら、株を求めて名義変更しなければ許されぬのが御定法だったのである。 「冬木町控」という木場の古文書には、宝永四年(1754)の相場で、材木商の看板を出し商売するために、株を譲り受けるのには二百五十両掛るとある。 顔つなぎに同業者を呼んで宴席もはらねばならぬし、御材木の火番大名や、舟手奉行への付け届けも要る。 だから最低でも店を持つには三百両は掛る。 が、蜜柑を売った十両ぐらいの文左衛門に、そんな大金が有る訳はない。だから商いを始めるには当初はモグリ営業しか出来なかった筈である。 しかも、「江戸の建物の大半を普請できただけの量を、紀伊国屋が一手に仕切った」というのであるから、三百両どころか何万両もの資本が無くては無理である。そこでである。騎馬民族系の末裔は「源氏の白旗」とよばれるくらいて、「加賀の白山」を信心して、それぞれ各地に、 「白」のつく白山神とか白髪神を祀っていた。だから文左衛門も白山神徒の一人ゆえ、その信徒間の連絡を利用して、各地の山者達を動員し、代金後払いで材木を非合法で集めて送らせた、とみるしかない。 これは推理ではなく、そうした考えで帰納したほうが合理的であろう。 そして故郷の湯浅別所から次々との者達を呼び寄せ、金の力で寺人別も手に入れたのである。 産業も何も無い江戸の人口が130万を越えて当時世界一になった謎はここにある。
つまり紀文は徳川の御政道で同族が日本各地で差別され苦しんでいるのを見かね解放しようとした、世直し、つまり現代で言う革命指向者だったのである。
だから花火作りの鍵屋に、強力な火薬を作らせ、赤穂浪士の影の協力者ともなったのである。 東京都の<江東区史>にも、深川霊岸浄学院に墓のある彼のことを、 「湯浅別所出身なり」と明記してある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます