いろは歌留多から見える日本史の真実
(サンカは文字は使わない。何故なら、何かを書き残すと体制に捕まった時証拠となるからである。だからサンカ達の命令や伝達は「コトツ」という。
漢字で書けば「口頭」となる。これがサンカ言葉から転用され「こと付け」として今も使われている。彼らが残したコトツは、いろは歌留多に残っているものも沢山ある。有名な「犬も歩けば棒に当たる」もその一つである。)
「犬も歩けば・・・・・・」に関しては以下に2016年07月27日の記事があります。
漢字で書けば「口頭」となる。これがサンカ言葉から転用され「こと付け」として今も使われている。彼らが残したコトツは、いろは歌留多に残っているものも沢山ある。有名な「犬も歩けば棒に当たる」もその一つである。)
「犬も歩けば・・・・・・」に関しては以下に2016年07月27日の記事があります。
https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12491327908.html
目抜きの裏に稲荷あり
いろは歌留多には「目からうろこ」というのがある。しかしサンカの言い伝えに、同じ「め」から始まるものに「目抜きの裏に稲荷あり」というのがある。
その意味は、江戸時代、京伏見の海草稲荷山にあるウカノミタマ、サルタヒコ、オオミヤノメの三神を、七百十一年の和銅四年に、
秦中家忌寸(はたのなかいえのいみき)が発祀したのが始まりとして、「招福除災」の信仰として民間にも広まったとするのが、吉田習合神道の「日本神祇史」による記述である。
「稲荷信仰」とは別に説明されているのは、ウカノミタマを農業の守護神とし、仏教のダキニテンを稲荷神だとしてしまうゆえ、本社は上記の京伏見の稲荷神とくっつけている。
処が江戸時代の、徳川五代将軍綱吉の「神仏混合令」によって、伏見稲荷が同じ京の山崎関斎の吉田習合神道家に取り入り、稲荷神道となって公認され繁昌したのに対し、
江戸時代の東海道五十三次で知られる、三州吉田の地名にされる今の三河の、豊橋近くの豊川には別個の稲荷があった。
処が江戸時代の、徳川五代将軍綱吉の「神仏混合令」によって、伏見稲荷が同じ京の山崎関斎の吉田習合神道家に取り入り、稲荷神道となって公認され繁昌したのに対し、
江戸時代の東海道五十三次で知られる、三州吉田の地名にされる今の三河の、豊橋近くの豊川には別個の稲荷があった。
さて伏見稲荷に勤めていたが、吉田神道への年々の納金が多すぎるということに文句をつけた為に、かえって咎められてしまい京から追放された祠官の荷田春満(かだのあずままろ)というのが、この発令の時にいた。
そして「三田付鳶魚随筆」には同じ時代ゆえ、関西人として赤穂浪士の討人りにも便宜を図って、同情的な存在だったと、この荷田の名前が出されている。
今でも、「国学の四天王」として知られている。
そして「三田付鳶魚随筆」には同じ時代ゆえ、関西人として赤穂浪士の討人りにも便宜を図って、同情的な存在だったと、この荷田の名前が出されている。
今でも、「国学の四天王」として知られている。
彼は三州吉田の豊川稲荷をもって、体制べったりの伏見稲荷に対し、新たに稲荷信仰を創立した。
元々は日本になかった仏教や儒教の影響下から脱却させて、足利期には「夷也」と当て字されていたのを根拠にし、日本列島の原住民信仰となし、祇とよばれる四方拝海洋渡来民族の、
八と呼ばれていた者たちの拝火を意味する火焔玉を左右に、神つまり騎馬系民族を象徴する四ッ足の獣の、狐に抱かせ、双方の守護霊となした。
これは、大陸の中国渡来の仏教を嫌って、日本原住系で数が多い騎馬民族系と、海洋渡来系が団結をはかったことを意味する。
元々は日本になかった仏教や儒教の影響下から脱却させて、足利期には「夷也」と当て字されていたのを根拠にし、日本列島の原住民信仰となし、祇とよばれる四方拝海洋渡来民族の、
八と呼ばれていた者たちの拝火を意味する火焔玉を左右に、神つまり騎馬系民族を象徴する四ッ足の獣の、狐に抱かせ、双方の守護霊となした。
これは、大陸の中国渡来の仏教を嫌って、日本原住系で数が多い騎馬民族系と、海洋渡来系が団結をはかったことを意味する。
なにしろ今でも全国民の95%は神祇(赤色鳥居、白色鳥居)のどちらかである。恐らく江戸時代でも割合は同じだったろう。それに徳川期になってからは、それまで京坂が都だったのに比べ、
遥かに離れた江戸に主権が移っていたのが、荷田稲荷信仰には幸いしたのか、信者が江戸では増えに増え続けた。
遥かに離れた江戸に主権が移っていたのが、荷田稲荷信仰には幸いしたのか、信者が江戸では増えに増え続けた。
なにしろ荷田当人が東下りして江戸に入府していた上に、三州吉田の豊川稲荷には、家康が旗揚げした際の軍資銀集めに協力を乞うた際の、祈願の一札もあり、
明治二年に豊橋藩と改称される迄は、現在の地理感覚からすると妙であるが、伊良湖岬の灯台のある渥美半島に豊川は含まれ、池田輝政十五万二千石が関ヶ原合戦後に播州姫路に移封の後は、
親藩として松平家清が入封して代々にわたって三州吉田は徳川家創業の地として、特別扱いされていた上地柄なのである。
だから公儀としては、京の伏見稲荷をたて、豊川稲荷を押えるような真似はできなかったのである。
なにしろ「エの戸」と命名された江戸は、隅田川の江の戸ではなく、仏教側でいう賤(原住民を賤しい民族と蔑んだ)の江津多(エッタ)の屯する地帯の戸なのである。
家康が上州世良田の出のサンカ系ゆえ、秀忠までの二代きりの天下だったが、サンカが建国統一以来初めて、ほっと息をつける世の中であり土地でもあったのが江戸だった。
しかし、三代将軍家光から仏教寄りになり、五代綱吉からは護持院隆光大僧正の仏教化の法律まで作ってしまう世の中となったが、開府時代には居付きサンカ地のごとき心安さで集まり住みついてきた者らは、
おかみの施政方針が変わっても、まさか仏教に宗旨変えもできぬ。だから、彼らにとっては、「稲荷信仰」は、四ツの神派にも八ツの祇派にも、まったく都合のよい隠れ蓑の信心だったのである。
明治二年に豊橋藩と改称される迄は、現在の地理感覚からすると妙であるが、伊良湖岬の灯台のある渥美半島に豊川は含まれ、池田輝政十五万二千石が関ヶ原合戦後に播州姫路に移封の後は、
親藩として松平家清が入封して代々にわたって三州吉田は徳川家創業の地として、特別扱いされていた上地柄なのである。
だから公儀としては、京の伏見稲荷をたて、豊川稲荷を押えるような真似はできなかったのである。
なにしろ「エの戸」と命名された江戸は、隅田川の江の戸ではなく、仏教側でいう賤(原住民を賤しい民族と蔑んだ)の江津多(エッタ)の屯する地帯の戸なのである。
家康が上州世良田の出のサンカ系ゆえ、秀忠までの二代きりの天下だったが、サンカが建国統一以来初めて、ほっと息をつける世の中であり土地でもあったのが江戸だった。
しかし、三代将軍家光から仏教寄りになり、五代綱吉からは護持院隆光大僧正の仏教化の法律まで作ってしまう世の中となったが、開府時代には居付きサンカ地のごとき心安さで集まり住みついてきた者らは、
おかみの施政方針が変わっても、まさか仏教に宗旨変えもできぬ。だから、彼らにとっては、「稲荷信仰」は、四ツの神派にも八ツの祇派にも、まったく都合のよい隠れ蓑の信心だったのである。
ゆえに稲の荷を守護する農村神なら田圃にあるべきなのに、江戸では次々と目抜きの大通りの裏には、どこも稲荷を祀って赤バケの紅殻塗りの鳥居をたて、商家は財宝の守護にし、
花柳界やの芝居小屋でも、何処といって例外なしに、火焔玉を抱く狐を祀り、油揚げをあげて大切にした。
もちろん、その供物の油揚げは翌日の味噌汁の実に何処でもした。だから昔は滅多に油気のある食事がとれぬ江戸町民に、おいなりさんは功徳を与えて下さり、江戸末期には日本橋には、
「しのだの森の狐」の伝説から、「しのだ寿司」として油揚げに飯をいれるのまで出来た程である。つまり、それ程の勢いゆえ、江戸時代の有名な川柳に、「江戸名物、三河屋いなりに犬のくそ」とあるのは前述したが、
(家康にあやかって、三河屋を屋号とする商店が多かった。稲荷神社は前述のとおり。現代のように犬はペットではなく、江戸は野犬が多く、そのため街中に犬糞が多かった)
このわけゆえ、江戸時代の切絵図など拡げると、「銀杏いなり」「権三郎いなり」と、実際の御府内には八百八町もないのに八十八も稲荷堂があったのである。
現在でもこの頃の名残で、東京には彼方此方の路地裏には「お稲荷さん」が多いのである。
現在でもこの頃の名残で、東京には彼方此方の路地裏には「お稲荷さん」が多いのである。
一方の関西では、「目の寄る処には玉」という。
つまり誰が見ても良い物は良いの意である。当たり前のことだが、もともとは曾根崎あたりの女郎屋で格子窓で、客をひいている妓たちの中でも、目立つ器量良しの娘には、
誰の目も寄ってゆくという廓言葉が始まりだった。
これが、商家で、持ちこみ商品の目利きにも、これは使われるようになったといわれる。誰がみても良いものは良いし悪い物は悪いの意味。
サンカ側では、「目すりは、のれんの傷」という同義語に近いのがある。「目すり」とは、「見誤り」というか、「鑑定違い」のことをいう。質屋などで、本物の珊瑚玉の根付の値段で、
まがいものの安物などに誤って高い値をつけたりしては、その店の暖簾が嗤いものになってしまうという譬えでもある。
つまり誰が見ても良い物は良いの意である。当たり前のことだが、もともとは曾根崎あたりの女郎屋で格子窓で、客をひいている妓たちの中でも、目立つ器量良しの娘には、
誰の目も寄ってゆくという廓言葉が始まりだった。
これが、商家で、持ちこみ商品の目利きにも、これは使われるようになったといわれる。誰がみても良いものは良いし悪い物は悪いの意味。
サンカ側では、「目すりは、のれんの傷」という同義語に近いのがある。「目すり」とは、「見誤り」というか、「鑑定違い」のことをいう。質屋などで、本物の珊瑚玉の根付の値段で、
まがいものの安物などに誤って高い値をつけたりしては、その店の暖簾が嗤いものになってしまうという譬えでもある。
もう一つ、サンカ側では、「目つけ目明し、道案内」という。
目つけは元来が侍人別の言葉で今でいえばMPに当る。お目見得以下の者に徒目付といい、大身旗本や大名には、大目付が当っているのだが、町内や地方では、五人組連帯制ゆえ、
各自が目付けとなって密告すれば、褒美に自分は、お咎めなしになるゆえ他への目付けをし、オカミヘの忠義だてというよりも保身のために、密告制度の国家体制が江戸期からたかまってきた。
今いえば世界にさきがけた警察国家のはしりである。
各自が目付けとなって密告すれば、褒美に自分は、お咎めなしになるゆえ他への目付けをし、オカミヘの忠義だてというよりも保身のために、密告制度の国家体制が江戸期からたかまってきた。
今いえば世界にさきがけた警察国家のはしりである。
「目明し」の言葉は、テレビでは検察側の下職の今の刑事みたいな職業とされているが、間違いである。
慶安の変の後、首謀者の由井正雪逮捕の為、彼の顔をよく見知っていて、面通しのできる人間に、日当を与えて同行させた。
これは江戸期の「草賊記」に書かれている。だからこれらの者は、プロとか独立の職業ではなく、岡場所引きのような吉原会所専属の「岡ッ引き」のように固定給はなかった。
つまり岡っ引きは、市中を鵜の目鷹の目で歩き廻って、女だけですぐ出来る岡場所(潜りの売春宿)を押え、そこの女を吉原会所に売り飛ばし、生涯奴隷の、奴女郎にするので、
固定給の他に曳いてきた女の美醜で手当もでるし、地方の女衒へ、飯盛り女郎に払い下げの、コミッションも入る。見回りに歩くついでにと、オカミ御用に携わるゆえに、南北奉行所の、
定廻り同心の大番屋使用許可の木札と、年に二朱が、それぞれ渡されていたくらいのものであった。
将軍の代替りの際には各地へ公儀より巡見使というのが出される慣習があった。今でいえば特別監察といった検分調査のしきたりである。
甲府宰相家宣が六代将軍になって江戸城入りしてからは、公儀の台所入りを増やすため甲州は天領とされていた。それゆえ課税は何かと直接に山国のわりには厳しかった。
だから民百姓の怨みを直接には受けぬようにと図られていた。
甲府宰相家宣が六代将軍になって江戸城入りしてからは、公儀の台所入りを増やすため甲州は天領とされていた。それゆえ課税は何かと直接に山国のわりには厳しかった。
だから民百姓の怨みを直接には受けぬようにと図られていた。
つまり石和代官が、憎まれ役に「道案内」を使い、何か糾弾されると、道案内ども勝手な振舞いをして、けしからぬと責任転嫁して処断をした。
というのは、石和は関西の生駒なみに、女たちの身体で収益をあげさせては、陣屋がその揚り代を賦課金として収納していた。なにしろ他に産物がこれといってない土地柄ゆえ、江戸勘定奉行への上納金捻出のため、
代官たちが道案内を使ってやらせの苦肉の策だったのである。
というのは、石和は関西の生駒なみに、女たちの身体で収益をあげさせては、陣屋がその揚り代を賦課金として収納していた。なにしろ他に産物がこれといってない土地柄ゆえ、江戸勘定奉行への上納金捻出のため、
代官たちが道案内を使ってやらせの苦肉の策だったのである。
つまり正確に言えば、甲府城代よりの江戸表への上納金割り当てに、桑の葉も育たぬ上地柄ゆえ野生山蚕の甲斐絹の収貨ぐらいではとても追いつかぬから、
「甲府千軒」つまり先住民の匿れ住むのが多い土地柄ゆえ、そこの女達を無理やり曳きたてさせてきた。
今いえば公営セックス産業を営み稼がせていたゆえ、他の関八州出役の道案内とはまるで違う。石和陣屋では、居付きサンカ部族の娘狩りの道案内を強制的にさせられていたのである。
「甲府千軒」つまり先住民の匿れ住むのが多い土地柄ゆえ、そこの女達を無理やり曳きたてさせてきた。
今いえば公営セックス産業を営み稼がせていたゆえ、他の関八州出役の道案内とはまるで違う。石和陣屋では、居付きサンカ部族の娘狩りの道案内を強制的にさせられていたのである。
つまり明治御一新になって開国した際も文明開化の輸入ばかりで見返りの輸出するものがなく、奴隷みたいに娘達をボルネオのサンダカンの人肉市場へ送りこんだごとく、
目明し、目付け、道案内というのは、江戸の岡っ引き同様に、娘を曳きたてるのが仕事だった故、サンカたちには憎まれていたのである。
映画やテレビで、「半七捕り物帳」「銭形平次」「岡っ引きドブ」などの捕り物時代劇では、岡っ引きは庶民の味方で、次々と難事件を解決する。
その上役として、奉行所の与力や同心は物分かりの良い役人として描かれている。
目明し、目付け、道案内というのは、江戸の岡っ引き同様に、娘を曳きたてるのが仕事だった故、サンカたちには憎まれていたのである。
映画やテレビで、「半七捕り物帳」「銭形平次」「岡っ引きドブ」などの捕り物時代劇では、岡っ引きは庶民の味方で、次々と難事件を解決する。
その上役として、奉行所の与力や同心は物分かりの良い役人として描かれている。
しかし、その実像たるや前記のように全くの逆なのである。現在でも警察は罪なき庶民を逮捕し、罪を着せて送検し、冤罪事件が後を絶たない。これを「デッチ上げ」という。
全く江戸時代其の儘で、怒りのやり場がない。
江戸時代の岡っ引きは、市中を徘徊し、大きな商店の何も分らぬ丁稚をしょっ引いてきて拷問し、口書き(自白調書)をとって事件に仕立て、店を恐喝していたのである。
何処の店でも、表沙汰にしたくない事の一つや二つはある。これは現代の企業でも一緒で、これをネタに恐喝して生活していたのが岡っ引きの実態なのである。
全く江戸時代其の儘で、怒りのやり場がない。
江戸時代の岡っ引きは、市中を徘徊し、大きな商店の何も分らぬ丁稚をしょっ引いてきて拷問し、口書き(自白調書)をとって事件に仕立て、店を恐喝していたのである。
何処の店でも、表沙汰にしたくない事の一つや二つはある。これは現代の企業でも一緒で、これをネタに恐喝して生活していたのが岡っ引きの実態なのである。