新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

いろは歌留多から見える日本史の真実 目抜きの裏に稲荷あり

2020-05-08 15:36:08 | 新日本意外史 古代から現代まで

いろは歌留多から見える日本史の真実

(サンカは文字は使わない。何故なら、何かを書き残すと体制に捕まった時証拠となるからである。だからサンカ達の命令や伝達は「コトツ」という。
 漢字で書けば「口頭」となる。これがサンカ言葉から転用され「こと付け」として今も使われている。彼らが残したコトツは、いろは歌留多に残っているものも沢山ある。有名な「犬も歩けば棒に当たる」もその一つである。)
「犬も歩けば・・・・・・」に関しては以下に2016年07月27日の記事があります。
https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12491327908.html
     目抜きの裏に稲荷あり

いろは歌留多には「目からうろこ」というのがある。しかしサンカの言い伝えに、同じ「め」から始まるものに「目抜きの裏に稲荷あり」というのがある。
その意味は、江戸時代、京伏見の海草稲荷山にあるウカノミタマ、サルタヒコ、オオミヤノメの三神を、七百十一年の和銅四年に、
秦中家忌寸(はたのなかいえのいみき)が発祀したのが始まりとして、「招福除災」の信仰として民間にも広まったとするのが、吉田習合神道の「日本神祇史」による記述である。
「稲荷信仰」とは別に説明されているのは、ウカノミタマを農業の守護神とし、仏教のダキニテンを稲荷神だとしてしまうゆえ、本社は上記の京伏見の稲荷神とくっつけている。
 処が江戸時代の、徳川五代将軍綱吉の「神仏混合令」によって、伏見稲荷が同じ京の山崎関斎の吉田習合神道家に取り入り、稲荷神道となって公認され繁昌したのに対し、
江戸時代の東海道五十三次で知られる、三州吉田の地名にされる今の三河の、豊橋近くの豊川には別個の稲荷があった。
 さて伏見稲荷に勤めていたが、吉田神道への年々の納金が多すぎるということに文句をつけた為に、かえって咎められてしまい京から追放された祠官の荷田春満(かだのあずままろ)というのが、この発令の時にいた。
そして「三田付鳶魚随筆」には同じ時代ゆえ、関西人として赤穂浪士の討人りにも便宜を図って、同情的な存在だったと、この荷田の名前が出されている。
今でも、「国学の四天王」として知られている。
 彼は三州吉田の豊川稲荷をもって、体制べったりの伏見稲荷に対し、新たに稲荷信仰を創立した。
 元々は日本になかった仏教や儒教の影響下から脱却させて、足利期には「夷也」と当て字されていたのを根拠にし、日本列島の原住民信仰となし、祇とよばれる四方拝海洋渡来民族の、
八と呼ばれていた者たちの拝火を意味する火焔玉を左右に、神つまり騎馬系民族を象徴する四ッ足の獣の、狐に抱かせ、双方の守護霊となした。
これは、大陸の中国渡来の仏教を嫌って、日本原住系で数が多い騎馬民族系と、海洋渡来系が団結をはかったことを意味する。
 なにしろ今でも全国民の95%は神祇(赤色鳥居、白色鳥居)のどちらかである。恐らく江戸時代でも割合は同じだったろう。それに徳川期になってからは、それまで京坂が都だったのに比べ、
遥かに離れた江戸に主権が移っていたのが、荷田稲荷信仰には幸いしたのか、信者が江戸では増えに増え続けた。
 なにしろ荷田当人が東下りして江戸に入府していた上に、三州吉田の豊川稲荷には、家康が旗揚げした際の軍資銀集めに協力を乞うた際の、祈願の一札もあり、
明治二年に豊橋藩と改称される迄は、現在の地理感覚からすると妙であるが、伊良湖岬の灯台のある渥美半島に豊川は含まれ、池田輝政十五万二千石が関ヶ原合戦後に播州姫路に移封の後は、
親藩として松平家清が入封して代々にわたって三州吉田は徳川家創業の地として、特別扱いされていた上地柄なのである。
 だから公儀としては、京の伏見稲荷をたて、豊川稲荷を押えるような真似はできなかったのである。
                                           
 なにしろ「エの戸」と命名された江戸は、隅田川の江の戸ではなく、仏教側でいう賤(原住民を賤しい民族と蔑んだ)の江津多(エッタ)の屯する地帯の戸なのである。
家康が上州世良田の出のサンカ系ゆえ、秀忠までの二代きりの天下だったが、サンカが建国統一以来初めて、ほっと息をつける世の中であり土地でもあったのが江戸だった。
 しかし、三代将軍家光から仏教寄りになり、五代綱吉からは護持院隆光大僧正の仏教化の法律まで作ってしまう世の中となったが、開府時代には居付きサンカ地のごとき心安さで集まり住みついてきた者らは、
おかみの施政方針が変わっても、まさか仏教に宗旨変えもできぬ。だから、彼らにとっては、「稲荷信仰」は、四ツの神派にも八ツの祇派にも、まったく都合のよい隠れ蓑の信心だったのである。

 ゆえに稲の荷を守護する農村神なら田圃にあるべきなのに、江戸では次々と目抜きの大通りの裏には、どこも稲荷を祀って赤バケの紅殻塗りの鳥居をたて、商家は財宝の守護にし、
花柳界やの芝居小屋でも、何処といって例外なしに、火焔玉を抱く狐を祀り、油揚げをあげて大切にした。
もちろん、その供物の油揚げは翌日の味噌汁の実に何処でもした。だから昔は滅多に油気のある食事がとれぬ江戸町民に、おいなりさんは功徳を与えて下さり、江戸末期には日本橋には、
「しのだの森の狐」の伝説から、「しのだ寿司」として油揚げに飯をいれるのまで出来た程である。つまり、それ程の勢いゆえ、江戸時代の有名な川柳に、「江戸名物、三河屋いなりに犬のくそ」とあるのは前述したが、
(家康にあやかって、三河屋を屋号とする商店が多かった。稲荷神社は前述のとおり。現代のように犬はペットではなく、江戸は野犬が多く、そのため街中に犬糞が多かった)
このわけゆえ、江戸時代の切絵図など拡げると、「銀杏いなり」「権三郎いなり」と、実際の御府内には八百八町もないのに八十八も稲荷堂があったのである。
現在でもこの頃の名残で、東京には彼方此方の路地裏には「お稲荷さん」が多いのである。
一方の関西では、「目の寄る処には玉」という。
つまり誰が見ても良い物は良いの意である。当たり前のことだが、もともとは曾根崎あたりの女郎屋で格子窓で、客をひいている妓たちの中でも、目立つ器量良しの娘には、
誰の目も寄ってゆくという廓言葉が始まりだった。
これが、商家で、持ちこみ商品の目利きにも、これは使われるようになったといわれる。誰がみても良いものは良いし悪い物は悪いの意味。
サンカ側では、「目すりは、のれんの傷」という同義語に近いのがある。「目すり」とは、「見誤り」というか、「鑑定違い」のことをいう。質屋などで、本物の珊瑚玉の根付の値段で、
まがいものの安物などに誤って高い値をつけたりしては、その店の暖簾が嗤いものになってしまうという譬えでもある。
もう一つ、サンカ側では、「目つけ目明し、道案内」という。
目つけは元来が侍人別の言葉で今でいえばMPに当る。お目見得以下の者に徒目付といい、大身旗本や大名には、大目付が当っているのだが、町内や地方では、五人組連帯制ゆえ、
各自が目付けとなって密告すれば、褒美に自分は、お咎めなしになるゆえ他への目付けをし、オカミヘの忠義だてというよりも保身のために、密告制度の国家体制が江戸期からたかまってきた。
今いえば世界にさきがけた警察国家のはしりである。

 「目明し」の言葉は、テレビでは検察側の下職の今の刑事みたいな職業とされているが、間違いである。
慶安の変の後、首謀者の由井正雪逮捕の為、彼の顔をよく見知っていて、面通しのできる人間に、日当を与えて同行させた。
これは江戸期の「草賊記」に書かれている。だからこれらの者は、プロとか独立の職業ではなく、岡場所引きのような吉原会所専属の「岡ッ引き」のように固定給はなかった。
                                                 
つまり岡っ引きは、市中を鵜の目鷹の目で歩き廻って、女だけですぐ出来る岡場所(潜りの売春宿)を押え、そこの女を吉原会所に売り飛ばし、生涯奴隷の、奴女郎にするので、
固定給の他に曳いてきた女の美醜で手当もでるし、地方の女衒へ、飯盛り女郎に払い下げの、コミッションも入る。見回りに歩くついでにと、オカミ御用に携わるゆえに、南北奉行所の、
定廻り同心の大番屋使用許可の木札と、年に二朱が、それぞれ渡されていたくらいのものであった。
 将軍の代替りの際には各地へ公儀より巡見使というのが出される慣習があった。今でいえば特別監察といった検分調査のしきたりである。
甲府宰相家宣が六代将軍になって江戸城入りしてからは、公儀の台所入りを増やすため甲州は天領とされていた。それゆえ課税は何かと直接に山国のわりには厳しかった。
だから民百姓の怨みを直接には受けぬようにと図られていた。
 つまり石和代官が、憎まれ役に「道案内」を使い、何か糾弾されると、道案内ども勝手な振舞いをして、けしからぬと責任転嫁して処断をした。
というのは、石和は関西の生駒なみに、女たちの身体で収益をあげさせては、陣屋がその揚り代を賦課金として収納していた。なにしろ他に産物がこれといってない土地柄ゆえ、江戸勘定奉行への上納金捻出のため、
代官たちが道案内を使ってやらせの苦肉の策だったのである。
つまり正確に言えば、甲府城代よりの江戸表への上納金割り当てに、桑の葉も育たぬ上地柄ゆえ野生山蚕の甲斐絹の収貨ぐらいではとても追いつかぬから、
「甲府千軒」つまり先住民の匿れ住むのが多い土地柄ゆえ、そこの女達を無理やり曳きたてさせてきた。
今いえば公営セックス産業を営み稼がせていたゆえ、他の関八州出役の道案内とはまるで違う。石和陣屋では、居付きサンカ部族の娘狩りの道案内を強制的にさせられていたのである。
 つまり明治御一新になって開国した際も文明開化の輸入ばかりで見返りの輸出するものがなく、奴隷みたいに娘達をボルネオのサンダカンの人肉市場へ送りこんだごとく、
目明し、目付け、道案内というのは、江戸の岡っ引き同様に、娘を曳きたてるのが仕事だった故、サンカたちには憎まれていたのである。
映画やテレビで、「半七捕り物帳」「銭形平次」「岡っ引きドブ」などの捕り物時代劇では、岡っ引きは庶民の味方で、次々と難事件を解決する。
その上役として、奉行所の与力や同心は物分かりの良い役人として描かれている。
しかし、その実像たるや前記のように全くの逆なのである。現在でも警察は罪なき庶民を逮捕し、罪を着せて送検し、冤罪事件が後を絶たない。これを「デッチ上げ」という。
全く江戸時代其の儘で、怒りのやり場がない。
江戸時代の岡っ引きは、市中を徘徊し、大きな商店の何も分らぬ丁稚をしょっ引いてきて拷問し、口書き(自白調書)をとって事件に仕立て、店を恐喝していたのである。
何処の店でも、表沙汰にしたくない事の一つや二つはある。これは現代の企業でも一緒で、これをネタに恐喝して生活していたのが岡っ引きの実態なのである。



武漢肺炎の薬は製造を中国から日本へ移して、日本メーカーで製造をすべき

2020-05-04 18:58:10 | 新日本意外史 古代から現代まで

武漢肺炎の薬は製造を中国から日本へ移して、日本メーカーで製造をすべき

英フィナンシャル・タイムズが先月23日報じたところによると、米ギリアド・サイエンシズが開発した「レムデシビル」が新型コロナウイルスの治験で、有効性が得られなかったと報じました。
WHOが中国の研究者らの報告を査読の途中で誤って公開したもので、これについてギリアド社は「報告が不適切に意義付けされている」として反論しています。
この、レムデシビルはエボラ出血熱の治療薬です。
米トランプ大統領も新型コロナウイルスの治療薬になると発言していましたし、日本でも治験を始めていますが、どのような結果になるでしょうか。
一方で、アビガンの有効性に関しては証拠がいくつか出てきています。
そもそも、武漢肺炎の治療薬としてはどのような薬があるのかということだが、国内で観察研究しているものは4つあるらしい。
アビガン、レムデシベル、クレトラ、オルバスコなどである。
この中でアビガンが、日本でも一部において治療薬として使用を開始しています。
当初、アビガンの製造・拡販については、富山化学を傘下に収める富士フイルムが独占的に展開するのかと思いましたが、アビガンはすでに物質特許が失効しているため、他のメーカーでも製造可能だという。
特に、アビガンの原材料がある中国ではメーカーがこぞって製造に乗り出す可能性もあるというが、
そそっかしい私は、中国にしかない特殊な鉱物か、薬草から取り出すのだと想っていた。
しかしアビガンの原材料は、マロン酸ジェチルだという。これは化学物質で合成香料や農薬、医薬品の原料でもあるという。
さらに、このマロン酸の原料であるモノクロル酢酸は、日本で唯一デナック社で製造されているという。
ネットで調べてみると次の化学式で表記されていて、
クロロ酢酸は赤リン、硫黄もしくはヨウ素といった触媒の存在下で酢酸を塩素処理することで合成される。
CH 3 CO 2 H + Cl 2 ⟶ ClCH 2 CO 2 H + HCl {\displaystyle {\ce {CH3CO2H\ + Cl2 -> ClCH2CO2H\ + HCl}}}
{\displaystyle {\ce {CH3CO2H\ + Cl2 -> ClCH2CO2H\ + HCl}}}
また、硫酸を触媒にしてトリクロロエチレンを加水分解させる方法でも合成できる。 となっている。
門外漢の私には理解不能だが、これを見ると、中国頼みでなくとも、原料の製造を中国から日本に移して、デンカ、カネカなど日本のメーカーに製造させるべきではないか。
日本政府は、国内の製薬会社を纏め、一刻も早くアビガンの大量生産体制に踏み切って欲しいものである。
武漢肺炎に罹っても、何処の病院へ行ってもこの薬で治るなら、緊急事態宣言も解除でき、経済活動も再開できるだろう。
従って日本経済の大きな落ち込みも防ぐことができる。

宇部興産、「アビガン錠」の生産に必要な中間体の製造と供給を開始 
https://news.mynavi.jp/article/20200423-1022240/




吉田松陰と明治維新の考察

2020-05-04 11:33:15 | 新日本意外史 古代から現代まで

吉田松陰と明治維新の考察

 現在、日本各地にある神宮といっても、下に「宮」がつくのは被差別された存在という事を念頭にまず入れておくべきである。
ここの処がよく呑み込めず、一変した明治以降の観点で考えてはならない。なにしろ京の祇園花街の発生も、赤塗りの宮を護ってゆくために、官女が身を挺して乱暴され壊されるのを防いだからで、
こうした例は何処の宮にもあったのである。
さて吉田松陰の「討賊始末記」の本に、長門大津の川尻浦山王社の宮とよぶのがあり、宮番で堂守りの幸吉は妻登波の他に両親と年頃の妹四人と、ひっそり居付きにいた処、
喰いつめ者の浪人枯木竜之進が目をつけ、「宿場女郎では銭をとられる。
しかし履物も許されぬ宮番の娘なら一文もいらぬから儲かる」と忍びこんで、まず邪魔になる幸吉と、その両親を叩っ斬ってから、十八歳、十七歳、十五歳の三人の娘から、まだ子供の十四歳の末娘まで順ぐりに強姦してのけてから、
後の事を考えて、 「どうせ人外の宮で、寺人別帳にも入ってない者らゆえ、あやめても人殺しにはならぬ」と娘達を惨殺して逃亡。
所用があって留守をしていた嫁の登波は戻ってきて一家惨殺に仰天した。
それから十年がかりで、ようやく仇討ちをとげた登波を吉田松陰は、松下村塾に泊めて、当時もめったにない、稀らしい仇討ちの話をきき筆記した際、門下の高杉普作や久坂義助が門人一同を代表するみたいに、
「人外者の宮番づれの妻を、今のように何日も寝泊りさせるのは、塾の汚れとなります」と登波を即刻、松下村塾から追放して、塾をきよめ、お祓いをしようと申し出た。
しかし松蔭は、「何をいう。宮の者や社のつるそめ神人をとしたのは、徳川綱吉の神仏混合令からの悪法である。吾らは徳川を倒し四民平等の世をと志しているのに、なんたる差別思想か情けない」と、
二歳年上の登波の十年をこす苦労をいたわり、素足で山野を駆け廻っていたので、あかぎれと切り傷で腫んだ足に、自ら練り薬を塗ってやり膏薬をはって休ませ、身体が本復するまで、松下村塾で休ませたのは、
藩命で野山獄へ入れられる一ヶ月ほど前の事であった。
維新の元勲と謂われる、松蔭の門下生だった伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、桂小五郎たちは「四民平等」の精神を忘れ、富国強兵、経済重視政策を採り、日本は欧米植民地主義の後を追うことになる。
(注)四民というのは、現在学校でも教えている、士、農、工、商、のことを指すが、文中に「人外」とあるのは、学校では教えない、四民の他に、日本の人口の半分以上もいた、差別されて、
各地の限定囲い地に強制的に住まわされていた者達をいう。
さらに、この他に「サンカ」といわれる部族も居て、仇討ちをした登波一家は、何代も前から村にひっそりと隠れ住んでいた者である。
また、昭和の初期頃までサンカ部族の中でも定住せず、各地の山野河川にテントを張り、家族ごとに生活していた者も多かった。
 彼らの実態を五木寛之は「風の王国」で小説として描いている。
サンカの武器として前掲の画像にあるウメガイ「梅ガイ」について説明すると、サンカ部族というのは契丹(日本史では宋国)からの移住者も多く、唐を滅ぼした契丹より送られてきた鋼鉄製の短刀を
五等分し戦いの時には木の柄にはめて槍の代わりとした。そして契丹の国章は梅花だから五弁をデザイン化して刻印していた。
しかし、とても全ての人間に持たすことはできず、古来のホタテやアワビ貝を石で鋭利に研ぎすました貝剣の者も居たから、彼らの武器を梅ガイというのである。
この者達に比べ、近代民主主義の先駆け思想を持っていた、松蔭のような偉人を失ったのは大きな損失である。
何故なら、維新後もこの差別思想は残り、同和問題で現在でもその本質は解決していないからである。
吉田松陰が「討賊始末記」に詳細書き残しておいてくれたから、幕末になっても、まだ宮とか、宮の者といった存在が被差別対象にされていた事がよく判る。しかし、今の感覚では、判らないだろう。
なにしろ宮の者とか堂の者といわれるのは、本来は古代史の最後のしめくくりの平政子の赤系(平氏)なのだが、藤王朝のトウを滅ぼした契丹人が続々と日本海をわたって入ってくると、
京では、「江戸の仇は長崎でといやはるが、故国の恨みを此方ではらしたろまいか」と、でっちあげの天慶(天刑)の乱で、彼らが火山灰地を耕して農地化した坂東八ヶ国を奪って、京の公家どもが己が荘園にと分けあってしまった時、
東北へ追討されてサンカのシノガラの群れに彼らは隠れたからして、契丹系である菅原道真の天神信仰は、「封じ込め祟りよけ」の堂にしても、紅殻塗りの「天満宮」と、宮扱いにされて残っている。
「稲荷」こと「夷也」とて同じ紅殻塗りで、エビスなりに被差別してのけられたのは敵性人種とみなして唐でないつまりトウナイとなしてのことだろうか。
唐が滅ぼした随の人々が住みついていた「中ツ国」つまり今の中国地方の者を、進駐した郭ムソウ将軍も、通辞(通訳)に使ったり便利がって用いたけれども、それでも、
「ズイズイ、ズッ転ばし、糠みそズイ」と陰では蔑ませ歌わせ、同じトウの発音でも桃とした。
「桃原」「桃成」と藤文書にでてくる連中が彼らであるのは、「良き鉄は釘にならず、良き育ちは兵にならぬ」の中国の格言通りに、隠忍(おに)が島の討伐にやらされるのも藤太郎ではなく桃太郎のお伽噺として残っている。
ちなみに桃太郎伝説の本当の意味は、
「中ツ国」と呼ばれるのは今の中国地方の岡山。隋を滅ぼした中国の唐が白村江、朝鮮半島で日本よりの派遣軍を大敗させて九州からの進駐。
そして「唐」を「藤」と替字してからは、滅ぼした隋の人間には「桃」の字をばあてて区別していた。
黄塵吹き荒れる空気の悪い中国大陸から進駐してきた連中にとって、当時の日本は水澄花咲き乱れ、四季のはっきりした別天地と映ったろう。
これを桃源郷という。また、大陸にはない霊峰ふじさんを見て、これを藤原の山と当て字して「富士山」とも名付けた。
桃(藤)から生れた桃太郎は凛々しい貴公子として描かれ、
当時の事ゆえコウリャン団子だったのを、新羅系のサル、高麗のイヌ、百済系の戦士のキージーに食糧を給して、隠忍とよばれていた吾らのご先祖様の原住民討伐に行き、
彼らが耕していた穀物や干魚や荒塩を宝物として掠奪してきただけの話なのである。
原住民を鬼として卑しめ、占領者を正義とする、誠に倒錯した話に仕立てている。
こんな童話を子供の頃から絵本で洗脳している国がこの国なのである。
原住系が多く住む東海地方など、桃太郎話は禁止している所もある。
「わしらにツノが生えちょるか」「鬼は向こうで順序が逆だがや」と、お婆ちゃんは怒っていたものである。
    吉田松陰のもう一方の思想  
 松陰の内部には、平等とは相反する思想が同居していたようである。
さてここまで松陰を称賛する文を記してきたが、公平な歴史の解明を担保する意味で、彼の負の側面にも触れておかなくてはなるまいと思う。
何故なら、現在安部政府は今年を「明治百五十年」として記念事業を展開しており、明治を礼賛し、維新一方の雄である長州人脈を称える言動も窺えるからである。
そして、明治維新を近代日本の幕開けとして、明るい時代として讃える、所謂、維新を主導した薩摩と長州の薩長史観が根強く感じられる。
前項でも触れたが、松陰の四民平等思想は、これはあくまでも日本国内の問題提起だと思われる。
一方、松陰が幕末につづった『幽囚録』には、後の蝦夷地征服や、琉球処分、朝鮮併合を奨励する記述があるからである。
その内容は「蝦夷地を開墾して諸侯を封じ、隙に乗じてカムチャツカ、オホーツクを奪い、琉球を諭して内地の諸侯同様参勤させ、朝鮮を責めて質を取って朝貢させ、北は満州の地を割き取り、
南は台湾ルソンを収め、漸時進取の勢いを示せ」この「脱亜入欧」の思想は明治政府に貫かれて、日本は植民地主義に激しく傾斜していく。
この、幽囚録と四民平等思想を合わせて考えれば、国民を労働力と兵士として、富国強兵政策によって、東亜を植民地とする軍国主義が透けて見える。
まず、この幕末時期に未だ諸侯、即ち大名を残す考えであり、隙に乗じてとは、まるで習近平中国のような世界侵略思想で、帝政ロシアの力が弱い土地に、まるで泥棒猫ような振舞いを提唱している。
そして、琉球を諭してとは、武力併合はしないまでも、日本の一州として、琉球王を一大名並みに徳川家に臣従させようとしている。
また、朝鮮を責めて質を取るとは、朝鮮の資源を奪い、日本に臣従させることになる。
さらに、大陸に目を向けて、満州を占領し、台湾やフィリピンまで日本の植民地にするという、この「脱亜入欧」思想は明治政府に引き継がれ、日本は欧米植民地支配の片棒を担ぐことになる。
こうして日本は征韓論から日清日露戦争を経て、大東亜戦争で昭和二十年の敗戦まで一気に突っ走るのである。


大笑い、竹本IT担当大臣 印鑑制度の廃止

2020-05-02 11:35:54 | 新日本意外史 古代から現代まで

大笑い、竹本IT担当大臣
印鑑制度の廃止

竹本直一IT担当相は14日、日本のはんこ文化がテレワークの妨げになっているとの指摘に対し、「民・民の取引で支障になっているケースが多い」との認識を示しました。
一方、役所の届け出はデジタル化が進んでいるとし、「役所との関係ではそういう問題は起きない」と説明しました。
このような機会に、はんこ自体を使わないという動きが起こってきています。
IT担当相であれば、それを実現するプランを考案して話すべきなのに、驚くほど見事にトンチンカンな発言である。
そもそも、日本の役所でデジタル化が進み、ほとんどはんこを必要としないシステムができているなど、「どの口が言っているのか?」と言いたくなります。
今でも、役所に提出しなければいけない書類で、はんこがいらないものの方が少ない、というのが現状なのに。
この竹本IT担当相は、「日本の印章制度・文化を守る議員連盟」(はんこ議連)の会長も務めているて、言わばハンコ利権業界の親玉なのである。
こんな男だから、何があってもはんこがいらないシステムを作り上げるとは言えないし、そもそもそんな考えは無いのだろう。
この人は何を血迷ったか「日本の未来」なる本まで出している。全く悪い冗談が過ぎる。
何しろ、一般家庭でも実印、認印、銀行印と普通でも3本ぐらいは持っている(これに朱肉と印鑑ケースも必要)。
会社となれば、主任、係長、課長、次長、部長、常務、専務、社長印と多くの印鑑が使われている。
これは役所といえども同じで、日本全国では一体いくらの印鑑が使われているのかと、空恐ろしくなる。
したがって、このような人をIT担当相に任命することが間違いなのであり、安倍首相の任命責任が問われて然るべきでしょう。
先進国では最もIT化が遅れているのが日本なのである。
現在、はんこ自体を使わない動きを追い風に、弁護士ドットコムなどは、非常に取引が活発になっています。
なお、弁護士ドットコムの創業者である元榮氏は、現国会議員である。
適材適所をうたうなら、こういう人こそIT担当相にするべきなのである。何時までも派閥均衡人事で「トンデモ大臣」の量産は止めるべき。
さて、世界に類のない、無駄で煩雑な日本の印鑑制度について、少し考えてみたい。
江戸時代も、それ以前の時代にも、印鑑制度などは無かった。
徳川幕府から政権を奪った薩長は新政府を作り、欧米を視察したところ、世界の変容に仰天した。
先ず、あの尊敬と畏怖していた中国(当時は清国)が欧米列強に侵食され、植民地になりかかっていた。
これでは日本も危ないと、急ぎ富国強兵、殖産興業政策に邁進し、徴兵制度と徴税制度を作った。
先ず国民全てに「姓」を付け、全国に学校を作り読み書きを教えた。学制を発布して「義務教育法」を国会で成立。
(間違っては困るが、国民が税金を払っているので国がサービスとして教育するのではない。サービスなら教育を受けようが辞退しようが自由だが、義務だから親が学校へやらねば罪となり逮捕される。
そして今もこの法律は生きている)
字が読めるということは、お上が発行する「徴兵令状」が理解できる事だし、だから日本では「字が読めないので令状なんか知らん」とは言えないようにした。
フランスなどは文盲率が17%もあって「俺は字が読めない」とやれるが日本ではそうはいかない。
そしてお上に都合よく教科書を検定し、頭ごなしに単一日本民族説を教育し、歴史修身全て臣民教育に基づき、 忠君愛国精神を叩き込んだ。
この際、急ごしらえの教育制度の為、読み書きのできない国民が多く、明治政府は日清戦争のあと、日露戦争を見据えて兵隊の数が足らず大いに焦っていた。
そこで徴兵令状(赤紙)を本人に間違いなく受け取らせたという証拠に急遽ハンコを持たせたのである。
勿論徴兵逃れは厳重に取り締まり、明治、大正、昭和と続く軍国主義の礎を作った、その元凶は「印鑑制度」なのである。
こんな制度は即刻廃止するべきである。
さて、現在コロナウイルス対策の一環で、迷走の末やっと国民一人当たり10万円支給が決定した。
所得制限を設けず、外国人を含めた住民基本台帳に記載されている全員を対象とする方針で、それまで打ち出していた「減収世帯へ30万円給付する」措置は撤回するとのことです。
問題になるのは、現金10万円を国民一人ひとりに配布する方法・仕組みが日本にはない、ということです。
鳴り物入りで導入されたマイナンバーも、銀行口座とマイナンバーが必ずしも紐づけされていないので、今回の10万円給付の振り込みには使えません。
それゆえ、麻生副総理が言うように「欲しい人は取りに来い」という話になってしまうわけです。
この10万円給付の実施にあたって一番重要なことは、いかに行政的な手続きを少なく抑えて届けることができるか?という点に尽きると思います。
行政の手間とコストを徹底的にかけない方法がベストだが、日本の役人にも政治家にも無理だろう。
今まで自分たちが作ってきたシステムが電子化されていないのが根本的な問題なのですから仕方ありません。
結局は、各自治体が葉書を出して、個人が記入して返送し、指定した銀行口座に振り込むという方法になるだろうが、これでは遅すぎる。

武漢肺炎の中国に援助する「バカ」

2020-05-01 13:12:00 | 新日本意外史 古代から現代まで

     武漢肺炎の中国に援助する「バカ」

最初にお断りしておく。近頃マスコミはこぞって「新型コロナウイルス」と呼称している。
そもそも、発症させ(ウイルス自作説もある)、隠蔽し、初動を失敗したのは中国共産党政権であり、世界へ蔓延させた第一級戦犯ではないか。
かって流行した世界的な疾病は、スペイン風邪、アジア風邪、香港風邪、ウエストナイル脳炎などと全てがその発祥地の名を冠している。
こんな時でも中国は、その世界制覇戦略の一環として、日本領の尖閣への侵入は増大しているし、東シナ海でも侵略を拡大し、空母艦隊は太平洋まで進出している。
こんな中国に遠慮や慮る必要は全くないので、私は「武漢肺炎」と呼ぶことにする。
さて、作家の好漢百田尚樹氏はその著書「バカの国」で一番目のバカは政府。
二番目は野党、三番目はメデア、四番目のバカは、地方首長だと喝破しています。以下に一部を引用します。

 お隣の中国が困っているからと、自治体が緊急用に備蓄している防護服やマスクなどを大量に中国に寄付する知事が次から次へと現れました。
東京都もまた緊急用に備蓄していた防護服を三十万着以上送りました。私の住んでいる兵庫県も、二月十日に、県が緊急用に備蓄していたマスク百二十万枚のうち百万枚を寄付しました。
その時点で、多くの市民はマスクが手に入らず、また県立病院でもマスク不足で困っているところがあったにもかかわらずです。
 地方自治体とは違いますが、自民党の二階俊博幹事長は党員に対して、「五千円を中国に寄付しろ」という号令を掛けました。寄付の意味もよくわかりませんが、
その金額が五千円というのが何とも微妙で苦笑させられます。隣人を助けるのは結構ですが、まずは自分の身を守ってからのことでしょう。彼らはとんでもない偽善的バカです。


全く同感で、どうしてこんなにバカが多いのだろうと唖然とする。
昔から日本人の「中国贔屓」「朝鮮贔屓」は筋金入りなのである。江戸時代宝暦年間にその人物はいた。
それは第九代将軍、徳川家重である。彼は百済系朝鮮の血を引く八代将軍吉宗の長男に当たる。
(注)四代家綱に子がなかったため、弟の綱吉が舘林から迎えられた。だが綱吉は三代家光の子ではあるが、家光の側室お玉の方から生まれ、このお玉が朝鮮済州島生まれだったためなのである。
こう書いても何故に大陸の血をそんなに崇めるのか疑問に思われるだろうが、古代から日本列島は中国や朝鮮勢力に君臨された苦い歴史があった。
だからこれは日本人のコンプレックスの裏返しなのである。秀吉の朝鮮征伐も、大陸の血を引く天皇や公卿を一掃して、中国へ戻し、己が日本原住民の初代天皇になろうとしたのである。
だから、あれは侵略でも何でもない。その為京の十町四方を破壊して巨大な新御所「聚楽第」も建てた。
日清戦争にしても、ロシアの侵攻を防ぐための軍事的地政学的側面はあったが、中国の影響を断ち切って、日本原住民の新国家樹立という大義があったのである。
今でも政治家や、マスコミ、知識人と称する人間に中国一辺倒が多いのも、忌々しい限りだが、こうした訳なのである。
宝暦四年、徳川家は加賀百万石の前田家を取り潰そうと企てた。
この際に、大槻伝蔵が、取り潰しを免れるため、お家のためにと一身に責めを負って、悪臣として処刑された。有名な加賀騒動だが、真相は徳川家の陰謀だったのである。
この時、加賀藩からの没収金というか冥加金の数万両を将軍家重に御手許金として届けさせた。
そしてこのうちの一万両を、当時の朝鮮半島も旱魃で放ってはおけぬと、宋対馬守を呼び、届けさせている。記録では宝暦五年七月一日のこととなっている。
そのくせ、二年後の宝暦七年の関八州大洪水や東北大飢饉で何万人もの日本人が死んでいるのに、一銭も出していない。
こんな時にも他国を厚遇し、自国民に対して冷酷なのは伝統なのかもしれない。これはある種の棄民というか、捨て殺し政策がとられたのである。
さて、現在に目を向ければ、自民党にも野党にも、中国、朝鮮贔屓の議員は沢山いる。前記したように、自民党の二階幹事長は党所属国会議員から一律5000円を集めて中国に送ると発表した。
こういう輩を「中国愛のバカ」というのである。
こうした状況に憤慨した徳大寺家の青侍だった竹内式部は、家重将軍が朝鮮寄りで、関東東北飢饉の数十万人の餓死者を顧みないのは怠慢だと、天皇へ訴え出た。
この時一緒に聴聞したという理由で、京所司代松平輝高は、正親町三条公積らの堂上公卿十七人に停官処置と隠居処分にした。
この手柄で松平は大目付に昇進し一万石の大名になって、後任の井上正経に職を譲っている。
勿論、反徳川の竹内は重追放で八丈島に流罪にされ、そこで死なされている。
彼は庶民を助けるため命がけで戦ったのである。皇国史観では、竹内は勤王の志士扱いをされているが、実態は討幕運動だったと想われる。これが有名な「宝暦事件」である。
次に徳川家の「天皇家監視機関」ともいうべき「京所司代」について記しておきます。

   京所司代の陰湿な過去
この所司代という機構は、鎌倉時代の北条政子の六波羅探題にならった進駐軍司令部的機構なのである。
元禄時代、柳沢吉保の命令で、吉良上野介を助け、金の含有量の多い、古金小判を強制的に、流通禁止にして、大量に銅入りの元禄小判に改鋳した。
この贋金造りに加担した、小笠原備後守は加増され老中になってる。
忠臣蔵で有名な、四十七士の一人、大高源吾に十二月十四日は吉良が本所松坂町に在宅と教え、手引した四方庵山田偏も、所司代小笠原備後守の家臣である。
ついでに、京町奉行だが、柳沢吉保に任命されていた、蝦夷地の大名、松前伊豆守は、命令通りに堺の小判製造役である、中村内蔵助に改鋳をさせ、
幾らでも使える、あぶく銭を共に祇園一力茶屋などで、豪勢に借り切っての、だだら遊びばかりしていたが、江戸南町奉行に栄転した。
吉良邸討入り当日の晩に本所一つ目に在った、紀伊国屋文左衛門の長屋へ集まった浪士らへ、応援に入った堀内源太左衛門は、これも出世して、
松前が南町奉行になってから召し抱えられ、捕方に棒術指南をしていた武術指南役になっている。
江戸町内の、辻ごとにある町木戸を当夜に限って開けっ放しにしておき、浪士の討入りや引楊げに便宜を計ったのは月番の町奉行松前伊豆守だが、
柳沢吉保の命令で、贋金造りの秘密を知っている、吉良を生かして妻の実家米沢上杉家へやらぬよう吉良を殺させる為である。
吉良上野介は、元禄時代になって柳沢吉保に利用され、贋金同様の銅増し小判を作る采配をさせられ、隠居すると言い出せば、抜刀させんと罠をかけられ、
やがて赤穂浪士に殺されてお家は断絶させられた。しかし、吉良家は古くからの名門で、
 承久年間、足利義氏が三河守護をいつかり、石橋山旗揚げの時の由緒ある白旗をもって三河吉良におもむき、西条に館を設けたが、後に東条と分かれ、
そちらが徳川時代には高家となって残ったのである。
余談になるが、吉良は断絶したが、東条の血脈は残り、昭和の東条閣下は、自分の血脈は語りたがらなかったという逸話も残っている。

こうして見ると、徳川体制というものは、全ての政策に、陰謀と策略の暗い汚毒政治が見てとれる。
上記「赤穂事件」のように、贋金作りを隠蔽するため、陰謀を巡らせヤラセで吉良を抹殺している。
徳川体制護持のためなら、天皇でさえ、後西天皇は「伊達騒動」に連座したとして、京御苑に鳥籠のような竹矢来の中に閉じ込めている。
「天皇様であっても、徳川家に異心を抱かれるにおいては、かかる目にあわれますぞ」と脅迫と見せしめのため、幕末まで、「後西帝擬華洞跡」なるものが存在し、今もその標柱が堂々と残っている。
徳川家康は、始め柳生一族を特高警察ともいうべき、廻国者という名目で全国の大名取り潰しのための、将軍直属の秘密警察として使った。
八代将軍吉宗の代になると、名古屋城の、尾張土居下衆の村垣佐太夫一族を江戸に呼び寄せ、柳生に代わって秘密警察を命じた。
こうした制度は幕末まで続き、なりふり構わぬ強権で徳川家の利益を壟断している。
所司代の査閲を受けてきた「皇運紹運録」や「槐記」は、現在史料としてのこっているが、これらは全て徳川に都合よく書かれたもので、
歴史屋さんたちも、横着なのか不勉強なのか、解明できていないのが現状なので、当分は「徳川史観」からの脱却は無理なのだろう。

イキシチニ系の特徴
 原住農耕系(仁徳王朝系)─イ姓列
  関東では「イカン」「イケマセン」というのを、関西では「アカン」「アキマヘン」といいます。本辞と修辞の差といいますが、これはやはり民族別の発音の違いなのです。
 つまり、イが上についても、茨城県の水郷地帯のイタコから以東のイ姓はアと同じなのです。また、拝火教の末裔が多い関係でヒは炎のホと結びつきますので、
第五横列(オ姓列)に入ります。また北と白という文字の場合はキとシでもこの列から外します。(北は第五横列、白は第一横列に昔は入れていたからです)
  何故この姓列はそんなにややこしいのかといいますと、もともとは原住民なのですが彼らは西部劇にでてくる騎馬隊の軍属のインディアンのごとく、早いとこ藤原氏に降伏してしまった要領のよい連中。
それと、藤原基経に廃立させられ上州のハルナ系の山中へ連合赤軍のごとく逃げ込まれた陽成帝のお供をして山中アジトへ逃亡し、あくまで公家に対してレジスタンスを続けたものとに分かれるからなのです。
  反抗派は、第一横列(ア姓列)や第五横列(オ姓列)とその血を混ぜて今日に至っていますから、それらと同じことですが、いち早く藤原側について、種米のモミの束を与えられて、「田夷」と呼ばれ、編戸の民となった方の彼らは、
江戸時代になっても寺百姓と呼ばれて、各壇那寺に人別帖なる戸口簿で総括取締りをうけていたので、昔は軽くみられ、 「奴百姓」とも呼ばれました。
 しかし、唐から渡ってきた連中のだらっとした弁髪をみて、「長いものには捲かれろ」と、いち早く転向した目先のきく先祖の血をひいた彼らは、「百姓は滑稽だ」といわれつつも明治まで逞しく生き抜き、
今では土地成金になった人も多く、その要領のよさでは他に肩を並べる者はなく、現代のエリートがこの姓をもつ人々なのです。
太平洋戦争敗戦後、東北から、東海地方から中小企業に就職の為、百姓の次男三男が上野駅に集団で降り立った。勿論大陸、南方、朝鮮からも続々と復員し、焼け跡闇市から日本の復興の力となったのは間違いない。
昭和から平成にかけて、経済人や政治家になった者も多い。
現在よく名前が出る自民党の、二階氏、岸田氏、石破氏など、次期政権に影響のある人たちに、私は非常に危惧の念が大きい。
こうした現在のような国難の時、バカでは論外だが、要領の良さや変わり身の早さが特徴の人では、乗り切ることはできない。
今回、日本の官僚機構や政治形態の弱点が一挙に露呈した。安倍総理はやることなすこと全てが後手々で国民の不満は大きい。
これからの指揮官は、断固として果断に決断し、最悪の事態を想定し(想像力)危機管理能力と問題解決能力に優れた人が求められる。
しかし残念ながらそんな人間は政治家にも在野にも見当たらない。知恵者が居ない。
怪しげで賢しげな「知識人」はテレビにあふれているが、大事なのは知識ではなく「英知」なのである。
さて、武漢肺炎からずいぶん横道にそれてしまったが、今の日本に「知の巨人」は出現しないのだろうか。