信長が「一掃」しに本能寺に来た訳 第二部
信長謀殺の黒幕(犯人)はあなたなのか 犯 人 京都地区のカリオン司祭は、「六月二十日(日本暦六月一日)明智軍は、銃器の火縄に点火して引金に挟むことを命ぜられ、槍も鞘又はキャップ代用の藁をとかれ、臨戦体制で進軍を命ぜられた。
そこで兵士は、これは織田信長の命令によって、信長の義弟(これは間違い)にあたる三河王の徳川家康、及び、その部下を一掃するものと、考えた」とこの当時、その報告書を本国に送っている。
これはやはり上洛してきた謎の一万三千は、明智の寄騎衆か、又は丹波亀山衆に間違いないようである。
明智光秀への寄騎衆といえば、高山右近をはじめ、みな信者か、さもなくば細川のように(信徒同様に思ってくれ)と師父に宣言するような者たちばかりである。
もし丹波亀山衆とすれば、これまた内藤ジョアンの旧家来たちばかりで、カリオンのいる京都の天主聖公会堂を、かつては、疎開させるために、足しげく、出入りしていた連中である。
どちらも、みな信者だから、教会へ顔を出していたことは間違いないと思われる。
なにしろ本能寺から一町とない距離である。しかも、当時としては、京都では唯一の三階建でこの時代としては高層建築物である。
本能寺の森のさいかち林にも、木登りをしていた者もいたろうが、首脳部は、この教会堂の三階にはり出されたバルコニーに登っていたことは間違いない。
事によったらカリオン達から、南蛮眼鏡と当時よばれていた望遠鏡を借りて、それで本能寺を眼下に見おろしていたかも知れない。
だから彼らを、カリオン自身は直接に見てもいるし、たどたどしい言葉で、双方で話もしている。
つまり、「三河の徳川家康が、身の廻りに百余名しか引きっれずに上洛してきているから、この際、これを一掃するのだ」といった話は、カリオンの想像ではない。
直接に、この朝、ここで上洛してきた一万三千の首脳部から耳にしている話なである。
日本側の史料では、信長と家康は相提携して、極めて仲がよいことになっている。家康が、信長に狙われた話などは従来どこにも出ていない。
だが、百余名の家康を狙うのなら、信長は手軽に上洛してきたのも判るし、家康だって晩年になって老獪になったのではなく、勿論、若い時から、その片鱗はあったろうから、
信長が抹消したがったとしても無理はない。それに、裏書きできる事実が、後から出てくることになる。
それは、この二年後、家康は織田信雄をたすけ、秀吉と愛知県の小牧長久手で戦って和平した。だか、いくら求められても上洛していない。
「アツモノの熱汁にこりて、冷たいナマスさえも吹いて食べる」という諺があるが「前の車の輪がとれて転るのを、後の車は眺めて用心する」という替えもある。
どうも、この天正十年の六月に何かがあったのではあるまいか。このとき……よほど懲りた形跡がある。
だからこそ、長久手合戦の二年目に、秀吉の妹(朝日姫)が、せっかく長年つれそった副田甚兵衛と別れて嫁入りしたのにも、家康は腰をあげず、止心なく十月に、秀吉の母が表向きは娘の見舞いとして、
実質的な人質となって岡崎城へゆき、そこで初めて交換に家康は上洛するのである。これだけ用心するには、前例かあっての事だろう。
さて、それとは別に、その不在中、本多作左衛門は、秀吉の母や妹の住む御殿の周囲に枯柴や薪を積み、いっでも焼き殺せる仕度をしていた。
このため本多作左は、のちに秀吉の激怒をかい、家康は、彼を流罪処分にしてしまうのだが、作左の目からみて、家康は、長久手合戦のことより、その前に遡って、
「何か秀吉に殺されても仕方のない事」が、あったのではあるまいか。もちろん六月二日の朝は、家康は堺にいたことになっている。だか、である。
なにしろ、異邦人のカリオンの耳にまで、「信長が出陣前に一掃しにきた相手は、三河の王である」と入っているくらいなら、当人の家康の耳へは、もう早くから届いている筈である。
知っていない訳はあるまい。家康にすれば難しい立場であったであろう。噂に脅えて早目に引揚げては、信長を頭から信用してない事になってしまう。
そうすれば、もし今は噂であっても、それが、やがて本当にもなりかねない。すると、これは命とりである。といって、噂を笑っていて、それか事実であったら、僅か百余の家来しか伴っていない立場では如何せん、
もはや万死に一生しかない。この場合の窮極の安全策は唯一つである。「先んずれば人を制し、遅るれば、人に制される」という格言の実行である。もちろん自力では、なんともならない。
反間苦肉の策であるが他家の者を援用するのである。まあ当今でいえば、代理というか下請けでもあろう。
斎藤内蔵助の娘(於福)が春日局になった これで家康に自羽の矢を立てられたのが、明智光秀の家老の斎藤内蔵介という見方もできる。確定史料はないが、光秀の支城の坂本城の城代が、光秀の娘婿の明智秀満であるならば、
(勝竜寺城代は溝尾庄兵衛)本城丹波亀山の本物の城代は、この斎藤内蔵介しかいない筈である。彼が亀山城代ならば、六月一日の夜、まだ光秀が愛宕山から降雨のため、下山していなくても、
一万三千を集めて引率して出陣できる立場にあったと思える。そして、この事件において、彼が他に先駆けして働いたことは、誰の目にもついたらしく、〈言経卿記〉の六月十七日の条にも、
「日向守の内、斎藤内蔵介は、今度の謀叛の随一なり」と折紙つきで明記されている。
そして、その日に内蔵介は秀吉のために探し出されて、京都の町中を引き廻しの上で、六条河原で断罪にされた。だかである。
この内蔵介の娘の阿福が「春日局」という名前になって、江戸城の事実上の主権者となって、やがて現れてくるのである。
俗説では、秀忠に、家光が産れたとき、しかるべき乳母をといって一般公募をしたところ、京で彼女が応募をして採用になり、江戸へ行って、乳母役になったと言う。
だが「謀叛随一の斎藤内蔵介の娘」と判っていて採用するのも変だし、京と江戸では面接も出来ない筈である。つまり公募というのは嘘であって、初めから春日局は、斎藤内蔵介の娘であるからこそ、採用が決っていたのである。
ここに匿された問題がある。
そして、普通の乳母ならば、乳の需要がなくなったら御役御免で戻されてしまうところ、彼女に限っては、六十五歳で没するまで、徳川家の一切を仕切ってきた。
俗説では、家光の竹千代時代に、彼女が駿府へいって家康に交渉して、国松を立てようとする二代将軍の秀忠と、その室を押さえ、ついに家光を跡目相続させるのに成功したからだという。
だが家康が、どうして自分の伜や嫁よりも、彼女のいう事の方を聞いたのであろうか。やはり斎藤内蔵介の娘だったからであろう。
つまり家康が、それまで無事に居られたのも、ひとえに斎藤内蔵介が蹶起して信長を討ってくれた為であり、六月四日に岡崎へ戻ると、本城の浜松へは帰らず、すぐ出陣の準備をして十四日には尾張の鳴海まで兵をすすめ、
そこで二十一目まで、もたっいていたのも、肝心な内蔵介に死なれてしまった為に、計画に齟齬をきたした為ではなかろうか。
「自分は徳川家を救い、徳川家のために死んだ斎藤内蔵介の娘である」という自負心がなければ、春日局のように、あんなに生涯、独断専横の振舞いができるものではないし、兄、徳川家光をはじめ大老、老中とても、
単に、ただの乳母だったら、あんなに好き勝手をさせておくわけもなかったろう。
権力の蔭には、何かが僣んで隠れているものである。斎藤内蔵介が、光秀を謀叛の名義人にしてしまった「ユダ」の由縁は、まだ他にもある。
寛政六年甲寅十月書き出し写しの〈蜷川家古文書〉によると、「斎藤内蔵介の母は、蜷川道斎の妹。蜷川家というは、京の角倉一族にて、その蜷川道斎に、内蔵介の妹の栄春も嫁ぐ。
これ寛文の頃の蜷川喜左衛門自筆の書付けなり」とある。
細川藤孝が、長女伊也を吉田兼見の伜の兼治に再嫁させているが、その兼治の妹が縁づいているのが角倉了以の弟で蜷川寛斎である。みな内蔵介と一族なのである。
のち徳川家康は、斎藤内蔵介の娘の阿福を、春日局にした上で、この角倉に対しても「角倉船」とよばれる海外貿易の特権を許し、今のベトナムからフィリッピンまでの通商を一手に許可した。
やはり斎藤内蔵介への報恩と受取れぬこともない。
さて、斎藤内蔵介の妹で、栄春の姉にあたる者がいる。これが四国土佐の長曾我部元親へ嫁いでいた。つまり斎藤と長曾我部は、義理の兄弟になっていた。
ところが、その「長曾我部征伐の命令」が、この時点に於いて、信長から出されていた。
信長の三男の織田三七信孝を主将にして、丹羽長秀、織田信澄が副将となって、四国へ渡海すべく、五月十一日から大坂、住吉に兵力を集め、二十一日から大坂城にあって出動準備をなし、六月二目に出帆することになっていた。
三年前に建造された七隻の織田艦隊の他に、その後に新造された大船も、住吉浦に威風堂々と錨をあげんばかりに並んでいた。
ところへ突如として持ち上った本能寺の変で、今や出航せんとしていた艦隊は混乱を極め、船から身を海中へ躍らせて脱走する者も相つぎ、出港は見合せとなった。
信孝たちは、ひとまず大坂城へ引き上げた。「四国征伐をくい止めるため、長曾我部の義兄に当る斎藤内蔵介が、その主君の明智光秀をつついて謀叛をさせたのらしい」という噂が、六月五日になって、大坂へ聴えてきた。
そこで信孝は、丹羽長秀と相談して、「もし光秀の謀叛とあらは、その娘婿にあたる織田信澄は、なにしろ昔、信長に叛いた弟の武蔵守信行の忘れ形見ゆえ、危ないから早目に始末しよう」という事になった。
すぐさま両方から手兵をだして、同じ大坂城内の二の丸の千貫櫓にいた織田信澄を攻め殺してしまった。そして十一日に秀吉が尼ヶ崎へ着陣し十二日に大坂の富田まで先手がくると、
信孝と長秀は残兵をまとめて十三日に合流し、山崎合戦へのぞむ事になったのである。
つまり、当時としては、家康の事は表面には出ず、斎藤内蔵介が、義兄を助ける為に、資本を、角介財閥から借りだし、四国渡海を妨害すべく、やはり縁辺に当たる細川家の協力の許に、共同出陣の恰好で、
乾坤一擲の博奕をしてしまった。だから遅れて上洛してきた光秀は面朧って狼狽したが、公卿達は信長を倒してくれて有難いと、畏れ多いあたりからも賞訓が出るし、なにしろ内蔵介は自分の家老だから、
とうとう謀叛の名義人に担がれてしまったというのが、まことの実相らしい。
もちろん、この時、内蔵介が先頭になって、何故謀叛をしたのか、江戸期の各書とも徳川家に対して気兼ねがあって、はっきり書けないから、
〈川角太閤記〉では、もと内蔵介は稲葉一鉄の家来で、それか光秀の家臣になっていたから、一鉄の方で返還を求めている。戻してやれと信長にいわれたが、内蔵介が厭だというから、光秀が庇って、
それを拒んだ。これか理由で、信長に光秀は、うとまれだした。(はては三月三日に叩かれまでした)そこで内蔵介は、「もともと、これは、自分ゆえに起きた事だから」と、獅子奮迅の働きをしたのだと書いてある。
〈続武者物語〉では「斎藤内蔵介というは良い侍である。ああ言う者を召し抱えるのは、何も自分の為ではない。みな信長さまに御奉公の誠をつくす為だ」と言った為に、光秀は頭を敷居にこすりつけられ信長に、折檻され、
額が割れて三日月型の慯ができたという。つまり、どちらも、斎藤内蔵介が原因で、本能寺の変は起きたのだから、内蔵介と言うのは、それだけ「価値ある男」だったと宣伝するもので、
書かれたのは当然、これが春日局以降のものである事は確実である。
(続く)