日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

多功大塚山古墳|栃木県上三川町 ~方墳としては栃木県内最大の終末期古墳~ 【下野型古墳再訪 ⑤】

2020-05-23 11:40:49 | 歴史探訪
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 続いて目指す多功大塚山古墳は、方墳としては栃木県最大ですが、ちゃんと残っているか分かりません。

 とりあえず古墳の場所へ行ってみましょう。

 あー、あれがそうかな?

 邪魔にならないところに雷電號を駐車して、徒歩で近接します。



 だいぶ壊されているようですが、辛うじて古墳の雰囲気を醸し出していますね。



 でも私有地っぽいので周りから眺めるだけにしておきましょう。



 多功大塚山古墳は、元々は一辺が53.8mを誇る方墳で、築造時期は7世紀後半と考えられています。

 元々の大きさを考えるとほとんど潰されてしまったことが分かります。

 7世紀後半となると時代は大化改新以降となり、各地の国造は解体されて、中央集権の一端を担う評(こおり=のちの郡)という行政区画が地方に設置されていった時代です。

 改新以前に古墳を造っていた有力者の中には、スライド式に評の長官(評造<こおりのみやつこ>)に就任できた人もいたと考えられ、多功大塚山古墳の規模からすると、被葬者は河内の評造である可能性が高いです。

 さきほど訪ねた場所は河内「郡」の役所跡で、評の役所がそのまま郡の役所になった場合もあるはずですが、河内郡の場合は「評」が始まった当初は、宇都宮市茂原町の西下谷田遺跡(にししもやたいせき)に役場があったと考えられていますので、この被葬者が河内評造だった場合、生前働いていた職場は、西下谷田遺跡のほうだったかもしれません。

 あ、新幹線!



 今日は下野薬師寺や摩利支天古墳などにも行ってみたいので、ここから南下して下野市方向へ向かいたいと思います。

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