朝の5時少し前に幕府を出て、まずは新横浜の駅家を目指します。
もちろん今日は雷電號ではなく、国営の鉄路を利用します。
新横浜からはのぞみちゃんで名古屋へ。
奈良へ行く場合は、のぞみちゃんで京都まで行ってそこから近鉄で南下するルートと、名古屋から近鉄特急でヤマト王権のコアゾーンまで一気に侵攻するルートの2つがあって、クラツーの纏向ツアーでは後者を使います。
時間的にも料金的にもほとんど差はなくて、今回ツアーに先立って探訪したい個所の関係上、名古屋から近鉄特急で向かうことにしました。
名古屋での乗り換え時間はあまりないですが、近鉄のホームはよく行っているので大丈夫です。
近鉄の特急券はあらかじめWebで買ってあります。
東京に住んでいる私が近鉄のWebサイトの会員になっているのも何だか不思議な感じがします。
8時10分発の賢島行きへ乗車。
クラツーで行くときは大和八木駅まで直通の特急に乗るのですが、今回は賢島行きですので、途中、伊勢中川で乗り換えです。
ちょうど1時間、9時10分に伊勢中川駅に着き、ホームの向かいに止まっている大阪難波行きの特急に乗り換えです。
お、はじめてビスタカーの2階に座れる!
やったー。
子供の頃、関西の私鉄に憧れていましたが、なかなか乗る機会がなく、クラツーの仕事をさせていただいているお陰で、ここ2年くらいは近鉄に乗ることが多くなりました。
近鉄好きです。
今回はツアーに先立ち、2日間のソロ活動期間を設定していますが、実はめぐる場所はちゃんと決めていないのです。
1日目に絶対に訪れる場所として、
・雄略天皇の宮殿跡(脇本遺跡)
・外山(とび)茶臼山古墳
・メスリ山古墳
の3か所は決めているのですが、あとは適当です。
まずは、雄略天皇に会いに行きたいので、特急停車駅の榛原駅で降ります。
榛原って「はいばら」と読むのですが、読めないですよねえ。
ここから普通電車に乗り換え、大和朝倉駅まで行きます。
そして探訪開始。
駅前に周辺図があります。
お空は曇っていますね。
途中、伊勢までは晴れていたのですが、伊勢を走っているときに西側の空を見たらかなりグレーだったので予想は付いていましたが、伊賀から大和へ入るにしたがい、空模様はどんよりしだしました。
雄略天皇の宮殿のあった脇本遺跡は朝倉小学校の近くなので、そちらの方向へ歩き出します。
前方の山は大神神社のある三輪山の南側の麓ですよ。
大神神社は三輪山の西側にあります。
大和川の上流部のこの辺は初瀬川(はせがわ)と呼ばれます。
上流部を見ていますが、反対方向にこの川を下っていくと大阪平野を通り、大阪湾に出れるので、古代の重要な交通路でもありました。
おや、大神神社の摂社との看板が出ていますよ。
玉列神社って何て読むのか分かりませんが、大神神社の境外摂社であるなら行かなければなりませんね。
こちらですね。
きちんと由緒書きがありますよ。
たまつらって読むんですね。
主祭神は玉列王子神(たまつらおうじのかみ)で、大神神社に祀られている大物主大神の御子神だそうです。
延喜式内社で、この地域で最古の神社なんですね。
こういうのがあると気になりますよね。
拝殿。
本殿。
※「桜井市観光協会公式ホームページ」によると、本殿は明治時代に再建された檜皮葺の春日造で、さきほどくぐった鳥居は安永年間に建立されたものだそうです。
境内神社。
玉列神社の隣はお寺ですかね?
阿弥陀堂だ。
ひやー、何気なく説明されていますが、仏像は平安時代のものですか。
東国の人間の感覚からすると、平安仏も充分な古仏ですが、奈良には普通にあるんでしょうね。
なんか、あの宝篋印塔が気になるなあ。
では出発しましょう。
おや、道標がありますよ。
何か書かれていますが読めません・・・
道標の場所は変わっていると思いますが、玉列神社の前の道は古い道に違いないです。
東へ向かいます。
大和川の対岸の景色。
あちらの方向の忍坂という場所にはヤマト王権の武器庫があった可能性があり、王権で主として軍事を担当していた大伴氏の本拠地もあったようです。
春日神社がありました。
春日神社は奈良に来ると沢山ありますが、関東では意外と少ないですよね。
境内にお邪魔します。
おっとー、雄略天皇の宮跡と書かれていますよ!
雄略天皇は21代目の天皇で、倭の五王の「武」に比定されており、中国の宋王朝から「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」に叙せられています。
随分と長い肩書ですが、分解して簡単に説明すると、
・使持節 ・・・ 幹部級の部下を含めた生殺与奪権を持つ
・都督 ・・・ 司令官
・倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事 ・・・ 左の6か国の軍事指揮権(百済と高句麗は当然ながら入っていない)
・安東大将軍 ・・・ 中国に沢山ある将軍の位の一つで高句麗や百済の王より低位
・倭王 ・・・ 倭の王様
ということになります。
雄略は暴君ともいわれる反面、名君ともいわれて、非常に個性的な性格をしており、門地より能力を優先して家臣を抜擢したり、家柄に関係なく女性を愛したりしましたが、つまりは恣意的な独断専行型の君主だったわけです。
雄略の時代に官制(中央の役所や役人の制度)も進んだと言われますが、この時代から女性の地位が低下したともいわれています(おそらく采女の制度もこのころにできたと思います)。
拝殿。
本殿の姿ははっきりと見えません。
雄略天皇は、『日本書紀』によれば泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)にいたということですが、この近辺の脇本遺跡がその跡である可能性が高いといわれています。
初代神武天皇から20代目の允恭天皇までは宮殿の跡はまったく見つかっておらず、ようやく5世紀後半に在位した雄略に至って、宮殿の跡が分かるというわけです(もしかすると纏向遺跡の大型建物跡は崇神天皇の宮殿跡かもしれません)。
脇本遺跡は完全に埋め戻されて建物が建ったりしているため、目で見られるものはありません。
ですので、今日の目的とすると、それが分かる説明板か何かを見られればいいなあと思っていたのですが、ここ春日神社でそれを見つけることができて嬉しいです。
なお、5世紀後半の大型建物跡だけでなく、6世紀後半や7世紀後半の大型建物跡なども見つかっており、6世紀後半の遺構については欽明天皇の行宮である泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや)跡の可能性があり、7世紀後半の遺構については大伯皇女の斎宮跡の可能性があります。
古そうな道だなあと思っていましたが、やっぱりそうでしたか。
現代の初瀬街道は車がビュンビュン走る大きな道ですが、大和川の段丘を一段上がったこの道がもともとの街道ですね。
朝倉小学校の前で、道は北側の山の方へ向かっています。
これ以上は行きませんよ。
戻ります。
この先は現在は学校の敷地になって道が終わっていますが、おそらく古道はこの先へ向かっていたのではないかと思います。
なんかこの山の上にも遺跡がありそうだなあ・・・
雄略天皇に会えてルンルン気分ですが、そういう気持ちの私をあざ笑うかのように雨が降りだしました。
雨にも負けず、続いて外山茶臼山古墳の方向へ歩いていきますよ。
⇒この続きはこちら
もちろん今日は雷電號ではなく、国営の鉄路を利用します。
新横浜からはのぞみちゃんで名古屋へ。
奈良へ行く場合は、のぞみちゃんで京都まで行ってそこから近鉄で南下するルートと、名古屋から近鉄特急でヤマト王権のコアゾーンまで一気に侵攻するルートの2つがあって、クラツーの纏向ツアーでは後者を使います。
時間的にも料金的にもほとんど差はなくて、今回ツアーに先立って探訪したい個所の関係上、名古屋から近鉄特急で向かうことにしました。
名古屋での乗り換え時間はあまりないですが、近鉄のホームはよく行っているので大丈夫です。
近鉄の特急券はあらかじめWebで買ってあります。
東京に住んでいる私が近鉄のWebサイトの会員になっているのも何だか不思議な感じがします。
8時10分発の賢島行きへ乗車。
クラツーで行くときは大和八木駅まで直通の特急に乗るのですが、今回は賢島行きですので、途中、伊勢中川で乗り換えです。
ちょうど1時間、9時10分に伊勢中川駅に着き、ホームの向かいに止まっている大阪難波行きの特急に乗り換えです。
お、はじめてビスタカーの2階に座れる!
やったー。
子供の頃、関西の私鉄に憧れていましたが、なかなか乗る機会がなく、クラツーの仕事をさせていただいているお陰で、ここ2年くらいは近鉄に乗ることが多くなりました。
近鉄好きです。
今回はツアーに先立ち、2日間のソロ活動期間を設定していますが、実はめぐる場所はちゃんと決めていないのです。
1日目に絶対に訪れる場所として、
・雄略天皇の宮殿跡(脇本遺跡)
・外山(とび)茶臼山古墳
・メスリ山古墳
の3か所は決めているのですが、あとは適当です。
まずは、雄略天皇に会いに行きたいので、特急停車駅の榛原駅で降ります。
榛原って「はいばら」と読むのですが、読めないですよねえ。
ここから普通電車に乗り換え、大和朝倉駅まで行きます。
そして探訪開始。
駅前に周辺図があります。
お空は曇っていますね。
途中、伊勢までは晴れていたのですが、伊勢を走っているときに西側の空を見たらかなりグレーだったので予想は付いていましたが、伊賀から大和へ入るにしたがい、空模様はどんよりしだしました。
雄略天皇の宮殿のあった脇本遺跡は朝倉小学校の近くなので、そちらの方向へ歩き出します。
前方の山は大神神社のある三輪山の南側の麓ですよ。
大神神社は三輪山の西側にあります。
大和川の上流部のこの辺は初瀬川(はせがわ)と呼ばれます。
上流部を見ていますが、反対方向にこの川を下っていくと大阪平野を通り、大阪湾に出れるので、古代の重要な交通路でもありました。
おや、大神神社の摂社との看板が出ていますよ。
玉列神社って何て読むのか分かりませんが、大神神社の境外摂社であるなら行かなければなりませんね。
こちらですね。
きちんと由緒書きがありますよ。
たまつらって読むんですね。
主祭神は玉列王子神(たまつらおうじのかみ)で、大神神社に祀られている大物主大神の御子神だそうです。
延喜式内社で、この地域で最古の神社なんですね。
こういうのがあると気になりますよね。
拝殿。
本殿。
※「桜井市観光協会公式ホームページ」によると、本殿は明治時代に再建された檜皮葺の春日造で、さきほどくぐった鳥居は安永年間に建立されたものだそうです。
境内神社。
玉列神社の隣はお寺ですかね?
阿弥陀堂だ。
ひやー、何気なく説明されていますが、仏像は平安時代のものですか。
東国の人間の感覚からすると、平安仏も充分な古仏ですが、奈良には普通にあるんでしょうね。
なんか、あの宝篋印塔が気になるなあ。
では出発しましょう。
おや、道標がありますよ。
何か書かれていますが読めません・・・
道標の場所は変わっていると思いますが、玉列神社の前の道は古い道に違いないです。
東へ向かいます。
大和川の対岸の景色。
あちらの方向の忍坂という場所にはヤマト王権の武器庫があった可能性があり、王権で主として軍事を担当していた大伴氏の本拠地もあったようです。
春日神社がありました。
春日神社は奈良に来ると沢山ありますが、関東では意外と少ないですよね。
境内にお邪魔します。
おっとー、雄略天皇の宮跡と書かれていますよ!
雄略天皇は21代目の天皇で、倭の五王の「武」に比定されており、中国の宋王朝から「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」に叙せられています。
随分と長い肩書ですが、分解して簡単に説明すると、
・使持節 ・・・ 幹部級の部下を含めた生殺与奪権を持つ
・都督 ・・・ 司令官
・倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事 ・・・ 左の6か国の軍事指揮権(百済と高句麗は当然ながら入っていない)
・安東大将軍 ・・・ 中国に沢山ある将軍の位の一つで高句麗や百済の王より低位
・倭王 ・・・ 倭の王様
ということになります。
雄略は暴君ともいわれる反面、名君ともいわれて、非常に個性的な性格をしており、門地より能力を優先して家臣を抜擢したり、家柄に関係なく女性を愛したりしましたが、つまりは恣意的な独断専行型の君主だったわけです。
雄略の時代に官制(中央の役所や役人の制度)も進んだと言われますが、この時代から女性の地位が低下したともいわれています(おそらく采女の制度もこのころにできたと思います)。
拝殿。
本殿の姿ははっきりと見えません。
雄略天皇は、『日本書紀』によれば泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)にいたということですが、この近辺の脇本遺跡がその跡である可能性が高いといわれています。
初代神武天皇から20代目の允恭天皇までは宮殿の跡はまったく見つかっておらず、ようやく5世紀後半に在位した雄略に至って、宮殿の跡が分かるというわけです(もしかすると纏向遺跡の大型建物跡は崇神天皇の宮殿跡かもしれません)。
脇本遺跡は完全に埋め戻されて建物が建ったりしているため、目で見られるものはありません。
ですので、今日の目的とすると、それが分かる説明板か何かを見られればいいなあと思っていたのですが、ここ春日神社でそれを見つけることができて嬉しいです。
なお、5世紀後半の大型建物跡だけでなく、6世紀後半や7世紀後半の大型建物跡なども見つかっており、6世紀後半の遺構については欽明天皇の行宮である泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや)跡の可能性があり、7世紀後半の遺構については大伯皇女の斎宮跡の可能性があります。
古そうな道だなあと思っていましたが、やっぱりそうでしたか。
現代の初瀬街道は車がビュンビュン走る大きな道ですが、大和川の段丘を一段上がったこの道がもともとの街道ですね。
朝倉小学校の前で、道は北側の山の方へ向かっています。
これ以上は行きませんよ。
戻ります。
この先は現在は学校の敷地になって道が終わっていますが、おそらく古道はこの先へ向かっていたのではないかと思います。
なんかこの山の上にも遺跡がありそうだなあ・・・
雄略天皇に会えてルンルン気分ですが、そういう気持ちの私をあざ笑うかのように雨が降りだしました。
雨にも負けず、続いて外山茶臼山古墳の方向へ歩いていきますよ。
⇒この続きはこちら