東京発の新幹線は6時32分発なので、高尾駅発の中央線は2番電車で間に合うのですが、3時過ぎに目覚めてしまったので4時23分発の始発電車で行くことにします。
まあ、何があるか分かりませんので、早めに出るに越したことはありませんね。
しかも今回は、えきねっとで予約した切符の受け取りをすっかり忘れていたので、今日受け取らなければならず、万が一手間が掛かることもあるかもしれませんので早いほうがいいでしょう。
高尾駅の券売機で切符を受け取ろうとしたところ、券売機での発売は5時半からということなので、とりあえず東京へ向かいます。
早朝の中央快速線はまったく「快速」ではなく、なんと高尾駅から東京駅まですべての駅に止まるのです。
なので、東京駅まで1時間15分以上も掛かってしまいます。
それでも乗り換えがないため、安心して眠っていけるのが利点といえば利点ですね。
東京へ着き、券売機にて無事に切符を受け取りましたが、まだまだ時間はたくさんあります。
こなったらもちろん、新幹線の撮影!
何度も言いますが、私は決して撮り鉄ではありませんよ。
単なる電車好きに過ぎません。
しかも、撮っている新幹線の形式すら知らないのです。
新幹線のホームでは私のような普通のおっさんから撮り鉄の方、そして家族連れの若いママや子供たちまでみんなで撮影大会をしています。
なので、誰憚ることなく撮影できるからいいですね。
連結部分は大変な人気。
ここのホーム部分にはちょうど売店の建物があって、あまり後ろに引けません。
今日はこの「はやて」と「こまち」が連結されているのに乗りますよ。
ようやく発車時刻の6時32分になり、新幹線は無事に出発。
今回は「こまち」の座席にしました。
もしかしたら、初めてかもしれない。
しかしまあ、毎回思うのですが、新幹線のスピードといったらとんでもないですね。
鉄のレールの上で鉄の車輪が超高速回転をしているのは、むしろ飛行機が飛ぶよりも凄いと思います。
気づけば仙台、ここまで来たら盛岡はあと少しです。
車窓から外を見ていると、アテルイと朝廷軍が戦った巣伏の古戦場跡を通過し、あっという間に国見山が見えてきました。
この辺は江戸期の南部藩と伊達藩の境界線ですね。
国見山には古代の山岳寺院跡である「国見山廃寺跡」があるのですが、昔、ここ北上市に頻繁に訪れていたころは、まだ古代史にはそれほど興味がなかったので山には行ったことがあるものの寺院跡を歩いたことはありません。
ここは奥州平泉との関連も考えられますし、北上市周辺には古代遺跡はたくさんあるので、この辺のツアーも作ってみたいと思っています。
そしてすぐに、北上川が湾曲している部分にある、中世和賀氏の本城であった二子城跡(地元では飛勢<とばせ>城と呼んでいる)の横を通過しました。
飛勢城にも何度も行きました。
そうこうしているうちに、標高1124mの姫神山も見えてきましたよ。
特徴的な山容の姫神山が見えてきたら盛岡はもうすぐです。
反対側の車窓からはもしかしたら岩手山が見えているかもしれません。
8時45分、盛岡駅に到着。
さっそくレンタカーを借りに行きます。
あ、ダスキンさん!
今日は金曜日なので普通に稼働日ですね。
お仕事頑張ってください!
たまにレンタカー屋さんの店頭が混雑していることもありますが、なんとか9時15分には出発することができました。
お、今日は軽自動車だぞ。
いつもはトヨタのヴィッツのような小型車が多いのですが、今日は珍しくワゴンRです。
でも、走行距離が2万キロほどの最新のワゴンRなので問題ないでしょう。
じゃあ行くよ!
ナヴィにセットしたのは岩手県一戸町の御所野遺跡です。
御所野遺跡には先日、たぬさんと訪れていますが、念のためツアーの直前にも確認したいので、今回の旅にも盛り込みました。
⇒4月に訪れた時の記事はこちらです
盛岡ICから高速に入ります。
今日は晴れているから岩手山が見えるはずですが、まだ見ていません。
高速を走りだすと、視界の左側に岩手山がチラチラしているのが気になって仕方がありません。
運転中の撮影は危ないのでやめましょう!
一戸ICで降ります。
予定通り、10時半に到着。
今日は晴れていて気持ちいいぞ。
バスもあるぜ!
きききの吊り橋もいいですねえ。
入ります。
御所野縄文博物館の展示は素晴らしいので今回も一通り見ますが、前回来た時に見落としてしまった展示もきっちり見ようかと思います。
床の一部がガラス張りになっていて下に遺構が見えますが、焼失家屋を復元したものです。
前回の御所野遺跡の探訪記事に書いたと思いますが、こちらでは焼失家屋が見つかっており、その成分を調べた結果、屋根の上に土が被せてあったことが判明したのです。
御所野遺跡は縄文時代中期後半の遺跡ですが、当時の東北地方の南部には大木式(だいぎしき)土器の文化が展開しており、東北北部と北海道西部には円筒式土器の文化が展開していました。
その中で北東北だけを見ると、北上川流域は大木式の文化圏で馬淵川流域は円筒式の文化圏となり、御所野遺跡のある一戸町は馬淵川流域にはなるものの、両文化が交じり合った場所でした。
大木式土器。
この立体的な造形は素晴らしい。
なお、その後は大木式文化が北へ勢力を伸ばし、この周辺から円筒式文化の影響は薄れていきます。
石器が綺麗に並べられています。
石器というと縄文時代よりも前の旧石器時代のスター的存在ですが、縄文時代も石器はバリバリ使っていました。
戦前までは縄文時代のことを石器時代と呼んでいたんですよ。
羽付き縄文人と呼ばれているこの造形も面白いですねえ。
2階へ上がります。
今日はレプリカ!
なぜならば、いま本物は東京の上野に出張中だからです。
レプリカが展示してあるとガッカリすると思いますが、実はこのレプリカを作る技術も凄いですし、結構なお金がかかってしまうのです。
ですから、もしレプリカが展示してあったら、それはそれで喜んでもいいと思います。
前回見なかった展示として、2階の廊下部分の展示があります。
縄文時代早期から順番に遺物が並べてあり、縄文土器の変遷を知ることができますよ。
縄文時代早期の土器。
縄文時代前期の土器。
そして縄文時代中期。
バブル崩壊後(?)の縄文時代後期。
このころは呪術的な遺物がバラエティーなんですが、青龍刀型の石器も最近気になっています。
というわけで、展示の見学は以上になります。
弊社製品をお使いいただき誠にありがとうございます!
マットは外見でも他社との違いがだいたい分かるのですが、念のためめくって裏を見てみました。
多分その様子は角度的に監視カメラに写っていると思うので、絶対不審者として映っているでしょうね。
それでは、遺跡を見ますよ。
ちょうど盛大に草刈の作業を行っています。
暑い中、こうやって整備してくださっているお陰で、私たちは快適に見学ができるわけです。
竪穴住居をお宅拝見。
高床の掘立柱建物の中はこんな感じです。
前回来た後、今度のツアーは配石遺構(いわゆるストーンサークルなど)が一つのテーマになっているので、配石遺構について勉強しています。
なので、今回は御所野遺跡の配石遺構をよくよく見ておこうと思いますが、まずは遺跡の突端部分まで行ってみます。
おや、これはもしや古墳?
※中央ムラには後に古墳が築かれたことが分かっているのですが、あとで職員の方に聴いたところ、これは降雪から配石を護るために冬場に被せる土を置いてあるものだそうです。
西ムラまで来ました。
大型竪穴住居の中は広いです。
そしてやはり涼しい。
外気温によると思いますが、この室温ならエアコンはいらないですね。
したがって、縄文時代にはエアコン掃除のサーヴィスは必要ないので掃除屋さんは閑散期になるということです。
今回はもう少し奥まで行きます。
台地の突端部分には中世の館跡が見つかっているそうですが、この辺でしょうか。
遺構は見えません。
なお、館の持ち主や館の名前などは伝わっていないとのことで、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』にも掲載されていません。
近くには一戸城がありますので、南部一族一戸氏の家臣の可能性が考えられますね。
ちなみに、天正19年(1591)に豊臣政権の再仕置軍が姉帯城を落として九戸城へ向かう途中、このすぐ近くを通過しているはずですよ。
では引き返します。
比高差は結構ありますよ。
中央ムラの配石遺構を見てみます。
こちらも大湯環状列石と同じように、ストーンサークルの輪の中に掘立柱建物が建っていたゾーンがあります。
配石を一つずつ丹念に見ていくと、日時計じゃないかと思われるものもありますね。
この大きな石は花崗岩ですが、産地も分かっています。
遺跡から北西方向3㎞にある茂谷山の可能性が高いそうです。
茂谷山と遺跡との間には馬淵川が流れています。
ところで、御所野という地名は以前から気になっており、「御所」と付いているからには、中世の室町将軍家の誰かがここの住んでいたという伝承でもあるのではないかと思っていましたが、職員の方に尋ねたところ、遺跡内には中世にも墓があり、地元で「後生」と呼んでいたのが、いつの間にか「御所」になったとの説があるそうです。
ただ、確かなことはわからないようです。
下見は手短に終わらせようと思っていたのですが、やはり予定を少しオーヴァーしてしまいました。
急いで次へ向かいます。
次は一戸町の隣の二戸市にある二戸市埋蔵文化財センターへ行ってみますよ。
⇒この続きはこちら
まあ、何があるか分かりませんので、早めに出るに越したことはありませんね。
しかも今回は、えきねっとで予約した切符の受け取りをすっかり忘れていたので、今日受け取らなければならず、万が一手間が掛かることもあるかもしれませんので早いほうがいいでしょう。
高尾駅の券売機で切符を受け取ろうとしたところ、券売機での発売は5時半からということなので、とりあえず東京へ向かいます。
早朝の中央快速線はまったく「快速」ではなく、なんと高尾駅から東京駅まですべての駅に止まるのです。
なので、東京駅まで1時間15分以上も掛かってしまいます。
それでも乗り換えがないため、安心して眠っていけるのが利点といえば利点ですね。
東京へ着き、券売機にて無事に切符を受け取りましたが、まだまだ時間はたくさんあります。
こなったらもちろん、新幹線の撮影!
何度も言いますが、私は決して撮り鉄ではありませんよ。
単なる電車好きに過ぎません。
しかも、撮っている新幹線の形式すら知らないのです。
新幹線のホームでは私のような普通のおっさんから撮り鉄の方、そして家族連れの若いママや子供たちまでみんなで撮影大会をしています。
なので、誰憚ることなく撮影できるからいいですね。
連結部分は大変な人気。
ここのホーム部分にはちょうど売店の建物があって、あまり後ろに引けません。
今日はこの「はやて」と「こまち」が連結されているのに乗りますよ。
ようやく発車時刻の6時32分になり、新幹線は無事に出発。
今回は「こまち」の座席にしました。
もしかしたら、初めてかもしれない。
しかしまあ、毎回思うのですが、新幹線のスピードといったらとんでもないですね。
鉄のレールの上で鉄の車輪が超高速回転をしているのは、むしろ飛行機が飛ぶよりも凄いと思います。
気づけば仙台、ここまで来たら盛岡はあと少しです。
車窓から外を見ていると、アテルイと朝廷軍が戦った巣伏の古戦場跡を通過し、あっという間に国見山が見えてきました。
この辺は江戸期の南部藩と伊達藩の境界線ですね。
国見山には古代の山岳寺院跡である「国見山廃寺跡」があるのですが、昔、ここ北上市に頻繁に訪れていたころは、まだ古代史にはそれほど興味がなかったので山には行ったことがあるものの寺院跡を歩いたことはありません。
ここは奥州平泉との関連も考えられますし、北上市周辺には古代遺跡はたくさんあるので、この辺のツアーも作ってみたいと思っています。
そしてすぐに、北上川が湾曲している部分にある、中世和賀氏の本城であった二子城跡(地元では飛勢<とばせ>城と呼んでいる)の横を通過しました。
飛勢城にも何度も行きました。
そうこうしているうちに、標高1124mの姫神山も見えてきましたよ。
特徴的な山容の姫神山が見えてきたら盛岡はもうすぐです。
反対側の車窓からはもしかしたら岩手山が見えているかもしれません。
8時45分、盛岡駅に到着。
さっそくレンタカーを借りに行きます。
あ、ダスキンさん!
今日は金曜日なので普通に稼働日ですね。
お仕事頑張ってください!
たまにレンタカー屋さんの店頭が混雑していることもありますが、なんとか9時15分には出発することができました。
お、今日は軽自動車だぞ。
いつもはトヨタのヴィッツのような小型車が多いのですが、今日は珍しくワゴンRです。
でも、走行距離が2万キロほどの最新のワゴンRなので問題ないでしょう。
じゃあ行くよ!
ナヴィにセットしたのは岩手県一戸町の御所野遺跡です。
御所野遺跡には先日、たぬさんと訪れていますが、念のためツアーの直前にも確認したいので、今回の旅にも盛り込みました。
⇒4月に訪れた時の記事はこちらです
盛岡ICから高速に入ります。
今日は晴れているから岩手山が見えるはずですが、まだ見ていません。
高速を走りだすと、視界の左側に岩手山がチラチラしているのが気になって仕方がありません。
運転中の撮影は危ないのでやめましょう!
一戸ICで降ります。
予定通り、10時半に到着。
今日は晴れていて気持ちいいぞ。
バスもあるぜ!
きききの吊り橋もいいですねえ。
入ります。
御所野縄文博物館の展示は素晴らしいので今回も一通り見ますが、前回来た時に見落としてしまった展示もきっちり見ようかと思います。
床の一部がガラス張りになっていて下に遺構が見えますが、焼失家屋を復元したものです。
前回の御所野遺跡の探訪記事に書いたと思いますが、こちらでは焼失家屋が見つかっており、その成分を調べた結果、屋根の上に土が被せてあったことが判明したのです。
御所野遺跡は縄文時代中期後半の遺跡ですが、当時の東北地方の南部には大木式(だいぎしき)土器の文化が展開しており、東北北部と北海道西部には円筒式土器の文化が展開していました。
その中で北東北だけを見ると、北上川流域は大木式の文化圏で馬淵川流域は円筒式の文化圏となり、御所野遺跡のある一戸町は馬淵川流域にはなるものの、両文化が交じり合った場所でした。
大木式土器。
この立体的な造形は素晴らしい。
なお、その後は大木式文化が北へ勢力を伸ばし、この周辺から円筒式文化の影響は薄れていきます。
石器が綺麗に並べられています。
石器というと縄文時代よりも前の旧石器時代のスター的存在ですが、縄文時代も石器はバリバリ使っていました。
戦前までは縄文時代のことを石器時代と呼んでいたんですよ。
羽付き縄文人と呼ばれているこの造形も面白いですねえ。
2階へ上がります。
今日はレプリカ!
なぜならば、いま本物は東京の上野に出張中だからです。
レプリカが展示してあるとガッカリすると思いますが、実はこのレプリカを作る技術も凄いですし、結構なお金がかかってしまうのです。
ですから、もしレプリカが展示してあったら、それはそれで喜んでもいいと思います。
前回見なかった展示として、2階の廊下部分の展示があります。
縄文時代早期から順番に遺物が並べてあり、縄文土器の変遷を知ることができますよ。
縄文時代早期の土器。
縄文時代前期の土器。
そして縄文時代中期。
バブル崩壊後(?)の縄文時代後期。
このころは呪術的な遺物がバラエティーなんですが、青龍刀型の石器も最近気になっています。
というわけで、展示の見学は以上になります。
弊社製品をお使いいただき誠にありがとうございます!
マットは外見でも他社との違いがだいたい分かるのですが、念のためめくって裏を見てみました。
多分その様子は角度的に監視カメラに写っていると思うので、絶対不審者として映っているでしょうね。
それでは、遺跡を見ますよ。
ちょうど盛大に草刈の作業を行っています。
暑い中、こうやって整備してくださっているお陰で、私たちは快適に見学ができるわけです。
竪穴住居をお宅拝見。
高床の掘立柱建物の中はこんな感じです。
前回来た後、今度のツアーは配石遺構(いわゆるストーンサークルなど)が一つのテーマになっているので、配石遺構について勉強しています。
なので、今回は御所野遺跡の配石遺構をよくよく見ておこうと思いますが、まずは遺跡の突端部分まで行ってみます。
おや、これはもしや古墳?
※中央ムラには後に古墳が築かれたことが分かっているのですが、あとで職員の方に聴いたところ、これは降雪から配石を護るために冬場に被せる土を置いてあるものだそうです。
西ムラまで来ました。
大型竪穴住居の中は広いです。
そしてやはり涼しい。
外気温によると思いますが、この室温ならエアコンはいらないですね。
したがって、縄文時代にはエアコン掃除のサーヴィスは必要ないので掃除屋さんは閑散期になるということです。
今回はもう少し奥まで行きます。
台地の突端部分には中世の館跡が見つかっているそうですが、この辺でしょうか。
遺構は見えません。
なお、館の持ち主や館の名前などは伝わっていないとのことで、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』にも掲載されていません。
近くには一戸城がありますので、南部一族一戸氏の家臣の可能性が考えられますね。
ちなみに、天正19年(1591)に豊臣政権の再仕置軍が姉帯城を落として九戸城へ向かう途中、このすぐ近くを通過しているはずですよ。
では引き返します。
比高差は結構ありますよ。
中央ムラの配石遺構を見てみます。
こちらも大湯環状列石と同じように、ストーンサークルの輪の中に掘立柱建物が建っていたゾーンがあります。
配石を一つずつ丹念に見ていくと、日時計じゃないかと思われるものもありますね。
この大きな石は花崗岩ですが、産地も分かっています。
遺跡から北西方向3㎞にある茂谷山の可能性が高いそうです。
茂谷山と遺跡との間には馬淵川が流れています。
ところで、御所野という地名は以前から気になっており、「御所」と付いているからには、中世の室町将軍家の誰かがここの住んでいたという伝承でもあるのではないかと思っていましたが、職員の方に尋ねたところ、遺跡内には中世にも墓があり、地元で「後生」と呼んでいたのが、いつの間にか「御所」になったとの説があるそうです。
ただ、確かなことはわからないようです。
下見は手短に終わらせようと思っていたのですが、やはり予定を少しオーヴァーしてしまいました。
急いで次へ向かいます。
次は一戸町の隣の二戸市にある二戸市埋蔵文化財センターへ行ってみますよ。
⇒この続きはこちら
二戸にはこの前行ったのでその途中ですね。九戸城は結構調べたような。
4号線が好きなのでとっても気になります。
何か出てこないですかね?環状というのは少し気になりますね。石器もけっこう精密ですね。
古墳めいだけでも収穫です。
東北おもしろくなりますね。6208