日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

登美山宗像神社・外山茶臼山古墳|奈良県桜井市 【桜井の史跡探訪 ②】

2019-03-07 22:42:24 | 歴史探訪
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 ポツリポツリと雨は落ちてきますが、これくらいならまだマシです。



 陛下、今度はお客様をお連れしてきたいと思いますので、そのときはよろしくお願いいたします。



 初瀬川は北西の方向へ流れていきますが、私は国道165号線を南西の方向へ歩いていきます。



 あ、特急!



 こういう地形は気になる。



 宇陀ヶ辻の交差点にやってきました。



 桜井市の東側に宇陀市がありますが、左折するとそちらの方向ですね。

 先ほど言ったヤマト王権の武器庫かもしれない場所や大伴氏の本拠地の忍坂もそっち方面です。

 おっと、奈良でたまに見かける、天皇陵を指し示す道標がありましたよ。



 「舒明天皇御陵道 従是 南へ八丁」とあり、舒明天皇陵は忍坂にある段ノ塚古墳で、当該古墳は八角墳だそうです。

 行きたいけど今日は割愛します。

 歩きだと今日の行程ではちょっと厳しい・・・

 こういった道標が建てられたのは明治とか大正とかが多いようなので、その時代に天皇陵めぐりが流行ったのでしょうか。

 この面は読めない・・・



 少し歩き外山の交差点に来ました。



 なんで、「外山」が「とび」なんでしょうね。

 もともとは、「とび」とか「とみ」といった地名があって、それに後から漢字を当てはめているわけですが、不思議です。

 おや、今度は宗像さまだ!



 式内大社!



 福岡のツアーのときはいつも大変お世話になっております。

 山神。



 縁起が書かれています。



 ヤマト王権は発祥後間もなく、朝鮮半島への進出を目論みはじめましたが、4世紀以降、福岡県宗像の海人族が協力してくれたお陰でヤマトは非常に助かりました。

 そういった功績や縁もあり、7世紀前半、天武天皇(即位前ですが)の妃として胸形君徳善の娘・尼子郎女(あまこのいらつめ)が入り、高市皇子(たけちのみこ)を生みます。

 高市皇子は壬申の乱でも一軍を率いて父を助け、非常に優秀な皇子だったようですが、その子がかの有名な長屋王です。

 この宗像神社は高市皇子が勧請したんですね。



 高市皇子ファンには嬉しい神社です。



 ここも本殿チラリズムだ。



 でも三女神がそれぞれ別の社に祀られているようですね。

 時刻は11時半。

 今日は朝の電車の中でパンを1つとおにぎりを1つ食べましたが、そろそろお腹が空いてきました。

 でも、歩いていて見かけたのはホルモン屋さんとお洒落系のカフェのようなものだけです。

 温かいうどんとかが食べたい・・・

 牛丼でもいいのですが、地方に来ると東京ではその辺至る所にある吉野家とか松屋とかもなかなか出てこないです。

 あれ、外山(とび)茶臼山古墳じゃないの?



 やっぱりそうだ!





 一応、本日の3つの目的地のうち2つ目をクリアできましたが・・・

 思っていた通り、非常に残念な雰囲気。

 墳丘内にも入れないですし、外観もはっきりと眺められないです。



 いま国道が走っている後円部の方向は、もともとは南側の丘陵とつながっており、それを切断して墳丘長207メートルの前方後円墳を造っています。

 形状の特徴としては、前方部が細長い、いわゆる柄鏡(えかがみ)形と呼ばれる形で、3世紀半ばに箸墓古墳が誕生してから前方部は時代によって変化をするのですが、私が「シェイプ期」と呼んでいる時期のものです。



 3世紀末の築造でしょうか。



 奈良県内には古墳時代前期の大王級の大型古墳がいくつかありますが、白石太一郎先生は、

 箸墓古墳 → 西殿塚古墳 → 外山茶臼山古墳 → メスリ山古墳 → 行燈山古墳 → 渋谷向山古墳

 の順で築造されたと考えています。



 つぎのメスリ山古墳に期待しましょう。

 食べ物屋さんは相変わらず出てきませんが、頑張って歩きますよ。

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