日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

野口王墓(天武・持統陵)|奈良県明日香村 ~他に類のない特異なデザインの古墳であった可能性の高い夫婦合葬墓~

2020-11-27 21:25:13 | 歴史探訪


野口王墓は、天武天皇と持統天皇夫妻の合葬墓で、確実に八角墳ということが分かっている数少ない古墳です。

発見容易
説明板あり
確実な八角墳

お勧め度:

 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


奈良県高市郡明日香村野口



現況


陵墓

史跡指定



出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


『日本書紀』および『続日本紀』によると以下の通り
・687年10月、始めて大内陵を築く
・688年11月、天武の誅が終わり埋葬
・大宝3年(703)12月、持統が飛鳥岡にて火葬され大内山陵に合葬された

墳丘


形状:八角墳
墳丘長:対辺間の長さ約42m(『古墳からみた倭国の形成と展開』)
墳高:約13.5m(『古墳からみた倭国の形成と展開』)
段築:
葺石:
埴輪:

主体部



出土遺物



周堀



 

3.探訪レポート                         


2020年9月4日(金)



この日の探訪箇所
星塚古墳および大和神社 → 馬口山古墳 → フサギ塚古墳 → 栗塚古墳 → マバカ古墳 → ノムギ古墳 → ヒエ塚古墳 → クラ塚古墳 → 波多子塚古墳 → 西山塚古墳 → 東殿塚古墳 → 西殿塚古墳 → 下池山古墳 → 中山大塚古墳
【午後・飛鳥】
岩屋山古墳 → 吉備姫王墓 → 梅山古墳(欽明陵) → 鬼の雪隠・鬼の俎板 → 小山田古墳 → 野口王墓(天武・持統陵) → 国営飛鳥歴史公園館 → 中尾山古墳(文武陵) → 高松塚壁画館 → 高松塚古墳 → 栗原塚穴古墳(文武陵) → 檜隈廃寺跡 → キトラ古墳壁画体験館 → キトラ古墳


 ⇒前回の記事はこちら

 本日の午後は飛鳥駅を基点として歩き出し、すでにいろいろ見ているような感じですが、まだ1時間くらいしか歩いていませんよ。

 天気は良い感じになって来て、歩いていて気持ちよいです。

 やっぱり、飛鳥は歩く場所ですね。

 つづいて、いよいよ天武・持統陵へ詣でます。



 あの丘の上にありますよ。



 この丘は先ほど訪れた吉備姫王墓や欽明陵からこの場所まで東西方向に約1㎞延びており、東側の先端部分に天武・持統陵が築造されています。

 丘の東側麓にある谷。



 鬼の雪隠や俎板があったことでも分かる通り、墓域として使われた丘ですが、古墳の密集度は高くなく、群集墳は築かれていません。

 特別な墓域だったのでしょう。

 だんだん近づいてきました。





 天皇陵にしては珍しく、ちょっとした駐車スペースのようなものが有りますが、一般車を止めると怒られるのかな?



 そしてこれまた天皇陵としては珍しく図入りの説明板もあります。

 まずは読んでみましょう。



 午後の最初に訪れた岩屋山古墳は八角墳の可能性のある古墳ですが、こちらは正真正銘、八角墳です。

 現状の墳丘サイズは東西が58mで南北が43mとなっているようですが、これは墳形が崩れてこうなっているということでしょう。

 『古墳からみた倭国の形成と展開』(白石太一郎/著)では、宮内庁の福尾正彦氏の報告を引いて、対辺間の長さは42m、高さは13.5mとしており、5段築成の周囲には石敷帯をめぐらせ、墳丘外面を全面的に凝灰岩の切石で覆っていたとします。

 その様子をイメージすると、それまでの古墳とはまったく違った画期的なデザインの古墳を天武が造ったということが分かり、やはりこの辺の拘りようから想像するに、天武は単に新たな政権の主ということだけでなく、その出自を考察する手掛かりさえも野口王墓の設計コンセプトに見つけられるかもしれません。



 つづいて主体部ですが、天武天皇が収められた夾紵棺(きょうちょかん)も非常に贅沢な手の込んだもので、漆を布に湿らせてそれを数十層にも重ねて作る棺のことで、古墳時代終末期の最高権力者級の人びとの棺として製造されました。

 説明板では、主体部は横口式石槨としていますが、普通にこれを見たら石槨ではなく石室で良いように思えます。

 この説明板を製作したときの明日香村の担当者の方は、横口式石槨と判断したと思いますが、『古代を考える 終末期古墳と古代国家』所収「終末期の横穴式石室と横口式石槨」(土生田純之/著)では、横口式石槨に移行する前段階の横穴式石室として説明しています。

 その辺の判断は研究者によって相違があるようなので、石槨でも石室でもどちらでもいいとして、丁寧な図を載せてくれているのはいいのですが、もう少し文字での説明が欲しかったですね。

 少なくとも、もし私に予備知識がなかった場合は、この図を見ていったい石室と外部との行き来はどうしていたのか分からないと思います。

 土生田先生の前掲書を元に説明しましょう。

 石室の図の左側が出入口になっていますから、墳丘図の方に描かれている石室開口部から入っていった先がこの石室の図の左側ということになります。

 この図だと石室が塞がれているイメージで書かれておりややこしいのですが、羨道と外部との出入口(羨門)は板状の扉石があったことを示しています。

 扉石によって石室を閉じることは珍しくありませんが、羨道とその奥の玄室との間の玄門には金銅製の両開き式の扉があったとされており、この金銅製の扉は非常に珍しいものです。

 この辺りに仏教の影響が見られるのかもしれませんが、さらに天武の夾紵棺が置かれた長方形の棺台と、天皇として史上初めて火葬された持統の蔵骨器が置かれた正方形の棺台には格狭間(こうざま)と呼ばれる仏教的装飾がありました。

 ※格狭間の例として、群馬県前橋市の宝塔山古墳の石棺を示します(石棺下部が格狭間)。



 なお、野口王墓の石室の大きさですが、玄室は長さ4.3m、幅3m、高さ2.4mで、羨道は長さ3.2m、幅2.4mです。

 ところで、全然関係ないですが、この説明板では天皇のことを「Emperor」と訳していますが、天皇は「Tennou」だと思いませんか?

 世界で唯一無二の存在で、そんじょそこいらの皇帝と一緒にされては困りまする。

 ゴメンナサイ、余計な話をしました。

 では墳丘に登りますよ。



 階段を登り、後ろを振り返ります。



 いい景色ですね。



 天武はきっとこの景色を見てここに自分の墓を造りたいと思ったのに違いありません。



 拝所と墳丘。





 いつもの制札もきちんとあります。





 墳丘の周辺は歩けるようになっています。



 グルっと散歩ができますね。



 接近しすぎると何だか分かりません。



 限りなく100%に近く無理なことは分かっていますが、既述したような往時の姿に復元できれば、ここに他に類のない最終形・最新型の特異な形状の古墳が現れるのですね。



 しかしそれにしても、ここはとても気持ちの良い場所です。

 古代の風に吹かれながらゆっくり休憩したい気分ですが、時間は限られていますから次の目的地へ向かいましょう。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『国立歴史民俗博物館研究報告第1集』所収「畿内における古墳の終焉」 白石太一郎/著 1982年
・『古代を考える 終末期古墳と古代国家』 白石太一郎/編 2005年
・『古墳からみた倭国の形成と展開』(白石太一郎/著) 2013年


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