日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

井出二子山古墳/保渡田古墳群および伝箕輪城主長野業盛之墓|群馬県高崎市 ~太田天神山の次代における上毛野の覇者の墳墓~

2020-12-01 20:46:52 | 歴史探訪


 

井出二子山古墳は、保渡田古墳群の首長墓としては最初に築造された100mを超える大型前方後円墳です。

発見容易
整備されており墳丘に登りやすい
詳しい説明板あり

お勧め度:


 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


群馬県高崎市井出町1428-1外



現況


公園

史跡指定


国指定史跡
名称:
指定日:

出土遺物が見られる場所


かみつけの里博物館

 

2.諸元                             


築造時期


5世紀第3四半期

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:108m
段築:3段
葺石:あり
埴輪:あり

主体部


竪穴系(舟形石棺、石槨)

出土遺物


周溝:円筒埴輪
墳丘:円筒埴輪、人物埴輪、土師器、須恵器、石製模造品
主体部:刀、馬具、農具、武器、桂甲小札、冑、玉、石製模造品、ガラス玉、金製装飾具、斧、玉、鏡(『群馬県古墳総覧』)

 

3.探訪レポート                         


八高線に乗って初めての高崎遺跡めぐり③ 2013年5月5日(日)


 ⇒前回の記事はこちら

 高崎駅のバス停の9番乗り場のベンチで『続・群馬の古城』を読みながらバスを待っていると、市内循環バス「ぐるりん」がやってきました。

 13時40分発の「系統番号5」です。

 バスに乗り込むと、また少し緊張します。

 でも今度は車内前方の掲示板に次のバス停が表示されるので安心です。

 バスは街のなかを北へ向けて走り、30分くらいかけて「井出町西」に着きました。

 「ぐるりん」は料金が一律200円で、これは良心的ですね。

 バスを降り、早速古墳へ行きたいと思いますが、今はまだ「かみつけの里博物館」の近くに古墳がいくつかある、という程度の知識しかないので、まずは地図に書かれた「かみつけの里博物館」を目指すことにします。

 おや、前方に何か見えますよ。



 古墳だ!



 あれを目指せばいいんですね。

 大きい目標物に向かってテクテク歩いていると何やら標識があります。

 「伝箕輪城主長野業盛之墓」ですと!



 長野業盛といったら箕輪城(高崎市箕郷町)に拠って武田信玄と戦った武将で、確か「信長の野望」でも強い武将だったはず・・・

 ※後日註:『日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬』によると、箕輪城は永禄9(1566)年9月29日に落城し、業盛は自刃しました。

 その業盛の「伝」墓がこの近くにあるということです。

 標識の通りに道を左折します。

 古墳はさっきよりも近いですが、この道は古墳に近づく道ではありません。



 標識より5分くらい歩くと、小さな墓域がありました。

 「なりもりぼえん」とあります。



 説明板もあります。



 墓苑の中には五輪塔があり、これが業盛の墓と伝えられるものですね。



 説明板に書かれている通り、業盛は自刃後、この地の僧法如らによってここに葬られたと伝わっているそうです。

 なお、箕輪城はここから北西方向3.5km強のところにあります。

 こういう偶然の出会いも遺跡めぐりの醍醐味ですね。

 墓に手を合わせた後、本題へ戻り北へ向かって歩きます。

 古墳が段々近づいてきました。





 いよいよです!



 周溝もかなり広い。



 ※後日註:後で知りましたが、写真の柵の内側は内堀でその外側、私が立っている場所は外堀がめぐっています。

 伝長野業盛の墓方面から来たので古墳へは西からのアプローチとなりましたが、古墳は前方部をほぼ西に向けています。



 周囲には菜の花が咲いていて、古墳とよくマッチしていますね。





 前方部に登る階段が付いているので、登って後円部方向を見てみます。



 おや、左手奥の方にももう一基古墳が見えますね。





 あっちは後で行ってみましょう。

 ところで、さっきから古墳、古墳と言っていますが、この古墳は保渡田古墳群の中の井出二子山古墳と言い、5世紀第3四半期(451年~475年)に築造された前方後円墳で、全長は108.5mあり、外堀まで含めると何と213mもあります。

 間近で見るとかなり大きいですね。

 ※後日註:保渡田の読みですが、地元の方複数に聴くと「ほどた」と「ほとだ」の両説が混在しておりハッキリしません。

 後円部の墳頂には石棺の実物大の写真のパネルが置かれ、詳しい説明がなされています。



 説明板を一つずつ読んでみましょう。



 埋葬施設は2基確認されており、この古墳の主たる被葬者は「埋葬施設1」に葬られた人です。

 説明板に書いてある通り、埋葬施設1では、被葬者は凝灰岩をくりぬいた長さ2.9mの舟形石棺に安置されていましたが、石棺を直に埋めたのではなく周囲を石槨というもので囲っています。

 石槨の範囲は7.6m×5.3mで、その範囲内には河原石を充てんしていました。



 舟形石棺の写真も充実していますね。



 石棺の周囲の石は大き目で、縄文人がストーンサークルを造るときに使いそうな感じですが、一個一個がかなり重いですから、石槨を作るのも結構大変だったと思います。

 副葬品についての説明もあります。



 墳頂からは榛名の山々が見えますね。



 見下ろすと、保渡田古墳群特有の「中島」が周溝内に見えます。







 前方部方向。



 ウォーキングをされている方がいますが、こういった古墳公園はウォーキングに最適ですね。

 それでは墳丘を降りましょう。

 墳丘の途中に何やらありますよ。



 古墳を修理した形跡が見つかったんですね。



 実は古墳は作った後どういうふうに管理していたのか、ほとんど分からないのです。

 研究者によっては作った後はそのまま放置していたと考える方もいます。

 古墳時代から少した経った奈良時代には墓守の人も任命されていますが実態はよく分かっていません。

 私的には、当初は人工的な山だったのが自然のままに普通の「山」と化していくのを放っておくほうが何となく日本人の好みに合いそうな気がします。

 つづいて墳丘についての説明もあります。



 葺石を葺くときは担当範囲が決められていたという説に則って説明されていますね。

 ※後日註:この説は以前かみつけの里博物館にお勤めになっていた若狭徹先生が自著で解説しています。



 さきほど墳頂から眺めた中島の一つへ行ってみます。

 中島にも説明板がありました。



 ※後日註:中島を設けた古墳は保渡田古墳群以外にはほとんどありません(ゼロではないです)。

 もう少し下がって横腹を見てみます。



 後円部の周溝。



 後円部の先端側にまわってきました。



 いやー、いいねえ。

 こちら側に古墳自体の説明板がありました。



 保渡田古墳群の配置はこうなっていますよ。



 さきほど墳丘から見えた古墳は八幡塚古墳ですね。

 保渡田古墳群は、井出二子山、八幡塚、薬師塚の順で構築されましたが、世代ごとに1基というわけでもないようで、築造間隔は5世紀後半から6世紀初頭にかけて詰まっています。



 墳丘図。



 整備される前の写真もあります。

 多分、この写真のような状態の方が良かったと思っている地元の方もいそうですね。



 発掘するときは当然ながら破壊されます。



 そして再度土を盛って現在の形にしたわけですね。



 ここから南東方向約800mの地点には三ツ寺Ⅰ遺跡という、古代の豪族の居館跡(同時代の居館跡遺跡の中では最大規模)があるのですが、ここ保渡田古墳群は、その三ツ寺Ⅰ遺跡に居館していた首長の墓だそうです。

 今日は予備知識無しで来ましたが、保渡田古墳群の概要はこれで分かりました。

 つづいて八幡塚の方へ行ってみましょう。

 住居跡が復元されています。



 井出二子山古墳の東側には竪穴式住居と小さなお墓がありますが、これは井出北畑遺跡(井出二子山古墳の西側)にあったものを移築したものです。





 道路の向こうには八幡塚古墳がありますよ。



 行ってみましょう。

 ⇒この続きはこちら

2017年5月4日(木) 東国を歩く会


 東国を歩く会の特別編としてご案内してきました。

2017年7月1日(日)クラブツーリズム


 クラブツーリズムにて初めてご案内しました。

2018年3月31日(土)クラブツーリズム


 クラブツーリズムにてご案内しました。

2018年9月12日(水)クラブツーリズム


 クラブツーリズムにてご案内しました。

2018年10月21日(日)クラブツーリズム


 クラブツーリズムにてご案内しました。

 ちょうどコスモスが見ごろで、沢山の観光客がいました。







 墳頂から見る赤城山。



 赤城の手前には八幡塚古墳が見えます。



 薬師塚古墳。



 榛名山も綺麗に見えていますよ。



2019年2月9日(土)クラブツーリズム


 クラブツーリズムにてご案内しました。

2020年9月26日(土)クラブツーリズム


 半年ちょっとの仕事無し期間を経て、久しぶりにクラブツーリズムにてご案内しました。

2020年10月17日(土)クラブツーリズム


 クラブツーリズムにてご案内しました。

2020年11月7日(土)クラブツーリズム


 クラブツーリズムにてご案内しました。

2020年11月29日(日)クラブツーリズム


 クラブツーリズムにてご案内しました。

 

4.補足                             


2020年6月29日


 保渡田古墳群は烏川の支流の井野川の上流にあり、下流(南東方向)10km強のところには、元島名将軍塚古墳があります。

 元島名将軍塚古墳は、比田井克仁氏の説では3世紀後半(『群馬県史 資料編3』では4世紀末)の古墳ですが、『群馬県史 通史編1 原始古代Ⅰ』では、古墳時代の始まり頃における前橋台地西側の首長の墓で、その頃は前橋台地東側の前橋八幡山古墳(前方後方墳)の被葬者と前橋台地を二分する勢力としています。

 その後の上毛野地域の政治権力の行方をさらに『群馬県史 通史編1 原始古代Ⅰ』をもとに記述しますと以下のようになります。

 前橋八幡山古墳のすぐ近くにはその後、前橋天神山古墳(東国の最初期の前方後円墳)が築造されましたが、その全長は129mという、当時の東国では一番の規模を誇っており、その被葬者は前橋台地だけにとどまらず、東国全体でもトップの地位にいた人物であったと考えられます。

 前橋天神山古墳からは三角縁神獣鏡が出土されており、それ以外の上毛野のもっと小規模な古墳から出土された三角縁神獣鏡は、いったん倭王権から前橋天神山古墳の首長に分配された物をその人物がさらに地域の有力者に分配したものであるという考えもあります。

 その後、前橋台地と倉賀野台地を統合する形で、浅間山古墳(高崎市倉賀野町。全長175m余)の被葬者が現れます。

 浅間山古墳の平面プランは前橋天神山古墳と同じで、両者は同一系統であると思われます。

 それから、5世紀には太田天神山古墳(太田市)の被葬者が現れます。

 太田天神山古墳は、全長210mの東日本最大の古墳で、石棺は倭国の中でももっとも身分が高い階層の者しか使えない組合式長持形石棺を採用しています。

 その頃、ここ井野川流域では、下流域に不動山古墳と岩鼻二子山古墳が築かれ、その直後その政権は上流域に移り上並榎稲荷山古墳と、ここ保渡田古墳群が築かれるようになります。 

 保渡田古墳群は、当時の県南平野では唯一の前方後円墳であり、ここに葬られた首長は、5世紀後半から6世紀初頭にかけての上毛野地域西側の最大勢力でした。

 なお、井出二子山古墳が築造された時期の日本最大の古墳は、雄略天皇の墓とされる大阪府の岡ミサンザイ古墳(242メートル)ですが、それに次ぐのは奈良県の狐井城山古墳(140メートル)で、第3位グループとして、井出二子山古墳や埼玉県の埼玉稲荷山古墳、栃木県の摩利支天塚古墳などが110~120メートル級で名を連ねます(『古墳時代毛野の実像』所収若狭徹著「中期の上毛野―共立から小地域経営へ―」)。

 つまり井出二子山古墳は、築造時期においては国内でも有数の規模を持った古墳だったのですね。

 ところで、上毛野には半島の文化がかなり入りこんでいます。

 『山麓の開発王 井出二子山古墳の世界』によると、井出二子山古墳の石棺周囲からは朝鮮半島製である金銅製馬具や金製装飾具が見つかっていますが、保渡田古墳群の北西1kmの地点には、渡来人の墓(下芝谷ツ古墳)や渡来人の集落(下芝遺跡群)があります。

 上毛野一族の荒田別やその子の竹葉瀬や田道は4世紀後半に朝鮮半島で活躍しており、そのときに招聘した朝鮮人を上毛野に配置し、その人びとの子孫の遺跡が上記の遺跡かもしれません。

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『関東における古墳時代出現期の変革』 比田井克仁/著 2001年 
・『山麓の開発王 井出二子山古墳の世界』 かみつけの里博物館/編 2009年
・『季刊考古学 別冊17 古墳時代毛野の実像』 右島和夫・若狭徹・内山敏行/編 2011年
・『東国から読み解く古墳時代』 若狭徹/著 2015年
・『群馬県古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年
・『群馬の古墳物語 下巻』 右島和夫/著 2018年


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2 コメント

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Unknown (Jun)
2013-08-12 22:49:04
東京の神はどこに降りるのか、で古墳のコメントをさせてもらった者です。

何分この時代の事は初心者なので、前橋の古墳で三角縁神獣鏡が出土しているという情報はまさに目からウロコでした。

卑弥呼の記録から100年ほどしか違わないこの時代に、上毛および関東平野域が誰によってどのように治められていたのか。

とても興味が沸く記事でした。ありがとうございました。
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嬉しいです (稲用)
2013-08-13 09:30:49
Junさん、こんにちは。
昔は畿内の古墳は100年くらい遅く関東に伝播していたと考えられていましたが、今ではほとんど時間差がないと考える考古学者もいるようですね。
弥生時代末期から古墳時代にかけての関東地方、これは文献がほとんどないために不明な点が多いですが、古墳などの考古学の方から何か分かるだろうと思い探求しています。
私が面白いと思ったところに興味を持っていただきとても嬉しいです。
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