⇒前回の記事はこちら
高麗神社に続いて、関連する場所として今度はお寺へ詣でます。
聖天院(しょうでんいん)勝楽寺です。
車では一瞬で到着。
山門の前に広い駐車場が展開していますが、1台も留まっていません。
やってるのかな?
って、お寺ですから休業日はないですよね。
とりあえず車を留めてまずは遠景を撮影するため少し離れます。
この雨ですからね、残念な感じの写真になっていると思います。
オーメンさんはたまにこの前の道をバイクで通るらしく、気にはなっていたものの境内にお邪魔するのは今日が初めてだそうです。
きちんと由緒書きがあります。
かなり立派な風雷神門が現れました。
高麗山とあります。
向かって右手に風神、左手に雷神が安置されているので風雷神門と呼ばれるのですが、一般的には雷門と呼ばれます。
浅草寺の雷門があまりにも有名ですが、浅草寺にだけあるものではないのです。
文化財についての説明。
右手には高麗若光の廟があります。
不思議な形の石塔ですね。
さきほどの説明板に鎌倉時代に造られたものと書かれていましたが、おそらく柔らかい石でできていて、長い年月でだいぶ削れてしまったのでしょう。
高麗殿(こまでん)の池。
でかい馬頭観音だ。
さて、聖天院は境内のコアゾーンにに入るには拝観料が必要なのです。
無料で歩けるのはここまで。
こちらの中門をくぐるときに300円支払います。
このお寺は丘の上からの眺望が素晴らしいと聴いているので、どうせなら晴れている日に来たかったのですが、せっかく来たので中門の中へお邪魔させてもらいましょう。
風雷神門を背後から見ます。
中門をくぐると平場が展開しており、さらに一段高い場所に本堂が見えますね。
でも、元々本堂はこの平場にあったのです。
一段高い場所にある現在の本堂は2000年に建てられました。
室町時代に建てられたといわれている阿弥陀堂があります。
いいですねえ。
私は阿弥陀堂とか観音堂とか、はたまた薬師堂とか、そういった正方形のお堂が好きなのです。
弥生時代の周溝墓も古墳時代の古墳も四角いのが好き。
ではもう一段上がりましょう。
右手には現在の本堂。
かなりでかい本堂ですよ。
左手には鐘楼があります。
鐘楼の後背部へ上がると、高麗若光さんがいらっしゃいました。
本堂の裏は2000年に建築した際に山を削った跡がよく分かります。
ずいぶんダイナミックに削りましたね。
散策ルートはまだ続いていますよ。
広場のようになっています。
ここも本堂を造ったときと同時に韓国の方々のための慰霊スペースとして造成しました。
説明板。
こちらが説明板に書かれている、高さ16mの日本一の石塔です。
説明板に書かれている石像が並んでいます。
向かって右から見てみましょう。
どなたでしょうか?
何も書いていませんね。
新羅の武烈王だ!
武烈王は、本名を金春秋といい、新羅の29代目の王となった人物で、武烈王の在世中に新羅は唐と組んで倭の盟友・百済を滅ぼすことに成功しています。
まだ即位前、閉塞した新羅の状況を打開するために、武烈王は高句麗や倭国へ行き協力を要請するのですが断られ、唐へ赴いたところ非常に厚遇され、それが新羅と唐の軍事同盟に発展するわけです。
武烈王は661年に亡くなり、ついで子の文武王が即位しますが、文武王は当初は唐と結んでともに高句麗を滅ぼしたものの、やがて唐と決別し、朝鮮半島をまとめあげて唐と敵対するようになります。
この新羅が唐から離反したことと、壬申の乱で天武天皇が即位したことは繋がっていると私は考えています。
天皇の漢風諡号が付けられたのはもっと後の時代なので関連はないかもしれませんが、新羅の王が「文武」王で、日本の天皇は「天武」天皇。
そして天武の孫には「文武」天皇がいます。
さらにさかのぼって第25代目の天皇は悪名高い武烈天皇です。
完全な想像ですが、倭国にとっては、というか倭国の運営をしている百済系の貴族にとっては新羅の武烈王は憎い存在ですから、歴代の天皇の漢風諡号を定めた際、精神異常者のようなワカサザキに対して、「武烈」という諡号を悪意をもって付けたのではないでしょうか。
つづいて、日本に千字文と論語を伝えたとされる王仁(わに)博士!
王という苗字は半島の楽浪郡に多く、王仁博士はおそらく中国人か中国系の朝鮮人で、王が苗字で仁が名前なので「おうじん」と呼んでもいいかもしれません。
面白いのは偶然にも、王仁博士が来日したのは『日本書紀』によると応神(おうじん)天皇のときのことなんですよね。
実在は不確かですが、もし非実在だとしても王仁博士のような人物がやってきて日本の国家建設を助けてくれたことはあったと思います。
こちらの方は知りません・・・
※「Wikipedia」によると、鄭夢周は14世紀の高麗の儒学者で圃隠と号し、1377年には日本にやってきて、室町幕府の九州探題今川貞世(了俊)と折衝したそうですよ。
おや、女性ですね。
こちらも知りません・・・
※「Wikipedia」によると、申師任堂は、李氏朝鮮中期(16世紀前半)の女流書画家で、朝鮮では良妻賢母の鑑とされているそうです。
・・・あれ、説明板に書かれていた広開土王がいませんよ。
ということは、消去法で行くと、さきほど名前が書かれていなかったあの人に違いない!
上述の5名の中では、直接日本をやっつけた人物は広開土王だけになってしまうので、うがった見方ですが、名前を書くと変な日本人から嫌がらせをされるから書いていないのでしょうか。
過去のことでとやかく言うと、半島のそういう方々と同じ土俵に立つことになってしまいますよ。
さらに山の上まで階段があります。
登りきったところには・・・
檀君だ!
ついに現れた!
生まれて初めて檀君にお会いすることができて、妙に感動です。
檀君のお父さんは天神の子でお母さんは熊さんなんですが、世界の民族の中には先祖を動物にする民族があります。
現代の韓国や北朝鮮の人びとの中には檀君を「民族の祖」的に考えている方もいるのですが、檀君、つまり本名・王険が史料上に現れるのは13世紀末に書かれた『三国遺事』が最初で、結構最近造られた存在なのです。
そもそも、古代の朝鮮半島には系統の異なる複数の民族が住んでおり彼らの共通の先祖はあり得ないのです。
強いて言えば、アフリカにいたミトコンドリア・イブでしょうか。
檀君の登場時期から考えると、もともと多民族だった朝鮮半島を統一して運用していくうえで、共通の先祖が必要となり造り出されたと考えるのが素直だと思います。
13世紀末の政治状況を考えると、朝鮮半島を統一した高麗がちょうど元の支配下に入っていた頃で、そういった植民地的な状況での人びとのアイデンティティ構築が必要だったのでしょう。
一応『三国遺事』に書かれた檀君の事跡を紹介しますと、彼は1500年もの長きにわたって朝鮮半島を支配し、箕子朝鮮に国を譲り、1908歳で亡くなり阿斯達の山神になりました。
1908歳まで生きるのはかなり難易度が高いでしょう。
以上、檀君の神話はかなり新しい話なのですが、世界の神話を分類した時の「獣祖神話」と呼ばれるものに分類される話を造ったところがなかなかセンスがいいです。
というのも、獣祖神話は朝鮮半島の諸族にはない話で、満州やモンゴル地域には分布しており、高句麗の場合はルーツが朝鮮半島ではなくそちらの地域ですので、統一された朝鮮半島の共通の神話を造る際に、高句麗の故郷の神話をもとにした可能性が高いということになります。
ところが、その肝心な高句麗の神話がややこしくて、高句麗の初代の王である朱蒙(東明聖王)の出生譚は、いくつかの神話類型が複合した形となっています。
類型の一つである「卵生神話」は、天地が卵から生まれるという話がインド、ギリシャ、エジプト、フィンランド、そして『日本書紀』など、世界中に見ることができ、その一方で卵から民族の祖が生まれるというタイプもあり、新羅の始祖赫居世(かくきょせい)は卵から生まれました。
金官加羅国の始祖首露王(しゅろおう)の場合は、卵の状態で天から降下して地上で生まれ、高句麗の朱蒙も卵から生まれているのです。
ただし朱蒙の場合は、父が天帝で母が河伯(川の神様)だったり、母が日光にあたって卵を産んだという「日光感精神話」の要素も入っているため、上述したとおり複合的なものとなっています。
段々話がややこしくなってきましたが、記紀に書かれた日本の神話も複合的で理解が難しいですよ。
なお、上述の金官加羅国は「卵生神話」ですが、卵が天から降りくるくだりは日本と一緒ですし、こういった話は古代に限らず、例えば豊臣秀吉は「日光感精神話」になりますし、話し出すとキリがないのでこの辺でやめておきましょう(神話については、三品彰英著『三品彰英論文集 第三巻 神話と文化史』を参照しました)。
ここからの見晴らし。
飯能の天覧山はあちらでしょうか。
そういえば、天覧山の麓にある能仁寺もとても雰囲気の良いお寺でした。
⇒2016年4月29日に探訪した時の様子はこちら
雨に煙る日高市内。
見晴らし台まで降りてきました。
今日はこんな天気なのでこんな景色です。
ところで、さきほど2名の方々が階段を登ってきたのが上から見えましたが会いませんね。
それ以外にもまったく誰とも会いません。
こういう天気だからかもしれませんが、高麗神社には結構人がいたのでこちらに流れてきてもおかしくないんですがね。
ここは有料ですので、むしろ変な人たちが入ってくる可能性が低くて、美観を維持するにはいい手段かも知れません。
あれ、変な人たちがすでに入っていましたね。
中門まで戻り、係の人に「名前の書いてなかった石像が広開土王ですか?」と尋ねてみますが、「私は知らないんですよー」と答えられてしまいました。
広開土王は倭国をやっつけた王ですから、デリケートな問題が内包されているのでしょう。
そういったこともあって、300円徴収するというのは、少しは「攻撃的な変な人たち」からの抑止効果になっているのかもしれません。
なお、私たちは「人畜無害な変な人たち」です。
では、次の場所へ行きましょう。
⇒この続きはこちら
高麗神社に続いて、関連する場所として今度はお寺へ詣でます。
聖天院(しょうでんいん)勝楽寺です。
車では一瞬で到着。
山門の前に広い駐車場が展開していますが、1台も留まっていません。
やってるのかな?
って、お寺ですから休業日はないですよね。
とりあえず車を留めてまずは遠景を撮影するため少し離れます。
この雨ですからね、残念な感じの写真になっていると思います。
オーメンさんはたまにこの前の道をバイクで通るらしく、気にはなっていたものの境内にお邪魔するのは今日が初めてだそうです。
きちんと由緒書きがあります。
かなり立派な風雷神門が現れました。
高麗山とあります。
向かって右手に風神、左手に雷神が安置されているので風雷神門と呼ばれるのですが、一般的には雷門と呼ばれます。
浅草寺の雷門があまりにも有名ですが、浅草寺にだけあるものではないのです。
文化財についての説明。
右手には高麗若光の廟があります。
不思議な形の石塔ですね。
さきほどの説明板に鎌倉時代に造られたものと書かれていましたが、おそらく柔らかい石でできていて、長い年月でだいぶ削れてしまったのでしょう。
高麗殿(こまでん)の池。
でかい馬頭観音だ。
さて、聖天院は境内のコアゾーンにに入るには拝観料が必要なのです。
無料で歩けるのはここまで。
こちらの中門をくぐるときに300円支払います。
このお寺は丘の上からの眺望が素晴らしいと聴いているので、どうせなら晴れている日に来たかったのですが、せっかく来たので中門の中へお邪魔させてもらいましょう。
風雷神門を背後から見ます。
中門をくぐると平場が展開しており、さらに一段高い場所に本堂が見えますね。
でも、元々本堂はこの平場にあったのです。
一段高い場所にある現在の本堂は2000年に建てられました。
室町時代に建てられたといわれている阿弥陀堂があります。
いいですねえ。
私は阿弥陀堂とか観音堂とか、はたまた薬師堂とか、そういった正方形のお堂が好きなのです。
弥生時代の周溝墓も古墳時代の古墳も四角いのが好き。
ではもう一段上がりましょう。
右手には現在の本堂。
かなりでかい本堂ですよ。
左手には鐘楼があります。
鐘楼の後背部へ上がると、高麗若光さんがいらっしゃいました。
本堂の裏は2000年に建築した際に山を削った跡がよく分かります。
ずいぶんダイナミックに削りましたね。
散策ルートはまだ続いていますよ。
広場のようになっています。
ここも本堂を造ったときと同時に韓国の方々のための慰霊スペースとして造成しました。
説明板。
こちらが説明板に書かれている、高さ16mの日本一の石塔です。
説明板に書かれている石像が並んでいます。
向かって右から見てみましょう。
どなたでしょうか?
何も書いていませんね。
新羅の武烈王だ!
武烈王は、本名を金春秋といい、新羅の29代目の王となった人物で、武烈王の在世中に新羅は唐と組んで倭の盟友・百済を滅ぼすことに成功しています。
まだ即位前、閉塞した新羅の状況を打開するために、武烈王は高句麗や倭国へ行き協力を要請するのですが断られ、唐へ赴いたところ非常に厚遇され、それが新羅と唐の軍事同盟に発展するわけです。
武烈王は661年に亡くなり、ついで子の文武王が即位しますが、文武王は当初は唐と結んでともに高句麗を滅ぼしたものの、やがて唐と決別し、朝鮮半島をまとめあげて唐と敵対するようになります。
この新羅が唐から離反したことと、壬申の乱で天武天皇が即位したことは繋がっていると私は考えています。
天皇の漢風諡号が付けられたのはもっと後の時代なので関連はないかもしれませんが、新羅の王が「文武」王で、日本の天皇は「天武」天皇。
そして天武の孫には「文武」天皇がいます。
さらにさかのぼって第25代目の天皇は悪名高い武烈天皇です。
完全な想像ですが、倭国にとっては、というか倭国の運営をしている百済系の貴族にとっては新羅の武烈王は憎い存在ですから、歴代の天皇の漢風諡号を定めた際、精神異常者のようなワカサザキに対して、「武烈」という諡号を悪意をもって付けたのではないでしょうか。
つづいて、日本に千字文と論語を伝えたとされる王仁(わに)博士!
王という苗字は半島の楽浪郡に多く、王仁博士はおそらく中国人か中国系の朝鮮人で、王が苗字で仁が名前なので「おうじん」と呼んでもいいかもしれません。
面白いのは偶然にも、王仁博士が来日したのは『日本書紀』によると応神(おうじん)天皇のときのことなんですよね。
実在は不確かですが、もし非実在だとしても王仁博士のような人物がやってきて日本の国家建設を助けてくれたことはあったと思います。
こちらの方は知りません・・・
※「Wikipedia」によると、鄭夢周は14世紀の高麗の儒学者で圃隠と号し、1377年には日本にやってきて、室町幕府の九州探題今川貞世(了俊)と折衝したそうですよ。
おや、女性ですね。
こちらも知りません・・・
※「Wikipedia」によると、申師任堂は、李氏朝鮮中期(16世紀前半)の女流書画家で、朝鮮では良妻賢母の鑑とされているそうです。
・・・あれ、説明板に書かれていた広開土王がいませんよ。
ということは、消去法で行くと、さきほど名前が書かれていなかったあの人に違いない!
上述の5名の中では、直接日本をやっつけた人物は広開土王だけになってしまうので、うがった見方ですが、名前を書くと変な日本人から嫌がらせをされるから書いていないのでしょうか。
過去のことでとやかく言うと、半島のそういう方々と同じ土俵に立つことになってしまいますよ。
さらに山の上まで階段があります。
登りきったところには・・・
檀君だ!
ついに現れた!
生まれて初めて檀君にお会いすることができて、妙に感動です。
檀君のお父さんは天神の子でお母さんは熊さんなんですが、世界の民族の中には先祖を動物にする民族があります。
現代の韓国や北朝鮮の人びとの中には檀君を「民族の祖」的に考えている方もいるのですが、檀君、つまり本名・王険が史料上に現れるのは13世紀末に書かれた『三国遺事』が最初で、結構最近造られた存在なのです。
そもそも、古代の朝鮮半島には系統の異なる複数の民族が住んでおり彼らの共通の先祖はあり得ないのです。
強いて言えば、アフリカにいたミトコンドリア・イブでしょうか。
檀君の登場時期から考えると、もともと多民族だった朝鮮半島を統一して運用していくうえで、共通の先祖が必要となり造り出されたと考えるのが素直だと思います。
13世紀末の政治状況を考えると、朝鮮半島を統一した高麗がちょうど元の支配下に入っていた頃で、そういった植民地的な状況での人びとのアイデンティティ構築が必要だったのでしょう。
一応『三国遺事』に書かれた檀君の事跡を紹介しますと、彼は1500年もの長きにわたって朝鮮半島を支配し、箕子朝鮮に国を譲り、1908歳で亡くなり阿斯達の山神になりました。
1908歳まで生きるのはかなり難易度が高いでしょう。
以上、檀君の神話はかなり新しい話なのですが、世界の神話を分類した時の「獣祖神話」と呼ばれるものに分類される話を造ったところがなかなかセンスがいいです。
というのも、獣祖神話は朝鮮半島の諸族にはない話で、満州やモンゴル地域には分布しており、高句麗の場合はルーツが朝鮮半島ではなくそちらの地域ですので、統一された朝鮮半島の共通の神話を造る際に、高句麗の故郷の神話をもとにした可能性が高いということになります。
ところが、その肝心な高句麗の神話がややこしくて、高句麗の初代の王である朱蒙(東明聖王)の出生譚は、いくつかの神話類型が複合した形となっています。
類型の一つである「卵生神話」は、天地が卵から生まれるという話がインド、ギリシャ、エジプト、フィンランド、そして『日本書紀』など、世界中に見ることができ、その一方で卵から民族の祖が生まれるというタイプもあり、新羅の始祖赫居世(かくきょせい)は卵から生まれました。
金官加羅国の始祖首露王(しゅろおう)の場合は、卵の状態で天から降下して地上で生まれ、高句麗の朱蒙も卵から生まれているのです。
ただし朱蒙の場合は、父が天帝で母が河伯(川の神様)だったり、母が日光にあたって卵を産んだという「日光感精神話」の要素も入っているため、上述したとおり複合的なものとなっています。
段々話がややこしくなってきましたが、記紀に書かれた日本の神話も複合的で理解が難しいですよ。
なお、上述の金官加羅国は「卵生神話」ですが、卵が天から降りくるくだりは日本と一緒ですし、こういった話は古代に限らず、例えば豊臣秀吉は「日光感精神話」になりますし、話し出すとキリがないのでこの辺でやめておきましょう(神話については、三品彰英著『三品彰英論文集 第三巻 神話と文化史』を参照しました)。
ここからの見晴らし。
飯能の天覧山はあちらでしょうか。
そういえば、天覧山の麓にある能仁寺もとても雰囲気の良いお寺でした。
⇒2016年4月29日に探訪した時の様子はこちら
雨に煙る日高市内。
見晴らし台まで降りてきました。
今日はこんな天気なのでこんな景色です。
ところで、さきほど2名の方々が階段を登ってきたのが上から見えましたが会いませんね。
それ以外にもまったく誰とも会いません。
こういう天気だからかもしれませんが、高麗神社には結構人がいたのでこちらに流れてきてもおかしくないんですがね。
ここは有料ですので、むしろ変な人たちが入ってくる可能性が低くて、美観を維持するにはいい手段かも知れません。
あれ、変な人たちがすでに入っていましたね。
中門まで戻り、係の人に「名前の書いてなかった石像が広開土王ですか?」と尋ねてみますが、「私は知らないんですよー」と答えられてしまいました。
広開土王は倭国をやっつけた王ですから、デリケートな問題が内包されているのでしょう。
そういったこともあって、300円徴収するというのは、少しは「攻撃的な変な人たち」からの抑止効果になっているのかもしれません。
なお、私たちは「人畜無害な変な人たち」です。
では、次の場所へ行きましょう。
⇒この続きはこちら
ここ2年くらいは仕事の関係もあって日本各地に行ってますので、奈良とか福岡とか島根もありですよ。