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国分尼寺跡を見学した後は、経塚古墳へ向かいます。
経塚古墳は「どんぐりの森」という公園の中にあるようなので、公園の横の道を注意深く走らせていると、墳丘が視界に飛び込んできました。
あれに違いない。
適当な場所に雷電號を停め、確認しに行きます。
あった、あったねえ。
立派な説明板がありますよ。
超珍しい、八角墳だ!
大きさは13mということなので、決して大きいわけではありませんが、八角墳というところが凄いのです。
石室が開口していますよ!
覗き込むと入ってすぐの場所にフェンスが見え、お邪魔できるのは羨道の入り口付近までのようです。
開口部をサイドから見ます。
説明板には周溝については書かれていませんが、一瞬、周堤のように見える土の高まりがあります。
でもこれは違いますね。
では、石室内にお邪魔いたしまーす。
と言ってもここまでです。
カメラを突っ込ませていただき、中を撮影。
石室内を撮ったときは、その場で画像の確認をするときにちょっとドキドキするんですよね。
被葬者、写ってないかなって。
外に出ましょう。
八角形を忠実に復元しており、このように角がちゃんとあります。
ところで、八角墳のどこがいったい凄いのでしょうか。
八角墳として有名なのは、天智天皇の墓といわれている京都市の御廟野古墳や天武天皇と持統天皇の合葬墓といわれている奈良県明日香村の野口王墓古墳などがありますが、八角墳はこのように天皇の墓に特別に採用された形状であることが分かります。
ただし、八角墳は絶対に天皇の墓というわけでもなく、関東では東京都多摩市に稲荷塚古墳があり、実際にはこの形状の古墳の持つ意味は良く分かっていません。
※多摩市の稲荷塚古墳
でも数だけ見れば非常に珍しいことは確かであり、全国で20もないはずなので、その他大勢の円墳とは一線を画していることは確実です。
この古墳の被葬者は7世紀の甲斐の最有力者であることは間違いないでしょう。
ところで、八角墳は原則として前方後円墳が築造されなくなった7世紀のいわゆる古墳時代終末期に登場しますが、同じく終末期の上円下方墳との関係が注目されます。
※東京都府中市の上円下方墳・武蔵府中熊野神社古墳
上円下方墳も非常に珍しい格式の高い古墳ですが、もともと八角墳には基壇があるものとないものがあり、基壇がある方が上位です。
その基壇がある八角墳のバリエーションとして、上円下方墳が築造されたと考える研究者がいます。
八角墳の基壇に関しては、畿内の天皇や貴族たちの八角墳は立派な基壇があるため、同じ八角墳でも経塚古墳はランクが下がることは確かですが、何度も言う通り八角形であることが重要なのです。
でも・・・
八角墳の意味は誰にも分からない・・・
四の五の言わず、私が「凄い」と言っているのだからそれを信じなさい!
頭が悪くて済みませんが、次はまたまた律令時代に戻って、国分僧寺跡へ行って見ますよ。
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甲斐にもあったんですね。ワクワクしますよ。
あと野口なんですけど、古代って夫婦が一緒にってあまりなかったように思うんですよね。天武と持統は夫婦だったんですかね?研究者では野口はこの二人っていうんですけど、ちょっとコメント入れておきます。正しいなら異論が出てみすぐに却下されるはずなので。
話がズレてしまいましたけどやっぱり八角って作る人のこだわりと技術力半端ないですよね。八角形書くだけも私大変ですもん。
野口は一応、夫婦ということになっていますね。でも持統は火葬されたのちの埋葬です。不思議な墓です。