⇒前回の記事はこちら
姥塚古墳の石室での感動の余韻に浸りながら、以前から気になっていた城跡へ向かいます。
最近は城跡をメインとして歴史めぐりをすることはなくなりましたが、古墳を見に行った時に、時間があれば城跡も見ています。
そのため、まったく訪れていないわけではなく、密かに探訪個所は微増しているのですよ。
今回は小山城跡へ行って見ますが、なんでこの城が気になっているかというと、クラツーにて山梨県の古代史ツアーをやらせていただく際に、花鳥山遺跡というところをご案内します。
実際には、花鳥山遺跡の見学時には強力な助っ人の方がいらっしゃって、私はほとんど何もしないのですが、その花鳥山遺跡という著名な縄文遺跡がある場所の近くは古戦場跡なのです。
そのときの戦いに絡んで小山城が登場するので、以前から気になっていました。
今度花鳥山遺跡を案内するときに、もし戦国に興味がある方がいればお話しできると思い、経験値を高めておこうと思います。
でも多分、館のような小さな城なんだろうな・・・
ほとんど期待せずに、カーナヴィに脳内を支配されつつ、小山城跡を目指します。
位置的に近くなってきた場所で前方の丘の上を見ると、山城っぽい佇まいの場所がチラッと見えました。
確かにこの先の道路は上り坂になり、途中から軽トラ道になっていきます。
雷電號は軽トラじゃないのですが、結構平気にそういう道へ入っていくので慣れていますよ。
地形的に見ても、もしかして期待できるかもしれない!
そう思い、雷電號を進めていくと、虎口のような場所に到着し、空堀の跡のようなものも見えます。
説明板もありますね。
到着!
雷電號を降りて探索開始です。
ここは東側の虎口ですね。
石碑。
馬頭観音も移設してありますよ。
そして説明板。
文字が消されている部分は、昭和48年に当時の八代町指定史跡になっているのですが、笛吹市になったあと指定から外れたからではないでしょうか。
穴山家というと、武田信玄に仕えて、のちに信長に降り、本能寺の変後の混乱で殺害された梅雪信君が有名ですが、信君に至る系譜は以下のようになります。
義武 = 満春 = 信介 - 信懸 - 信風 - 信友 - 信君
一方、武田家の系譜はこの通りです。
信春 - 信満 - 信重 - 信守 - 信昌 - 信縄 - 信虎 - 晴信(信玄)
穴山満春は武田信春の子ですが、穴山家に養子に入り家督を継ぎました。
満春の次はこれまた武田信重の子である信介が養子として入り跡を継ぎました。
この際に起きた事件が、説明板にある宝徳2年(1450)の件で、事件を巻き起こした穴山伊豆守(実名不詳)は、満春の実子だったとも言われており、自分を無視して養子である信介が跡を継いだことに腹を立てて、信介の実父である武田信重を攻撃して敗死させたといわれています。
つづく永正の頃の信永は、信懸の子です。
伊豆守の居城だった小山城がどういう経緯で信永が居城としたかは分かりませんが、大永3年(1523)に南部下野守が鳥坂峠を越えて進軍してきた際に、花鳥山で戦いがあったわけです。
個人的に面白いと思うのは、その後は南部下野守が小山城を保持していたことです。
南部氏といえば、江戸時代まで大名として残った北奥の南部氏が有名ですが、本貫地は甲斐です。
北奥の南部氏については、以前かなり勉強したことがあって思い入れが深いのですが、その南部氏が小山城を保っていた時期があったんですね。
甲斐の南部氏本家は武田信虎によって滅ぼされたと理解していたのですが、説明板によると天文17年(1548)年に晴信によって廃城の憂き目にあったということで、この時点まで南部氏はここに居城していたようなのです。
では、城を歩いてみようと思いますが、いきなり郭の中に入るということはしませんよ。
まずは周りからです。
城跡を歩くときは、まっすぐ中核まで行かず、周辺をじっくり楽しんでから内部へ進んでいく方が楽しいですよ。
土塁の外側の空堀。
いいねえ。
少し歩き、南側の角に来ました。
土塁の上には東屋のようなものがありますよ。
こちら側(南側)も土塁が切れていますね。
ただし、説明板に書いてあったように、こちらの土塁は後世に削平してしまったようです。
空堀。
では、本来の出入口ではありませんが、ここから郭内に潜入しましょう。
野球場として利用されているようですね。
見た感じだと、ここは100m四方くらいの郭で、周辺に他の郭がないとしたら単郭で、虎口も普通の直線的な「玄関」のような感じですから、やはり、城というよりかは館のように思えます。
ホームベース側まで進み、振り返ります。
土塁が切れている箇所が2か所ありますが、左側が正規の虎口で、右側が私が侵入してきた削平箇所です。
土塁へ登って眺望を確認してみましょう
※↑当日確認するのを忘れていましたが、物見塚といわれている「ごんばち塚」は右側に写っているものでしょうか。
こちら側の東屋の中には、説明板に書かれていた礎石と思われるものがあります。
土塁の上を歩いて東側の虎口まで戻りますよ。
現在残っている土塁はかなり高さがあるのですが、「広報ふえふき」所収「笛吹市探訪」によると、土塁や空堀が大規模に修築されたのは、本能寺の変のあとに入ってきた家康家臣の鳥居元忠と三宅康貞による改修とのことです。
また、郭は現在は真っ平ですが、少し前までは有段構造の形跡が残っており、この面積で、かつ土塁や空堀の規模が小さいとしたら、やはり穴山氏時代は城というよりかは館といった佇まいだったと考えられます。
虎口まで戻ってきました。
あっちが花鳥山遺跡の方向ですね。
つまりは合戦があった場所です。
リニアモーターカーの線路が見えますが、今年の3月21日に花鳥山遺跡をご案内しているときに頻繁に往復していました。
いやー、小さい城でしたが土塁がでかくて楽しかった。
東側虎口の外側から眺める盆地。
では、またまた古代の世界へ戻りますよ。
⇒この続きはこちら
姥塚古墳の石室での感動の余韻に浸りながら、以前から気になっていた城跡へ向かいます。
最近は城跡をメインとして歴史めぐりをすることはなくなりましたが、古墳を見に行った時に、時間があれば城跡も見ています。
そのため、まったく訪れていないわけではなく、密かに探訪個所は微増しているのですよ。
今回は小山城跡へ行って見ますが、なんでこの城が気になっているかというと、クラツーにて山梨県の古代史ツアーをやらせていただく際に、花鳥山遺跡というところをご案内します。
実際には、花鳥山遺跡の見学時には強力な助っ人の方がいらっしゃって、私はほとんど何もしないのですが、その花鳥山遺跡という著名な縄文遺跡がある場所の近くは古戦場跡なのです。
そのときの戦いに絡んで小山城が登場するので、以前から気になっていました。
今度花鳥山遺跡を案内するときに、もし戦国に興味がある方がいればお話しできると思い、経験値を高めておこうと思います。
でも多分、館のような小さな城なんだろうな・・・
ほとんど期待せずに、カーナヴィに脳内を支配されつつ、小山城跡を目指します。
位置的に近くなってきた場所で前方の丘の上を見ると、山城っぽい佇まいの場所がチラッと見えました。
確かにこの先の道路は上り坂になり、途中から軽トラ道になっていきます。
雷電號は軽トラじゃないのですが、結構平気にそういう道へ入っていくので慣れていますよ。
地形的に見ても、もしかして期待できるかもしれない!
そう思い、雷電號を進めていくと、虎口のような場所に到着し、空堀の跡のようなものも見えます。
説明板もありますね。
到着!
雷電號を降りて探索開始です。
ここは東側の虎口ですね。
石碑。
馬頭観音も移設してありますよ。
そして説明板。
文字が消されている部分は、昭和48年に当時の八代町指定史跡になっているのですが、笛吹市になったあと指定から外れたからではないでしょうか。
穴山家というと、武田信玄に仕えて、のちに信長に降り、本能寺の変後の混乱で殺害された梅雪信君が有名ですが、信君に至る系譜は以下のようになります。
義武 = 満春 = 信介 - 信懸 - 信風 - 信友 - 信君
一方、武田家の系譜はこの通りです。
信春 - 信満 - 信重 - 信守 - 信昌 - 信縄 - 信虎 - 晴信(信玄)
穴山満春は武田信春の子ですが、穴山家に養子に入り家督を継ぎました。
満春の次はこれまた武田信重の子である信介が養子として入り跡を継ぎました。
この際に起きた事件が、説明板にある宝徳2年(1450)の件で、事件を巻き起こした穴山伊豆守(実名不詳)は、満春の実子だったとも言われており、自分を無視して養子である信介が跡を継いだことに腹を立てて、信介の実父である武田信重を攻撃して敗死させたといわれています。
つづく永正の頃の信永は、信懸の子です。
伊豆守の居城だった小山城がどういう経緯で信永が居城としたかは分かりませんが、大永3年(1523)に南部下野守が鳥坂峠を越えて進軍してきた際に、花鳥山で戦いがあったわけです。
個人的に面白いと思うのは、その後は南部下野守が小山城を保持していたことです。
南部氏といえば、江戸時代まで大名として残った北奥の南部氏が有名ですが、本貫地は甲斐です。
北奥の南部氏については、以前かなり勉強したことがあって思い入れが深いのですが、その南部氏が小山城を保っていた時期があったんですね。
甲斐の南部氏本家は武田信虎によって滅ぼされたと理解していたのですが、説明板によると天文17年(1548)年に晴信によって廃城の憂き目にあったということで、この時点まで南部氏はここに居城していたようなのです。
では、城を歩いてみようと思いますが、いきなり郭の中に入るということはしませんよ。
まずは周りからです。
城跡を歩くときは、まっすぐ中核まで行かず、周辺をじっくり楽しんでから内部へ進んでいく方が楽しいですよ。
土塁の外側の空堀。
いいねえ。
少し歩き、南側の角に来ました。
土塁の上には東屋のようなものがありますよ。
こちら側(南側)も土塁が切れていますね。
ただし、説明板に書いてあったように、こちらの土塁は後世に削平してしまったようです。
空堀。
では、本来の出入口ではありませんが、ここから郭内に潜入しましょう。
野球場として利用されているようですね。
見た感じだと、ここは100m四方くらいの郭で、周辺に他の郭がないとしたら単郭で、虎口も普通の直線的な「玄関」のような感じですから、やはり、城というよりかは館のように思えます。
ホームベース側まで進み、振り返ります。
土塁が切れている箇所が2か所ありますが、左側が正規の虎口で、右側が私が侵入してきた削平箇所です。
土塁へ登って眺望を確認してみましょう
※↑当日確認するのを忘れていましたが、物見塚といわれている「ごんばち塚」は右側に写っているものでしょうか。
こちら側の東屋の中には、説明板に書かれていた礎石と思われるものがあります。
土塁の上を歩いて東側の虎口まで戻りますよ。
現在残っている土塁はかなり高さがあるのですが、「広報ふえふき」所収「笛吹市探訪」によると、土塁や空堀が大規模に修築されたのは、本能寺の変のあとに入ってきた家康家臣の鳥居元忠と三宅康貞による改修とのことです。
また、郭は現在は真っ平ですが、少し前までは有段構造の形跡が残っており、この面積で、かつ土塁や空堀の規模が小さいとしたら、やはり穴山氏時代は城というよりかは館といった佇まいだったと考えられます。
虎口まで戻ってきました。
あっちが花鳥山遺跡の方向ですね。
つまりは合戦があった場所です。
リニアモーターカーの線路が見えますが、今年の3月21日に花鳥山遺跡をご案内しているときに頻繁に往復していました。
いやー、小さい城でしたが土塁がでかくて楽しかった。
東側虎口の外側から眺める盆地。
では、またまた古代の世界へ戻りますよ。
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小山城も知りませんでした。勉強になります。