


山王塚古墳は全国でも珍しい上円下方墳で、一辺が70mという規模は7世紀のヤマトの王墓の規模を凌駕していますが、まだまだ調査の途中で多くの謎を秘めている古墳です。



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*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
埼玉県川越市大塚新田
現況
墳丘登頂可能
史跡指定
川越市指定史跡
指定日:
出土遺物が見られる場所
2.諸元
築造時期
7世紀後半
墳丘
形状:上円下方墳
墳丘規模:南北70m×東西69m
段築:2段築成
葺石:なし
埴輪:
主体部
不明
出土遺物
周堀
3.探訪レポート
2016年10月10日(土)
この日の探訪箇所
山王塚古墳 → 尾崎神社 → 東山道武蔵路跡(JR的場駅近辺) → 河越館跡 → 上戸日枝神社 → 浅間宮の謎の塚 → 牛塚古墳 → 川越市立博物館 → 川越城跡 → 喜多院多宝塔古墳
昨年(2015年)の1月に初めて川越の本格的な歴史探訪をしたあと、縁があって、川越の近畿日本ツーリストにて川越の歴史講座をやらせていただくことになりました。
そのため、今日は古代史関係を中心に調査に赴きます。
まず最初にやってきたのは、日本最大の上円下方墳である山王塚古墳です。
有名な明日香村の石舞台古墳は上円下方墳だった可能性が高いのですが、墳丘を復元すると下方部の一辺は50mほどになるそうです。
馬子さんのよりこっちの方が大きいよ。
さて、山王塚には駐車場はないので、近くに停めて徒歩で近接します。
住宅街を歩いていると前方に古墳の森らしきものが見えてきました。

お、これですね。

古墳は木々で覆われていますが、その隙間から墳丘が見えます。

山王塚という名前の通り、神社になっているようですね。

いやしかし、でかいですよ。
説明板があるので読んでみましょう。

この説明板を設置した平成6年の時点では、上円下方墳で「あろう」と、断定していませんね。
大きさは、下段のほうが一辺63mで、幅約5mの周溝が現存しているそうです。
東日本最大の上円下方墳で「あろう」と、これまた断言しない慎重さが認められます。
上円下方墳としては、個人的には東京都府中市の武蔵府中熊野神社古墳が見慣れているのですが、あれは下段の一辺が32mですから、平面の面積で約4倍ですね。
確かにでかいです。
ただし、高さは感じられません。

山王社の鳥居が建っているのは、下段(下方部)の平坦面です。
鳥居の前から周溝を見ます。

あまり深くないですが、掘り込みが確認できます。
墳頂に登ってみましょう。
祠がありますね。

山王様です。
お猿さんもいますが、キツネさんも祀られていますよ。
鳥居は赤いし、みんな仲良し。

お賽銭入れ。

榛名大権現。

墳頂から見下ろします。

ところで、そもそも上円下方墳という古墳は、具体的にどんな形をしているのでしょうか。
山王塚を見に来ても、あまりイメージできないかもしれないので、前述した武蔵府中熊野神社古墳の復元図を見てみてください。

※『武蔵府中熊野神社古墳 調査概報』(府中市教育委員会・府中市遺跡調査会/編)より転載
「上円下方」のとおり、上の段が円形で、下の段が方形なのです。
ただし、山王塚の場合は、熊野神社古墳にある一番下の基壇部分はありませんので、それは取っ払ってイメージしてください。
それと、熊野神社古墳は現在は葺石で葺かれた状態で復元されていますが、山王塚では葺石は確認されていません。
ともかく、こういったデザインの古墳が森の中に隠れているわけですね。
では、墳丘から降りますよ。

さて、とりあえず古墳を実見することはできましたが、困りましたぞ。
山王塚についての詳しい資料が手元にないんですよね。
これから資料を探して、具体的にどんな古墳だったか調べて行こうと思います。
古墳を見ただけでは、「墳丘がでかいんですよ!」くらいしか喋れませんからね。
⇒この続きはこちら
2019年4月20日(土)
川越市やまぶき会館には、4年前にも来ました。
あとのきは黒田基樹先生の「長享の乱」について講演を聴きにきたのですが、今日は古墳です。

会場に着くと、講座に来てくださる方を含め、知人の姿がチラホラ。
挨拶させていただいた方々と雑談をしながら始まるのを待ちます。

エントランスでは、川越市立博物館で開催中の企画展の図録が売っていたのでゲット。
展示は今度時間を作って見に行くとします。
※実はこの日はたまたまツアーが中止となって時間が空いたので来れたのですが、結局博物館に行く時間は取れませんでした。
やった、広瀬和雄先生の話が聴けますよ!

午前の部が終わり、お昼は、うどん。

「武蔵野うどん」と同じような極めて太いうどんを漬け汁で食べます。
こういうの大好きなんですよねえ。
美味しかった!
さて、シンポジウムが終わると、会場でたまたま会った知人が山王塚をまだ見たことがないということだったので、「じゃあ、見に行きますか!」と、雷電號の助手席にお乗りいただき古墳へ向かいました。
※シンポジウムでは広瀬先生の話を直に聴くのは初めてだったのですが、著書を読んだ印象とは違って、「最近の若い研究者は想像力が足りない」と発言するなど、全然固くない面白い方だったのでファンになりました。
山王塚、久しぶりだなあ。

さて、さきほど山王塚についてのお話しをたくさん聴けたので、実地で復習ですよ。

夕刻のオレンジ色の陽に照らされる古墳もなかなかロマンティックです。

全体の規模に関しては、従来は下段の一辺が63mと言われていたのですが、最新の調査結果では南北70m×東西69mとなりました。
成長した!
わけないか。
周溝は現在の道路の場所まで少しはみ出しています。

※『第46回企画展 山王塚古墳 上円下方墳の謎に迫る』(川越市立博物館/編)より転載

今まで何度も見て気づかなかったのですが、1段目の外側の縁の部分が現在でも僅かながら高くなっており、土手状盛土がブリッジの部分を除いて全周していたことが判明しています。

山王塚が築造された時期は7世紀(古墳時代終末期)で、この時期にはごく一部の例外を除いて、全国ではもう前方後円墳は築かれません。
また、中央ではすでに仏教が隆盛しており、寺院の建立が盛んになされていたのですが、関東でも7世紀には寺院が造られ始めたものの、山王塚からもっとも近い古代寺院である勝呂廃寺は7世紀の後半といわれています。
既述した通り、これまでもたまに山王塚に来ていたのですが、墳丘にブルーシートが被っていることもあり、発掘をしているんだなあと思っていました。
実際、川越市がここ数年は本気を出して掘ってくださっているのですが、主体部に関しては地表面からの非破壊調査(レーダー探査)の実施にて、横穴式石室は、玄室・前室・羨道・前庭部からなる複室構造であることが分かっています。
ところが、実際に掘ったのは手前の方だけで、もっともコアな部分である前室と玄室はまだ発掘調査をしていません。
神様がいらっしゃるので、そう簡単に調査はできないのです。

でも、調査をする方向で話は進んでいるみたいですし、現在は川越市指定史跡ですが、近いうちに国指定史跡になると思います。
これだけ素晴らしい上円下方墳ですから、いままで国指定になっていなかったのが不思議なくらいです。
ただ、国指定になったらそう簡単に発掘調査ができなくなるため、むしろ今のうちに調べられるだけ調べておいた方がいいでしょう。
ちなみに、上円下方墳は全国を見渡してもこれしかないんですよ。

※『第46回企画展 山王塚古墳 上円下方墳の謎に迫る』(川越市立博物館/編)より転載
では、この珍しい形状が意味するところなのですが、それは誰にもわかりません。
終末期には八角墳という文字通り、八角形の古墳が築かれるのですが、八角墳はもろに天皇だったり、中央のかなり偉い人のお墓であり、上円下方墳は基壇付きの八角墳(基壇のない八角墳もある)よりワンランク下がった古墳だという説があります。
一般的な円墳や方墳と比べたらそれらよりも高級なお墓であることは見た人の多くは感じると思います。
上円下方墳は東日本に多いことから、7世紀の東国政策の一環であったと考えられますが、7世紀と言っても、大化改新の前と後ではかなり中央の政策が違ってくるため、果たして、山王塚古墳が大化の前なのか後なのか気になる所です。
出土した遺物からは、7世紀中頃から後半という改新後が想定されますが、改新後だとしても、あまり後ろだと古代寺院の建立時期と被ってしまうので、その辺も気になります。
ところで、山王塚は南大塚古墳群のなかにあるのですが、すぐ西隣には山王塚西古墳がありました。
現在はご覧の通り倉庫が建っており、墳丘は残っていません。

山王塚西古墳は、直径40mのまあまあ大きめの円墳で、築造時期に関しては6世紀末から7世紀前葉と少し広い幅で考えられています。
そして面白いことに、山王塚西古墳の周溝の東側は、山王塚の周溝の西側と切りあっているのです。
すでに古墳がある場所のすぐ隣に古墳を造るケースはままあり、その場合、後から造った古墳の周溝の形が変になったりすることもあります。
列島各地の古墳を見ていると、古墳の立地や大きさには異常に拘っていると感じることが多く、どうにかして「その場所にその大きさ」の古墳を無理くり造ったとしか思えないケースをたまに見ます。
その辺りに古墳時代人の思想というか性格のようなものが現れているようで興味深いです。
なお、南大塚古墳群は、山王塚が築かれるより前からありましたが、6世紀後半に築造された4号墳が墳丘長36mの前方後円墳であるほかは、30基ほどある古墳はほとんどすべて小さな円墳です。
ですから、それほど大きな勢力であった印象はなく、むしろ入間川の対岸に位置した的場古墳群には墳丘長47mの前方後円墳である牛塚古墳があり、しかも牛塚からは全国で数例しかない金銅製の指輪が出土していることもあり、そちらの方がやや優勢であったように見えます。

さて、山王塚という大きな古墳を造れるほどの力を持った南大塚の王でしたが、律令国家が造られ始めた段階で、武蔵国の国府を誘致することはできず、しかも、入間郡の郡家(評家)も対岸の的場勢力に取られてしまいました。
南大塚勢力は、周辺の諸勢力と比べると政治的には劣位に立たされてしまったように見えます。

ところで、古墳時代終末期になると版築工法で墳丘を造るケースが出てきます。
版築工法は、瓦というかなり重い物体で屋根を葺く寺院の基壇造りに採用されましたが、それを古墳に用いる意義について、シンポジウムでは広瀬先生が面白いことを仰っていました。
広瀬先生によると、正直、墳丘を非常に手間のかかる版築で盛る必要はないそうで、従来の工法で十分頑丈に造られるそうです。
現代の発掘担当者も版築されていると掘るのが大変で手が痛くなるからやめて欲しいということですが、わざわざ見えない場所に手間をかけるというのは、古墳を造った人は、古墳を造りながらもマインドとしては寺院を造っているつもりだったのではないかという推測は面白いなあと思いました。

古代史はいろいろ想像できて本当に楽しいですね。
4.補足
5.参考資料
・現地説明板
・『埼玉の古墳 北足立・入間』 塩野博/著 2004年
・『武蔵府中熊野神社古墳 調査概報』 府中市教育委員会・府中市遺跡調査会/編 2005年
・『第46回企画展 山王塚古墳 上円下方墳の謎に迫る』 川越市立博物館/編 2019年
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