⇒前回の記事はこちら
冬なので探訪開始が遅かったですが、8時半の時点ですでに壬生町にある面白い古墳を4基も見てしまいました。
つづいて、上三川町へ向かいますよ。
上三川町と書いて「かみのかわまち」と読むのがどうしても覚えられません。
覚えたと思っても少し経ってから漢字を見ると、「かみみかわまち」と読んでしまうのです。
「み」が、「上(かみ)」にかかるのか、「三(み)」にかかるのか、日本語って難しいですね。
すぐ北隣が宇都宮市ですが、そちら側に「下三川町」が有ったのかというと無かったようなのです。
ですから「上と下(かみとしも)」を示す意味ではなさそうで、この地名の由来を知っている方がいらっしゃったら教えてください。
はい、近くに到着しました。
北関東自動車道の側道に雷電號を止めて歩いて遺跡へ行きます。
ここです!
何もないですね?
でも説明板はありますよ。
上神主・茂原官衙遺跡(かみこうぬし・もばらかんがいせき)です。
遺跡の名前には字名を付けるのが基本なのですが、この遺跡は上三川町と宇都宮市にまたがっており(大雑把に言うと高速道路が境界線)、上三川町側の地名が上神主で宇都宮市側の地名が茂原(現・茂原町)であるのでそうネーミングされています。
官衙というのは古代の役所のことで、説明板に書かれている通り、河内郡の郡衙(郡家=郡の役所)があった場所です。
遺構配置図を見てみましょう。
郡衙跡以外にも道路跡と示されているものもあり、また古墳もありますね。
道路跡は東山道の跡と考えられています。
古代史マニアが喜ぶものが集まっていますよ。
ワクワクしてきた!
歩いてみましょう。
さっそく次の説明板が出てきました。
この辺りに政庁があったんですね。
向こう側が地形が落ちているのが分かると思いますが、この場所は丘の上になります。
説明板に書かれている通り、郡衙の政庁の場合は、建物3棟を「コ」の字型に配置するのが基本フォーマットです。
役所によって適当に建て並べるのではなく、きちんと決まりがあったのです。
林の中に溝が見えるのですが、遺構なのか何なのか・・・
「南側区画溝」を示す説明板があるので、林の中にある溝は遺構でしょうか。
お、古墳だ!
後で来ますよ。
古墳の前に東山道跡を見てみましょう。
この辺ですねー。
うわー、いいですねえ。
古道の雰囲気がバッチリ出ています。
説明板もありますよ。
ところで、さきほどから気づいていたのですが、遠くの方でなにやら「祭祀」が行われています。
私が先ほどからカメラを構えて写真を撮っているのをその祭祀集団は気にしていたようですが、その中の一人の女性が小走りで私の方へやってきました。
そして、「いま見たことは他言無用ぞ」(意訳)と言うのです。
「知られては不味いことをしているんですか?」とは聞き返しません。
変にトラブルに巻き込まれるのも嫌なので、もちろん見なかったことにしますよ。
さて、そんなことよりこっちです。
東山道は丘から東側の水田地帯へ向かって続いています。
水田地帯に下りるとだだっ広い風景が広がっていました。
筑波山かな?
丘の下のこの低地はもう遺跡ではありませんよ。
では、東山道を戻ります。
ちなみに、さきほどの説明板に書かれていた通り、東山道跡というのはとりあえず「推定」となっています。
つづいて古墳。
こちらか見上げると墳頂にある社殿の裏側が見えますが直登します。
登ってきたのと反対方向を見ると参道が続いていました。
結構大きな古墳ですよ。
降りてみましょうか。
ここにも説明板がありました。
截頭円錐形状!
初めて見た表現!
確かにその字面通りですが、カッコ書きで「頂上を平らにきった円錐形」とか書くのであれば、わざわざそんな難しい言葉を使わなくてもいいのになと思わせるチャーミングな説明です。
それはそれとして、径58mということで大型の円墳ですね。
説明板には書いてありませんが、築造時期は中期前半です。
ゼロ戦正式採用の昭和15年。
周溝跡も明瞭でいいですねえ。
大型円墳にも出会えて嬉しかった!
今度は正倉跡です。
郡衙のなかでの2大施設と言ったら、政治を行う場所である政庁と、地域から集めてきた税などの大事なものを収納しておく正倉(しょうそう)です。
建物跡が50棟も見つかったということで、当時の壮観な様子は想像していただくしかありませんが、VRやARもどんどん広まっていますので、将来はもっと遺跡を楽しめるようになると思います。
雷電號へ戻りましょう。
上神主・茂原官衙遺跡は、思っていた以上に面白かった。
郡衙の範囲がきちんと分かっており、政庁跡も正倉跡もはっきりしているのは貴重ですよ。
しかもここは官衙遺跡にプラスして古代道路跡や古墳も見られますから、古代の世界を体感して学ぶにも最適な場所ですね。
さて続いては、終末期の方墳である多功大塚山古墳へ行ってみますよ。
⇒この続きはこちら
冬なので探訪開始が遅かったですが、8時半の時点ですでに壬生町にある面白い古墳を4基も見てしまいました。
つづいて、上三川町へ向かいますよ。
上三川町と書いて「かみのかわまち」と読むのがどうしても覚えられません。
覚えたと思っても少し経ってから漢字を見ると、「かみみかわまち」と読んでしまうのです。
「み」が、「上(かみ)」にかかるのか、「三(み)」にかかるのか、日本語って難しいですね。
すぐ北隣が宇都宮市ですが、そちら側に「下三川町」が有ったのかというと無かったようなのです。
ですから「上と下(かみとしも)」を示す意味ではなさそうで、この地名の由来を知っている方がいらっしゃったら教えてください。
はい、近くに到着しました。
北関東自動車道の側道に雷電號を止めて歩いて遺跡へ行きます。
ここです!
何もないですね?
でも説明板はありますよ。
上神主・茂原官衙遺跡(かみこうぬし・もばらかんがいせき)です。
遺跡の名前には字名を付けるのが基本なのですが、この遺跡は上三川町と宇都宮市にまたがっており(大雑把に言うと高速道路が境界線)、上三川町側の地名が上神主で宇都宮市側の地名が茂原(現・茂原町)であるのでそうネーミングされています。
官衙というのは古代の役所のことで、説明板に書かれている通り、河内郡の郡衙(郡家=郡の役所)があった場所です。
遺構配置図を見てみましょう。
郡衙跡以外にも道路跡と示されているものもあり、また古墳もありますね。
道路跡は東山道の跡と考えられています。
古代史マニアが喜ぶものが集まっていますよ。
ワクワクしてきた!
歩いてみましょう。
さっそく次の説明板が出てきました。
この辺りに政庁があったんですね。
向こう側が地形が落ちているのが分かると思いますが、この場所は丘の上になります。
説明板に書かれている通り、郡衙の政庁の場合は、建物3棟を「コ」の字型に配置するのが基本フォーマットです。
役所によって適当に建て並べるのではなく、きちんと決まりがあったのです。
林の中に溝が見えるのですが、遺構なのか何なのか・・・
「南側区画溝」を示す説明板があるので、林の中にある溝は遺構でしょうか。
お、古墳だ!
後で来ますよ。
古墳の前に東山道跡を見てみましょう。
この辺ですねー。
うわー、いいですねえ。
古道の雰囲気がバッチリ出ています。
説明板もありますよ。
ところで、さきほどから気づいていたのですが、遠くの方でなにやら「祭祀」が行われています。
私が先ほどからカメラを構えて写真を撮っているのをその祭祀集団は気にしていたようですが、その中の一人の女性が小走りで私の方へやってきました。
そして、「いま見たことは他言無用ぞ」(意訳)と言うのです。
「知られては不味いことをしているんですか?」とは聞き返しません。
変にトラブルに巻き込まれるのも嫌なので、もちろん見なかったことにしますよ。
さて、そんなことよりこっちです。
東山道は丘から東側の水田地帯へ向かって続いています。
水田地帯に下りるとだだっ広い風景が広がっていました。
筑波山かな?
丘の下のこの低地はもう遺跡ではありませんよ。
では、東山道を戻ります。
ちなみに、さきほどの説明板に書かれていた通り、東山道跡というのはとりあえず「推定」となっています。
つづいて古墳。
こちらか見上げると墳頂にある社殿の裏側が見えますが直登します。
登ってきたのと反対方向を見ると参道が続いていました。
結構大きな古墳ですよ。
降りてみましょうか。
ここにも説明板がありました。
截頭円錐形状!
初めて見た表現!
確かにその字面通りですが、カッコ書きで「頂上を平らにきった円錐形」とか書くのであれば、わざわざそんな難しい言葉を使わなくてもいいのになと思わせるチャーミングな説明です。
それはそれとして、径58mということで大型の円墳ですね。
説明板には書いてありませんが、築造時期は中期前半です。
ゼロ戦正式採用の昭和15年。
周溝跡も明瞭でいいですねえ。
大型円墳にも出会えて嬉しかった!
今度は正倉跡です。
郡衙のなかでの2大施設と言ったら、政治を行う場所である政庁と、地域から集めてきた税などの大事なものを収納しておく正倉(しょうそう)です。
建物跡が50棟も見つかったということで、当時の壮観な様子は想像していただくしかありませんが、VRやARもどんどん広まっていますので、将来はもっと遺跡を楽しめるようになると思います。
雷電號へ戻りましょう。
上神主・茂原官衙遺跡は、思っていた以上に面白かった。
郡衙の範囲がきちんと分かっており、政庁跡も正倉跡もはっきりしているのは貴重ですよ。
しかもここは官衙遺跡にプラスして古代道路跡や古墳も見られますから、古代の世界を体感して学ぶにも最適な場所ですね。
さて続いては、終末期の方墳である多功大塚山古墳へ行ってみますよ。
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