RIKAの日常風景

日常のちょっとしたこと、想いなどを、エッセイ風に綴っていく。
今日も、一日お疲れさま。

連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.26,27

2009-01-04 21:30:42 | 連載小説
   

       §


   最近は東京でも、たまにまとまった雪が降るようになった。

 その週の土曜日、二時に松崎と西早稲田の本屋で待ち合わせをした。

 ありがたいことに松崎がテスト勉強に付き合ってくれるのだ。量子力学や熱統計力学や物性論は持ち込み可なので何とかなるにしても、流体力学だけは超辛い先生に当たってしまった上、遅刻欠席が多かったから、実力を付けて臨まなければならないのだ。
 
 店内には心地よいムード音楽がかかっている。テスト前だと言うのに雑誌を二冊も衝動買いしてしまう。バッグにそれを閉まったところでちょうど入り口に松崎の姿が見えたのでセーフだった。

「なんか買ったの?」
 と聞かれて、苦笑いする。

 夏目坂を少し登るとそのファミレスはある。いつも早稲田生で繁盛していて、今日は特に混んでいたけれど、五分程待つと通してもらえた。松崎は私とレストランや喫茶店などに入る時には、いつも合わせて禁煙席にしてくれる。

 分からないところは、まるでパン工場の機械のような軽快さで次々と解決していった。松崎はもしかしたら教師にも向いているかもしれない。

「粘性のある液体の出題はまずないから安心していいよ。ベルヌーイの定理は簡単に言うとエネルギー保存則の一種でね、例えば水が容器から流れ出す時に、他にエネルギーを失うことがないとすれば、位置、圧力、流れる速度が、途中それぞれ形を変えるとしてもエネルギー保存の法則によってその和は常に一定になる、っていうことを表した式なんだ。結局は力学なんだよね。理美ちゃん力学は結構得意だから、それとつなげて覚えると覚えやすいんじゃないかな…」

 松崎だって自分の試験範囲の勉強が気になっているだろうに、私の質問にみんな丁寧に答えてくれて、14時10分に店に入ってから、出たのはなんと夜の10時過ぎだった。

 店を出るとビュッと冷たい風が吹いた。松崎は去年プレゼントした手袋をして来てくれた。駅までの短い間がっちりと手を繋いで身を寄せ合って歩いた。

「今日よかったら泊まって行かない?」
 馬場に近付いてきたので言うと、松崎がいいよ、と言うのでそのまま乗り続け、落合駅で降りる。

 テストのことでむしゃくしゃしていた気持ちが、松崎の柔らかな肌に触れ何度も口づけしていたら、ストレスはいつの間にかふっ飛んで、気持ち良くセックスした後、ぐっすり眠った。  

    


      §

 テストまであと一週間と迫り、色々慌ただしくなってきた。

 そんなある日、二限の授業が終わって奈歩と学食へ移動していた時、珍しく父のケイタイから電話がかかってきた。

「理美、驚かずに聞いてくれ。お母さんが入院することになった。昨日、検査結果が出てそのまま緊急入院になった。悦ちゃんのいる福島千寿病院だ。手術は来週の水曜日に決まった。理美は授業いつまでだ?」

 悦ちゃんというのは叔母にあたる母の末の妹で、看護婦をしている。お父さんは冷静だったが、その声には張りがなく乾ききっている。
 嫌な予感が的中した。

「…わかった。でも私来週から二週間テストなんだ。1月31日金曜のテスト終わり次第帰るから。転移してるの?」

「…とにかく、試験が終わったらすぐに帰って来るように」

 私はただ、「分かった」と言って電話を切った。

  お母さんが乳ガン再発……。

 学食でのお昼にものどが通らず、半分以上残す。

「乳ガンってさ、患部を取ってしまえば20年だって生きられるって言うじゃない?きっと理美のお母さんも大丈夫だって。元気出して」

 奈歩はそんな風に励ましてくれたが、私は、お正月の姉の話や、夏に免許を取りに戻っていた頃の母を思い出していた。そう言えば母は夏の時点で何度か、食事も作れず疲れて寝たりしていた。その時は単に仕事がハードで疲れているのだとばかり思っていたけれども、あの頃既に再発していたんじゃないだろうか…。  私は奈歩を待たせ、姉に電話した。

「お姉ちゃん聞いた?うん、お母さんが…。わかった。私はテスト期間に入っちゃうから帰るの1月末になっちゃうんだ。うん…」

 姉は既に知っていて、もう実家に向かっているところだという。

「理美、乳ガンを患っても、何十年も生きている人っていっぱいいるって聞くわよ。きっと理美のお母さんも大丈夫だって」
 奈歩がまた励ます。

 私は、母が、夏にはもう再発していたのだと碓信し、いても立ってもいられなくなった。自覚症状はきっとあったはずだ。自分のこととなると誰よりも我慢強い母のことを思い、眉間に皺を寄せる。

「夏に帰ってたじゃん、私。その時、お母さん、よく疲れた疲れたって言ってたんだ。あの頃から既に乳ガン再発していたんじゃないかって思うの。ということはかなり進行しているんじゃないかって…」

 その週は、勉強にも身が入らず、早めにアパートに戻って、普段好きな音楽もかけずロフトで過ごした。夕食を食べるのも忘れていた。

 松崎にメールしたら、平日なのに東中野に来てくれた。

「理美ちゃん、元気出して。そんな顔で実家に帰ったらお母さんをがっかりさせてしまうよ」
 松崎は優しかった。肩を叩いて後ろから抱き締めてくれた。それだけで不安は随分とれた。

「オレの親戚のおばちゃんで、乳ガンになって手術した人いるけど、手術から10年ぐらい経つけどピンピン元気だよ。理美ちゃんのお母さんもきっと大丈夫だよ」
 みんなそう言うんだ。乳ガンは大丈夫だって。でも母は再発なんだ。だからもう、手遅れなんじゃないか…。

 あんなにバリバリ元気に働いていた母が…。まだ50前半だと言うのに…あんまりじゃないか。

「前にも言ったけど、お母さんはもう五年前に一度乳ガンの手術をしてて…」

 「うん、分かってるよ理美ちゃん。とくかく理美ちゃんは疲れてるから休んだ方がいいよ。夕ご飯は食べたの?」
 食べていないと言うと、松崎はコンビニにお弁当を買いに行ってくれた。私が好きなコーンスープも買って来てくれた。お湯を沸かし、コーンスープを作ってくれて、私が食べるのをゆっくり見守って、食べ終わると、

「オレもテストだから、今日は帰らないといけないんだ。ごめんね。とにかく理美ちゃん、また何か心配なことあったらいつでも連絡しないと駄目だよ。な」

 そう言って、部屋の戸締まりを碓認して、おやすみのキスをしてくれて帰って行った。

 松崎はどんなことにも一喜一憂しない。あるがままを受け入れる。松崎の冷静で優しい言葉と心遣いで、だいぶ心が落ち着いた気がした。


  母がこんな風になって、今自分にできることはとにかく試験に全力投球することだと思っていた。母が病気と闘っていることを思えばこんぐらいの努力ができないでどうする?

 毎日寒かったけれど、早起きして東中野のファミレスに四日間通い、朝から晩まで猛勉強した。  

 試験初日、1月21日の朝は大雪だった。電車が停まっているんじゃないかと心配だったが、早めに用意して駅に向かうと電車は遅れてはいたものの動いていて、間に合う。

 トップバッターはLLの英語だったけれど、この単位はそれほど重要ではない。それから二週間のバトルが始まった。

 猛勉強した甲斐あって、心配していた流体力学も予想以上の出来で、なんとか必要単位は確保できそうだ。

 夕方、お父さんのケイタイに電話した。今日はお母さんの手術の日だ。手術は無事終わったということだった。七時間にもおよぶ大手術だったそうだ。両胸を切断し、卵巣を取り除き、肺、首のリンパ腺の腫瘍をできうる限り切除したのだそうだ。痛々しい母の体を想像し、家に帰っても何もできずにロフトで目を瞑った。



連載小説「冬枯れのヴォカリーズ」 vol.25

2009-01-04 21:24:39 | 連載小説


     §

 冬休みはホントに短い。1月6日、再び大学が始まった。
 まず応用物理学実験のレポートを提出する。年末に片付けておいて正解だった。

 この日、なんと緑が島根から戻り元気な姿を見せてくれた。三人で喜び合い、学食のドリンクで乾杯した。緑は拒食症もすっかり良くなって、かえって少し丸くなったぐらいで健康そう。

「しばらくの間、目白のアパートにお母さんが滞在してくれることになったの。ほら、うちのお母さん早期退職して家でただいるから」

「それは安心だね」
 私は心からそう言った。

 大学は、テストを二週間後に控え、学生があちこちでテストの話をし、ノートをコピーしたり、プリントを渡し合ったりしていた。生協に4台あるコピー機は皆長蛇の列で、私も奈歩とコピーし合うものがあったけれど、一旦大学を出てどこかコンビニでしよう、と言うことになり、学バスを使わずに目白通り沿いを歩き、コンビニに寄った。その後目白駅前の喫茶店でお茶をした。

 二人共カフェラテを注文し、奈歩が席を取りに二階へ上がる。
 席について、一息ついたところで私が口を開いた。

「奈歩、私の危ない恋は終わったわ。私、ときめいていた。不安だった。こんなにも人を震える程好きになったのは、きっと後にも先にもこれが初めて。すごく、哀しい程嬉しい気持ち、そして純粋な気持ちを知ることができたように思う。だけどね、奈歩が言ってくれたように、松崎に言わなくて正解だったわ。って言うのは、彼に付き合う事は出来ないって言われた直後に松崎の実家にお邪魔して、初めて泊めてもらって、松崎とのこれまでのことを思い出して…。もっと大切にしなきゃ、彼だけを見ててあげなくちゃって強く感じたの。奈歩には感謝してる」

 一気に話して、カフェラテをぐいっと飲んだ。

「そうなるって分かってたよ。理美はいずれ松崎に戻るって。だって私、一年ん時から二人を見てるわけじゃん。二人には、見えないけど、その赤い糸っていうの?がちゃんとあって、しっかり結ばれているもの。私にはその糸がちゃんと見えるわよ」

 私は、奈歩とずっと友達で良かったと心の底からそう思った。
「奈歩、ホントありがとね」

 私は、自分の心が浄化されていくのを感じた。店内はとても明るく、隣にいた赤ちゃんの笑顔がめちゃくちゃ可愛かった。

「ところで奈歩は、井上くんとのクリスマスデートはどうだった?カウントダウン・ライヴも楽しかったよね」
 すると奈歩は嬉しそうに答えた。
「クリスマス・イヴを一緒に過ごしたの。彼がデートの内容を考えてくれて…。うまくやっていけそうな気がしたわ。カナダでの色々な珍しい話をしてくれた。例えば世界的な団体が経営しているファームに1か月滞在して、にわとりや馬のお世話をした話とか、マイナス40度の中で、まゆげを凍らせながら空一面のオーロラを見た話とかね。向こうの人は近所付き合いも盛んで、バーベキューとかホームパーティとかもしょっちゅうやってたんですって。もともと移民の多い国ってこともあって、外国人に対してとても理解があるのだそうよ」

 奈歩たちのこれからを応援したい気持ちでいっぱいだった。松崎と私もずっと続いていくとしたら、この四人はずっと離れないんだなと思う。大学生になる時に掲げた夢の一つに「生涯の友人を作る」っていうのもあったことを思い出していた。

 その日の夜アパートで爪のケアをしていると、メールが来た。なんと高村くんからだった。

「冬休み香港に行って来たんですが、夏木さんにちょっとしたお土産があるんですが、受け取ってもらえませんか?」
 もう会わないって言ったのに…。すごく迷った。しばらく考えた。

 無視できるほど、私は心が強くなかった。
「ありがとう。じゃあ今からあそこのコンビニに行くね。十分後くらいでいいかな?」
 私はマシな普段着に着替え、顔と髪を整え、赤いPコートを着てプーマのスポーツシューズを履いて家を出た。

 コンビニに着くと、高村くんは既に着いていて雑誌コーナーにいた。すぐ私に気付き、雑誌を戻し近付いて来た。

「お久しぶりです」
 やはり綺麗な笑顔で、そう言った。微かに、あの懐かしいエキゾチックな香水の匂いがした。その匂いをかいだら、いろんな思い出が甦って涙が出そうになった。でも、コンビニの外で5分ぐらい立ち話してお土産をもらったら、後ろ髪を引かれる思いですぐに帰ってきた。

 向かいの家の犬に吠えられた。

 アパートに入り、大事に抱えてきた包みを丁寧に開ける。

 それはジャスミンティーだった。