さすがに最近は専門家の方も、あまり声を大にして仰らなくなりましたかね?
昔はテレビや雑誌のコラムなどで、言語学者さん(国語のセンセとか)が、よく
「今の日本は言葉が乱れとる!
美しい日本語が失われつつあり、大変嘆かわしく、残念であります」
なーんてね、もっともらしい顔して仰ってたものですよねぇ。
では、本当に日本語は、嘆くほど乱れているのか。
ちょっと真面目に考えてみましょう。
まず、正しい言い方をしない。
これ、どうでしょ。
例えば、『サングラス』を、『グラサン』と呼ぶ。
「ちゃんとサングラスと呼びなさい」と言った所で、言葉を使う側は四文字三音節の方が心地よく響き、好んで使われるのは当たり前です。
そもそも言葉を崩すのは、愛情表現の意味もありますよね。
英語圏なんかで、仲の良い相手の名前は崩して呼ぶ習慣があります。
エリザベスがエリー、トーマスがトム、と言う感じで、気安く呼べる『愛称』として崩します。
「Hello! My name is Gilbert. (やぁ、僕の名前はギルバート。)
Call me,Gil.」 (『ギル』でいいよ。)
と言う感じに、馴染んでもらうために進んで崩してもらおうとしますよね。
先程の例の『グラサン』も、崩して呼ぶのはそれだけ馴染んでいるからなのでしょう。つまり、これは必然だと思われます。
次に、今まで無かった言葉を使う。
所謂、新語・造語の類ですね。これも、何の意味も無く生まれる物ではなく、必要・需要に応じて生まれる物なんだと思います。
ちょっと良い例が浮かびませんが、「そんな言葉は日本語に無い」とか怒ってみえた学者さんがみえたんですよ。
しかし、また英語の例ですが、男性のミスター(Mr.)に対する女性のミス(Miss)・ミセス(Mrs.)の代わりに、最近はミズ(Ms.)が使われていますよね。未婚・既婚を予想して使わなければならず、また相手によっては「失礼ね!!」と怒ってしまいます。その不便さからMs.が生まれたわけで、そこへ差別云々の価値観も加わって、1973年以降は国連でも正式に使われています。
また、出世魚なんかもそうですよね。
例えばブリ。これは、地方によって国内でもバラバラなようですが、だいたいツバス⇒ハマチ⇒メジロ⇒ブリの様な感じです。
しかし、英語ではどれも同じですよね。魚と縁の深い日本だから必要に応じて呼び名が増えるだけで、これも需要に応じた新語に含まれると思います。また、日本で馴染みのある海草なんかでも、それに対応する英語が無かったりもしますしね。
そして、伝統的な言い方じゃない。
これが、今日の本題になります。
色なんか、よくありますよね。
「茶色い服ですね」「これはカーキ色って言うんです」
「あの緑っぽい建物が……」「あれはうぐいす色と呼んで下さい」
「じゃあ、その横のうぐいす色の看板に……」「それは萌黄色です、間違えないで下さい!」
「その下に停まっている黄色い車が私の……」「山吹色でしょう、分からないんですか?」
いえ、確かに昔の日本は様々な色を感じる、味わい深い文化を持っていたと思いますが、現代、悲しいかなその必要は薄れてしまっています。
言葉は生き物であり、必要・不要に応じて、どんどん発展も衰退も致しますから、現代では『緑』『黄色』『青』、それで十分事足りていて、不便が無いのです。惜しくもあり、寂しくもあるでしょうが、現代の日常日本語にそこまで求めるのは筋違いに思えてなりません。
良い物は良い物として長く語り継がれるとしまして、安易に御自分の知識を他者に強要するのは、如何な物かと個人的には思います。
教養を強要……?
いえ、なんでもありません。(・・;)
そもそも、そう仰る学者さんやセンセにしましても、普段使われる日本語は日本古来の物ではありません。
漢字にしても『國』でなく『国』を使われるでしょうし、蝶々は『ちょうちょう』と書かれることでしょう。
千年以上の時を経て、日本語は変わってきています。御自分もその変遷の波に流されて今があるわけですから、その変遷の極短い一定時期の常識を現代に押し付けられても、私はまるで説得力を感じません。
最近、どこかで
「公家は『あはれ』と言ひ、武家は『あっぱれ』と言ふ」
なんて言葉を目にしましたが、学者さんも当時の方に
「お前の言葉は間違っとる! 乱れとる!」
だなんて、仰れない事と思います。
よく、「『ら』抜き言葉」なんて問題になりますが、これも日本語が変遷して行く一過程でしかないのかもしれませんね。
ただ、間違った使い方(誤用)をすると言うのはどうなのでしょう?
最近良く問題になりますのが、『汚名挽回』『須(すべか)らく』『役不足』ですね。
『汚名挽回』については、これは明らかに誤りに思えます。『汚名返上』と言う正しい言葉もありますし、漢字自体が意味を持ちますので矛盾してしまいます。
『須らく』については、本来の「是非とも~~する事が望ましい・するべきである」と言う意味から、『全て』と言う言葉の語感に引っ張られてしまったイメージですね。
「火災が発生したら、須らく迅速に避難しなければならない」なんて文から、「全員一人残らず(=全て)急いで行けと言う意味だな」と誤解が多いのだと思います。私も長い間、この罠にはまっておりました^^;
これも、『もしかしたら』このまま定着して行って、本来の意味から離れて『全て』を指し、辞書にもそう書かれる時代が来るのかもしれません。
でも、今はまだダメでしょうね。答案用紙に書いたら間違いなくバッテンを頂きます。
『役不足』については、これも逆の意味で定着しつつありますね。一応これもバッテン対象でしょうが、普段の会話では何故か所謂『役者不足』の意味で使われるケースが多いです。これは厳密には正しくないのでしょうが、定義が揺らぎかけてる時期なんじゃないでしょうか?
ちなみに、今ワードが出ましたが、よく
「それを言うなら、『役不足』でなく、『役者不足』と言うのが正しいんだ!!」
なんて、いかにも日本語にはこっちの正しい言葉があるんだーなんて、偉そうに指摘される方も散見されますけれども、実はこの『役者不足』と言う言葉は、俳優の田中邦衛さんがどこかのインタビューで使われた、彼の造語でしかなかったと記憶しています。
どうですかね、記憶は正しかったですかね?
なので、余りドヤ顔でさっきの様に指摘されると、足元を掬(すく)われるかもしれませんよ?^^;
ちなみに、ですが(・・)
今、最後に書いた『足元を掬われる』、これ実は誤りです。
正解は『足を掬われる』。しかし、検索をかけると『足元』の方が多くヒットするようです。
これがずっと誤りとして正されて行くか、或いは辞書にもそう書かれる時代へと更なる変遷を辿るのか。
答えが出るまでには、尚、時を経なければなりません(^-^;)
←例のアレです!! お気が向かれましたら。
昔はテレビや雑誌のコラムなどで、言語学者さん(国語のセンセとか)が、よく
「今の日本は言葉が乱れとる!
美しい日本語が失われつつあり、大変嘆かわしく、残念であります」
なーんてね、もっともらしい顔して仰ってたものですよねぇ。
では、本当に日本語は、嘆くほど乱れているのか。
ちょっと真面目に考えてみましょう。
まず、正しい言い方をしない。
これ、どうでしょ。
例えば、『サングラス』を、『グラサン』と呼ぶ。
「ちゃんとサングラスと呼びなさい」と言った所で、言葉を使う側は四文字三音節の方が心地よく響き、好んで使われるのは当たり前です。
そもそも言葉を崩すのは、愛情表現の意味もありますよね。
英語圏なんかで、仲の良い相手の名前は崩して呼ぶ習慣があります。
エリザベスがエリー、トーマスがトム、と言う感じで、気安く呼べる『愛称』として崩します。
「Hello! My name is Gilbert. (やぁ、僕の名前はギルバート。)
Call me,Gil.」 (『ギル』でいいよ。)
と言う感じに、馴染んでもらうために進んで崩してもらおうとしますよね。
先程の例の『グラサン』も、崩して呼ぶのはそれだけ馴染んでいるからなのでしょう。つまり、これは必然だと思われます。
次に、今まで無かった言葉を使う。
所謂、新語・造語の類ですね。これも、何の意味も無く生まれる物ではなく、必要・需要に応じて生まれる物なんだと思います。
ちょっと良い例が浮かびませんが、「そんな言葉は日本語に無い」とか怒ってみえた学者さんがみえたんですよ。
しかし、また英語の例ですが、男性のミスター(Mr.)に対する女性のミス(Miss)・ミセス(Mrs.)の代わりに、最近はミズ(Ms.)が使われていますよね。未婚・既婚を予想して使わなければならず、また相手によっては「失礼ね!!」と怒ってしまいます。その不便さからMs.が生まれたわけで、そこへ差別云々の価値観も加わって、1973年以降は国連でも正式に使われています。
また、出世魚なんかもそうですよね。
例えばブリ。これは、地方によって国内でもバラバラなようですが、だいたいツバス⇒ハマチ⇒メジロ⇒ブリの様な感じです。
しかし、英語ではどれも同じですよね。魚と縁の深い日本だから必要に応じて呼び名が増えるだけで、これも需要に応じた新語に含まれると思います。また、日本で馴染みのある海草なんかでも、それに対応する英語が無かったりもしますしね。
そして、伝統的な言い方じゃない。
これが、今日の本題になります。
色なんか、よくありますよね。
「茶色い服ですね」「これはカーキ色って言うんです」
「あの緑っぽい建物が……」「あれはうぐいす色と呼んで下さい」
「じゃあ、その横のうぐいす色の看板に……」「それは萌黄色です、間違えないで下さい!」
「その下に停まっている黄色い車が私の……」「山吹色でしょう、分からないんですか?」
いえ、確かに昔の日本は様々な色を感じる、味わい深い文化を持っていたと思いますが、現代、悲しいかなその必要は薄れてしまっています。
言葉は生き物であり、必要・不要に応じて、どんどん発展も衰退も致しますから、現代では『緑』『黄色』『青』、それで十分事足りていて、不便が無いのです。惜しくもあり、寂しくもあるでしょうが、現代の日常日本語にそこまで求めるのは筋違いに思えてなりません。
良い物は良い物として長く語り継がれるとしまして、安易に御自分の知識を他者に強要するのは、如何な物かと個人的には思います。
教養を強要……?
いえ、なんでもありません。(・・;)
そもそも、そう仰る学者さんやセンセにしましても、普段使われる日本語は日本古来の物ではありません。
漢字にしても『國』でなく『国』を使われるでしょうし、蝶々は『ちょうちょう』と書かれることでしょう。
千年以上の時を経て、日本語は変わってきています。御自分もその変遷の波に流されて今があるわけですから、その変遷の極短い一定時期の常識を現代に押し付けられても、私はまるで説得力を感じません。
最近、どこかで
「公家は『あはれ』と言ひ、武家は『あっぱれ』と言ふ」
なんて言葉を目にしましたが、学者さんも当時の方に
「お前の言葉は間違っとる! 乱れとる!」
だなんて、仰れない事と思います。
よく、「『ら』抜き言葉」なんて問題になりますが、これも日本語が変遷して行く一過程でしかないのかもしれませんね。
ただ、間違った使い方(誤用)をすると言うのはどうなのでしょう?
最近良く問題になりますのが、『汚名挽回』『須(すべか)らく』『役不足』ですね。
『汚名挽回』については、これは明らかに誤りに思えます。『汚名返上』と言う正しい言葉もありますし、漢字自体が意味を持ちますので矛盾してしまいます。
『須らく』については、本来の「是非とも~~する事が望ましい・するべきである」と言う意味から、『全て』と言う言葉の語感に引っ張られてしまったイメージですね。
「火災が発生したら、須らく迅速に避難しなければならない」なんて文から、「全員一人残らず(=全て)急いで行けと言う意味だな」と誤解が多いのだと思います。私も長い間、この罠にはまっておりました^^;
これも、『もしかしたら』このまま定着して行って、本来の意味から離れて『全て』を指し、辞書にもそう書かれる時代が来るのかもしれません。
でも、今はまだダメでしょうね。答案用紙に書いたら間違いなくバッテンを頂きます。
『役不足』については、これも逆の意味で定着しつつありますね。一応これもバッテン対象でしょうが、普段の会話では何故か所謂『役者不足』の意味で使われるケースが多いです。これは厳密には正しくないのでしょうが、定義が揺らぎかけてる時期なんじゃないでしょうか?
ちなみに、今ワードが出ましたが、よく
「それを言うなら、『役不足』でなく、『役者不足』と言うのが正しいんだ!!」
なんて、いかにも日本語にはこっちの正しい言葉があるんだーなんて、偉そうに指摘される方も散見されますけれども、実はこの『役者不足』と言う言葉は、俳優の田中邦衛さんがどこかのインタビューで使われた、彼の造語でしかなかったと記憶しています。
どうですかね、記憶は正しかったですかね?
なので、余りドヤ顔でさっきの様に指摘されると、足元を掬(すく)われるかもしれませんよ?^^;
ちなみに、ですが(・・)
今、最後に書いた『足元を掬われる』、これ実は誤りです。
正解は『足を掬われる』。しかし、検索をかけると『足元』の方が多くヒットするようです。
これがずっと誤りとして正されて行くか、或いは辞書にもそう書かれる時代へと更なる変遷を辿るのか。
答えが出るまでには、尚、時を経なければなりません(^-^;)
←例のアレです!! お気が向かれましたら。
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