下記の記事は日経ウーマンオンライン様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。
「あなた生きているだけで幸せ」という親の言葉、第三者に認められたことが生きる希望に。親が人生を楽しむことも子どもの救いになる * 子育て・教育
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不登校の子の居場所についてリポートする本連載。今回は中学1年生の時から1年半の不登校を経験し、現在25歳の浅見直輝さんに、居場所を求めていた当時の思いや、不登校に悩む親子に向けたこれからの活動について聞きました。高校進学後、偏差値43から猛勉強を経て早稲田大学へ進学した浅見さんは、TEDにスピーカーとして登壇したり、数千名の不登校親子に向けた講演を行うなど、積極的な社会活動を行っています。親からは見えにくい、不登校生の心の中はどのようだったのでしょうか。上下2本に分けてお送りします。
学校が学ぶ場所ではなく傷つく場所になった
子どもが学校に行きたくないという様子を見せたら、大人はまずそこに必ず理由があるだろうと考えます。その理由を子どもに確かめて、親が介入するべき原因があるならそれを解決して無事に学校に通ってほしい。そう思うのは親として当たり前の感情でしょう。
ところが、学校に行けない理由を明確に話してくれる子どもはあまりいません。取材時、不登校時代の話をしっかりと語ってくれた浅見さんでも、当時はそうだったのだそうです。親に理由を言えない心理とはどういうものなのでしょうか。
「それは僕にとって学校が学ぶ場所ではなくて、傷つく場所になったことがとても大きく影響していたと思います。子どもが学校に行かなくなると、大人は『どうして学校に行かないの?』と思い、子どもに問います。でも、当時の12歳だった子どもの僕にとっては『傷つく場所に行く理由がどこにあるの?』といことだったのです」
浅見さんにとって、なぜ学校が傷つく場所になったのか。発端は、中学一年前期の理科の授業にさかのぼります。
浅見さんが通っていた首都圏近郊の公立中学はやんちゃな生徒も多く入学する学校。浅見さんは、入学してからしばらくはそんな彼らの標的にならないよう、どこかビクビクしながら学校に通っていたそうです。そんなある日、理科の授業中に事件が起こりました。クラスのやんちゃ者たちが、ひとつ間違えば大きな事故につながるいたずらをしでかし、理科の先生を怒らせたのです。
そのことはすぐ、厳しい担任教師の耳に入り、帰りの会で「ちょっとでも迷惑を掛けたと思うやつは手を挙げろ!」とカンカンに。渋々手を挙げたやんちゃ者たちは、帰りの会が終わったら生徒指導室に来るよう命じられ、一件落着……となるはずだったのですが、そこからまさかの展開が浅見さんを襲ったのです。
「おまえは一番の卑怯者だ!」という担任の言葉に耳を疑った
教室で帰りの支度をしていた浅見さんにやんちゃ者たちは「おまえもやっていただろ」と言いがかりをつけてきます。もちろん、浅見さんは一切関わっていません。浅見さんは、彼らの標的となったのです。
「心の中では『何も関係ないのに』と叫んでいたものの、学校にはヒエラルキー的なカーストがあります。もしここで逆らえば、やんちゃ軍団に目を付けられて、この先の中学校生活の中でもっと嫌な目に遭うかもしれない、そんな予測も頭に浮かびました。結局、僕は何も言い返せず彼らと一緒に生徒指導室に行ったわけですが、そこで先生から耳を疑うような言葉を浴びました。『おまえだけはみんなの前で手を挙げずに、後からコソコソと来やがって。おまえが一番の卑怯者だ!』」
浅見さんは、生徒指導室で担任からの罵声を集中的に浴びせられ、やんちゃ生徒にも先生にも標的にされて、苦しい気持ちでいっぱいでした。
「今思うと、担任の先生は日々の業務量が多過ぎて生徒と向き合うゆとりがなかったのかもしれないし、教師として生徒を厳しく律するべきだと考えた結果だったのかもしれません。僕にとっては理不尽な結果でしたが、弁明したところで担任に信じてもらうことは難しそうだったし、『僕じゃありません』と言えば、後からやんちゃ者たちに『チクっただろ!』と言われるのは目に見えていました。
心のどこかで担任に『分かってほしい』と思う気持ちはあったと思いますが、悔しさもむなしさも心の中に封印するしかなく、1年半にわたる僕の不登校はこの事件をきっかけに始まりました」
親に理由を言えないのは、拒絶されるのが怖いから
学校を休んで一人ぼっちで家にいる浅見さんの心には、「クラスの人になんて言われているのだろう、みんなに悪口を言われているかもしれない」と、ネガティブな考えが次々と浮かんできます。学校や教室がさらに怖くなっていき、「学校に僕の居場所はないんだ」と思うようになっていました。孤独で、自分には一人も味方がいない、世界中が敵だと思っていたそうです。
「あまりにも僕が変わってしまったので、親は僕が傷付いていることに気づいていたと思います。今振り返ってみると、僕は一人で抱え込んでいた苦しさを親や周囲の人に気付いてほしかったのかもしれません。とはいえ、親に心配をかけたくないのもあり、そこに至った理由はどうしても周囲に伝えることができませんでした。
親からすると、『どうして学校に行けない理由を話してくれないのだろう』と思うかもしれません。子どもにとって親は一番身近な大人です。親に『自分を認めて欲しい』という気持ちは、誰しもが持っています。親に学校であった事を話して、もし反発されたり批判されたりしたら……。ただでさえ深く傷つき、親が最後の頼みの綱なのに、その親にも拒絶や否定をされることは絶望的に悲しいことです。だから、そうなることを恐れて、親に話すことができなかったのです」
仲良し家族が、僕の不登校によって暗闇の中へ
学校に行かなくなった浅見さんは、すべてを拒絶するようになり、自暴自棄になっていきました。「子どもの僕にとって一番苦しいのは、親を傷つけてしまうことでした。親が悲しむ原因のすべては、僕が学校に行かないことにある。そう思うと、罪悪感がどんどん膨らんでいきました」
浅見さんの家は通学路沿いにあり、登下校時には外から同級生の声が聞こえてきます。そうなると学校を連想せざるを得なくなり、つらい気持ちが湧き上がってきます。学校に行かないとダメだと思うものの、浅見さんにとって学校は傷つく場所になっているので、行くことができません。すると、親が悲しむ。親の悲しい表情を見るのはつらいので、自分が学校に行くしかない。でも、怖くてやっぱり行けない。そして親も落ち込み、自分もさらに落ち込む。その悪循環にはまっていた、と浅見さんは当時を振り返ります。
「以前は親子の会話がたくさんあったし、休日の度に皆で出掛けるなど、とても仲がいい家族でした。けれど僕の不登校が始まってからは、家族も暗闇の中に陥り、いつからか両親がけんかをしている光景を目にするようになりました。両親のけんかの声が聞こえてくるたび、僕は自分を責めました。当時の僕は、『自分が生きているだけで、周りの人がどんどん苦しんでいく、僕がこの世の中からいなくなったほうが家族のためになる』と、心の底から思っていました。
「もう一度生きてみよう」と思うことができた、母の言葉
ある日のこと、浅見さんは生きることへのつらさに耐え切れず内服薬を摂取し過ぎて、ひと晩中嘔吐が止まらなくなります。5分おきに台所の流しに駆け込み、苦しんで横になっている浅見さんの背中をずっとさすってくれたのが、お母さんでした。流しに行くときも、そっとついて来てくれました。
「このときの感覚は、今でもはっきりと覚えています。その時僕は初めて、『お母さんは何があっても僕の味方をしてくれる』と心から感じました。。
また、不登校の間、母に『直輝が生きてくれているだけで、お父さんとお母さんは幸せだよ』と言われたこともあります。心の中では、その言葉を聞いてとてもうれしく感じました。ところが、僕は『思ってもねえことを言うな、くそ!』と返してしまったんです」
これまで2000名以上の親子に出会ってきた浅見さんは、不登校児の中にはうれしいと感じているのに暴言を吐いてしまう「あまのじゃくな子」が多いように感じているそうです。「実際、僕自身もそうでした。しかし、『もう一度生きてみよう、生きていてもいいんだ』とそう思えるようになったのは母のこの一言がきっかけでした」
「直輝が生きているだけで幸せだよ」という言葉は、25歳となった今でも浅見さんの勇気の源となっているそうです。
親も子も冷静な判断ができないとき、第三者の存在はとても重要
不登校を続けていた浅見さんが、自分以外の人に心を開くきっかけになったのは、教育支援センターの女性相談員Sさんとの出会いです。
「それまでの間に出会った大人は、僕が学校に行っていないことを知ると『なんで学校に行かないの?』とか、『どうしたら通えるようになる?』などと言って、原因を突き止めようとする人が多数でした。
その場しのぎで僕が『学校に行く』と言えば喜ぶし、『やっぱり行けない』と言うと怒られたり、諭されるのです。ところが、Sさんは違いました。相談室での会話中、僕が『学校、行ってなくて』と言うと、Sさんはこう言いました。
『へえ、そうなんだ。でさ、きのうの巨人対阪神戦、見た?』。 僕が『……あ、はい、見ました』と答えると、Sさんは『そっか、直輝くんは野球が好きなんだね! すごい試合だったよね! 直輝くんはどっちを応援してたの?』こう続けました」
たった数十秒の会話でしたが、浅見さんは大きな衝撃を受けたといいます。Sさんは浅見さんが学校に行ってようが、行っていまいが、態度がなんら変わらない人でした。学校に通っていても通っていなくても、浅見さん自身と会話をして、どんなことを好きなのか、何に興味があるのかを見てくれました。浅見さんは、自分の存在そのものを認めてくれたような気がして、心の底からうれしくなったと思い返します。
「子どもはみんな自分のことを認めてほしいと思っているので、一人でもそういう人に出会えると心が大きく変わっていきます。生きる希望が湧いてくるんです」
そしてSさんと出会った教育支援センターは、浅見さんだけでなく、家族にとっても大きな支えになっていきました。「子どもが学校に行けず苦しんでいたら、親だって苦しい。苦しいのは、子どもだけではないはずです。また、当事者であればあるほど冷静な判断ができなくなるので、家族を支えるためにも親以外の第三者の存在はとても重要だと思います」と浅見さんは外部支援の存在意義について話します。
「ちなみに後から聞いたのですが、両親は僕に何度も優しい声掛けをしてくれていたそうです。でも、僕は気付いてすらいなかった。子どもはなかなか親に心を開けないですし、親に認めてもらいたいと思いながら、なぜか親の愛を拒否してしまうこともあります。そういう意味でも第三者による家族の支えはとても大事だと思います」
楽しそうな母の姿を見て、心が楽になった
学校に通わず心を閉ざす子どもと、どうすれば会話できるようになるだろう? どうすれば子どもが外に出られるようになるだろう? と悩む親に向けて、浅見さんは「子どもの好きなことを起点にするのが特に重要な鍵だ」と話します。
「ゲームでもなんでも構いません。その子が興味を持っていること、好きなことに親も興味を持ち、それに向き合ってくれたら、子どもはすごくうれしい。そこから途絶えていた親子の会話が再スタートした例をいくつも知っています。
好きなことをエサにして何か別のことをさせるのではなくて、親御さん自身が一緒になって子どもが好きなことに興味を持ってくれることがポイントです。僕の場合も、一緒になって興味を持ってくれる姿勢が本当にうれしかったです。親が、自分の存在を肯定してくれたような感覚になるんです。」
親子で楽しむだけでなく、親自身が人生を楽しむことも大切にし、親が笑顔でいてほしいと浅見さんは話します。それは浅見さんが、お母さんから学んだことなのだそう。「母は、あるときからやけに外出するようになりました。それは『直輝を笑顔にするには、まずは自分が笑顔にならないといけない』と思ったことがきっかけで、好きなアーティストのライブなどに行っていたようです。母がそんなふうに考えて、行動に移してからは、確かに家の中の空気が大きく変わっていきました。表情が柔らかくなっていく母を見て、僕もまた心が楽になっていったんです」
子どもが苦しい思いをしているのは親にとってつらいことですが、逆もそうです。親が苦しい表情をしているのは、子どもにとって一番苦しいこと。苦しみをお互いに感じ合い、負のスパイラルにとらわれてしまいます。しかし、親が元気になることが、子どもが元気になる鍵になるのでしょう。
「母が何かを楽しんで、母自身の心が元気になることが僕にとっては一番励みになり、元気になる鍵でした。親が元気じゃないのに子どもを元気にするのは難しいことです。今、悩んでいるお母さんやお父さんはぜひ心から何かを楽しんでください。これは親自身の想像をはるかに超えるほど、子どもにとって、とても大きいことです。
僕の母の場合も、わが子が不登校なのに、笑顔になるなんて難しいことだったと思います。しかし、その、難しいながらも元気になろうとしている母の姿からも、僕は勇気をもらいました。親の笑顔は子どもにとって最大の幸せだと思います」
取材・文/小山まゆみ
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