定年夫婦の暮らし方(店長日記)

盛岡に住む定年夫婦(昭和20年生)の暮らしを分ち合います。

2006年ピースボート世界一周の旅14/トリポリ(リビア)

2008年05月04日 | 思い出の旅行
5月10日 トリポリ市内  ツアー「世界のリビアのいま」

 前日に船内にある肌を露出した女性及びイスラエルの国旗、ダビデの星が映っている写真、雑誌と豚肉が入った食品(インスタントラーメンも該当)、酒を集め保管する措置がとられた。トリポリ港にいる間は船から持ち出すだけではなく船の中でも見たり、食べてはいけないと言うことである。
 カタニアから1日半の航海でトリポリ港に入港する、船上から見るトリポリは想像以上の都会である。
 ツアーバスは出発時間の8時30分になっても出発しない。リーダーズハウス(カダフィー大佐の住まい)訪問は計画があっても無いようなもの、先方の都合でいつ何時変更されるか全く分からないとのこと、リーダースハウス側の返事待ちのための待機とのことであった。15分後、先方から来るようにとの指示がありバスは出発する。


現地ガイドは日本人の母親を持つ愛国心溢れる青年


      トリポリ市内の店舗

 バスに旅行代理店、通訳そして大学の教授が2名も乗り込む大変な対応ぶりである。ピースボート側も受け入れ準備をしてきた先遣隊、通訳、ツアーリーダーの3名体制である。40名参加のこのツアーには両者共大変な気の使いようであった、リーダーズハウス訪問はそれだけ重みがあるのである。
 リビア側から車中で「緑の書」と「白の書」が納められたCDと英語版の「緑の書」を渡され、教授からレクチャーがあった。
 リビアは1921年からイタリアの支配下にあり、戦後はイギリス、アメリカの支配下に置かれた。アメリカの基地が5カ所、イギリスの基地が2カ所作られ、石油の利権もイギリス、アメリカにあり石油資源を持ちながらリビアは貧しかった。カダフィー大佐は同士と革命委員会をつくり、1969年4月7日革命を実行、無血革命に成功し、石油の国有化に踏み切った、その時若干27歳であった。その後、ロンドンでの警察官死亡事件、ベルリンのナイトクラブ襲撃事件の報復としてアメリカ軍によるカダフィー邸の爆撃があった。カダフィー大佐の娘始め101名が犠牲になった。
 リビアのパンナム機爆撃で国連による犯人の引き渡しと経済制裁が決議され、2000年犯人の引き渡し、2003年には大量破壊兵器の放棄宣言により経済制裁が大幅緩和された。
 カダフィー大佐は人民の問題を解決できるのは人民だけ、そのため20歳以上であれば誰でも平等に参加できる人民会議で話合い、決議したことを人民実行機関で実行すると言う「直接民主制社会主義」を国家理念としている。この理念を基に作られた政策を政治、経済、社会の3分野から論じたものが「緑の書」である。
 「白の書」は自由と人権が保証された世界平和の実現を訴え、パレスチナ問題、中東問題解決のための方策をまとめたものである。
 トリポリの中心にある高いコンクリートの塀に囲まれたリーダーズハウスに到着、鉄の扉が開けられ中に入ると金属探知機とボディーチェックによる厳重なセキュリティーチェックがある。塀は二重になっており有刺鉄線で囲われ銃を持った警備兵によって警戒されている。全員のチェックが終ると内側の塀の扉が開けられる、左手にコンクリート製の丸い建造物、右手には3階建てのビル、前方にカダフィー大佐が住むと言う大きなテントが見えた。ガイドの確認しても住んでいるかどうか分からないとの返事だった。
 右手にあった建物の正面に案内され、ここがアメリカ軍に爆撃されたカダフィー大佐の住居であると説明される。爆撃の痕跡は爆弾が貫通した直径60cm程の大きな穴と10cm程の小さな穴である。粉々になった建物を想像していたが原型はとどめており修理すれば住めるような状態に見えた。ピンポイント爆撃の精度を物語っていた。
 部屋は天井材が垂れ下がり、床には飛び散ったガラスの破片やコンクリート片、壊れた家具等がそのまま残されていた。中央ホールと思われる部屋にはカダフィーの大きな肖像が掛けられ、床には撃ち落とされたアメリカ軍の爆撃機の残骸が置かれていた。


    爆撃されたカダフィー大佐の住まい


爆撃された部屋の様子/撃墜された米軍機の残骸が展示されていた

 この建物が広島の原爆ドームと同じようにリビアの平和のシンボルとなれば良いと思った。記帳簿があったので「ピースボートの目的はリビアと同じ平和」と記帳、壁には「平和」と書いた。


壁にが訪れた人が書いたメッセージが残されている。私たちは
爆撃した側とされた側へのメッセージとして「平和」と書く。

 見学が終るとパン、チーズ、ジャム、コーヒー、紅茶、果物のサービスがあった。日差しを避けて絨毯が敷かれた大きなテントの中でカダフィー大佐の接待の様子を想像しながら食べる。
 次に外交官トレーニングセンターを訪問、会議室で学生とピースボートとの意見交換会が開かれる。自衛隊のイラク派兵、パレスチナ問題等について意見交換を行った。リビアの女学生から「日本政府がアメリカ追従政策をとっているのにピースボートの活動が平和に役立つのか」との質問に、ツアーリーダーの川崎さんが「平和に役立つと信じて我々はピースボートを出している」と応えたことが印象に残った。


    外交官養成所での意見交換会の様子


    意見交換会を終え、外交官の玉子と握手

 トリポリ港が見えるレストランでサラダ、スープ、アフリアの代表的料理「クスクス」、デザート、ハーブ茶の昼食。


    トリポリ港/遠くにトパーズ号が見える


アフリカ名物スクスク料理/この時はお腹をこわして食べられず残念!

 食後はローマ帝国が残したオーレリア門から旧市街見学を始める。グルジモスクでは中に入って見学することができた。内部はメッカ側の壁にある派手な説教台が目立つくらいで、あとは床に敷かれた絨毯とタイルやモザイクで装飾された壁や天井だけで何もない、がらんとした感じ。二階の奥にカーテンが引かれた所が女性用であると聞かされる。柱に顔写真入りのチラシが張ってあったので現地ガイドに聞くと失踪した少年を探しているものとのこと、リビア社会の裏側をかいま見たように思えた。


    ローマ時代の遺跡/オーレア門

 いよいよスーク見学になる、路地を入って行くと家の壁と土の路が続く、家の中で広幅の織機を操る男の姿が見える、更に進むと路は狭くなり店舗や工房や工場が密集するスークに入る。「カンカンカン」とリズムカルで賑やかな音が聞こえてくる、鍛造品を製造する工房が集まっている一郭だ。ようやくすれ違えるような狭い路を挟んで両側に10軒程の工房が並びそれぞれ成形、焼き鈍し、メッキ、研磨作業をしている。分業体制があるように思えた。
 更に進むと繊維を扱っている一郭、宝飾品を商っている一郭等が続く。珍しそうに見て歩くと東洋人の集団をみて逆に珍しそうに見られる。路地の奥には更に狭い路地がある、はぐれたら戻って来られない雰囲気を持っている。
 繊維、宝飾、皮、金属、絨毯、土産等業種によって集積し、業種によって店の大きさ、設備、通路の広さ、屋根等さまざまな形態があることがわかる。中でも宝飾屋はショーウインドーを供えた立派な店構えである。扱っているのは金のブレスレットやネックレスが多く、宝石は少なかった。黒い服で全身を覆っているリビア女性に似合うのは金であるからであろう。


        スーク内を探訪する

    鍛造職人が軒を連ねる鍛造屋街

       鍛造街の職人さん


       土産屋さん


      スークに住む子ども達

 スーク見学が終わり船で両替をした20ドル分の買物をする。まず、屋台で3RD(300円)のショール、鍛造屋で10RD(1000円)の小さな銅鍋、土産屋で絵はがき12枚で5RD(500円)、焼物の小皿2枚5RD(500円)、団扇大2本、小1本計2.5RD(250円)、最後にカーペット10ドルを買う。
 緑の広場でピースボートとの交流イベントが始まったので見に行く、中央の椅子席は日本人用でリビア人はその周囲で立って見ている。我々も立って見ているとリビア人が気づいて中に入れてくれ、妻には座っていたリビア人を立たせ座らせてくれる。
 リビア側のレゲエバンドの演奏が始まると大変な盛り上がり、つられて客席で日本人のおばさんとリビア人青年が踊りだす、我々も拳を振り上げ、手拍子をする。
 混雑を避けるため、早めに盛り上がりの中を抜けて港までのシャトルバスに乗り、帰船する。


    リビアと日本の市民交流会風景


    日本のおばさんとリビアの青年が踊る

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