定年夫婦の暮らし方(店長日記)

盛岡に住む定年夫婦(昭和20年生)の暮らしを分ち合います。

2006年ピースボート世界一周の旅16/ビルバオ(スペイン)

2008年05月06日 | 思い出の旅行
5月16日 ビルバオ ツアー「フランシスコ・ザビエルの故郷を訪ねて」
      ビルバオ~ハビエル城~パンプローナ~ロヨラ村~ビルバオ

 日の入りがどんどん遅くなり17日は9時58分だった、9時過ぎてもまだ明るいので時間感覚が狂ってくる。
 ビルバオ(スペイン)まではトリポリ港から地中海を横断しジブラルタル海峡を抜け大西洋に出てドーバー海峡を通りスペイン北部のビルバオ港に到着するまで5日間の長い航海だった。その間のんびり過ごし4月20日から5月10日まで11日間でアカバ、ポートサイド、ピレウス、カタニア、トリポリの5カ所寄港した疲れをとることができた。


        日の出風景

 ジブラルタル海峡とドーバー海峡では曇っていたがしっかり陸地と頻繁い往来するフェリーが見えた。
 バスク自治州の最大の都市ビルバオはヨットハーバーもある穏やかで美しい港町であった。今回のツアーは内陸部までの長距離移動となるためとフランシスコ・ザビエル生誕500周年にあたり混雑が予想されるとのことで7時45分にバスは出発した。
 高校の先生だった英語のガイドがつく、その英語を日本語にする通訳はピースボートのボランティア。ビルバオ市やバスク自治州の概要、歴史、フランシスコ・ザビエルやイグナシオ・ロヨラの生立ちや功績まで詳しく説明してくれる、年代がきちんと説明に入っているところはさすが先生だけのことはあると感心する。
 豪邸と思われる住宅や美しい街並を見ながらバスはビルバオの中心部を抜け、しばらく酪農地帯を走り高速道路に入る。なだやかな山々に牧草地が広がる景色は北上山地を思わせる。丘の上にある牧草に囲まれた薄茶の壁に赤茶の瓦屋根の農家は心慰めてくれる。


       教会が見える農村風景


         農村の風景

 青空とジェット雲を背景に熱気球が浮かんでいる。中央に教会がある小さな集落をいくつも目にする。
 VITORIAのドライブインでトイレタイムをとる、突如東洋人の団体が押し寄せてきたのでびっくりした様子。売店のサンドイッチの自動販売機が珍しい、缶ビール(330cc)1本1.2ユーロを買う。


      ドライブインのパン売場


  ドライブインのサンドイッチの自動販売機

 道路際にドルメンと見学している小学生の集団が見える、遠足だろうか。
 バスから放牧地、麦畑、森林、そこに点在する農家や集落の他に工場群と高層住宅群が時折見える。都市にも工場はあるが、この地域では農村地帯に立地する工場が目立つ。
 やがて、ごつごつした岩肌が露出した山々が見え、灰色の山肌、薄い緑の灌木に覆われた麓、濃い緑の牧草地や麦畑が広がっていく、今までとは違った風景だ。
 突然バスが停まる、ガイドの説明では警官のテロ対策の検問で、書類が揃っているので問題ないとの事、「バスク祖国と自由」と政府との完全停戦が成立したがテロの危険は無くなっていないと言うことか。
 遠くに立ちはだかるように連なるピレネー山脈が見えてくる、山を越えればフランスである。(翌年にドミニコ会の巡礼の旅でルルドを訪れる事になるとは想像していなかった。)
 バスはPAMPLONAを通過してフランシスコ・ザビエルの故郷JAVIERに向かう。高速道路を降りて、小さな集落を抜け山道を少し走ると生誕500周年の幟が立っている駐車場が見える。
 フランシスコ・ザビエルは小国ナバーラ王国で1506年に生まれた。19歳まで過ごしたこの城はスペインとフランスとの戦争でナバーラ王国がフランス側について戦って敗れたため、1516年住居部分を残し城は壊された。30年前に復元され内部は宣教博物館となっている。
 駐車場から並木道に出ると左手に小さなホテルやレストランが整備されている。これらの一郭を通り抜けると周囲が開け城が出現する。狭間があいているだけの石の塊のような城壁は国境警備のために建てられたことを物語っている。


     ザビエル城の近くにあったホテル
 
 シスターやスペイン人観光客に混ざって見学をする、内部は生誕500周年のためかきれいに整備され、フランシスコ・ザビエルの一生をジオラマで見せるなど展示も工夫されていた。日本関係の資料として掛軸3点だけだったのは日本への影響を考えると少し寂しかった。
 その中に日本人がザビエルのために贈ったものだろうか、ザビエルらしき人物像と「神より召し出されし人ありてその名をフランシスコと云う」の文字が書かれた掛軸があった。


        ザビエル城の全景


        トイレと小学生

 次にミングウェイの小説「日はまた昇る」で有名になった牛追い祭りが行われるPAMPLONAに戻る。この町はナバーラ王国の首都として栄えた歴史を持っており、サンチャゴ巡礼の拠点でもある。
 賑わう町の中心部でバスを降りレストランまで歩く、案内されたレストランは目立たない建物の2階にあり、あまり期待できない雰囲気であったが、オードブルからデザートまですばらしく美味しかった。パン、生ハムのオードブル、エビとサーモンを使ったサラダ、白身の魚のメイン、チーズケーキとアイスのデザートは味も盛りつけもこの旅行中で一番だったし、ちょっと酸っぱいハウスワインも飲み放題で同席の人とも話が弾み幸せな時間だった。
 地元の女性ガイドが市内を案内してくれる、まず、闘牛場に向かう、年間でたった8日間しか使わないとのこと、残念ながら外から外観を見るだけ。牛の入場口にこの町を有名にしてくれたヘミングウェイの銅像があった。
 趣のある古い建物が並ぶ路地に入るとシェスタのためか、人通りも少なく多くの店は閉まっていた。幸い昼寝をしない観光客のために土産屋だけは開いてた。皆、土産品を物色する。闘牛とかバスクに関わる人形、装飾品、絵はがき、指ぬき等店内所狭しと置いてある。日本人に似ていない中国人ぽい人形が気になった。


       パンプローナの街の風景


       パンプローナの裏町の風景


        パンプローナの土産屋


         土産屋の店内


      土産屋にあった日本人の人形

 ガイドが建物の壁にある小さな表示板を指差した。そこにホタテ貝マークと矢印があり、今通ってきたのはサンティヤゴ巡礼の道だったことを知る。次のサインがあった街角のベンチで大きなリュックを脇に置いて靴を脱いでベンチに座っている2人の巡礼者を見つけた。巡礼は7月頃から多くなるとのこと、平均1日30km歩くと言うから900kmの道程であれば最低でも30日はかかることになる。


街で見かけた巡礼者/ホタテ貝のマークは巡礼路を示す

 市役所前でガイドが路上のプレートを指してこの付近は言葉が通じない3種類の民族がそれぞれ壁で囲って生活していた、その3つ壁が隣接する所に今見える市役所が建てられたと説明してくれる。ヨーロッパのバスクを始め複雑な民族問題や国を統一する困難さが少し分かったような気がした。


         市役所と広場


    かっての街の状況を説明する現地ガイド

 ヘミングウェイの定宿やいつも休んでいたカフェがあるカスティーリョ広場に出る。カフェを覗くとアールヌボースタイルの重厚なインテリアであった。サラサーテ通りを歩いてバスに戻り、短い市内観光は終る。


     ヘミングウェイが滞在中に通ったバー

 バスはパンプローナから60km離れたこのツアーの最終目的地ロヨラ村に向けて出発する。バスの中でガイドからロヨラの説明がある。ロヨラは1491年貴族の家の12人兄弟の末っ子として生まれ、30歳頃軍役につきフランス軍との戦いで重傷を負い、その治療中に神に仕える決心をしてパリ大学に入学。大学でフランシスコ・ザビエルと出会い、6人の同志と共にイエズス会を結成し初代会長となった。フランシスコ・ザビエルが司祭になったのは15歳年上のヨロラとの出会いがあったからであるとのこと。
 ロヨラの生家と隣接して建てられているロヨラ礼拝堂は想像以上に大きく豪華な教会であった。石材は村人が向かいの山から切り出したとのこと。大変な労力をかけて建設されたことであろう、地域の人々のロヨラ教会にかけるの思いがいかに大きかったかわかる。
 生家は城の役割を果たさないように上部を壊しレンガ作りの住居に作り変えられており現在はその状態で博物館となっている。二階からは石材を切り出した山や農家が見える。
 見学後は2軒ある土産屋で土産を物色し売店でアイスクリームを買う。観光客の他、近所の人が散策に訪れていた、のどかな午後の一時であった。


         ロヨラ教会


        ロヨラ教会内部


        ロヨラ城からの眺め


     戦場で傷ついたロヨラを表現した像


        ロヨラ城下の模型

 18時30分、ロヨラ村を出発しビルバオに向けて出発する。


        ビルバオ港とトパーズ号

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