新年の特別番組として、NHKが大河 『新選組!』 の続編を製作するというニュースはすでにご存知のことと思います。
私もそれほど大河に詳しいわけではありませんが、このような形で特番(続編)を組むなど今までにはなかったのではないでしょうか。
会津を始め東北・北海道など、戊辰戦争の真実を描いて欲しいと切に求む人々、全国におられる新選組ファンなどの熱烈な思いに答えてくれて実現したのか、それに昨今のNHKの現状を考慮して講じる策の一環としてでしょうか…。
いずれにしても明治というまったく新しい時代に変わるその時に、日本で、北の地でどのようなことが繰り広げられてきたのか、いかに多くの犠牲を払ってその巨大なうねりの中から出でたものなのか、新選組を通して伝えてくれたらなと思います。
近藤勇の死後、その大義と信念を貫かんと北上し戦い続けた新選組のその後をどのように描くのかも勿論のこと、今からとてもとても楽しみです。
出来る限りオリジナルの出演者でということですが、すでに亡くなっている役の方々も追想という形で出演されたりするのかな?
会津戦争のことは少なからず描かれることと思います。
土方歳三ら新選組は会津藩主・松平容保(かたもり)公に迎い入れられ、会津若松の天寧寺の、城下を見下ろせる高台に近藤勇の墓を建立していますし、共に西軍(新政府軍)と戦っています。
後に、容保公の恩に報いようと会津残留を決意する斉藤一ら隊士と別れ、土方歳三らは北上することになります。
戦況はもはや予断を許さない状況になり、滝沢本陣から出陣する兵の中には新選組も、そしてあの白虎隊もいました。
しかし新年の特番で、この白虎隊のことまでは描く時間が無いかも知れません。
飯盛山にて自刃した、後に生還した飯沼貞雄(貞吉)を含む20名の白虎隊士のお話は多くの人々の知るところです。
ここでいう白虎隊とは 「白虎隊士中二番隊」 です。
士中、寄合、足軽と身分によって分けられそれぞれ二中隊づつ、16から17歳の少年ばかりの隊で、白虎隊は合計六中隊ありました。
旧暦八月二十三日(九月十八日)、彼ら19名が若い命を散らしたその日より前、旧暦四月四日(五月四日)、ある士中白虎隊士の壮絶な最期がありました。
長岡藩の応援に越後口を守っていた隊士・町野久吉の話で、西軍の長州藩士の実話として伝えられているものです。
激戦数刻 遂に会津兵破れて 権現堂に引き上げ
我兵 之を追い 隊を為して進む
時に突如として藪影より現れたる一人の会津兵あり
齢尚若き紅顔の少年なり
彼忽ち我兵に接しぬ
槍は電光の如く閃き
身は飛鳥の如く
猛然当たるべからず
宛ら阿修羅王の狂えるに似たり
手練の早業に 我長州兵の突かれる者四人
我隊やむを得ず之を遠巻きにし銃丸を発射し
辛うじて之を斃す
我兵乃ち走りて首をかかんとするや
彼忽ち身を起こし
怒号を以って我兵を睥睨し
猛姿当たるべからず
然れど 身には銃丸を受くるや
全身為に朱く
流石の勇猛の士も
亦如何とすること能はず
遂に我兵の手に首を委す
徳川の二百五十年の永い泰平の世が続いた中で、諸藩の武士たちの武士としての軍事能力が低下する中、会津藩は最も戦国的な気質が色濃く残る精鋭といわれていました。
会津では上級藩士のどの子弟も十歳になると、日本屈指の藩校として名を馳せた 『日新館』 に入校し、二十八にも及ぶ科目のある中、厳しい文武両道の教えを施されました。
幼少の頃には 『什』 と呼ばれる特殊な制度の中で日々を暮らし、『ならぬことはならぬ』 という厳しい掟に培われた気質が会津武士の根幹にあったわけです。
藩祖・保科正之公(三代将軍・徳川家光公の異母弟)の定めた 『家訓(かきん)』 を代々遵守してきた会津藩。
『大君の儀一心大切に忠勤に存ずべく、列国の例を以って自ら処るべからず』
徳川幕府に絶対的な忠義を尽くし、他の藩の真似をして藩政をするな…すなわち藩意はいかなる時も常に幕府とともにあるようにと定めたのでした。
徳川幕府の斜陽の兆しが見える頃、不穏分子から朝廷を守り京都の街の警備を強化するため、幕府は新たに京都守護職を置くことを決め、この藩祖の遺訓をもって半ば強制的に、会津藩主・松平容保公にその職につかせることとなります。
幕府の意に沿い朝廷を守り、京の治安を守る事に尽力し、孝明天皇の厚い信頼を受けていたにも拘らず、また大政奉還後は謹んで新政府に恭順の意を表したにも拘らず、松平容保公と会津藩は朝敵の汚名を着せられ、日本の東西を二分した、会津戦争をはじめとする戊辰戦争へと引きずり込まれて行くのです。
振り上げた恨みを晴らす拳が大政奉還で行き場がなくなり、収まりが付かなくなった長州をはじめ西軍の鉾先は徳川慶喜公(旧幕府)から松平容保公に向かったのでした。
飯盛山での白虎隊士中二番隊の自刃の一ヵ月後、藩主・容保公の命を保障するという西軍の条件を受け、会津藩は降伏、少年らが炎々と燃え上がっていると思い込み絶望したその鶴ヶ城は開城しました。
一昼夜、二千七百発の砲弾を受けたその城は、名実共に難攻不落の名城だったのでした。
降伏後、城下に累々と横たわる会津兵の屍や、飯盛山の白虎隊の亡骸も逆賊とされ新政府軍によって埋葬を禁止され放置されたそうです。
または、雪の季節が来て深雪に覆われてしまったために埋葬が困難になったためともいわれているようです。
後に造ることを許された会津兵の合葬墓の墓標も、単に“戦死者”と刻まれただけでした。
上野の彰義隊の墓も同様でした。
敵味方なく、亡骸を手厚く葬るという武士としての礼節を残念な事に忘れてしまっていたようです。
白虎隊の少年達の母や姉たちは、人目をしのんで飯盛山にのぼり、涙ながらに亡骸から遺品を持ち帰ったといいます。
飯盛山に彼らの墓が建てられたのは、明治も半ばになってのことでした。
幾人(いくたり)の涙は石にそそぐとも
その名は世々に朽ちじとぞ思う
源 容保(松平容保)
…白虎隊に捧ぐ歌…
過ぎし世は 夢かうつつか白雲の
空に浮かべる心地こそすれ
飯沼貞雄(貞吉)
…自刃から生還した貞吉の晩年の歌…
私もそれほど大河に詳しいわけではありませんが、このような形で特番(続編)を組むなど今までにはなかったのではないでしょうか。
会津を始め東北・北海道など、戊辰戦争の真実を描いて欲しいと切に求む人々、全国におられる新選組ファンなどの熱烈な思いに答えてくれて実現したのか、それに昨今のNHKの現状を考慮して講じる策の一環としてでしょうか…。
いずれにしても明治というまったく新しい時代に変わるその時に、日本で、北の地でどのようなことが繰り広げられてきたのか、いかに多くの犠牲を払ってその巨大なうねりの中から出でたものなのか、新選組を通して伝えてくれたらなと思います。
近藤勇の死後、その大義と信念を貫かんと北上し戦い続けた新選組のその後をどのように描くのかも勿論のこと、今からとてもとても楽しみです。
出来る限りオリジナルの出演者でということですが、すでに亡くなっている役の方々も追想という形で出演されたりするのかな?
会津戦争のことは少なからず描かれることと思います。
土方歳三ら新選組は会津藩主・松平容保(かたもり)公に迎い入れられ、会津若松の天寧寺の、城下を見下ろせる高台に近藤勇の墓を建立していますし、共に西軍(新政府軍)と戦っています。
後に、容保公の恩に報いようと会津残留を決意する斉藤一ら隊士と別れ、土方歳三らは北上することになります。
戦況はもはや予断を許さない状況になり、滝沢本陣から出陣する兵の中には新選組も、そしてあの白虎隊もいました。
しかし新年の特番で、この白虎隊のことまでは描く時間が無いかも知れません。
飯盛山にて自刃した、後に生還した飯沼貞雄(貞吉)を含む20名の白虎隊士のお話は多くの人々の知るところです。
ここでいう白虎隊とは 「白虎隊士中二番隊」 です。
士中、寄合、足軽と身分によって分けられそれぞれ二中隊づつ、16から17歳の少年ばかりの隊で、白虎隊は合計六中隊ありました。
旧暦八月二十三日(九月十八日)、彼ら19名が若い命を散らしたその日より前、旧暦四月四日(五月四日)、ある士中白虎隊士の壮絶な最期がありました。
長岡藩の応援に越後口を守っていた隊士・町野久吉の話で、西軍の長州藩士の実話として伝えられているものです。
我兵 之を追い 隊を為して進む
時に突如として藪影より現れたる一人の会津兵あり
齢尚若き紅顔の少年なり
彼忽ち我兵に接しぬ
槍は電光の如く閃き
身は飛鳥の如く
猛然当たるべからず
宛ら阿修羅王の狂えるに似たり
手練の早業に 我長州兵の突かれる者四人
我隊やむを得ず之を遠巻きにし銃丸を発射し
辛うじて之を斃す
我兵乃ち走りて首をかかんとするや
彼忽ち身を起こし
怒号を以って我兵を睥睨し
猛姿当たるべからず
然れど 身には銃丸を受くるや
全身為に朱く
流石の勇猛の士も
亦如何とすること能はず
遂に我兵の手に首を委す
徳川の二百五十年の永い泰平の世が続いた中で、諸藩の武士たちの武士としての軍事能力が低下する中、会津藩は最も戦国的な気質が色濃く残る精鋭といわれていました。
会津では上級藩士のどの子弟も十歳になると、日本屈指の藩校として名を馳せた 『日新館』 に入校し、二十八にも及ぶ科目のある中、厳しい文武両道の教えを施されました。
幼少の頃には 『什』 と呼ばれる特殊な制度の中で日々を暮らし、『ならぬことはならぬ』 という厳しい掟に培われた気質が会津武士の根幹にあったわけです。
藩祖・保科正之公(三代将軍・徳川家光公の異母弟)の定めた 『家訓(かきん)』 を代々遵守してきた会津藩。
『大君の儀一心大切に忠勤に存ずべく、列国の例を以って自ら処るべからず』
徳川幕府に絶対的な忠義を尽くし、他の藩の真似をして藩政をするな…すなわち藩意はいかなる時も常に幕府とともにあるようにと定めたのでした。
徳川幕府の斜陽の兆しが見える頃、不穏分子から朝廷を守り京都の街の警備を強化するため、幕府は新たに京都守護職を置くことを決め、この藩祖の遺訓をもって半ば強制的に、会津藩主・松平容保公にその職につかせることとなります。
幕府の意に沿い朝廷を守り、京の治安を守る事に尽力し、孝明天皇の厚い信頼を受けていたにも拘らず、また大政奉還後は謹んで新政府に恭順の意を表したにも拘らず、松平容保公と会津藩は朝敵の汚名を着せられ、日本の東西を二分した、会津戦争をはじめとする戊辰戦争へと引きずり込まれて行くのです。
振り上げた恨みを晴らす拳が大政奉還で行き場がなくなり、収まりが付かなくなった長州をはじめ西軍の鉾先は徳川慶喜公(旧幕府)から松平容保公に向かったのでした。
飯盛山での白虎隊士中二番隊の自刃の一ヵ月後、藩主・容保公の命を保障するという西軍の条件を受け、会津藩は降伏、少年らが炎々と燃え上がっていると思い込み絶望したその鶴ヶ城は開城しました。
一昼夜、二千七百発の砲弾を受けたその城は、名実共に難攻不落の名城だったのでした。
降伏後、城下に累々と横たわる会津兵の屍や、飯盛山の白虎隊の亡骸も逆賊とされ新政府軍によって埋葬を禁止され放置されたそうです。
または、雪の季節が来て深雪に覆われてしまったために埋葬が困難になったためともいわれているようです。
後に造ることを許された会津兵の合葬墓の墓標も、単に“戦死者”と刻まれただけでした。
上野の彰義隊の墓も同様でした。
敵味方なく、亡骸を手厚く葬るという武士としての礼節を残念な事に忘れてしまっていたようです。
白虎隊の少年達の母や姉たちは、人目をしのんで飯盛山にのぼり、涙ながらに亡骸から遺品を持ち帰ったといいます。
飯盛山に彼らの墓が建てられたのは、明治も半ばになってのことでした。
その名は世々に朽ちじとぞ思う
源 容保(松平容保)
…白虎隊に捧ぐ歌…
空に浮かべる心地こそすれ
飯沼貞雄(貞吉)
…自刃から生還した貞吉の晩年の歌…
駅前ですから便利ですよ。
新撰組はDVD発売でも特別仕様だったのに、(特番・・・慎吾くん・・・ダイエット・・・リバウンド・・・)
でもまた「続」ってのがいいですね。
三谷さんに応援
新選組の続編での東北との関り、さらにどのように形で戊辰戦争が行なわれたのか、こういった歴史を何かしら表現してほしいと思う一人でもあります。しかし、簡略的に流され函館がメインという感じもしないではありません。
戊辰戦争に興味を示される方々の中には、会津への同情が先行して史実をよく理解しないといわれる方々もおりますが、こちらで紹介の西軍による東軍兵士の亡骸に対する仕打ち、少なくてもこのことにひとつの情なり人としての道を示していただいておれば、また違った感覚があるものと思います。
会津若松の天寧寺にあるお墓には、近藤勇の首が埋葬させていると伝えられているそうですが、実際は遺髪か遺品かなにかではないかとも言われているそうですよ。
日本のあちらこちらに勇さんのお墓はあります。
お江戸は高層ビルの合間合間に、実に沢山の史跡がありますね。このところそれらの史跡をめぐるウォーキングが結構なブームだそうじゃないですか!
いいなぁ、私もやってみたい…
以前たまたま通った通りの分岐点のあたりに“鈴ヶ森刑場跡”がひっそりとたたずんでいたのを車の中から見つけて、身が引き締まる思いがしました
思いもしないところにあったりするんですね。
1時間半ぐらいの番組だそうですね。
その中でどのように構成するのか、三谷さんも頭を悩ませているのでしょうか。
西軍、特に長州に対しての複雑な思いはそれらの非人道的な行為によるのが尾を引いているのは勿論でしょう。
仰るとおり、せめて人としての情を示していればと思います。
西軍も連合軍でしたので一枚岩ではなかったはずで、思いも考えもそれぞれあったことと思いますし、心ならず上の命令でそうせざるを得ない状況もあったことと思います。
それをさせた大きな怨恨の思いが、まなこを曇られて節を忘れさせてしまったのは本当に悲しいことです。