大阪龍馬会

1987年に創立して2017年は創立30周年。龍馬好きの集まった大阪龍馬会が龍馬会の活動をお知らせします。

幻の「実記天誅組始末」復刊 幕末ブームで人気再燃

2010-10-30 00:01:00 | 幕末ニュース
■藤井寺の研究家ら「多くの人に知ってもらいたい」

 坂本龍馬や篤姫がテレビドラマで人気を集め、幕末の歴史がブームとなるなか、同時期の、尊皇攘夷派の集団・天誅(てんちゅう)組について書かれた絶版本「実記天誅組始末」が、藤井寺市の天誅組研究家と著者の遺族の手で復刊された。幕末ブームで、同書は定価の5倍以上の値段で取引される“幻の本”となっていた。遺族らは「復刊により、多くの人に天誅組を知ってもらいたい」と話している。

 復刊したのは、研究家の草村克彦さん(54)=藤井寺市小山=と、著者の次女、上西多恵子さん(58)。同書は、上西さんの父親で八尾市在住の元公務員、故樋口三郎さんが新人物往来社から昭和48年8月に出版。四六判、282ページで、5千部を刷ったが、初版のみで絶版となった。

 上西さんによると、樋口さんは約10年間かけて、休暇に電車やバスを使って、天誅組ゆかりの地や天誅組同志の遺族らを訪ねた。苦労して現場に足を運んで入手した資料や、同志の子孫らの口伝に基づいて書かれた同書は、近年になり歴史書として価値が高まっているという。また、天誅組ゆかりの地や同志の子孫の住所が詳しく記され、その後の研究の材料にもなっているという。

 草村さんは、約20年にわたって天誅組について研究し、天誅組に関するコラムを雑誌に投稿したり、自宅を資料館として開放したりして、天誅組の歴史を伝える活動に取り組んでいる。以前同書を読んだ際に、同志の一人、乾十郎の墓石が大阪市天王寺区上本町の正念寺にあるくだりを見つけ、子孫に連絡。同寺で子孫が法要を営むというエピソードもあったという。

 復刊は上西さんと草村さんが相談し、費用を分担して300冊を自費出版。上西さんは「より多くの人に手にとってもらい、天誅組の存在を次世代に受け継いでいきたい」と話している。

 復刊本は1冊1200円。問い合わせは草村さん((電)072・955・3309)。
                   ◇
【用語解説】天誅組
 幕末期に公卿・中山忠光を主将に、土佐脱藩浪士らで構成した尊皇攘夷派の武装集団。文久3(1863)年、大和国で挙兵し、五條の代官所などを襲撃したが、幕府軍により追討された(天誅組の変)。

10/22  産業経済新聞



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思想家・横井小楠の書簡発見 朝廷・幕府・藩の団結訴え

2010-10-09 00:01:00 | 幕末ニュース
 坂本龍馬に影響を与えた幕末の思想家、横井小楠(しょうなん)(1809~69)。小楠が国のあり方の基本を書いた「国是」は、後の「五箇(か)条の御誓文」などに影響を与えたとされる。「国是」は複数書かれたが、そのうちで集大成とされるのが「国是十二条」。実物の所在が不明だったが、このたび東京都内で確認された。未確認の書簡2通も見つかり、研究者は混乱期を解明するのに役立つ貴重な資料群とみている。

 小楠は熊本藩士だったが、藩政改革を進める元福井藩主の松平慶永(春嶽)に重用された。1860年以降、「国是三論」「国是七条」と立て続けに提唱した。今回、実物が確認された「国是十二条」は67年、福井藩に提出された。公共性と交易の重要性を説き、坂本龍馬によるといわれる「船中八策」や、後の「五箇条の御誓文」に影響を与えたとされる。

 「十二条」は「正月十一日」付で、春嶽への進言を主眼に福井藩の重臣、松平源太郎(正直)あてに出された書簡だ。自然の天理に則(のっと)ることを説く「不関天下之治乱、一国以独立為本」や「尊天朝敬幕府」「富国」「強兵」「親列藩」「交外国」など、漢文表記で個条書きされ、簡単な注釈をつけた項目もある。

 最新遺稿集の編集を中心的に進めている猪飼隆明大阪大名誉教授(日本近代史)は、「ようやく実物に巡り合えた。小楠は維新後、まもなく暗殺されるので、彼が最後にまとめた国家思想ともいえる。新遺稿集には欠かせない」と話す。

 また、新出の書簡2通は正直あてで、「十二条」と同時期の書簡とみられる。1通は幕府が長州に戦争をしかけようとしているが、控えた方がいいという意見に同調。もう1通は、幕府と長州の緊迫した状況下、情勢が刻々と移り変わり、善悪がはっきりしない世の中の大波に揺られているだけだ、と嘆じている。

 これまで「十二条」は「親列藩」や「尊天朝敬幕府」などの文言が、従来の小楠の思想に合わないことなどから、執筆した年も含めて、評価が定まらなかった。

 しかし、今回、新出の2通を分析した猪飼名誉教授は「一連の書簡から『国是十二条』は朝廷、徳川幕府も共に敬い、各藩も和解し一丸となって新国家の建設に向かうべきだという強い主張がこめられている。公共性の概念が一歩進んだ形で、極めて重要な内容と位置づけることができる」と説明する。

 「国是十二条」は11月28日まで、兵庫県川西市の大阪青山歴史文学博物館で展示されている。

9/28 朝日新聞



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高杉晋作の書簡、9/22から公開 小郡文化資料館 山口

2010-09-29 00:01:00 | 幕末ニュース
 幕末の長州藩で「正義派」と「俗論派」の攻防が激化してきた元治元(1864)年9月に高杉晋作が吉田松陰の兄、杉梅太郎に記した書簡が、山口市小郡文化資料館で22日から初公開される。

 手紙が書かれたのは、長州藩が「禁門の変」を起こして幕府から征伐令が出され、さらに下関が四国艦隊の砲撃を受けた後のまさに激動の時期。書面では、高杉が藩から「石州口御軍政取計」という職を与えられようとしている状況などを、杉に報告している。杉と高杉は信頼関係が強く、たびたび手紙をやり取りしていたという。

 こののち、急進的な正義派は衰退し、幕府に恭順を示す俗論派が主導権を掌握。高杉は、身の危険を感じて一時九州へ逃れる。

 資料は、所有していた市内の収集家の遺族が平成6年、同資料館に寄贈。市教委の調査や整理を経て、同資料館で22日から10月31日まで開かれる企画展の中で初めて公開される。

9/22 産経新聞


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稱念寺で「伊達宗広・陸奥宗光墓所跡」「小松帯刀墓所跡」の除幕式

2010-09-28 21:00:00 | 幕末ニュース
10月2日、15時から稱念寺で除幕式があります。

「伊達宗広・陸奥宗光墓所跡」「小松帯刀墓所跡」です。

なかなか除幕式に参加することはないと思いますので、ぜひお越しください。


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鹿児島に龍馬お龍の等身大銅像 お目見え

2010-09-27 00:01:00 | 幕末ニュース
●龍馬とお龍、天文館に等身大像お目見え
 
 鹿児島を盛り上げるぜよ――。鹿児島市の繁華街・天文館に19日、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」で注目を集めている坂本龍馬と妻お龍(りょう)のほぼ等身大の像がお目見えした。観光客らがひっきりなしに訪れ、いっしょに記念写真を撮ったり、背比べをしたりして楽しんでいた。

 来年3月12日に九州新幹線鹿児島ルートが全線開業するのを機に、天文館周辺の回遊性を高めようと鹿児島市が進める観光オブジェ設置事業の一つ。「龍馬伝」の県内ロケ部分が19日に放映されるのに合わせてのお披露目となった。

 設置されたのは天文館のいづろ交差点の一角。アルミ製で、高さは龍馬が約165センチ、お龍が約155センチ。夫婦像の隣には、龍馬が京都の寺田屋で負った傷を癒やすために夫婦で薩摩を訪れ、それが日本初の新婚旅行とされることなどを音声で案内する解説板が立っている。新婚旅行に向かう夫婦の姿を3D画像で楽しめる機能も備えている。

 旅行で鹿児島を訪れたという千葉県の夫婦は「ちょうど像ができたと聞いて寄ってみた。いい記念になりました」と話した。

 鹿児島市は今月末までに天文館周辺の7カ所に、鹿児島市出身の洋画家の黒田清輝や天文館の名の由来にもなった観測施設・明時館を作った第8代薩摩藩主の島津重豪ら鹿児島を代表する人物の像計15体を設置するという。

9/20 朝日新聞


●鹿児島市内に13偉人の像設置 新婚旅行姿の龍馬も 

 鹿児島市は中心市街地の回遊性を向上させようと約6000万円をかけ、幕末から明治期に活躍した鹿児島ゆかりの偉人ら13人のアルミ像を、天文館地区周辺に設置する。その先頭を切って18日、坂本龍馬と妻お龍の像が、同市のいづろ交差点に登場した。今月中にすべて設置し終わるという。

 薩長同盟成立の立役者、龍馬はお龍を連れて1866年、薩摩藩を訪れた。この旅は日本人初の新婚旅行と言われている。像は当時いづろ交差点近くにあった港から、霧島に出発する旅装の2人がデザインされている。触っても汚れにくいアルミ製で、そばに設置した観光ボードに近づくと、音声で解説が流れる。「見て、聞いて、触って記念撮影してほしい」(市観光企画課)と、台座はなく通行人と同じ高さにした。

 今後設置される像は、加治屋町交差点付近に大山巌▽西郷従道▽山本権兵衛。アイムビル前に黒田清輝など。周辺の史跡を含めた観光マップを作り、観光客や市民にPRしていくという。

9/20 毎日新聞


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「町人討ち」汚名返上? 幕末の志士清河八郎 新資料発見

2010-09-02 00:01:00 | 幕末ニュース
 尊皇攘夷(じょうい)派の幕末の志士で、山形県庄内町清川地区出身の清河八郎が江戸で起こした「町人無礼討ち」事件に関し、新たな資料がこのほど、千代田区四番町歴史民俗資料館(東京)の調査で見つかった。生誕180年のことし、「殺人者」などとして描かれてきた負のイメージに対し、江戸幕府の権力としたたかに渡り合った人物像が浮かび上がった。

 清河本人の著書などによれば、1861(文久元)年5月20日、江戸市中で仲間と酒を飲んだ帰り道、町人風の男がしつこくからんできたため、清河はこの男を切り捨てた。自ら奉行所に訴え出ずに逃走したとして、全国に手配される身となり、「酔って町人を切り捨てた」という評伝につながったとされる。

 新資料は、資料館が2006年に入手した江戸北町奉行所同心、山本啓助の手帳。縦約13センチ、横19センチ、93枚からなる。清河を追って新潟や庄内を回った記録だ。

 資料館調査員で早稲田大の西脇康講師(日本史学)らの調査で、手帳の中に、事件前日の5月19日、南北の奉行所合同で清河ら尊皇攘夷の有力志士8人を捕縛する命令が下ったとする記述が見つかった。

 幕府の陰謀は指摘されてきたものの、無礼討ちの前に奉行所が組織的に動いていたことを示す資料は初めて。西脇氏は、清河に倒幕の意志はなかったが、開国に傾く幕府にマークされていたことは間違いないとして、「恐らく、捕縛の網が張り巡らされた上で追っ手の1人がからみ、本人は絶体絶命を察知して刀を抜いたのではないか。酔った上での軽挙妄動とは思えない」と分析する。

 西脇氏は一方で「清河は『不慮の事』として片付けており、幕府の関与には触れなかった。登用されたい思いの表れ」と読む。清河は逃亡生活の後、幕府から将軍警護を命ぜられて浪士組を結成。しかし、最後は幕府の刺客に暗殺された。

 庄内町の清河八郎記念館の広田幸記副館長は「政治的な伏線の上での事件で、酒乱の殺人犯ではないことを証明するものだ」と評価している。

 清河八郎のマイナスイメージを決定的にしたのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」とされる。日本近世文学に詳しい山形大の山本陽史教授(日本文学)は「清河は保守派の性格が強調され、坂本竜馬の引き立て役として描かれた」と説明。「(新資料は町人討ちの)行動を説明する傍証であり、清河の名誉回復にもつながる」と話している。

 手帳は10月4日~11月14日に四番町歴史民俗資料館で開かれる企画展で初公開される。


8/26 河北新聞



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桂小五郎が恩人に感謝の短刀 京都・霊山歴史館で公開へ

2010-09-01 00:01:00 | 幕末ニュース
 幕末の志士、桂小五郎(のちの木戸孝允)が、潜伏先の但馬(兵庫県北部)で世話になった恩人に贈った短刀が、京都市東山区の幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」に寄贈され、同館で31日から始まる「大龍馬展」(第3期)で、一般公開される。

 長州藩士の桂は、京で長州藩が薩摩藩などを相手に戦った「禁門の変」(1864年)で敗れた後、但馬の町人、広戸甚助に助けられ逃亡。桂は約9カ月の間、偽名を使って但馬で過ごしたと伝えられている。甚助の父、喜七は、娘に身の回りの世話をさせ、逃亡生活を支えたという。

 短刀(刃渡り約26センチ)は桂の護身用で、“命の恩人”の喜七に贈ったとされる。平成19年、喜七らの子孫にあたる女性が「桂に関する資料が散逸しないように」などとして、同館に寄贈。「大龍馬展」で展示されることになった。

 同館の木村武仁学芸員は「短刀に美術的な高い価値はないが、幕府に命を狙われていた桂が護身用の短刀を贈ったことから、大きな恩義を感じていたのが伝わってくる」という。

 桂の潜伏先の一つだった兵庫県豊岡市の城崎温泉の旅館「つたや」(当時は松本屋)の社長の長男で、桂の但馬での足跡を調べている大学生、鳥谷武史さん(22)は、「桂が恩人を丁重にもてなしたことは聞いていましたが、改めて情に厚い人だと分かった」と話している。

8/28 産経新聞


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ハマっ子社長・山本博士さんが「勝海舟直筆の手紙」を発見

2010-08-28 00:01:00 | 幕末ニュース
 横浜の郷土史愛好家の山本博士さんが、勝海舟直筆の手紙を京都の古書店で発見した。専門家によると勝海舟の自筆に間違いなく、既刊の全集ものにも収録されていない手紙だという。
 
 この貴重な手紙を発見した山本さんは、横浜で1962年に創業した老舗洋菓子販売店「モンテローザ」(横浜市中区長者町9)を展開する「三陽物産」の代表取締役社長。

 モンテローザは今年4月、勝が設計したとされる「神奈川台場」の歴史性に注目した縁起菓子「勝サブレ」を販売開始。同商品の開発直後に勝の手紙を発見した山本さんは「天国の勝海舟からのプレゼントのような気がした」と語る。

 骨董市巡りを趣味とする山本さんが京都のとある古書店を訪れた際、たまたま目に留まったのが見覚えのある筆跡。「もともと神奈川台場が好きで、そこから台場の設計者である勝海舟に興味を持ち、関連するものを探してはいた。しかし発見したその日は特に意識しておらず、偶然の出会いだった」と振り返る。

 手紙自体は、勝が越前福井藩主・松平春嶽の側近だった「村田巳三郎」(=村田氏寿、坂本龍馬が春嶽の元へ千両という大金を借りに行った際に応対した人物とされる)宛に送ったもので、1862年4月4日付。手紙の冒頭には、「過日者御紙面之処 晩程神奈川表へ罷越候」(=先日お手紙が届きましたが、晩まで神奈川表へ出ていまして)とある。

 山本さんは「神奈川と書かれている文章が神奈川にあることが大事」だと考え、迷うことなく同手紙を購入。「今後多くの方々に見ていただける方向で手紙の保存を検討している」と話す。この手紙が送られた1862年は勝と龍馬が出会った年といわれており、8月には「生麦事件」が勃発。「時代的にも貴重な資料」と歴史研究家からも評価されている。

 横浜が大好きと語る、横浜生まれ・横浜育ちの山本さんは仕事の傍ら、まだ世に出ていない郷土資料を日々研究しており、最近は都内で勝が写る1枚の名刺版の写真を入手。「勝海舟の洋装姿でこれまで見た事のない明治初期のもの。もしかするとまた新たな発見かもしれない」と期待を寄せながら、現在調査を続けている。

8/21 ヨコハマ経済新聞


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京の夏の旅キャンペーン=有栖川宮旧邸など公開-京都市

2010-08-26 00:01:00 | 幕末ニュース
 京都市と同市観光協会は、「京の夏の旅」キャンペーンを9月末まで開催している。期間中は市内7カ所の文化財を特別公開し、宮家の旧邸や摂関家の別邸を巡るコースなどを設けている。

 現在は平安女学院大学が所有し、今回公開される「有栖川宮旧邸」は、幕末期から大正期にかけての宮廷の面影を伝える書院造りの建物。能舞台としても使用できる板張りの間は魅力的で、白砂と緑の眺めの美しい庭園は、「植治(うえじ)」11代小川治兵衛氏が作庭した。約200年前に建てられた旧九條家別邸の「拾翠亭」も同時公開され、茶会や歌会に使われた数寄屋風書院造の優美な公家屋敷を楽しめる。

 また、期間中にはNHKの大河ドラマ「龍馬伝」の放映を記念し、坂本龍馬が眠る「霊山護国神社」や伏見の船宿「寺田屋」を観光バスで巡るコースも楽しめる。嵐山の大堰川で、平安時代の貴族が楽しんだとされる「宮廷鵜飼」を鑑賞するプランもある。問い合わせは同観光協会(電話075-752-0227)まで。


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「井伊大老警護の武士逃げた」奉公人の証言発見

2010-07-13 17:00:00 | 幕末ニュース
 幕末の大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」で、居合わせた中間(ちゅうげん)(奉公人)の証言とされる記録が、広島県立歴史博物館(福山市)で見つかった。

 故郷の安芸に帰る途中に役人に語ったもので、襲撃時の慌てた状況が読み取れる。

 記述があったのは、福山藩の儒学者・菅茶山(かんちゃざん)(1748~1827)の弟子、門田朴斎の五男が、「変」に関する伝聞や風説などを集めた「骨董(こっとう)録」(縦22センチ、横15・2センチ、100ページ)。茶山の子孫が館へ寄贈した資料約1万点の中にあった。

 中間は事件の朝、登城する約60人の行列中、駕籠(かご)の後方で馬を引いていた。

 <殿様御駕籠へ誰に候哉、刀抜連切て掛り候者数人有之、其勢之烈しく怖しき事言んかたなし>(殿様の駕籠に何者か分からないが、数人が刀を抜いて切りかかった。その勢いの激しさと言ったら、恐ろしくて言葉もない)

 〈其内に御駕籠の内か外か不存候へ共、大なる声にて一声叫び候声ハ耳本へ響て聞へ候、御供方ハ前後へ颯と逃散り、抜合候士も無之様に者相見候へ〉(そのうち駕籠の内か外か分からないが、大きな声が一声聞こえると、警護の武士は前後に逃げ散り、応戦する者はいないようだった)

 中間は恐ろしくなって馬を引いて井伊邸に戻った。

 10月には映画「桜田門外ノ変」が公開予定。時代考証を担当した西脇康・早大講師(日本近世史)は「井伊の家臣は口を閉ざした部分が多く、これだけの証言は残っていない。突然襲われて慌てふためいた行列の様子が分かる」と話す。

7/11 読売新聞

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入りたい幕末の組織 新人は「新撰組」、管理職は「海援隊」

2010-07-09 00:01:00 | 幕末ニュース
 NHK大河ドラマ『龍馬伝』や、菅直人首相の奇兵隊内閣発言などで注目を集めている幕末。社会人は幕末の人物や組織についてどのように考えているのだろうか。

 日本コカ・コーラの調査によると、歴史好きの有職者男女に「今の日本を維新してくれそうな幕末の人物」を尋ねたところ、トップは「坂本龍馬」で63.8%。以下、「勝海舟」が29.5%、「西郷隆盛」が20.8%、「福沢諭吉」が14.4%、「大久保利通」が12.9%、「高杉晋作」が11.9%、「桂小五郎」が10.8%で続いた。

 性別、年代別を問わず、すべてのカテゴリーで坂本龍馬が断トツのトップ。支持理由を尋ねると、「情熱と信念で厳しいこのご時勢を打破してくれそう」(新社会人男性)、「革新的な考えと行動力があると思うから」(管理職女性)といった声があった。

 「入ってみたいと思う幕末の組織は?」と聞くと、トップは「海援隊」で48.4%。以下、「新撰組」が35.1%、「白虎隊」が8.6%、「奇兵隊」が8.2%、「土佐勤皇党」が2.0%で続いた。

 年代別に見ると、新社会人では「海援隊」(男性37.0%、女性41.0%)より「新撰組」(男性48.0%、女性46.0%)の割合が高く、管理職では「新撰組」(男性18.0%、女性25.0%)より「海援隊」(男性64.0%、女性54.0%)の割合が高かった。

 管理職が「海援隊」を選んだ理由には、「新しいことができそう」「面白そう、楽しそう」「創造的」と会社組織としての自由さが多く寄せられた。一方、「新撰組」を選んだ新社会人からは、「志がある」「組織として団結力がある」という組織としてのまとまりや、「かっこいい」という理由が多く挙げられた。

 インターネットによる調査で、対象は22~59歳の歴史好きの有職者男女1000人(男性553人、女性447人)。調査期間は3月6日から8日。

7/7 Business Media 誠


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塩飽水夫 後世に伝えん 咸臨丸支えた35人の顕彰碑除幕

2010-06-28 09:00:00 | 幕末ニュース
 江戸幕府の軍艦・咸臨丸(かんりんまる)に乗り組んだ塩飽(しわく)諸島出身の水夫35人の功績をたたえる顕彰碑が、同諸島の櫃石島(坂出市)に建立され、26日、関係者ら約100人が集まって、除幕式が行われた。

 江戸幕府の軍艦・咸臨丸の渡米から今年で150年になるのに合わせ、県内の歴史愛好家の会「讃岐龍馬会塩飽社中」が、全国的にはあまり知られていない塩飽諸島出身の水夫たちの活躍に光をあてようと、企画した。

 碑は花こう岩で高さ2メートル、幅2・5メートル。咸臨丸の姿とともに、35人の名と「郷土の誇りとして その名を永く 後世に伝えん」との文字が刻まれている。

 式には、島民や子孫らが参加。除幕した後、全員で35人の冥福を祈った。大阪市から駆け付けた子孫の1人、藤本増夫さん(59)は「水夫の半数は、墓の場所も分かっておらず、碑に彼らの名が記されたことは意義深い。過酷な航海を支えた塩飽の男たちのことを多くの人に知ってほしい」と話していた。

6/27 読売新聞

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咸臨丸支えた塩飽水夫 35人の石碑 歴史愛好会が建立

2010-06-10 00:01:00 | 幕末ニュース
 江戸幕府の軍艦「咸臨丸」が幕末に渡米してから150年を記念して、県の歴史愛好家の会「讃岐龍馬会塩飽(しわく)社中」は、同船に水夫として乗り込んだ塩飽諸島出身の35人の功績をたたえる石碑を同諸島の櫃石(ひついし)島(坂出市)に建立。26日、子孫を招いて、除幕式を行う。同会の丸野忠義会長は「日本の船として初めて太平洋横断に成功した咸臨丸で、塩飽の人々が果たした役割は大きく、その歴史を語り継ぎたい」と話している。

 咸臨丸に乗り込んだ50人の水夫のうち35人が同諸島の本島、広島、高見島、櫃石島、牛島、佐柳(さなぎ)島、瀬居島の7島の出身者だった。

 塩飽の人々は古くから瀬戸内海の海運を担い、江戸時代は中期まで幕府の御用船方として城米の輸送など重要な役割を果たした。操船技術に長けていたことから、幕府の徴用を受けて咸臨丸に乗り込んだ。

 しかし、咸臨丸の航海での塩飽の人々の活躍は全国的にはあまり知られておらず、「過酷な航海を支えた塩飽の人々に光をあてたい」と、歴史愛好家ら約25人が2002年、会を結成。子孫や、墓を訪ねる調査などを進めてきた。漁港跡地に建てられる石碑は花こう岩で高さ2メートル、幅2・5メートル。太平洋の荒波を進む咸臨丸の写真を転写し、「郷土の誇りとして その名を永く 後世に伝えん」とする文字と、水夫35人の氏名を刻む。

 同会は04年6月、佐柳島出身で、同船の水夫で後に海援隊士となり坂本龍馬と行動を共にした佐柳高次(1835~91)を顕彰する石碑を同島に建てている。除幕式には大阪や櫃石島から水夫の子孫3人が訪れる予定で、子孫の1人で大阪市港区在住の藤本増夫さん(59)は「水夫たちの活躍は歴史の闇に埋もれている。全員の名を記した碑を故郷に建てることは意義があり、誇りに思う」と話している。

6/8 読売新聞

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幕末の長崎、彦馬が曽祖父を撮影 大阪・住吉の松山さん宅から発見

2010-06-09 00:01:00 | 幕末ニュース
 大阪市住吉区の松山宜子さん(75)宅で、国内初の職業写真家、上野彦馬(1838~1904)が幕末の長崎で撮影した肖像写真が見つかった。1866(慶応2)年の撮影で、被写体は松山さんの曽祖父で大洲藩士だった小野充之助。この年、上野彦馬は坂本龍馬も撮影し、龍馬の海援隊は大洲藩が所有した蒸気船「いろは丸」を借りていた歴史的経緯もあるだけに、松山さんは「曽祖父が長崎で龍馬と出会ったのだろうかと想像すると楽しい」と話す。

 写真は松山さんの母の死後、たんすから見つかった。松山さんが文献で調べたところ、大洲藩が「いろは丸」を購入する際、充之助も藩の一員として長崎に出向き、彦馬の写真館で撮影に臨んだとみられるという。写真が張られた台紙の裏には、「慶応二年四月」「於長崎」「上野」「写真」などの文字が読み取れる。

 松山さんは先月29日、兵庫県尼崎市で開催中の「第10回上野彦馬賞九州産業大学フォトコンテスト受賞作品展」(毎日新聞社など主催、6日まで)の会場を訪れ、東京大学大学院の倉持基・特任研究員=歴史写真論=に写真の鑑定を依頼。倉持研究員によると、充之助が座っている椅子、背景、床などが彦馬の写真館の特徴に一致するという。

 倉持研究員は「写真は保存状態がよく、彦馬の写真を研究する上で貴重な資料だ」と話している。松山さんは、写真を研究機関に提供する意向を示している。【津久井達】

6/5 毎日新聞


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武市半平太:所持の手槍、三鷹のコレクター公開へ

2010-06-05 00:01:00 | 幕末ニュース
 幕末の勤王家、武市半平太(1829~65年)が所持していたとみられる槍(やり)が三鷹市のコレクター、丹生(たんしょう)末雄さん(85)方で近く一般公開されることになった。

 丹生さんによると、この槍は約30年前に青梅市の所有者から買い取った。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」がブームになっていることから思いついて収蔵品を調べたところ、坂本龍馬の盟友だった武市半平太所持と伝えられる槍を確認した。約1・3メートルと通常より短く手槍と見られ、保存状態が良い。穂先は約10センチ。穂先の根元部分に「瑞山應好 行秀造」(瑞山の好みに応じて行秀造る)「文久癸亥(みずのとい)」と刻印されている。瑞山(ずいざん)は武市の号、行秀は土佐藩お抱え刀工の左行秀(さのゆきひで)、「文久癸亥」は武市が切腹する2年前の1863(文久3)年に符合する。

 武市は土佐勤王党の盟主で、藩論を尊皇攘夷(そんのうじょうい)に転換させる活動を繰り広げたが、前藩主の山内容堂に切腹を命じられる結果となった。丹生さんは「刻印の内容が武市に直結する。間違いなく武市が愛用していたと思う。これを護身用に所持して京都や江戸で活動していたのでしょう」と思いをはせている。

 丹生さんは同市下連雀3の自宅1階で、太宰治ゆかりの品を中心に300点以上のコレクションがある「街の小さな小さな文学館」を、入館無料で運営している。月間200人ほどが訪れる。「武市半平太の手槍」も加わわってさらに人気が高まりそうだ。


6/2 毎日新聞

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