●龍馬ゆかりの「寺田屋」、鳥羽伏見の戦いで焼けていた 9/25 読売新聞
幕末の歴史の舞台となった旅館「寺田屋」(京都市伏見区)が当時の建物でない可能性があるとされた問題で、京都市は25日、鳥羽伏見の戦い(1868年)で焼失した後、現在の建物が再建されたと考えられると発表した。
市は、観光案内のホームページに記載すると共に、旅館側には案内テープを修正するように求めた。
市は、市歴史資料館の文献資料などを調査。その結果、当時の瓦版に描かれた鳥羽伏見の戦いによる焼失地域に寺田屋が含まれることがわかった。さらに、女将(おかみ)・お登勢が、寺田屋で襲撃された坂本龍馬の妻・お龍にあてた手紙に、焼失後に建てたとみられる仮屋を意味する「かり屋」の文言があったことを確認した。
旅館を運営する会社の津幡学社長(35)は案内テープに「市の調査結果をつけ加える」とする一方、「鳥羽伏見の戦いで一部を被災したが、修理するなどして現在に至っている」などと反論。暗殺未遂事件で龍馬が放ったピストルの弾の跡や刀傷が柱などに残っていることについて、「刀傷や弾痕は、当時ついたものだ」と語った。
●<寺田屋>「幕末のまま」に京都市が「修正」要請 9/26 毎日新聞
幕末の寺田屋事件や坂本龍馬襲撃の舞台となった旅館「寺田屋」(京都市伏見区)について、市は25日、鳥羽伏見の戦い(1868年)で焼失したのに「当時そのまま」と誤解を招く解説をしているとして、説明の修正など適切な対応をとるよう要請した。市の観光案内ホームページにも注釈を付ける。
寺田屋はテープで「維新の舞台となった当時そのまま」と解説しており、入浴中だった妻おりょうが龍馬に襲撃を知らせるため素っ裸で駆け上がったとされる階段や弾痕、刀傷が当時のままと客は受け止めてきた。
疑義を呈する指摘があり、市が調査。当時の瓦版や、隣接地に建つ薩摩藩士の顕彰碑に寺田屋の「遺址(いし)」(建物の跡)と書かれていることなどから、鳥羽伏見の戦いで焼失したと結論付けた。運営会社の津幡学社長(35)は「被災したのは一部で、現存の建物は幕末当時のものと認識している。市の調査結果は説明に付け加えたい」としている。
●「寺田屋」は鳥羽伏見の戦いで焼失 京都市が公表 展示改善を要請 9/25 京都新聞
幕末の「寺田屋騒動」などの舞台として伏見観光の人気スポットとなっている京都市伏見区南浜町の旅館「寺田屋」について、市は25日、「(建物は)1868年の鳥羽伏見の戦いで焼失した」として幕末から残る建物ではないとの調査結果を公表した。
現在の寺田屋では柱の刀傷や弾痕などを1862年の寺田屋騒動で残った実物として展示しているが、当時の建物ではないとの一部報道があり、市が今月に入って調べていた。
市歴史資料館が、書物や石碑など9つの資料を点検した。鳥羽伏見の戦いがあった1868年1月27日直後に出たかわら版の地図で焼失範囲に寺田屋が含まれており、1906年に記された「寺田屋伊助申立書」にも戦いで焼失したとの文言があった。
現在の寺田屋東側に立つ薩摩藩士の顕彰碑(1894年建立)にも、壊された建築物を意味する「遺址(いし)」の言葉が刻まれている。
同館では「以前から当時の建物ではないと言われていたが、あらためて一つずつ資料を点検した結果、焼失したことが確認された」としている。
市は寺田屋に対して展示の改善を要請し、市観光協会などには各観光施設で展示に誤解を与えないよう周知することを求める文書を送った。
寺田屋は「あくまで市の見解であり、今までの旅館の取り組みがすべて否定されるものではない」と反論しているが、今後については「明確で分かりやすい展示を考えたい」としている。
幕末の歴史の舞台となった旅館「寺田屋」(京都市伏見区)が当時の建物でない可能性があるとされた問題で、京都市は25日、鳥羽伏見の戦い(1868年)で焼失した後、現在の建物が再建されたと考えられると発表した。
市は、観光案内のホームページに記載すると共に、旅館側には案内テープを修正するように求めた。
市は、市歴史資料館の文献資料などを調査。その結果、当時の瓦版に描かれた鳥羽伏見の戦いによる焼失地域に寺田屋が含まれることがわかった。さらに、女将(おかみ)・お登勢が、寺田屋で襲撃された坂本龍馬の妻・お龍にあてた手紙に、焼失後に建てたとみられる仮屋を意味する「かり屋」の文言があったことを確認した。
旅館を運営する会社の津幡学社長(35)は案内テープに「市の調査結果をつけ加える」とする一方、「鳥羽伏見の戦いで一部を被災したが、修理するなどして現在に至っている」などと反論。暗殺未遂事件で龍馬が放ったピストルの弾の跡や刀傷が柱などに残っていることについて、「刀傷や弾痕は、当時ついたものだ」と語った。
●<寺田屋>「幕末のまま」に京都市が「修正」要請 9/26 毎日新聞
幕末の寺田屋事件や坂本龍馬襲撃の舞台となった旅館「寺田屋」(京都市伏見区)について、市は25日、鳥羽伏見の戦い(1868年)で焼失したのに「当時そのまま」と誤解を招く解説をしているとして、説明の修正など適切な対応をとるよう要請した。市の観光案内ホームページにも注釈を付ける。
寺田屋はテープで「維新の舞台となった当時そのまま」と解説しており、入浴中だった妻おりょうが龍馬に襲撃を知らせるため素っ裸で駆け上がったとされる階段や弾痕、刀傷が当時のままと客は受け止めてきた。
疑義を呈する指摘があり、市が調査。当時の瓦版や、隣接地に建つ薩摩藩士の顕彰碑に寺田屋の「遺址(いし)」(建物の跡)と書かれていることなどから、鳥羽伏見の戦いで焼失したと結論付けた。運営会社の津幡学社長(35)は「被災したのは一部で、現存の建物は幕末当時のものと認識している。市の調査結果は説明に付け加えたい」としている。
●「寺田屋」は鳥羽伏見の戦いで焼失 京都市が公表 展示改善を要請 9/25 京都新聞
幕末の「寺田屋騒動」などの舞台として伏見観光の人気スポットとなっている京都市伏見区南浜町の旅館「寺田屋」について、市は25日、「(建物は)1868年の鳥羽伏見の戦いで焼失した」として幕末から残る建物ではないとの調査結果を公表した。
現在の寺田屋では柱の刀傷や弾痕などを1862年の寺田屋騒動で残った実物として展示しているが、当時の建物ではないとの一部報道があり、市が今月に入って調べていた。
市歴史資料館が、書物や石碑など9つの資料を点検した。鳥羽伏見の戦いがあった1868年1月27日直後に出たかわら版の地図で焼失範囲に寺田屋が含まれており、1906年に記された「寺田屋伊助申立書」にも戦いで焼失したとの文言があった。
現在の寺田屋東側に立つ薩摩藩士の顕彰碑(1894年建立)にも、壊された建築物を意味する「遺址(いし)」の言葉が刻まれている。
同館では「以前から当時の建物ではないと言われていたが、あらためて一つずつ資料を点検した結果、焼失したことが確認された」としている。
市は寺田屋に対して展示の改善を要請し、市観光協会などには各観光施設で展示に誤解を与えないよう周知することを求める文書を送った。
寺田屋は「あくまで市の見解であり、今までの旅館の取り組みがすべて否定されるものではない」と反論しているが、今後については「明確で分かりやすい展示を考えたい」としている。
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