どうもit'sよしおです。
本日は『希死念慮ではないが』です。
私は現在35歳です。
ここ1〜2年くらいずっと思っているのですが、
『いつ死んでもいいか』と考えて生きています。
格別ここ最近はこの思考が強いなと感じています。
とはいえ、じゃあ自殺したいのか❓
と聞かれれば、迷わず『しません』と答えます。
そもそも、人間だろうが、ニャンコ🐱やワンコ🐶だろうが、
生きてる物は死ぬ時が必ず訪れます。
しかも、タイムリミットは基本的に非表示です。
健康な人が朝家を出て、そのまま帰らぬ人となることもあるわけです。
それって当然自分にも言えるよね。
と、私it'sよしおは思うのです。
以前はこんな感覚無かったのですが、
『7つの習慣』(スティーブン・コビィー著)
を読んで以降、徐々に意識し始め、現在に至るわけです。
まあ、簡単に言えばですが、
遅かれ早かれ必ず訪れる『死』に対して、恐れるだけではなく、ゴールを見据えてその日その時をやりきりましょうよ。
といった具合ですね。
※その日暮らしってわけでも無いのです。約半年継続的に行なっている筋トレは健康寿命稼ぎでもあります。
この『いつ死んでもいいか』の感覚は、なかなか不思議なものです。
私it'sよしおの中では、案外ネガティブな要素は無いのです。どちらかといえば、ポジティブなのかなと感じます。
この人と会うのは今日で最後かもしれないなと思えば、少しだけ優しくも出来ます。
また逆に、もうこの人との関係は時間の無駄だ。価値があると思える人と時間を使いたいと思えば、あっさり切り捨てることも可能なわけです。
要はメリハリです。
しかも対象は人だけではありません。
あれがしたい。これがしたい。でもこれはしたくない。
そんなの誰にでもありますね。
それらも自由意志であっさり仕掛けることが出来るようになった気がします。
可能な範囲で精力的に『新しいこと』にも挑戦していますし。
私it'sよしお的には、このブログも新しいことの一つでした。
まとめると、
人生は『遊び』だ。
以上です。
※『遊び』とは生存上の利の有無に関わらず、心を満足させることを主とした活動。
他人との相乗効果についての意識が無ければ確かに人生は遊びにしかならないでしょう。
人生とは苦である。
ZIP
わたしも「いつ死んでもいい」とポジティブに考えているほうで、だからといってもちろん今すぐ命を絶つ気はありません。
そんななので、家庭生活は辛抱と忍耐を強いられても、そのころは苦でしたが乗り越えられました^ー^
「人生は『遊び』だ」、面白いですね。
わたしは仕事も遊びも同じように一所懸命なタイプで、それなりに人生を楽しんでもいるでしょうかね。
ツラい時期もありましたが、若いころの予測より成功してるかもしれません^ー^b
よしおさんは30代、これからですね♪
人生は『苦』である。
これに関しては私も同感です。人生には苦痛が付き物です。
私は仏教徒ではありませんが、仏教的思想は好きです。そして、お釈迦さんは人生は苦であると言っていたとか。
その苦は煩悩として表されていますね。
また、その苦を如何に断ち切るか。これが、仏教が2000年以上も支持されている所以だと私は感じています。
私が今回申し上げたのは、『遊び』です。
が、この本文で述べた遊びとは、ゲームセンターに行く。ソシャゲをする。等とは全くの別物です。
調べて頂ければすぐにお分かりになると思われますが、本来の遊びの意味は通常使われる意味とは若干表現が異なります。
要は、『心が満たされる行為』なのですね。
例えば、窓をきれいに磨き上げる。この行為も『自発的に実行し、満足すれば遊び』となるわけです。
また、なにも人と協力しないのがポリシー等とは言っていませんよ。
よしおさんのコメント、共鳴しました。
わたしの場合、若いころは可能性はありましたが、そのころから期待も夢もありませんでした。
そのせいか、苦痛も受け入れられたほうかもしれません。
人生に期待して夢が大きい、そんな場合、苦痛が大きいのでしょうか。
あと、わたしは日常生活において、マストを外しています。
歯を磨かないと、お風呂に入らないと、でなく、
歯を磨きたい、お風呂に入りたい、という欲求に忠実にしています。
トイレ掃除も「きれいにしたい」と思ってやると、きれいになってスッキリです。
よしおさんの自由意思と似ているでしょうか。
まあ、期待や夢がなかったことで、ずいぶんと自分を犠牲にしたかわかりませんが、
若いころの予測より、かなり成功したかもしれません。
戦争に負けるまで、日本語の「愛」の意味は自己犠牲を伴いました。それが英語の「love」との違いです。
開き直って、自分の人生に飛び込むこと、それは自己犠牲に近いかもしれませんが、
そうすることで現実を受け入れられるかもしれません。
充実なんて考えていると、忙殺も苦痛です。
人生は苦痛の連続、と五木寛之先生も大河の一滴で書かれていましたが、
わたしは苦痛の連続を免れています。
私は「苦」を人生に適用させているだけです。
心が満たされる行為とは、自尊心が高まる為の行為、つまり家族や仕事ならびに健康、また財産や地位・名誉・肩書といったような社会的に自立した暮らしによって得られる他人からの評価、社会的通念上において「善」とみなされる行為によって自己充足感が得られること。
一方「遊び」とは社会通念上他人から評価されることのない無意味な価値無き行為によって自己充足感を得られることでしょう。
仏教はそもそも、苦しみによって成り立つことが人生の前提であり、自己が充足感で満たされるような人生を前提にはしていないわけです。
もし仮に、自分のお子さんが希死念慮を抱くようなことがあれば、たちどころに自己の充足感など消失してしまうのが普通でしょう。
得られる喜びよりも、むしろ失われることの苦痛が人生の本質だと私自身は思います。