縄文人の反乱 日本を大事に

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

★乳母(うば、めのと)

2012年03月02日 19時25分55秒 | 色んな情報
★乳母(うば、めのと)
私はお婆ちゃん子で中一まで一緒に寝ていた。
幾つくらいまでかお乳を飲んでいた。
双子だった為に 妹は母が私は祖母に育てられた。
祖母はお乳が出るというので何人もにお乳をあげていた。
詳しくは聞いてないけれども私には乳兄弟が何人もいると。
昔はよくもらい乳をしたモノである。
 
乳母車がこんなにも種類が得るとは知らなかった。
イヌを運ぶモノまである。
障害を持っているわけでもないのにどうして車に乗せて運ぶのかは疑問である。
道具は便利だから使うモノで考案もされる。
其れを使う人の心がけ一つでより便利にも成る。
子供を乗せたベビーカーは人混みの中ではヤハリマナーを考えないと行けないね。
 
姥捨て山は私もそんな年に近付きつつある年に成ってきている。
今の時代はこの思想が反映する時代。
世の中の動きもそんな感じに成って来ている。
道具は使い捨て。
寂しい時代ではある。
其れが時代だと言われれば何も言えなくなるけど。
 
 
★乳母 - Wikipedia http://bit.ly/A0Hgwr
 乳母(うば、めのと)とは、母親に代わって子育てをする女性のこと。

★乳母は自分の子供をどうしたのでしょうか | OKWave http://bit.ly/xyfy9w
★秀忠の乳母「大姥局」とはどういう人か http://bit.ly/wESGfB
★乳母 http://bit.ly/zEunvc
★信長-母と乳母 http://bit.ly/yFyE87

★大姥局 - Wikipedia http://bit.ly/yqQevy
大姥局(おおうばのつぼね、大永5年(1525年) - 慶長18年1月26日(1613年3月17日))は、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の乳母。今川家家臣岡部貞綱の娘で、夫は穴山梅雪 家臣の川村善右衛門重忠。甥に徳川家家臣の岡部永綱がいる。
★西郷局 - Wikipedia http://bit.ly/ykR1ql
西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年) - 天正17年5月19日(1589年7月1日))は戦国時代・安土桃山時代の女性。戸塚忠春の娘という。通称お愛の方。徳川家康の側室として知られ、最愛の側室だったとも言われている。
★四字熟語・乳母日傘(おんばひがさ) http://bit.ly/AhANqh
昔、江戸時代の初めごろ、お金が有りぜいたくな生活のできる家の子が生まれると、乳母(うば)という女性を使って、子供を育てたり、また、外に出る時には、強い日射しを 避(さ)けるため、日傘をさしかけて大事に育てられたようすを言った言葉のようです。

★乳母桜 http://bit.ly/yPNoax 小泉八雲(ラフカデェオ・ハーン)の「怪談」
★姥桜(うばさくら)に伝わる話 http://bit.ly/xx5GdE
★大宝寺と乳母桜
http://www.youtube.com/watch?v=RpgPBdJcJZ8

★う ば が 橋 伝 説 http://bit.ly/wf7B5j
其の後この池を、
『うばが池』
と言い、池の入り口にある橋を、
『うばが橋』
と言うようになった。

★乳母(うば)石 http://bit.ly/xQ3y42
■乳母石は下(しも->下半身)の病の神様でその御神体を乳母石と呼ぶ。一説には「姥神」とも、「優婆神」とも書くらしい。
★乳母制度と頼朝・頼家・実朝 http://bit.ly/xYijJM
鎌倉時代の「乳母」(めのと)というのは、生まれた子に乳をあげる役目の「うばさん」ではなく、若君の養育係という意味をもっていました。

★うば捨て山 <福娘童話集 きょうの日本昔話> http://bit.ly/Au4KRQ
むかしむかし、六十才をこえたお年寄りを、『うば捨て山』という山に捨てる国がありま した。はじめは食べ物がなくなったために仕方なくお年寄りを捨てていたのですが、食べ物がある今でも、この国では六十才をこえたお年寄りを山に捨てるのです。そうしないと、 ...

★姥捨て山・姨捨山
■老婆心(ろうばしん)
自分のことは一切考えにいれず、ただ相手をおもいやる心、これを老婆心といいます。
姥捨て山の話をご存知でしょうか、ある地方では年老いた老婆を山に捨てるという話です。

★5.『遠野物語』がいう「現在の事実」と、『時代ト農政』の現実との間 http://bit.ly/wD5nqj

★楢山節考と有料老人ホーム http://bit.ly/zp0dgy

★うばすてやま - Wikipedia http://bit.ly/w0ouw6
★姨捨山 - Wikipedia http://bit.ly/y7KWGI

★乳母車 - Wikipedia http://bit.ly/yNjlqn
★三途の川の乳母車 子連れ狼 中村勤之助 http://bit.ly/xwCjx4

★犬専用の乳母車も http://bit.ly/xr4t6y
★日本最初の乳母車 http://bit.ly/y8GFFb
★乳母車のマナーについて http://bit.ly/yx0eyd

★ハル・ノートから始まってアメリカがしてきた事 現状の日本は

2012年03月02日 19時25分55秒 | 色んな情報
★ハル・ノートから始まってアメリカがしてきた事 現状の日本は
アングロ・サクソン人から始まった世界征服思想。
白人至上主義の名の下に地球上のあらゆる処に進出して幾多の人を抹殺 殺戮してきた。
植民地にしてあらゆる暴利を貪った。
今でもその夢を追い続けている。
白色人種はあらゆる有色人種よりも上で従えていく。
デモ学説で白人は人種で言えば最低の人種になる。
今やこの勢力にシナという人種が加わっている。
この国には半島人も加わり暴利を貪りモットくれと行ってる。
ガキ以下の国ばかり。
日本は昔から哀れみを持ち優しさを持つ民族。
神話を取り上げ神道と仏教をも奪った。
それでも血の中に流れているモノまでは奪えなかった。
何かの機会さえ有れば其れは覚醒する。
それほど長い期間 我々の中で熟成されてきたから。
 
 
★アングロ・サクソン人 - Wikipedia http://bit.ly/x0YzTi
5世紀頃、現在のドイツ北岸、南部よりグレートブリテン島に侵入してきたアングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称である。この中でサクソン人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築いた。
409年にローマ帝国がブリタンニアを放棄した後、現在のデンマーク、北部ドイツ周辺にいたゲルマン人が、グレートブリテン島に渡ってきた。
彼らは先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐した。
これが英国における最初のアングロ・サクソン人である。彼らの言葉が英語の基礎となった。
彼らはイングランドの各地に小王国を築いていった。7世紀頃には、イングランドは7つの王国(七王国)にまとまっていったが、9世紀初めには、ウェセックス王エグバートのもとで、サクソン人のウェセックス王国が強大となって、イングランド全域を支配した。それ以降、一時期はデーン人に支配され、デンマーク王の下にあった。
アングロ・サクソン人はその後また、イングランドを支配した。これは1066年、ギヨーム2世(=ウィリアム1世)によるノルマン・コンクエストまで続いた。
★アングロサクソン集団の素描 1 奴隷 http://bit.ly/zdNXyn
アメリカやイギリスはアングロサクソンという民族が国家を作っている.
アメリカの独立はフランス革命の影響を受けているが、それは白人だけだった.
それもそうで、フランス革命の時に打ち立てられたと日本の学校で教えている「平等」というのは「白人男性」だけのもので、フランス人ですら、女性参政権は1946年である.
★アングロサクソン・ミッション http://bit.ly/zFqgeo
歴史家によれば、”アングロサクソン・ミッション” というのは、8世紀のキリスト教布教活動の拡大のことを指す言葉だそうです。
 しかしそれから1000年以上経て、今、それよりもはるかに邪悪で悪意ある別の意味合いがそのフレーズには付せられています。
 我々(プロジェクト・アバロン)は、最近11ページに及ぶ情報を内部情報提供者から受け取りました。
★ハル・ノート - Wikipedia http://bit.ly/sHkH0J
太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、1941年11月26日にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。
正式にはアメリカ合衆国と日本国の間の協定で提案された基礎の概要(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan、日米協定基礎概要案)と称する。
日米交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている。ハル・ノートに関しては、「(事実上の)最後通牒であった」とする解釈と、「最後通牒ではない」とする解釈とがある。
 
★ハル・ノート(日米間協定の提案基礎の概要)     http://bit.ly/z0LXdD
★ハル・ノート(日米間協定の提案基礎の概要)(詳細) http://bit.ly/xNEr0i
★ハル「四原則」(1941年4月)http://bit.ly/wrKv4j
★九ヶ国条約(1922年)http://bit.ly/wVcNe0
★仏印進駐(ふついんしんちゅう)http://bit.ly/AqPZHP
第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことを指す。
1940年の北部仏印進駐と、1941年の南部仏印進駐に分けられる。
1940年9月、日中戦争により日本と交戦中の中華民国の蒋介石政権に対して行われていたイギリスやアメリカ合衆国などによる軍事援助ルート、いわゆる援蒋ルートを、インドシナ半島において遮断する目的で行われた。
 
★ABCD包囲網(ABCDほういもう)http://bit.ly/AnHrkQ
1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に当時の日本が付けた名称。
「ABCD」とは、制限を行っていたアメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、対戦国であった中華民国(China)の頭文字を並べたものである。ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインとも呼ばれる。
この呼称は日本の新聞が用いたものとされるが、初出については良く分かっていない。
 
★大東亜戦争 http://bit.ly/w8HqWb
大東亜戦争(だいとうあせんそう、旧字体:大東亞戰爭、Greater East Asia War)は、日本(大日本帝国)がアメリカ合衆国やイギリス、中華民国などの連合国と行った戦争。本項では「大東亜戦争」という呼称に関する議論について述べる。
 
★太平洋戦争(たいへいようせんそう、英: Pacific War、中: 太平洋战争)http://bit.ly/w0atch
当時日本政府は大東亜戦争と呼称していたが、敗戦後連合国に使用を禁じられた。
 
★支那事変(しなじへん)http://bit.ly/wFw6A9
1937年(昭和12年)から始まった日本と中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘である(ただし、両国とも宣戦布告を行わなかったため事変と称する)。
「支那事変」という呼称は、当時の日本政府が定めた公称であるが、現在は日中戦争と呼ばれる。
当項目では「支那事変」という「呼称」について解説する。
★日中戦争(にっちゅうせんそう、中国語: 中国抗日战争)http://bit.ly/yO79Qx
 
★支那事変 - 第一次大戦 http://bit.ly/yyjOOH
支那事変は日清、日露戦争と同じ系列の戦争で、日本軍は後方=本土からの兵站線を 維持できた戦いだった。この点で太平洋戦争とは決定的に異なる。
太平洋戦争の中心、島嶼戦において、終始、陸軍の兵站線は切断されていた。
 
★アメリカが戦後「日本人から神道と仏教を奪った結果、『偏差値』と『ともだち』しか気にしない愚民になった」 http://bit.ly/Aze9QZ

★日本・中国含むアジアから科学で神々しさを奪った白人共が未だに神様信じててワロタw http://bit.ly/xSyKA5

★魂の外交官 重光葵に帰れ―吉田ドクトリンから重光ドクトリンへ(福冨健一氏) http://bit.ly/zHa1fS

★ホルムズ海峡に海上自衛隊を派遣すべき http://bit.ly/yR0BTx
国際社会では連合軍に参加しない国は、裏で暗躍する悪い国と認識される。
つまり、白人世界の歴史では多かったのだ。
だから独自行動を採用する国は火事場泥とか卑怯な国と認識される。
日本は明治次第から日本独自の外交を採用して世界から孤立したことを忘れてはならない。
その時の強国が連合軍参加を要請したら参加するのが国際社会のマナーなのだ。
それは現状維持派だから世界の治安と安定を大義名分にしている。だから拒絶できないのだ。
 
★民族教育=エリート教育2 http://bit.ly/y48fzq
戦後日本の教育はアメリカ式であることは前回述べました。ですが不思議に思われるはずです。
外国に押し付けられた教育などは日本が拒絶するか、講和条約成立後に廃止して日本の教育に戻せば良いはずだと。
アメリカは日本の長所と短所を研究していたので、日本弱体化政策は徹底していました。
アメリカが望んでいたのは弱い日本でありコントロールできる日本でした。
戦後アメリカは日本がコントロールできないので困惑しています。
それは当然。戦後日本の教育は見た目はアメリカ式ですが改変されているからです。
教育システムはアメリカ式でも方針が変えられています。それは平等。
アメリカでは飛び級と落第が有りますが日本の教育システムには有りません。
それどころか分数の計算ができなくても大学にまで入れる悪しき平等が付加されました。
 
★日本人テロリストによる、神の裔・昭和天皇と明仁皇太子・美智子同妃暗殺未遂・戦後・昭和20年8月16日   http://bit.ly/zxXp4n
★3 日本における家族の崩壊とその修復 http://bit.ly/x94vze
本来、家庭というものは、人間がもっとも安心して暮らせる憩いの場であったはずだ。ところが最近では、この家庭内において、親が子を虐待し殺害したり、逆に子が親を殺害したりする事件が毎日、日本のどこかで起こっている有り様だ。
 
★日本人は知らない原爆投下の真実 http://bit.ly/xWICaU
欧米諸国の侵略・略奪植民地主義から日本やアジア諸国を守 ろうとし命を落としていった先祖達は悪で、原爆を落としたアメリカが正義なのか!
 
★GHQ(Ⅰ)http://bit.ly/xbI2gD

★風流   ●日本文化の礎

2012年03月02日 19時25分55秒 | 色んな情報
★風流   ●日本文化の礎
ワビ サビに通じて歌舞伎にも通じる。
日本語の良さを感じた。
色んな言葉がある。
どれが先に出来たか後から付いてきたか。
そんな事は判らない。
色んな言葉が日本文化 日本を縦糸と横糸になり紡ぎ出している。
子孫である我々が其れを一つ一つ解しどのような繋で繋ぎ合わされているか。
時には振り回されて和氣が判らなくなったりもする。
日本語とは凄いね。
 
 
★風流 - Wikipedia http://bit.ly/yUeSJ7
風流(ふりゅう)とは、中世以後の日本において高揚した美意識の1つ。
人目を驚かすために華美な趣向を凝らした意匠を指し、婆娑羅や数寄とともに侘び・寂びと対峙する存在として認識された。
後にはこうした意匠に沿った芸能や美術・建築などにも用いられた。
なお、室町時代の漢和辞典である『下学集』には「風流の義也。日本の俗、拍子物を呼びて風流と曰ふ」とある。
現代の日本語で日常的に用いられる「風流(ふうりゅう)」の言葉の指す美意識とは若干異なるものである。
『万葉集』においては、「みやび」と和訓が振られ、「好き心」などの意味も有したが、平安時代には歌合などの行事に用いる故事や文芸作品に由来する作り物や衣装などの意味で用いられ、平安末期以後には祭礼の山車や衣装、宴席の州浜台などに施された華美な趣向を指して「風流」と呼ぶようになった。
また、こうした嗜好を好む人を風流者(ふりゅうざ)とも呼んだ。
一方で、永長元年(1096年)には貴族・官人から庶民までが風流な格好を纏って田楽を演じながら行進した永長大田楽や久寿元年(1154年)の今宮社御霊会において傘の上に風流な飾りの花を掲げて唄い囃した「風流のあそび」が行われ(『梁塵秘抄口伝集』巻14)、後世における音曲や歌で囃す「風流」の原型が記録されている。
 
★ばさら http://bit.ly/xMcaCE
日本の中世、南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられた。
婆娑羅など幾つかの漢字表記があり、梵語(サンスクリット語)で「vajra = 金剛石(ダイヤモンド)」を意味するが意味の転訛は不明であるとされる。
身分秩序を無視して公家や天皇といった時の権威を軽んじて反撥し、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識であり、後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽となった。
足利直義主導の下に、室町幕府の基本方針として編まれた『建武式目』では、ばさらを禁止している。
ばさらに対して批判的な古典『太平記』には、足利氏筆頭執事の高師直や、近江国(滋賀県)の守護大名の佐々木道誉(高氏)、美濃国(岐阜県)の守護大名の土岐頼遠などのばさら的な言動・行動が記されている。
これらの大名は「ばさら大名」と呼称されている。
 
★サンスクリット語(梵語から転送)http://bit.ly/zXRJV5
 サンスクリット (梵: संस्कृत; saṃskṛta, Sanskrit) は古代から中世にかけて、インド亜大陸や東南アジアにおいて用いられていた言語。
現在の母語話者は少ないが、インドでは憲法で認知された22の公用語の一つである。
宗教的な面から見ると、ヒンドゥー教、仏教、シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語であり、その権威は現在も大きい。
日本では、一般には言語であることを明示して「サンスクリット語」と呼ばれる。
また、古くは梵語(ぼんご、ブラフマンの言葉)とも呼ばれた。
なお、日本における仏教関連の辞典や書物では skt などと略称される。
 
★数寄者(数奇から転送)http://bit.ly/AuDWk4
 数寄者(すきしゃ、すきもの)は芸道に執心な人物の俗称。
「数奇者」と書く場合もある。
現代では、本業とは別に茶の湯に熱心な人物、特に多くの茶道具を所有する人物として用いられる。
「数寄」とは本来「好き」の意味であり、特殊な当て字として流布している。
専門業とはせずに何らかの芸事に打ち込む様を、特に「すき」と称しているのであり、現代の俗語としては「あんたもすきね」「ものずき」などに通じる。
古くは「すきもの」とは和歌を作ることに執心な人物を指した様であるが、室町時代には連歌が流行し、特に「数寄」が連歌を指すようになったとされる。
さらに桃山時代には富裕な町衆の間で茶の湯が流行し、「数寄」も連歌から茶の湯へと意味を変えている。
このため江戸時代には、数寄のための家「数寄屋」も茶室の別称として定着する。
なお近代になって財界人の間で茶の湯が流行するが、こうした茶人達は多くの名物道具の収集を行っており、その様が桃山時代の数寄者に似るところから「近代数寄者」と呼ばれる。
特に益田孝と原三渓を初めとして、根津嘉一郎 (初代)、小林一三、五島慶太、細川護立らが有名である。
 
★数寄屋造り(すきやづくり)http://bit.ly/wOmXV2
日本の建築様式の一つであり、数寄屋(茶室)風を取り入れた住宅の様式とされる。
語源の「数寄」(数奇)とは和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことであり(数寄者参照)、「数寄屋」は「好みに任せて作った家」といった意味で茶室を意味する。
数奇屋大工(大工を参照)が造る木造軸組工法の家屋。
 
★茶室(ちゃしつ)http://bit.ly/yfWBHw
茶事の主催者(主人、亭主)が客を招き、茶を出してもてなすために造られる施設である。
日本庭園の中に造り、露地を設けるのが一般的であったが、近年ではホテルや公会堂、商業ビルの一角などに造られることもある。
また茶道部があるために、キャンパス内の片隅に茶室を構えている大学も多い。
茶道の稽古をしたり、茶を楽しむために炉が切ってある和室(畳のある部屋)も一般に茶室と呼ばれるが、本項では主に四畳半以下の草庵風茶室について述べる。
 
★露地(ろじ)http://bit.ly/zPO2jY
茶庭ともいい、茶室に付随する庭園の通称である。
(一般的には露地とは屋根などの覆いのない地面のこと。露地栽培、露地いちごなどという。)
本来は路地であるが、江戸時代の茶書『南方録』などにおいてこの「露地」という名称が登場している。これは『法華経』の「譬喩品」に登場する言葉であり、当時の茶道が仏教を用いた理論化を目指していた状況を窺わせる。
以後禅宗を強調する立場の茶人達によって流布され、今日では茶庭の雅称として定着している。
 
★歌舞伎者 http://bit.ly/yrFP5V
 かぶき者(かぶきもの。傾奇者・歌舞伎者とも表記)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。特に慶長から寛永年間(1596年~1643年)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した。
異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。
茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味である。
 
★歌舞伎(かぶき)http://bit.ly/vTJnT1
歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。
戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」で、慶長年間(1596年 - 1615年)に京・江戸で一世を風靡したのが出雲阿国である。慶長8年(1603年)京都で始めたと言われる。
その後阿国を模倣したさまざまな踊りが世に出たが、その多くが「かぶき踊り」の範疇で受け取られた。これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。
この「かぶき」に「歌い舞う芸妓」の意から「歌舞妓」と当て字したのはその後のことだった。
寛永6年(1629年)に女歌舞伎が禁止されると、芸妓に連なる「妓」の字に代わって伎楽に連なる「伎」の字を用いた「歌舞伎」の表記が見られるようになるが、江戸時代を通じてこの「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていた。これが現在のように「歌舞伎」に落ち着いたのは明治になってからのことである。
 
★わび・さび(侘・寂)http://bit.ly/xiSklq
日本の美意識の1つ。一般的に、質素で静かなものを指す。
本来侘(わび)と寂(さび)は別の概念であるが、現代ではひとまとめにされて語られることが多い。
侘(わび、侘びとも)とは、動詞「わぶ」の名詞形で、その意味は、形容詞「わびしい」から容易に理解されるように「立派な状態に対する劣った状態」となる。
転じては「粗末な様子」、あるいは「簡素な様子」を意味している。
もっと端的にいえば「貧しい様子」「貧乏」ということになろうか。本来は良い概念ではなかったが、禅宗の影響などもあってこれが積極的に評価され、美意識の中にとりこまれていった。
 
★美意識(びいしき)http://bit.ly/zezs4f
人が美しいと感じる心の働き。
美しいと感じる対象は個体差が大きく、時代、地域、社会、集団、環境などによっても大きく異なる。
例えば、整然と並ぶものに美を感じるものもいれば、ランダムに並ぶさまに美を感じるものもいる。
左右対称を美しいと感じるものもいれば非対称に美を見出すものもいる。無調を心地よいと感じるか否かなども美意識に関連している場合がある。
西欧では華美な装飾や対称の美しさを核とした人工の美をその美意識の中心においているが、日本人の美意識はむしろ自然と対立せず、寺社、庭園に見るように、自然に溶け込むこと、朽ちては再生するプロセスそのものへの馴染み、死をも敵対するものとしては捉えず、侘(わび)、寂(さび)に見るように朽ち果てゆくものへの素朴な同調などが基調になっている。
粋は江戸時代後期の文化文政期の町人の間に生まれた美意識である。建築において、コンクリート打ち放しを美しいと感じるか否かなどは、近年問いかけられたテーマである。
世阿弥が「秘すれば花」と表現したが、日本人には全体的調和を重んじ自己主張を抑制し隠蔽することによって却って受け手の想像力を刺激し、日本人特有の奥深い表現を成しえるといった側面があるように、その国特有の文化、生活、歴史観などに大きく左右される部分が多い。
あるいは、住んでいる環境・自然から受ける影響も大きいと考えられる。自然と対峙するか、自然と調和するかによって美意識は大きく異なる。
 
★風流踊 http://bit.ly/yv7AWt
 風流踊(ふりゅうおどり)または風流(ふりゅう)
中世芸能のひとつで、鉦・太鼓・笛など囃しものの器楽演奏や小歌に合わせて様々な衣装を着た人びとが群舞する踊りである。
室町時代に流行した。
 
★煎茶道 美風流 http://bifuuryuu.com/ 『茶経』の復原
★風流仏 幸田露伴 http://bit.ly/AxLhyb 小説
★風流に「桜」をたしなむ猫たちの画像と動画特集 http://bit.ly/wkFEso
★日本國風流詩吟吟舞会 http://bit.ly/xCn3ZZ  吟舞 漢詩 邦楽の楽しみ
★日立風流物 [発見!!いばらき] http://bit.ly/Agmo0u 山車(だし)の上で行われる からくり人形芝居

●紋服(もんぷく)●紋付(もんつき)

2012年03月02日 19時25分55秒 | 色んな情報
●紋服(もんぷく)●紋付(もんつき)
着物はほとんど見かけなくなった。
以前紹介した着物の日記で紹介した人のように着物を楽しんで着なくなっている。
合理的で動きやすいのは洋服の利点になる。
着物文化の中で紋服正装は今でも着る機会が多い。
葬儀とか結婚式などである。
 
時代劇を見ると紋服を武士は当たり前のように着ている。
総てでは無いだろうが紋服を着ているのが普段でも当たり前で有ったようだ。
デモ実際は男女ともどういう服装なのかはハッキリしないようだ。
幕末に何枚かの写真を撮ったようで残っているモノはほとんどが正装。
当時の写真は準備も大変なので凄く高価だったようだ。
今はスイッチ本で ハイ 一丁上がりで素人でも簡単に写せる。
 
モンは昔は家柄や格式 色んなモノが一目で判った。
今は人見ても余程観察眼がないと何も判らない。
髪の毛から足下まで昔は一目で色んな事が判った。
フランスで問題になったブブカと言ったかな。(名前違ったらごめんなさい)
足下までスッポリ被る女の人の服装。
したに自動拳銃などの武器を隠し持っていても判らない。
不気味と言う感覚もあるので問題視されていた。
服装はヤハリ大事なモノだとは思う。
 
 
★紋付 - Wikipediahttp://bit.ly/wxXN4p
 紋付(もんつき)とは家紋の入った着物のこと。
 紋服(もんぷく)ともいう。
 紋付という言葉には二義あり、一つは紋の入った着物一般もしくは着物に紋が入っていることを指して用い、もう一つは特に男物の紋付小袖の略称として用いる。
しかし、紋付とのみ言った場合には後者のほうが一般的で、羽織、裃、女ものの着物は含まれない。
本項では紋付小袖について述べる(着物に紋が入ることの意味に関しては家紋の項を参照)。
 
★家紋(かもん)http://bit.ly/xug1f0
特に日本において古くより出自といった自らの家系、血統、家柄・地位を表すために用いられてきた紋章である。単に紋所(もんどころ)や紋とも呼ばれる。
日本だけで241種、5116紋以上の家紋がある。
また、現在採取されているだけで2万近くの家紋が確認されている。
英語圏で用いられる象徴(Symbol)は抽象的な図案を指し、紋章(Coat of arms)は視覚的な図案を指すが、日本の家紋は「兜飾り」の意味から Family crest、Crest といった英語で表現されている。
これは西洋の個人紋章(Coat of arms)の構成要素であるクレスト(Crest)は一族・家族で共有することがあり、日本の家紋と同様の機能を有するからである。日本名を音訳して mon、kamon とする場合もある。
 
★紋章(もんしょう、英: Coat of Arms)http://bit.ly/wVhjJK
個人及び家系をはじめとして、地方自治体や国家、並びに学校、公的機関、組合(ギルド)、軍隊の部隊などの組織及び団体などを識別し、特定する意匠又は図案である。紋章の定義には諸説あるが、おおむね紋章が持つべき最低限の要件は2点である。
それは、個人を識別できるようまったく同じ図案の紋章が2つ以上あってはならないことと、代々継承された実績を持つ世襲的なものであることである。
厳密な意味では、紋章と呼べる要件を満たしているものはヨーロッパと日本にしか存在しない。
それ以外のものは、いずれも「しるし」と訳される「エンブレム」や「インシグニア」と呼ばれて区別されるが、しばしば紋章と混同される。
 
★家系(かけい)http://bit.ly/wbrwiy
 血筋、血脈のことを指す。
一定の血族集団の中で一定の階級または氏、家名、家格、家業、家財を世襲で継承する場合、或いは先祖伝来の地位或いは家業を受け継ぐ場合につかわれることが多い。
類似概念としては家柄などがある。
 
★階級(かいきゅう) http://bit.ly/AaNYBG
★氏(うじ)http://bit.ly/yzfZJq
家(家族)の名称。代々引き継がれ、系統(家系)を表す名称となる。姓氏(せいし)、姓(せい、本姓)、名字(苗字)。
中世後期から明治時代初期まで、氏とは「姓」(せい、本姓)を指し、「名字」(苗字)とは区別された。
1898年(明治31年)に公布された民法では、氏は「家」の名称と規定された。
1947年(昭和22年)の改正後の民法では、氏は「名」とともに個人の名称となるものと規定される。
原則として、婚姻中の夫婦と未婚の子は、同じ氏を称する。
→家の名称としての「氏」
★名字(みょうじ、苗字)http://bit.ly/wqp3XG
家(家系、家族)の名のこと。
法律上は氏と呼ばれ(民法750条、790条など)、一般には姓ともいう。
 
★家格(かかく)http://bit.ly/yDTK5U
歴史において、ある氏族や家系が得た又は与えられた格式・評価をいう用語。
 
★氏族(しぞく、うじぞく、clan)http://bit.ly/w1KQR4
共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。
単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団。)の一つ。
特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。
これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。
同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。
これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。
★家業(かぎょう)http://bit.ly/yXAjYS
・(伝統的な意味での家業)同一の氏族や家系によって、世襲により、排他的・独占的に継承されている、特定の職業ないし伝統技能のこと。
・(新しい意味での家業)近年では、家族経営により営まれている商売・事業を指すことや、実家が営んでいる商売のこと、を指すことが多い。
★世襲(せしゅう)http://bit.ly/yhX7sk
親の手にしている特定の地位や肩書き(官位や爵位など)、職業等を、その子や係累が引き継ぎ、それによって社会的な権力や権限を得ることである。
家に伝わる爵位を継承する場合、襲爵、位階・地位などを世襲することを襲位、先祖伝来の名跡などを世襲することを襲名という。
★名跡(みょうせき)http://bit.ly/wDr8l0
家制度と密接に結びつき、代々継承される個人名。もしくは家名。
「めいせき」と発音するのは誤り。
★襲名(しゅうめい)http://bit.ly/ywmUEH
名を継ぐこと。
名を襲うことの意で、先人と同じ名前を意図的に継ぐことを言う。
 
★紋服の解説~紋服について~ http://bit.ly/xJOPTJ
★紋服(もんぷく) http://bit.ly/AbZKze
最も正式で格の高い五つ紋を染抜いた衣服のこと を言います。
男性は羽織、袴(はかま)をつけ、女性は吉事には留袖江戸褄模様、喪服 は黒無地を用います。
 
★紋服とは http://bit.ly/yTngWN きもの用語大全 http://bit.ly/xTmc9G
★着物用語辞典 http://bit.ly/w1p4fb http://bit.ly/wdsyHI http://bit.ly/yP7Pct
http://bit.ly/xwQDpH http://bit.ly/zULc1J http://bit.ly/xuYCV5 http://www.kimonojp.com/
★着物用語集-きもの用語辞典 http://bit.ly/yZoJEB
★きもの部分名称|着物用語集 http://bit.ly/xP10Qt
★【着物用語辞典】インデックス http://bit.ly/zmUG8l
★【 結 城 屋 】曖昧きもの用語辞典 http://bit.ly/zCIV8Q きもの春秋1
 http://bit.ly/AiH1CX


★武士の装束 http://bit.ly/xx0tX5
装束(しょうぞく)とは単なる服装ではない。
それを身につけることに様式や格式といった特別な意味合いを伴う衣服である。
江戸時代は幕府の権威付けのために、武士の中にあっても官位や格式や身分が細かく規定されていた。
それらの差を一番はっきりと示すことができるのが「装束」であった。
 
★江戸時代の武士の装束(大名と旗本)http://bit.ly/ze1rT2
江戸時代の武士の装束1
高級武士. 江戸時代は身分や立場によって服装が厳しく定められていた時代である。
「大名」であってもその「格」に応じて着るべき服装や色までも 細かい規定があった。
★武士のファッションhttp://bit.ly/AxXotJ

大岡越前や遠山の金さん、中村主水がよく着てる服で 江戸時代の侍が登城などの時に着ていた武士の正装でござる、拙者の時代はこんな ヘンテコな服装はほとんど見られず、太平の世に主流となった。

★侍/袴スタイルセット http://bit.ly/xRrVuJ

★内観★身調べ「自己啓発」「問題解決」「自己発見」日本生まれの心理療法

2012年03月02日 14時48分43秒 | 色んな情報
★内観★身調べ「自己啓発」「問題解決」「自己発見」日本生まれの心理療法
先日 禅の日記を書いていて フッと頭をヨギッタ内観と言うことが、あの頃の情景ばかりや体験が思い出されるのに頭の中はそのことに対して真っ白になっていた。
ヤット言葉を思い出し 今書いてます。
どうも最近惚けてきたかなと思うほど思い出せなくて時々イライラしている。
 
もう四十年近くなるかな
大和郡山市へ出かけていったのは。
近鉄だったかどの電鉄だったか記憶にない。
どうもこの頃の一部も記憶喪失になっている。
特にこの頃は自分に嫌気がさして落ち込んでいた頃。
長島先生と吉本先生が迎えて頂き 早速始める感じで内観の説明やら方法をお聞きした。
部屋の四角に半間の屏風が立てかけられており炭を囲ってあった。
その一方の端をこちらに引きその中へ招き入れられた。
一時間だったかな自分が今考えていることを纏めておいて下さいと言われたように思う。
会話の内容はコレも記憶にない。
座禅を組んでも横になっても良いからと言われたように思う。
好きな格好で考えるようにと。
食事の時間が何故か待ち遠しかった。
奥様手作りの暖かい手料理を頂いて過去にこんなにもおいしいモノは食べた事が無い様に感じていた。
最初は三日の研修をお願いしたように思う。
凄く長く感じていた。
合計十回通ったのでは無かったかな。
 
どうも最近記憶が飛んだり色んなモノがごちゃ混ぜになっていたりで時々自分の頭なのに上手く制御出来なかったりする。
昔から余り物覚えが良くなくて いつも叱られていたのだけは記憶にある。
 
何とかこの頃の最低の自分から立ち直ったけれども この頃から金穴の状態が始まった。
60過ぎても未だ続いている。
モット通いたいけど生活に追われてそのままになっている。
そんなこんなを何とか思い出すことが出来た。
内観のことを考えたのは久しぶり。
罰当たりな人間である。
相弟子の思い出話などを読んで私は今でも自分勝手な人間だと反省させられた。
 
 
★内観 - Wikipedia http://bit.ly/AwsSPv
・心理学研究の方法としての内観
心理学研究のために自分自身の精神状態を観察する方法。実験心理学の祖ヴィルヘルム・ヴントが考え出した。内観を行うには訓練を受ける必要があった。
その後、近代心理学は次第に主観性の強い内観的方法から離れ、客観性の高い行動に注目するようになっていった。
 
・白隠禅師の内観法
江戸時代の禅僧・白隠慧鶴の著書『夜船閑話』(やせんかんな)に紹介されている心身のリラックス法。白隠は修行時代に心身のバランスを崩して禅病(ノイローゼ状態)に陥ったが、京都白川の山奥に住む「白幽子」という仙人に伝授された「内観の法」により健康を回復したという。その内容は、仰臥して、丹田から両足にかけての範囲に意識を置くための4つの公案を静かに唱えるというものである。自律訓練法に似ているとされる。
 
『夜船閑話』には内観法以外に「軟酥(なんそ)の法」も記されている。これは頭の上に鴨の卵ほどの軟酥(クリームのようなもの)の塊があるとイメージし、それが次第に融けて流れ出し、自分の体の調子の悪い部分を浸し、症状を洗い流してしまうと観想する方法である。
 
・吉本伊信の内観法(内観療法)
昭和期の実業家・僧侶、吉本伊信が浄土真宗系の信仰集団・諦観庵に伝わっていた自己反省法・「身調べ」から秘密色、苦行色、宗教色を除き、万人向けのものとした修養法。内観法、吉本内観法、あるいは医療に応用されて内観療法ともいわれる。
現在、中国にも内観学会が設立され、その他韓国やヨーロッパ等で、森田療法と並ぶ日本製の心理療法として国際的に認められるようになったほか、刑務所や少年院などの矯正教育や一般の学校教育、企業研修などにも応用されるようになった。
母親をはじめ身近な人に対する自分を1週間研修所にこもって3つの観点から反省する。自分を客観視することが出来るようになり、しばしば劇的な人生観の転換を起こす。
詳細な方法は吉本伊信を参照。欧米で"Naikan"といえば吉本の内観法をさすことが多い。
 
・そのほかの用法
明治期の浄土真宗の思想家・清沢満之が「内観」という用語を用いたので、真宗教界では一般にこの語が用いられていたようである。
吉本伊信が改革された「身調べ」に「内観」と名づけた背景に、このことがあったと思われる。
もっとも浄土真宗だけでなく、たとえば内村鑑三のようなキリスト教信者も「内観」という言葉を用いており、単純に自分の心を深く見つめるという意味で広く用いられていたようである。
 
また上座部仏教によって現代化されたかたちで全世界にひろまったヴィパッサナー瞑想も内観の一種であり、実際に中国語では「内観」と訳されている。
 
・建築用語
建築等の用語で、建物の内部の様子(インテリア)を表す。対義語として、建物の外側を示す外観(エクステリア)がある。
 
★上座部仏教 http://bit.ly/xJfsxJ
上座仏教、テーラワーダ仏教、テーラヴァーダ仏教、南伝仏教、小乗仏教とも呼ばれる。
ただし、小乗仏教の呼称は大乗仏教側から見た差別的意味を含むとされる。
仏教を二つに大別すると、スリランカやタイ、ミャンマー等の地域に伝わった南伝の上座部仏教と、中国やチベット、日本等の地域に伝わった北伝の大乗仏教に分類される。
初期仏教教団の根本分裂によって生じた上座部と大衆部のうち、上座部系の分別説部の流れを汲んでいるのが、現在の上座部仏教である。
 
★大乗仏教 http://bit.ly/zuZXMB
伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の分派のひとつ。自身の成仏を求めるにあたって、まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心、つまり大乗の観点で限定された菩提心を起こすことを条件とし、この「利他行」の精神を大乗仏教と部派仏教とを区別する指標とする。
大乗(Mahā〈偉大な〉yāna〈乗り物〉)という語は、『般若経』で初めて見られ、摩訶衍(まかえん)と音写され、一般に大乗仏教運動は『般若経』を編纂護持する教団が中心となって興起したものと考えられている。
般若経典の内容から、声聞の教え、すなわち部派仏教の中でも当時勢力を誇った説一切有部を指して大乗仏教側から小乗仏教と呼んだと考えられているが、必ずしもはっきりしたことは分かっていない。
なお思想的には、大乗の教えは釈迦死去の約700年後に龍樹(ナーガールジュナ)らによって理論付けされたとされる。
 
一方、釈迦の教えを忠実に実行し、涅槃(輪廻からの解脱)に到ることを旨とした上座部仏教に対し、それが究極においてみずからはどこまでも釈迦の教えの信奉者というにととどまるもので、自身が「ブッダ」(如来)として真理を認識できる境地に到達できないのではないかという批判的見地から起こった仏教における一大思想運動という側面もある。
釈迦が前世において生きとし生けるものすべて(一切衆生)の苦しみを救おうと難行(菩薩行)を続けて来たというジャータカ伝説に基づき、自分たちもこの釈尊の精神(菩提心)にならって善根を積んで行くことにより、遠い未来において自分たちにもブッダとして道を成じる生が訪れる(三劫成仏)という説を唱えた。
この傾向は『般若経』には希薄だが、明確に打ち出した経典として『法華経』や『涅槃経』などがある。
 
★内観療法 - Wikipedia http://bit.ly/w0LfgI
本来修養法として開発された吉本伊信の内観法を医療、臨床心理的目的の ために応用する心理療法(精神療法)のこと。
 
★吉本伊信 - Wikipedia http://bit.ly/AlkP0T
★ブログ 愛弟子が語る内観の創始者・吉本伊信師 http://bit.ly/yPUhLG
★箱根国立公園内観研修所 http://www.e-naikan.com/
★内観 東京 | 白金台内観研修所 http://www.shirokanedai-naikan.com/
★e-内観 北陸内観研修所 http://www.e-naikan.jp/
★奈良内観研修所 http://www.nara-naikan.jp/
★内観法 http://naikan.main.jp/
★内観法.com 瞑想の森内観研修所 http://naikanhou.com/
★内観とは? |瞑想・呼吸法の原アカデミー http://bit.ly/x8JWhT
★内観療法の原アカデミー http://www.haraacademy.jp/
★瞑想の森内観研修所 http://www.motion.ne.jp/naikan/
★大和内観研修所 http://homepage3.nifty.com/naikan/   吉本伊信
★静岡内観研修所 http://www2.tokai.or.jp/fukuda/
★日本内観医学会 http://naikan-igaku.jp/
★SEIN指宿(依存と内観)http://www.synapse.ne.jp/~sein/ アルコール依存症の治療プログラム
★大阪内観研修所 http://www.nona.dti.ne.jp/~omcc/
★内観法へのご案内 http://www.naikan.jp/「自己啓発」「問題解決」「自己発見」