“のり・のり”(1)
祇園串揚げ店の若女将「みなさん、ようおこしで・・・」
詩人「あれ、電話の声は女将だったのに、娘さん?」
若女将「へぇ、娘です。年取った娘で、申し訳おまへんけど。母は、永いこと皆さんにお世話になりましが、もうええ年やって、去年春、天に召されましたんや・・・。母の声によう似てるらしいて、電話やとみなさん、先代と思うて話しはるんで、なごうなるんですぅ」
呼びかけ人「一昨年の冬に、ここで、終戦の年の“連載記事・太平洋戦争史”について語り合ったが、あれから間もなくだった・・・。今日は、昔の話に詳しかった先代にも入ってもらいたい。亡霊役は声そっくりの若女将だ。串を揚げながら加わってな。
若女将「へぇ、よろしいおます。」
呼びかけ人「今日は、一年前に資料(聖徳太子「十七条憲法」、「大日本帝国憲法」、「日本国憲法」)のコピーを送って、お願いしてあった“憲法の本質について”語り合いたい。それぞれに、感じたことをあれこれ出してほしい。蜂の巣の周りをブンブン飛び回るみたいにね。この難問に対して。」
山好き「ここへ来る前に、御所の庭(京都御苑)=写真=を歩いて来た。あそこも海外のお客はぼつぼつだったが、本当に静かだ。大木が多くて、難聴気味の僕でも小鳥たちのさえずりが聞こえた。別世界だな」
文明史好き「天皇が退位したら、しょっちゅう来られたらいいと思って、それで行った?」
山好き「そう、そうなんだが、三つの憲法をよく読むと天皇と憲法の関係が非常に密接だと感じる。」
先代の亡霊「明治の初めに大久保さんたちが無理やり江戸へ連れて行かはったでしゃろ、帰って来はったらええん違います。」
山好き「明治憲法(大日本帝国憲法)も、現憲法も、そして皇室典範のどこにも、天皇の居場所を規定した条項はない。もちろん退位後の住まいも同じこと。だから平成天皇には自由に動いてもらい、京都御所にも長い期間住んでもらうという手はあると思う。伝統技術の粋を集めて、桂にあるような平成の離宮をどこか、静かな所にこしらえてもいいんじゃない。京都、奈良は天皇家にとって陵も数多くあって、こちらは“ふるさと”でもあるし。」
呼びかけ人「昭和天皇の時、一度“退位”がうわさされたことがあるが、憲法と天皇については後で整理した議論をしてみたいので、先ず、憲法と言葉の関係について、お願いしたい。成文法である以上、言葉というものを切り離せないからだ。」
詩人「十七条憲法はオール漢字、明治憲法は漢字と片仮名、昭和憲法は漢字に平仮名で書かれている。7世紀の初め604年(推古十二年)に発布された十七条憲法が書かれたころは、仮名と言うものはなくて、文章で表現するには漢字しかなく漢文で書くしかなかったが、見事な漢詩で書かれている。四六(しろく)駢儷体(べんれいたい)(*1)と呼ばれ、非常にリズミカルで、聖徳太子の漢詩の素養は大変なものだったと言われている。」
文明史好き「中国は隋の時代だ。仏教も取り込み、文化も非常に発達した。聖徳太子は小野妹子ら優秀な人材を派遣し、多くのものを吸収しようとした。しかし、『憲法』というものはなかった。向こうにはね。だから、この発想はすごいことだと思う。人が多く集まると、軋轢(あつれき)や諍(いさか)いが起きる。秩序を保たないといけないので、“役人”や“決まり”をつくる。それが律令だが、そのためには文字で書き留め、広く伝え、皆に徹底しなくてはならない。したがって、法律と文字は不可分の関係にある。もちろん書き言葉は詩歌や物語などの文学や、紀行文、書簡文へと広がりを持ち、発展してきた。今はアメリカのリーダーたちが簡単に“フェイク・ニュースだ”とか、“もう一つの事実(ファクト)だ”なんて、簡単に言ってしまう。言葉が非常に軽く扱われている。元来は、一語一語が重いものなのだ。」
詩人「必要は発明を生むわけだが、十七条憲法も、その必要性、いわゆる時代背景というのがあったのだろうな」
文明史好き「と、思う。条文から推測してみよう。
以和為貴<和をもって貴しとし> 無忤為宗<忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ> の後にくる、人皆有党<人みな党(たむら)あり>、亦少達者<また達(さと)れる者少なし>は、梅原猛さんの『聖徳太子(上)』(小学館)によると、『党(たむら)』は集団のことで、当時の政治状況からいって氏族集団のことをさしているのではないか、と。氏族制度の弊は、まさにこのころ頂点に達し、大和朝廷は雄略帝のことから衰えるばかりで、その一つの原因が氏族集団の不和にあった。多くの氏族が相争い天皇家もその争乱に巻き込まれて、多くの天皇や皇子が悲運に遭った。皇族の絶滅、三韓からの撤退、蘇我対物部の戦いなどがあった。その後にくる、或不順君父<あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず>、乍違于隣里<また隣里(りんり)に違(たが)う>も合わせて考えると『今は大和のピンチだ。何とかしなくては』との太子の危機感がこの条文を生んだのではないか。
山好き「時代背景があるというのは共通点だが、他にもあるよ。司法だ。」
文明史好き「第五条の不正裁判の糾弾ね。七世紀の初めにもう“裁き”が行われていたのだ。驚きだよ。
絶餮棄欲<あじわいの、むさぼり(餮)を絶ち、たからの、ほしみ(欲)を棄(す)てて> 明弁訴訟<明らかに訴訟(うったえ)を弁(さだ)めよ> 其百姓之訟<その百姓の訟(うったえ)は> 一日千事<一日に千事あり> 一日尚爾<一日すらなお爾(しか)るを> 況乎累歳<いわんや歳を累(かさ)ねてをや> 」
梅原さんによると、日本では古くからもめ事があると、それを部族の長老が双方の言い分を聞き、公平に裁くことにしていた。一日千件はさすがに多すぎるが、誇張した修辞なのだろう。多くの民による訴えが朝廷に持ち込まれていたという。 頃治訟者<このごろ訟(うったえ)を治むる者> 得利為常<利を得るを常とし> 見賄聴讞<賄を見ては、ことわりりもうす(讞)を聴く>
この頃は裁きをする者は、それによって利益を得るを常としており、賄賂をもらっては訴訟を聴く。
便有財之訟<すなわち財ある者の訟(うったえ)は> 如石投水<石をもって水に投ぐるがごとし> 乏者之訴<乏(とぼ)しき者の訴(うったえ)は> 似水投石<水をもって石に投ぐるに似たり>
それは、金持ちの訴訟はどんなことでも受け入れられるが、貧乏人の訴えはどんなことでも受け入れられないと言って太子は歎き、
是以貧民<ここを以(も)って、貧しき民は> 則不知所由<すなわち所(せん)由(すべ)を知らず> 臣道亦於焉闕<臣道またここに闕(か)く>
役人がこんなことをしていたら民はなす術もない。すると民はどうなる。反逆に向かわないか・・・と心配する。」(つづく)